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潔癖過ぎる教材ばかりでは免疫を失う

2022-01-14
石川啄木の歌にみる行動
『枕草子』の噂話について書かれた章段
教材が除菌されて免疫がつかないのではないか?

想像いや「妄想」といった方が適切だろう。日常生活で「これはあり得ない言動」を心の中で思い描くことはないだろうか?例えば、学校の授業中の静まり返った教室で、急に大声で授業内容の核心を突く言葉だが決して先生が触れられないことを言ってしまうとか。僕の場合、小学校の頃から授業中にそんな妄想をすることが少なくなかった。一通りの妄想をした後に、「なぜ?先生は真実を言わないのだろう』という不信感のようなものを持つのが常だった。〈教室〉には避けねばならない「学校道徳」の管制下に置かれた内容が、少なからずあるものだ。その規制線の内に入ってしまう国語教材は、必然的に教科書採録の段階で外れてしまうことが一般的である。前回の指導要領改訂時には教科書編集に携わったが、なかなか新たな大胆な教材開発は受け入れられづらいことを痛感した。昨今の社会情勢からして尚一層、教材の潔癖さが目立つといえるのかもしれない。映画などでも「R18」「R15」などの規制があるものだが、より純度を高めて「教材の規制線」が存在するのは確かである。

教職大学院の講義で、石川啄木の短歌を扱った。名歌集『一握の砂』にある教科書に掲載されている歌に加えて、特に気になる歌を朗読で紹介した。必然的に「死に向き合う心」とか「虐待」や「自虐」などと思えるような歌が登場する。犬に対する「虐待」的行動が短歌に描写されているが、果たして啄木は実行動としてその行為をしたのかどうか?という疑問が受講生から提起された。自ら短歌も詠む受講生からすると、短歌の言葉にすることでその極端な行動の代行的な実現となり、精神が解放される作用があるのではないかという意見が出された。短歌に限らないが、言葉なら実現できる極端な言動の効用は確かに大きいだろう。僕らが映画などを見る理由は、こうした「極端な言動」を映像上で叶えてくれるからだ。さらに学部講義で『枕草子』の演習発表を行っている中で、「噂話」に関して書かれている章段を扱った学生の提案は関連したものだった。「噂話」などはやはり「学校道徳」では禁止される傾向があるが、誰しもが興味を持つ行為でもある。むしろ古典である『枕草子』を読むことで、「噂話は誰もが好きだ」という普遍的な真実を学ぶことで、〈教室〉が安定する可能性を示唆した内容であった。この2年間のウイルスとの共生で「除菌」傾向が強い世の中であるが、せめて文学の中には「菌」や「毒」を盛り込みながら学ぶことで「心の免疫」をつけていく必要もあるのではないだろうか。文学ならば「悪玉菌」に見えても、必ずや「善玉菌」として効果を発揮してくれることだろう。

表現することによる精神の解放
「規制」により押さえ込まれた心はいつか誤った暴発をする
潔癖な環境はむしろ脆弱な心身となってしまうことも考えてみるべきだろう。


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