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己を愛し信じ理解するために

2022-01-31
「人間はそもそも自分を愛し、自分を信じ、
 自分自身を理解していなければ他者を愛することはできません。」
(ドイツ元首相・メルケル講演録『わたしの信仰』より)

既にコロナ禍の闇のトンネルに入って2年になる。現在の第6波のあまりにも急速な感染拡大の波を、僕たちはどのように潜り抜けていくことになるのだろう。そのコロナ禍において、「言葉は灯になる」として「世界のリーダー」の言葉に注目している若松英輔『弱さのちから』(亜紀書房2020)は、詩人・批評家としてまさに多くの「言葉」や「視点」を提供してくれる。その中に小欄冒頭に記した、元ドイツ首相メルケルの演説への印象が語られている。コロナ禍の入口にであった2020年3月の演説で「不安の共有」を述べ、決して「頑張れ」という言葉を口にしなかったことで聞いた人々に安堵が広がったことを若松は指摘している。国のリーダーとして「強がる」こともなく「弱さ」を受け入れたことで、人々と「つながり」ができたのだと云うのだ。剛強なだけの柱が揺れに弱く折れてしまうように、自らも不安であるという「弱さ」のたわみがあってこそ柱は激震に耐える訳だ。どこぞの国には、剛強に見せかけた柱のようなリーダーのみが場当たり的な対応をくり返して2年後の今に至る。「検査が足りない」「ワクチンが進まない」という再放送のような状況は、「弱さ」を認めてこなかった証拠ではないだろうか。

コロナ禍のトンネルの闇だけが原因とは言わないが、ここ最近この国の社会で起きる凶行はまさに「自己の弱さ」を認めない心理的な作用に起因しているように思う。「自分は死にたいがその勇気もなく他者を殺める」、まさに「自分も愛せない」上に「他者を憎悪する」という最悪な精神的渦中から引き起こされる事件の数々ではないだろうか。事件は個々の機微を精査すべきではあるが、どこかでこの国の社会が抱えた「自己愛の欠如」とともに「強行な他者への文句(クレーム)」が横行して来たという意味で原因を同根にするように思えてしまう。それはリーダーが「弱さ」を自覚し認めるどころか、強引に政策を進め良識を踏み外し、露見しそうになると改竄・隠蔽し自らの保身だけは確保しつつ、草葉の陰かと思える中に至ってもなお影響力を及ぼすような危うい柱の剛強さが露わになっていることに由来しないか。国家とは避けることができず、リーダーの舵取りや姿勢に少なからず影響を受けているはずだ。新型コロナウイルスが作った人類全てのトンネルは、各国のリーダーのあり方も露わに可視化する作用をもたらした。寄せては返す第○波が来たとしても動じないように見える、台湾やニュージーランドのリーダーたちは、やはり自らの「弱さ」を知っているようにコメントなどから感じられる。政治に限らず周囲の者たちの「弱さ」を認めること、そのためにはまず自らの「弱さ」を認めるべきであるのに。

教育においては基本原則である
「一丸となって全力で」よりも「己の弱さをまず知ろう」
自分を愛せず、自分が信じられず、自分を理解していない、ゆえに諍いが絶えないのだ。


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スマホ使用と考え方のアップデート

2022-01-30
スマホ機種変更への憂い
しかし新しい機能の素晴らしさ
アップデート(=更新)僕たちの付き合い方として

携帯を持つようになって25年以上、ほぼその半分となる12年以上がスマホとして付き合って来た。当初はいずれも「携帯など要らない」「スマホになどしない」などと考えたことがあった。だがいざ使用してみると「使わない手はない」というのが正直なところだ。「要らない」という主義を開陳していた周囲の人からは、「言うことと行動が違う」と指摘されたことがあるが、物事への対応というのも、スマホの「アップデート」のように更新をすべきと思う。飛行機が飛んで大衆化された時も「決して乗らない」と言っていた人が、「こんな快適で安全な移動手段はない」となる場合がほとんどではないかと思う。実際に自動車や列車よりも安全性が高いとは、よく言われることである。人は「新しい」ものにまずは警戒を示す。特に「簡単便利」という趣旨の宣伝文句には、僕などは研究者だからか大変に懐疑的である。ガラケーからスマホに変更する際も、「ネット社会にそこまで身を曝す必要はない」などと考えていたが、「そんなことを言っていられない近未来がある」といった対話を持ったことで、すんなり主義を「アップデート」することができた。

PCを含めたスマホが身近になったことで、情報の取得はもとより多くの人たちと豊かなコミュニケーションを取ることができるようになった。その反面で「パスワード」を始めとする管理には、あれこれ頭を悩ませる機会も増えた。Web上の危険さをどのように低減し快適に使用するか?「パスワード」が重要であるがゆえに慎重にならざるを得ない。その警戒感が自らでも「分からなくなる」という複雑さの坩堝に巻き込まれる原因でもある。特にスマホを機種変更をした際などは、「元データ」が復元され引き継がれるかは大変に重要な問題である。日常から使用しているスマホのバックアップをアップデートし、Web上の倉庫に格納していく配慮が必要である。だがどうやら最近は、データ復元・引き継ぎがだいぶ楽になった印象だ。新しいスマホで旧いスマホで表示した二次元コードを撮影し、その後は隣に置いておくだけで「霊魂が乗り移る」かのように新しいスマホのデータや機能が引き継がれる。この12年間の進化というのは、誠に素晴らしいものがある。今や母もスマホを使用して3年以上が経過し、身近な販売店で機種変更も容易にできるようになった。スマホはどこまで進化していくのだろうか?

その反面、手書き機会の減少などを憂え
意識して元の身体性を保持する行動もしている
使用するかしないかで、生きる上での豊かさが違ってくるはずだ。


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短歌を通して東アジアの言語文化に生きる

2022-01-29
俵万智「ファイティン!」(『短歌研究1月号』30首連作)
韓国ドラマに取材した作品をどう読むか?
韓国語の先生との言語を通した交流から

九州に住むということは、日本列島の中でもより東アジアに接近したということである。宮崎に赴任した際に、こんな感覚を持った。本学に学びに来るのは韓国・台湾の留学生が多く、宮崎空港からはこの二国への直行便が運行している。これまでに3度は「日本事情」という留学生向きの講義をオムニバス担当(半期15回のうち3回)したことがあり、中国や他のアジア、さらに欧米諸国の留学生ともども楽しく短歌を作ってもらった経験もある。元来が「和漢比較文学」分野を専攻としているので、日本語と大陸由来の言語文化との交流には大変に興味があった。高校3年生で出逢った英語学の著名な先生から教えていただいたのは、「言語・文化は比較し相対化しないと真の理解などできない」ということだ。東アジアの大陸との交渉なくして、日本語・日本文学の興隆はあり得なかった訳である。「令和」元号の典拠となった大伴旅人「梅花宴32首」の序文である漢文も、大陸由来の文体を見本に書かれたものだ。太宰府は大陸への玄関口、その場所でこそ旅人は大陸の人々が何をどう考えていたか?を肌で感じ取った上で、都からは離れてしまった自らの感慨を漢文や和歌表現に込めたのである。

冒頭の俵万智新作が気になっていた。僕自身は韓国ドラマを観る機会は少ないが、この作品によって大いに唆られている。30首連作からは、韓国ドラマをくり返し観て得られた鋭敏な言語感覚を読み取ることができる。果たして韓国語ネイティブはどのように読むのだろう?と気になり、新年になって二つ隣の研究室である韓国語の先生に作品を手渡して感想をいただきたいと依頼していた。日韓英比較言語学を専門領域とする先生であると知っていたので、どう読み解かれるかは大変に興味深かった。そしてメールで返信をいただいた結果、この日は約90分にわたり30首批評読書会を二人で実施することができた。韓国語の先生は、短歌をほとんど読んだことがないと云う。また自国のドラマもあまり観る方ではないと云うのだが、それだけに素で言語学者がどう受け止めるかという利点があると思った。思った通り「短歌連作」をそれ自体が「ドラマのような展開」と受け止め、短歌の随所に読める韓国語の捉え方が大変に精緻な感覚がある方だと評していた。1首ごとにお互いがどう読めたか?をくり返し対話していくうちに、比較言語的な話題が自然と展開した。韓国語を知らなくとも俵作品は十分に短歌として秀逸であるが、日本語を習得・研究している韓国語話者がより楽しく読めるというのは、俵作の懐の深さであることの証であった。

日本語にない音韻をカタカナ表記すると?
酒・パック・OSTなど日韓文化の微妙な差異を意識するのが楽しい
僕たちは東アジアに生きている、友としてまずは個々人が親しく交流することだ。


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連歌連句と枕草子で学んだこと

2022-01-28
連歌連句を小中高の授業で
本文を疑い批評的に資料を読む目を
教科専門科目から教科教育科目への橋渡し

全国的に感染拡大に、歯止めがかからない状況となった。他国の状況を見てある程度は予想できていたとはいえ、僕たちはあまりに希望的観測で楽観的に考え過ぎていたのだろうか。大学講義は最終週を迎えたのだが、やむを得ず全面オンラインということになった。2年生の教科専門科目が後期の担当科目の中心であるが、この学生たちは入学直後からコロナ禍によって不自由な学生生活が強いられた。しかしオンライン授業にもすっかり慣れ、本学では対面講義ができた時期もそれなりに長かったので学生間の結び付きが薄いなどと云う問題はあまり感じられない。2年間で「国文学講義」2科目「国文学史」2科目「国文学演習」1科目をほとんどの学生らが、さらには「基礎教育科目」1科目を履修する者も多かった。それに加えて「入門セミナー」2科目がオムニバス担当であった。ほぼ入学してからの2年間に担当科目が集中しているので、2年生最後の講義となると感慨深いものがあった。多くの学生たちが将来教師を目指しており、彼らにどのような「国文学」を伝授しておくべきかは、今後「文学」を教育現場でどう扱うか?を大きく左右するという使命感を持っての担当である。

この日は「文学史」「演習」ともに15回の総括をすべく、学生らにオンライン上で全員に発言をしてもらった。中近世文学史をやってきた中で学生たちが一番印象深く感じたものとしては、「連歌連句会」を挙げるものが多かった。この2年間ぐらいの間で、僕が中古文学会のオンラインシンポジウムに登壇し論文化した「創作課題制作型学習」を大学生を対象に実践している訳である。国語教育に関する理論は、あくまで実践しなければ意味がないと思っている。そしてこの学生たちがいずれ教師になった際に現場で実践して欲しいことは、学生のうちにそのまま体験させておくべきと考えている。「座の文学」といわれる「連歌連句」によって、人と言葉で繋がる楽しさを多くの学生らが味わったことは大きな効果があった。また「演習」における『枕草子』についての発言では、「古典」を対象とする中高の授業で気づかなかったが新たな発見が多かったという声が聞かれた。古典本文の文献的な問題から資料とする注釈書の使い方、「作者・清少納言ありき」ではなく、この作品によって「らしき人物が想定されていること」など、「国文学研究」の上では基礎基本となることが、正直言って高校までの古典では身についていない。国語を専攻した学生であっても「古典嫌い」である者も少なくない。本文批判もテクスト論も実証的に文学を考える有効な方法であるが、そこに正対した国語教育を為すべきと研究者として気付かされる。大学入試対策という大義と勘違いされた古典観で、高校授業による「古典嫌い増産」に歯止めをかけねばなるまい。

大学生活も折り返しにあたり
自分で実習生として授業ができる基礎体力が備わった
「学」は修了しいよいよ「習(自らの羽で飛び立つ)」へ向かう学生たちである。


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怒りより弱さに学ぼう

2022-01-27
「『弱い人』の眼に映る世界、
 それに言葉の姿を与えてきたのが、
 哲学や文学の歴史にほかならない。」(若松英輔『弱さのちから』P30より)

夏目漱石が「癇癪持ち」であったのは、比較的有名な話だ。日本の近現代小説のあるべき姿を開拓した文豪や、以前の千円札のイメージからすると意外に思われる方もいるかもしれない。家族は漱石が癇癪を起こすたびに、大変に苦労したというのをどこかで読んだ記憶がある。小説ではあれほどリアルに人間の自我・葛藤・苦悩を描き切った漱石であったが、「癇癪(かんしゃく)=ちょっとしたことでも激怒しやすい性格(『日本国語大辞典第二版』)」は、冷静な筆運びの反動でもあったのだろうか?諺に「癇癪持ちの事破り」「後で気の付く癇癪持ち」などがあるように「怒りっぽい人は物事をぶち壊し成功しない」とか「怒りっぽい人は、後に自分の非に気付き後悔が多い」など、人として損をする性格であると長年言い伝えられているわけである。僕なども幼少の頃から父が怒るのは嫌な気分であったが、家族に一定の緊張感をもたらす効もなくはなかったと振り返る。それにしても怒れば血圧が上がり、多分に自らも嫌な気分になっているのは間違いない。

社会の理不尽、特にここのところの入試に関する報道などを耳にすると自然と怒りが込み上げてしまう。長年の中高教員としての経験、そこで出会った生徒たちに「入試」へと人生に意義あるように立ち向かわせてきた立場からして、ある意味で怒って当然と思うこともある。だがしかし、怒りからは何も生まれて来ない、食卓で怒っても妻に迷惑をかけるだけだ。コロナ禍にあって対面機会が減り、メールやオンラインでの無機質な関係しか持たないと、知らぬ間に先入観がカビのように発生し無用な怒りなどが心の内で渦巻いてしまう。それも対面して爽やかに挨拶を交わせば数秒で解消することも知っている。歴史を見ても戦国大名で最後に勝利を手にした徳川家康は、「怒らなかったから勝てた」ようにも思う。冒頭に引用した若松英輔の著書を読み始めた。若松は云う「『弱い人』たちにもっと学んでよい。」と。「弱さ」から学ばず自己を制御できずに怒る者には、自滅の道しか用意されていないことは歴史の上で明らかだ。向上心も向学心も、いや高い偏差値を目指すのも、ある意味で尊いのかもしれない。だが「弱さ」も知らずに何が「向上」「向学」であり、「偏差値の高い大学に入学した」意味があるのだろう。漱石はもしかすると、徹底的に自己の弱さに向き合ったのかもしれない。それに耐え難いゆえの「癇癪持ち」であったのか?否、いずれにしても「怒りは自らを破壊する」のは間違いないだろう。

文学を読み「弱さ」から学ぶこと
「弱さ」にこそ向き合い文学として表現すること
『走れメロス』も『山月記』も虚栄・倨傲の自滅を見事に描いているのだから。


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牧水を再発見する(3)

2022-01-26
「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」
全ての高等学校教科書に掲載される定番教材としての短歌
「・・・年生には難しい」という議論や如何に?

昨日小欄の最後に掲載した若山牧水の歌は、「世界一有名な短歌」と短歌界では認識されている。歌人の方々にアンケートを取ったとしても、多くの人が「愛誦歌」として挙げることが多い。また現行の高等学校教科書においては、全ての出版社の教科書に掲載されている。「全ての・・・」というのは限られた出版社しか教科書を発行していない義務教育とは違い、高等学校教科書は多くの出版社が多種類の教科書を発行している。小説教材・芥川龍之介『羅生門』とともに、牧水の短歌は高等学校では必ず学習するはずの教材なのだ。だが大学へ入学してくる学生の記述によれば、決して「全ての学生が学んだ経験があるわけではない」ことがわかる。教科書教材であっても教師の選択によって、特に詩歌は疎かにされがちな教材である。その大きな要因は「入試には出ない」という誤った理由によるものと推察するが、同時にこの歌の魅力を教師が理解していないことも大きいのではないかと思う。

昨日は本年度ゼミの最終日、感染拡大によって全ての講義において「原則遠隔実施」という御触れが全学から発出した。それに従いzoomによる実施であったが、3年生の発表による熱い議論を展開することができた。その中で宮沢賢治『注文の多い料理店』が、ある出版社の小学校5年生教科書に掲載されているが、発達段階として難しいのではないか?という議論があった。だが「難しい」というのは、どういう要因からなのだろうか。同様に考えれば『羅生門』は高校1年生には難しいのかもしれず、漱石『こころ』は高2には手強いということになるだろう。果たして完全な理解が得られることが、こうした定番教材を扱う目標なのだろうか?当該年齢で分からなくとも、「いつか分かる時が来る」のがこうした定番教材の価値ではないか。同様の意味で学校ではほとんど叙景歌としてしか授業されない冒頭の「白鳥は」の歌も背景に恋の苦悩があることには、「大人になって気づく」のではないだろうか。「染まずただよふ」という「空と海の間(あはひ)」に「ただよふ」というどっち付かずとも言える普遍性など、僕もかなり仕事をして社会で苦い経験もしてようやく少し分かる境地であった。よって「入試に出ない」ものの、「人生の窮地」においては大きな利益をもたらす価値と魅力に満ちた教材なのだ。まずは宮崎県だけであっても、この名歌の意味を全ての高校生が学ぶものとできたらと強く思うのである。

人生に山あり谷あり苦悩あり
ゆえに読書をもって多くの人生を知っておくことの大切さ
高等学校は受験予備校にあらず、人生の苦悩を乗り越えるための力の種を蒔く学校なのだ。


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牧水を再発見する(2)

2022-01-25
牧水祭などで献詠される朗詠
牧水の母校・坪谷小学校の児童の朗詠
顕彰会の方々のそれぞれの節回しも

若山牧水の母校・日向市立坪谷小学校、現在は全校生徒20名前後であるが統合されることもなく、むしろ学区域を超えて希望者の入学を受け入れていると聞いた。宮崎では特に山間部の山村の小規模校については、県内の一つの課題であるとして本学でもその教育研究に取り組む教員もいる。宮崎の郷土芸能として神楽も有名だが、山間留学をした児童生徒が成長しその地域の神楽の舞い手になるなどという話もよく聞く。そのような生き方を見るに、この宮崎の特長を存分に活かした選択があるべきと思う。宮崎市・延岡市の次期市長が選出されたところだが、「都会との格差を埋める」という公約の必要性も覚えつつ、その前に「宮崎の利点を活かす」を掲げて欲しいと思うのは僕が宮崎出身ではないからだろうか?宮崎には都会には決して無いものがある、ゆえに宮崎は素敵なのだ。豊かな自然の中で自由に遊び花や鳥や虫たちと戯れ、塾通いもなく自分の興味あるものに向き合い、人と親密にふれあい己を発見していく。昨年、坪谷小学校を訪問した際に児童たちの純朴さにあらためて心を打たれたことによる主張である。

坪谷小学校の児童たちが牧水の歌を朗詠するのを聞くと、歌人の方をはじめ多くの人が涙が出るほど感激する。僕も最初に聞いた際からくり返しの機会ごとに、いつでも例外なくこみ上げるほど涙ぐんでしまう。俵万智さんは牧水賞授賞式で朗詠を聞いた後、涙に暮れて受賞者挨拶が上手くできなかったほどだと話していた。この涙の感激の理由は何なのだろうか?調査をするべくもないのだが、果たして短歌を知らない人でも感激するのだろうか?もしかすると坪谷小の児童の朗詠で泣けるのは、「心の純度」の測定値が計測できるのかもしれないなどと勝手な仮説を立てたりもする。感激する要素として(1)牧水の短歌であること(2)児童らが詠うということ(3)言葉と節回しの巧妙な響きであること などが考えられよう。この日は、牧水顕彰会関係の方で朗詠の収録CDが出されているものをしばし聞いてみた。坪谷小調とはまた違い、独特の深みがある。果たして周囲の人々が大変に賞讃しているように牧水自身の朗詠は、どんなにか素晴らしいものだったのだろう。牧水が恋にも酒にも旅にも没入したのは、ひとえにその純朴さの為せる技である。純粋に自然のままで何が悪いのか?僕らは、坪谷小学校の児童たちの朗詠に泣ける宮崎県民なのだ。都会で矮小な受験勉強しか知らない児童にない純朴さを、純度の高い全身で受け止めるから涙するのだ。宮崎の素晴らしさを、牧水の再発見という方法でさらにアピールして行きたい。


「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」
「白」という純朴な色
そこに織り成す宮崎の青の下で。


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牧水を再発見する(1)

2022-01-24
牧水の祖父・若山健海
医師として宮崎の福島邦成と親交
二人して県内初の種痘を行うなど

この日は宮崎市長選挙、一日中雨のせいもあってか投票率は38.76%、夕刻に訪れた投票所も閑散とした印象であった。新型コロナ禍によって保健所をはじめ行政のあり方が問われている。再び第6波の高波が押し寄せて来ているが、ワクチン3回目接種のいち早い対応が求められる。己の身に降りかかる利害がありながら、市民の6割以上が市長選挙の投票に行かないのは甚だ遺憾である。夜になって当確の報が入り、次期市長は新人候補で職業は医師の方に決まった。新型コロナで浮き彫りにされた宮崎市の医療を始めとする生活の安心を、今後はどれほどに高めてくれるか新しい視点を期待したい。先日、本学医学部の知り合いの先生と雑談していると、予想もせず「若山健海」の名前が出て来た。「俳句だか短歌だかで有名な人の祖父に当たるらしいですね」と、むしろ牧水についてははっきりとご存知ではないようであった。しかし医学部の講義では、「若山健海」の名を必ず教えるのだと云う。

埼玉県所沢市出身の「若山健海」は、江戸時代に長崎で医術を学び縁あって日向国へ来て医師をしていた。現在の宮崎市あたりの事業家・福島邦成とともに、県内初の種痘ワクチンに着手している。福島については、現在の市内中心部の橘橋の初代にあたる「木橋」を造った人としても有名であるらしい。健海の息子「若山立蔵」も父親を継いで医師となり、牧水の生家となった日向市東郷村坪谷に住みつつ、都井(岬)など当時の無医村に診療に赴くなど医療面での貢献度は高かった。そして姉が3人いる牧水が待望の「医師3代目」として父「立蔵」と延岡藩の士族の出である母「マキ」の間に生まれることになる。これだけを考えると現在であっても「牧水(本名=繁)」に医師を継げという期待が、親族や周辺から高まるのは必然と思える。文学を志して早稲田に進学する際から、牧水はその家における大きな葛藤を抱えていた。牧水と故郷・宮崎を考える際には、あらためて深く考えておくべき要点である。

故郷が抱え持つ苦悩
宮崎→東京→静岡(沼津)
「余所者」としての思いと「あくがれ」の人生の旅。


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面白く楽しい国語教育を目指す理由

2022-01-23
「面白くなきゃ」
「楽しい」って何だろう
学習意欲を唆るためには不可欠な情動として

早稲田大学国語教育学会大290回冬季例会にオンラインで参加した。当初は対面及びオンラインの「ハイフレックス方式」での開催が告知されており、何とか対面(限定100名)の枠に申込み直接会場で参加したいと航空券や宿の予約もしていた。しかしこの2週間ほどの急速な感染拡大によって学会そのものがオンラインのみに開催方式が変更され、僕自身も県や大学から「移動自粛」の御触れが出されこの日のような参加を余儀なくされた。地方在住者にとってオンライン学会は大きな利と捉えていたが、なぜ今回は対面にこだわったのか?それはこの3月でご定年を迎える町田守弘先生の在職最後の学会講演であったからだ。町田先生は、ちょうど僕が現職教員として大学院博士後期課程に進学して2年後に教育学部に赴任されて来た。これも何かのご縁と既に単位取得済の科目を敢えて履修し大きな学びの機会を得た。同時期に立ち上げた同学会の研究部会「朗読の理論と実践の会」についても、例会に足をお運びいただいたり日頃から支援するお言葉をいただいた。宮崎に赴任後は国語教育学会で理事の先輩としてお導き下さり、僕が学会大会などを主催すればいつも労いのお言葉をいただいていた。

もとより町田先生は、28年間早稲田実業学校で国語教員をされていた。教頭の要職も務めていたことは、やはりこの研究学会での交流で大学院進学以前から存じ上げていた。「早実」といえば、実のところ中学校受験で僕が一番進学したかった学校であった。進学は叶わなかったが、町田先生と交流するようになって「中高時代にこんな先生に習っていたら」という後悔の念とともに、ならば「今から習えばよい」という前向きな気持ちが同居するようになった。大学院後期課程で僕が研究者の道を歩むにあたり、古典和歌を主としつつ現職教員の利を活かすために「国語教育実践」分野の論文を書き進めたのは、町田先生との交流が大きな原動力となった。その甲斐あって、現在の宮崎大学に採用される際は「国語教育(教科教育)」分野であった。町田先生同様に僕自身も現職教員を20年以上も務めていたことが、むしろ現在は教員養成学部の教員として有利に働いている。そして2年前、僕の研究室のゼミ生が大学院修士「町田研究室」を受験し合格した。とりもなおさず町田先生にとって定年前の最後の修士院生に、僕の愛弟子が自らの実力で進学してくれた。このような深い思いから、今回は何とか対面での講演に伺いたかった。航空機の予約変更をしたのは、実は数日前のことである。オンラインながら講演後に町田先生とフリートークができる時間を、学会事務局が設定してくれた。講演中にも「宮崎からご参加の先生は、地震は大丈夫でしたでしょうか」という温かいお言葉、これが町田先生のお人柄をよく表わしていた。深謝を画面に述べることができ、オンライン参加ながらありがたき時間が得られた。

標題に沿わず「町田先生との思い出」を綴った
講演内容の「面白く楽しい国語授業」僕もいつもこれを目指している
引き続き国語教育学会の会員の大先輩として交流を続けて行きたい。


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「77年」等距離の近現代を生きる

2022-01-22
1968年明治維新〜1945年第二次世界大戦敗戦
1945年終戦〜2022年今年(新型コロナ禍)
ともに「77年間」という等距離になった年を

誕生日の朝は親愛なる身近な人から肉声のメッセージを受け取るが、その後に最近はSNSを中心にメッセージが多方面の方々から寄せられる。Facebookでは研究者の方々や短歌関係さらに旧友から呑み仲間まで、自らの生きるつながりを実感できる日でもある。その中にはもちろん僕の誕生日を覚えてくれている方々も多いが、SNS機能がそれを表示してくれることで気づく場合もあるだろう。僕自身も友人・知人であっても、誕生日まで覚えているという人は限られる。もしかすると「誕生日を覚えている人こそが親友」と定義できるのかもしれない。明治時代に戸籍法が確立するまでは、どうやら誕生日というものがたいそう曖昧だったらしい。若山牧水と同年齢とされ東京で親密な交流のあった盛岡出身の石川啄木は、半年かそこら戸籍の届けが為されなかったのか微妙に年齢不詳だと云う。江戸時代以前は没年月は多くが記録されるが、誕生日はあまり記録されなかったらしい。だいたいにして「数え年」を採用していたのであるから新年を迎えれば皆「1歳」を取った訳である。明治生まれの母方の祖母などは、大晦日を「年取り」と言っていたのが思い出される。「誕生日」という記念日を祝うようになったのは、明治以降の「近現代」の成せる技であることを僕たちは知っておくべきかもしれない。

「誕生日」が現在のような形式、つまり「西洋風ケーキ」を買って蝋燭を立てて西洋由来の”Happy Birthday”を唄い蝋燭を吹き消す、というのは明らかに明治以降の慣習であろう。(*この点については詳細に調べているわけではないので、あくまで推測であることをお断りしておく。)こうした形式が年中行事としては個々人において年間2回行われる、「誕生日」と「クリスマスイブ」である。「クリスマス」に関しての明治以降の変遷に関しては新刊著書『日本の恋歌とクリスマスー短歌とJ-pop』(新典社選書108・2021年12月刊)に各時代の短歌とともに追跡したので、お知りになりたい方はそちらをご参照願いたい。考えるに江戸時代幕末以降に鎖国が解け新しい政府ができて西洋列強に肩を並べたいという願望に精力を注ぎ、日露戦争に勝利したことで社会は自信をつけたものの、次第に過信となり大きな誤ちへと突き進む結果となる。敗戦のどん底から再生し高度経済成長を成し遂げ、豊かな社会が構築されたがバブル崩壊以降は「失われた時代」の尾鰭背鰭を引きずりながら、世界的なウイルス流行の惨禍にあってワクチンや社会的対策でも世界で存在感を示せなくなってしまった。11年前の「東日本大震災」において世界から支援をいただきながら、「第二の敗戦」とも言われつつ様々なことをまた曖昧にしてしまった。ある意味でこの「154年間」は「西洋をどう意識するかの歴史」でもあろう。その中間としての「1945年」に由来する従属ともいえる態度が、無意識のうちに僕らの生活にも顔を覗かせるのだ。

あらためて154年間を意識すること
短歌も大きく変革してきた年数を経て
前半の77年間のうち43年間を生きた牧水から多くを学ぶ歳にしたい。


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