fc2ブログ

休音も響きのうちに

2021-11-30
「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」(芭蕉)
祭りのあとの寂しさと余韻と
2日間90分×8コマの体力を思いながら

短歌がなぜ「律動」よろしく調子よく読めるかといえば、「五・七」の文字の微妙な変化による組み合わせとともに「休音」が作用していることを主旨とする評論を最近書いた。黙読よりも聲に出して読んだ方が好ましいのは、一首の中にある「休音」までも作品として「音」として聴き取るために有効であるという訳である。「音が無い」ことを感得するためには、「音がある」状況が必要である。「古池やかはづ飛び込む水の音」(芭蕉)の句こそが、この真理を我々に容易に伝えてくれる。限りないあたりの静寂さは「かはづ飛び込む水の音」によって悟られるのだ。音のみならず「静」と「動」との関係は、日常生活の中にも多くの事例がある。我々は「動」のみを問題にしてしまうことが多いのだが、見えない「静」を掬い取るのが短歌であり詩である。言うなれば、「休」や「無」に目が向けられる心の滞空時間が求められるように思う。

土日で「(90分×4コマ)×2日間」、喋る聲や喉はほぼダメージを受けることはない。座って講義をするのは本望でなくほぼ一日中立っていることで、後になっていささかのダメージを感じない訳ではない。それでも受講者の熱心さや講座内容を讃えてくれる心を支えにして、2日間は熱く語る流れは十分に持続する。問題は冒頭に記した芭蕉の俳句ではないが、終了後に寄せ来る疲労である。「祭り」というのは「非日常」なのであるとよく定義されるが、「日常」の時間に戻った際に「むなしさ」「せつなさ」が込み上げるのだ。だが前項に記したように「静」に当たる「休音」までもが短歌の一部であるとするなら、この「祭りのあと」までをその身に引き受けなければならないのだろう。受講者の感想、小欄への反響など、2日間の「響き」の「休音」となっている部分を受け止める。その聞こえない「音」を聴くことは、「日常への回帰」でもある。とはいえ「休音」を聴くのにも体力がいる。この日は、午後になって急速に疲れを実感してしまった。身体そのものは朝から「動」を続けていたからだろう。人間としての「静」である睡眠を十分にとる必要がありそうだ。

午後9時に就寝
自らの「眠る」という旅の中へ
「またひとつ夜が明けて」けふも旅行く


関連記事
スポンサーサイト



tag :
<< topページへこのページの先頭へ >>