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「叶わぬ恋に身悶えて」放送大学集中講義(1)

2021-11-28
「ほととぎす鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな」
『古今和歌集』恋歌一・巻頭歌
「あやめ」=「理性」も知らない恋とは・・・

「若山牧水と日本の恋歌」と題して放送大学非常勤講師として、牧水の生まれ故郷・日向市学習センターで2日間の集中講義を担当している。今回は来月刊行の著書の内容について、全国で最も早く公開する機会でもある。実は先月は日向高等学校での出前講義があり、そこでも一部の内容を提供した。いずれも牧水の生まれ故郷である特権ある講義として、「封切り」としての意味合いも自覚している。受講者は短歌実作をしている方から、短歌に初めて触れる方まで多種多様である。それだけに「恋歌」「待つ」「短歌とJ-pop」という視点から、親みやすさが演出できるのは誠にやりやすい。来年度から施行される高等学校新学習指導要領「言語文化」などの科目において、このような多様な教材の読み比べが模索されていることへの提案としても有効な方法の提示であると自負する内容だ。

冒頭に記した『古今和歌集』の恋歌、その表現と桑田佳祐『ほととぎす[杜鵑草]』の歌詞の比較においては、楽曲のバラードとしての仕上がりの良さと相俟って心に滲みたという感想を多くいただいた。「人はなぜ戯れに 叶わぬ恋に身悶えて」生きるのだろう?牧水の若かりし頃の歌集を紐解くと、「かなしさ」「さびしさ」が深く詠み込まれた歌が少なくない。小枝子とのまさに「叶わぬ恋」に苦悶し身を削る日々が、むしろ牧水の表現力を鍛えて歌人として大きく飛翔させたともいえるであろう。人は誰しも孤独だ、ゆえに誰かに寄り添いたくなる。初恋とは生まれいづるまでは同体であった母から離れて独り身となった果てに、代行者を見つける営為であるともいえよう。牧水もまた母「マキ」への深い愛情を、その雅号「牧」に背負って歌人として生き続けた。牧水は晩年に静岡県沼津に居を構えたが、そこへも母・マキを呼ぼうとしたが、母は日向の坪谷を離れようとはしなかったとも云う。恋・愛は確実に母への想いに連なるのだ。さらに80年代の恋人たちのクリスマスについて、J-popを交えながらの講義が心地よかった。

日向で牧水を語る意味
「恋の文化論」として人の「生きる」を考える
夜はまた馴染みの「へべすうどん」が最高の締めくくりをくれた。


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