親友とはどんな友だろうか?
2021-10-31
「親友」と呼べるのはどんな友だろう?
「したしむ」「ちかしい」「みずから」・・・
小欄などでもそうだが、「親友」と「友だち」はある程度意識をして使い分けている。facebook(社名が変わったそうだが)でもLINEなどのSNSでは「友だち」と称し、時に見知らぬ人から申請があることも少なくない。しかし基本的には「リアル(ネットではない現実)で会ったことがある人」だけに申請許可は限定している。そうであっても多種多様な人々がつながることで、いささかの混乱を感じることもある。研究関係の人もあれば、短歌(創作)関係の人もおり、東京の酒場で出逢った多様な職種の人もおり、高校教員の際の卒業生や野球場で偶然にリアルに会った人もいる。リアルに会っていたとしても、現役の学生・生徒とは申請があってもfacebokの場合は許可しないうようにしている。ゼミなどの学生との連絡は、すっかりメールではなくLINEに置き換わった。(現所属大学就任時はまだ携帯メールであった)ゼミでは共有グループを使って情報を流すが、短歌会では学生グループに僕は入っていない。これはこれで学生のみのグループである方が、健全であるようにも思う。よってSNS上の「友だち」というのは、意識して立場や公私を区別しなければならない。
新型コロナ感染もだいぶ落ち着いてきたが、故郷東京にもう1年以上行っていない。これを考えた時に(東京在住の)誰に会いたいか?という意識が「親友」の「親」が付く尺度であるようにも思う。コロナは人々を個々に分断したのだが、それは人々に「待つこと」の大切さを再考させたとも言えよう。朝の連続テレビ小説の最終回は、医師の恋人と3年半会えなかったヒロインが抱擁を躊躇しつつ笑顔になる結末であった。コロナが社会問題となって1年半の現時点から、ドラマ上の「マスクなし再会」まではまだ2年の月日が想定されているようだ。この「待つこと」の時間の中で恋人関係が維持されること、いや維持には信頼を深める必要もあるように思う。既に1年間行っていない東京で会いたい友、もちろん掛かり付け医・馴染みの理容室・馴染みの飲食店に酒場などが恋しくてたまらない人々がいる。営業という利害を超えて会いたい人、そして仕事や社会的立場を超えて会いたい人、そこに明らかに「親しむ」ということの真の意味が見えるのである。もちろん宮崎でも、行動規制で会食がもうかなり憚られている。なかなか「親友」と語り合う機会もない。すべての利害や体裁を超えて楽しく語り合える友、この間もあれこれ連絡をくれるあの人、いつも助けられる人々がいる。
「親友」と語り合う幸福
人生は人とつながってこそ豊かになれる
コロナは「友だち」の真の意味を炙り出したのかもしれない。
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貴重な省察を書きとめること
2021-10-30
「自分でおこなった貴重な省察は、できるだけ早く書きとめておくべきである。」
(ドイツの哲学者・ショーペンハウエルの名言より)
親友のライター真山知幸氏から毎日「名言マガジン」のメルマガが届く。昨日で「Vol.229」であるから日々の積み重ねを感じる。何事でもそうだが、ともかく日々続けていないことは物にならない。脳でも筋肉でも感覚でも、その営為・技術・言動・動作などに作用するように必ず日々使うべきなのだ。長く寝ると頭がボッーとするように、使わないと確実に衰退するのが生物ということだろう。僕の仕事の場合、文章書きは大きな柱である。研究論文はもちろん、依頼された原稿には書評とか講演録とか、もちろん実務的なものを含めて必ず文章にまとめることがプロとしての仕事である。その仕事を始める1日のスタート時に、小欄の文章を書くことは大変に有効なトレーニングになっていると自覚できることが少なくない。概ね800字とか1000字程度であろうか、新聞一面下のコラム欄と同等の文章量を意識して日々必ず書き続ける。それはアクセス数など誰に読んでもらうというより、日々の自分のために書いているともいえるだろう。
冒頭に記したのは昨日の真山氏のメルマガから引用させていただいた名言だ。日々、人は進歩・向上したいと願うのが普通の感覚だろう。何事もすぐには、上手く成せるものではない。例えばこうした文章書きもそうである、量を書かないうちは上手くなるわけがない。書いてみてこそ「省察」できる材料があり、日々続けるうちにどのように書いたら人々に伝わりやすいかがわかってくる。もちろん出版物にするほど厳密に時間をかけて推敲もしていないので、誤植や表現が妥当でないことも多いかもしれない。だがそこはWebの即時性を活かした表現ゆえご容赦いただき、朝の30分から1時間以内で前日のことで頭に焼き付いていることを吐き出すような感覚である。ある時、研究分野の先輩が小欄をお読みいただいているようで話している際に「あれは歯磨きみたいなもので」と言うと「俺は歯磨きを読まされているのかよ!」と笑ったこともあった。もちろん「歯磨き」という生活習慣を比喩にするなら、「公開」などしなければとも考えられる。だが、内に秘めた日記のようにしていたら、文章トレーニングのモチベーションは大幅にダウンするだろう。まずは人の目に曝してみる、教育実習なども最初から上手くいくわけがない。まずは「失敗」をしてその「省察」を「できるだけ早く書きとめる」ことが向上のコツなのだ。
言葉にすると見直せる
頭で考えただけでは思考は沈着してこない
けふもまた、できるだけ早く書きとめたのである。
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血の系譜や魂の原郷ー伝統的性格を考える
2021-10-29
古き良き時代を引き継ぐ『新古今集』の歌風=昔の歌を大切にすること
継承ー短歌の遺伝子といふこと
「君たちが遺伝子(DNA)を感じるのは、どんな時だろう?」学部2年生科目「文学史」で、こんな問いかけから講義を始めた。普段はよく発言をする学生たちは、昼休みの後ということもあるのだろうか?ややキョトンとした表情をしてなかなか誰も答えようとしない。仕方がないので「どうやら君たちの年齢なら、むしろそんな実感を持つことを意識的に避けているのかもしれないね」と助け船を出した。僕が大学生の時を思い返しても、親に似ている言動があったとしてもむしろ意識的に否定したかもしれない。自らが自立する階段を登っている最中であると、「自分は自分」と自我を拡げようとする段階なのだと思う。学生たちには、年齢が進むと「血」を意識する機会が増えてくることを話した。この代え難き自己の身体に引き継がれた「遺伝子(DNA)」、たいていは祖父母ぐらいまでははっきりと辿れる。明治18年(1885年)生まれの若山牧水のお孫さんと親交があるがちょうど僕の親の世代、ということは僕自身は牧水の曾孫世代ということになる。牧水の父母を考えれば、確実に江戸時代となり五代を遡ることになる。そこまで「父母・父母・・・」と辿ると30人の「血(遺伝子)」を僕自身は引き継いでいることになる。
『角川短歌11月号』「うたの名言」欄に「石田吉貞『新古今和歌集全註解』が引用され、佐佐木幸綱が解説している。『新古今』には「現代歌人の歌は半分しかなく、残りの半分は柿本人麻呂、紀貫之、和泉式部といった昔の歌人である。」ということだ。石田の記述ではこれらが「新古今の歌風を語っているもの」と指摘している。鎌倉期となって世情の変革が生じ、古き良き平安・奈良時代の歌を「伝統」として重視し、当代の藤原定家らも「本歌取り」という方法を重視し自らの和歌の中に古歌の「血(遺伝子)」を流すという方法を意識して作歌活動をしたというわけである。こうした歌風(時代)について石田は、「血の系譜や魂の原郷」という表現をしていることは印象深い。平安朝300年で築かれた勅撰集7代の入集歌は含まず、「現代(当代)」の歌風を何十代も遡ることを意識して撰集されたという意識が根付いたことは重要だ。藤原定家の手により多くの古典作品が書写され今に伝わっていることはよく知られているが、「血を引き継ぐリレー」を『新古今』時代は意識的積極的に取り組んだということだろう。令和の現代でも三十一文字の形式の短歌に携わるということは、こうした「血の系譜や魂の原郷」を旅することでもあり、意識無意識に関わらずそれを未来へ引き継ぐ行為なのだ。
暗記ではない「文学史」にするために
氷山の見えない海中部分を本歌取り歌の表現から読み取る作業など
うたの「遺伝子(DNA)」膨大な人々の心が引き継がれている。
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言葉と言語文化としての「文字」学習
2021-10-28
言語四要素「音・字・語彙・文法」「国語」を学ぶ教室にはそれぞれが発動する
書写を含めた「文字文化史」を学ぶ必要性
義務教育の「国語」という教科では、「書写」も含めて学ぶことになっている。中学校・高等学校の「国語教員免許状」を取得するためには、高等学校には「書写・書道」の単位は必要ないが、中学校免許状を取得するためには必須である。発達段階を追ってみると、小学校1年生では「仮名文字」を五十音として学ぶ。昨今は家庭での早期教育により就学以前でも「かな」を習得している児童もいるようだが、低学年は「音(音声言語)」から「字(文字言語)」への橋渡期なのである。よって就学以前は「声」を使った「身体的な遊び」のような機会こそが大切と思うが、知識偏重社会の勘違いが蔓延しているともいえよう。小学校1年生で「仮名五十音(ひらがな・カタカナ)」を習得すると、次に段階的な漢字教育が次なる課題となる。これは世界の言語教育を俯瞰しても習得の難易度が高い文字文化であり、戦後GHQの教育政策で問題視され「ローマ字化(音声表記化ともいえる)」が提唱されたことは有名である。だが考えてみてほしい、小欄のこの文章がすべて「ローマ字」で表記されていたら、どれほど意味判別の上でも読みづらいであろう。仮にすべて「ひらがな」であっても私たちの言語は判別に時間を要するものとなってしまう。「漢字文化」あってこその言語なのだと、あらためて思うのではないだろうか。
「漢字仮名交じり」というこの言語表記は、言い尽くせない言語文化・文字文化の習熟の結果であることに多くの人が自覚的ではない。義務教育においても、この壮大な「文化史的視点」での学びがなされているとは言い難い。その証拠に「言語四要素」のうち、次第に「音」を軽視し「語彙・文法」ばかりの学習に躍起になる傾向がある。高等学校「古典」の学びがいつまでたっても上手く行かないのは、この点に大きな原因があると考えている。昨日、附属中学校1年生の教室で共同研究の授業が実践された。学部の「書写・書道」担当教員が、中学校教員とともに授業実践をした。テーマは「行書の特徴を学び、自らの書写に活かす」という内容である。授業で「書写」の教科書掲載『蘭亭序』が示され、その文字の特徴を解読しつつ考えることから授業は始まった。このように書道史のお手本となるような芸術品の解読を試みて、「文字史」に眼を向ける文化的意識を中学生が学ぶ機会は貴重である。一般的に「楷書・行書・草書」という順番で呼ばれるゆえ、「次第にくずし字になった」というような認識が蔓延るが「楷書」の成立が最後である事実を学ぶべきだろう。竹簡・木簡に記されていた際は「篆書」、「紙」が発明されないと「楷書」は生まれないことを担当教員との休憩時間の雑談で確認した。日本では平安時代に「かな文字」が発明され、それ以前は「万葉仮名」とか「変体漢文(当然漢字のみ)」で和歌や文を表記していた。漢籍受容の問題も含めて、壮大な「漢字受容の言語文化」の歴史物語があるのだ。言語は一日にしてならず、その文化史的な混沌とした格闘の末に、今あなたも日本語が読めていることを義務教育で学ぶことが必須なのではないだろうか。
科研費共同研究の課題でもある
和歌を表記するために「仮名文字」は生まれた
言語に対する見方・考え方が現状ではあまりにも乏しい。
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再び記憶の刻まれ方を考える
2021-10-27
買い物をした際の記憶商品選びから会計まで母の語ったこと
考えてみればよく再現できる記憶はすべて場面描写であった
宮崎に移住後すぐ、東京時代からの生活習慣でスポーツジムに入会した。しばらくは体力作りに週3回は市内まで車で通っていた。あるレッスンに参加した時のことだ。終了後にトレーナーさんが「今のレッスンは何人参加していましたっけ?」と僕に聞いてきた。筋トレ後にリラックスをさせるストレッチクラスだったからか、それほど参加者が多かったわけでもないことから、僕は「7人」とすぐに答えることができた。なぜ僕はその人数を記憶していたのだろう?人数を問われた際に思い出したのは、スタジオの鏡に映る部屋全体を描写した映像である。それを写真か動画のように思い出して、脳裏で人数を数えることができた。その時、「記憶とはこうして保存されていくものか!」と自らの脳内構造に驚いた、という物語を記憶している。もとより記憶は良い方だと人からは言われる。「どうして?そんなことまで覚えているのか」と言われることもしばしば。一般的に文学者は、幼少時からの記憶が鮮明にあるなどと云われるが、こうした意味では僕も資格があるのだろうなどと思い上がっている。
一番初めの記憶は、母の作成したアルバムの写真と照合すると1歳半であった。河原で遊んでいると前のめりに石の礫の多い地面に転んだ、その際の砂利の感触と幾分かの痛みの記憶がある。また父の仕事に同行し海の近くまで行き、波打ち際まで行ったら寄せては返す動きに目が眩みやはり前のめりに転んだ。近くの洋品屋で洋服一揃えを父に買ってもらって帰宅すると、母が「おかしな服を着て帰ってきた」と驚いていた記憶がある。このかなり幼少時の記憶は、すべて場面描写として脳裏に長期保存されている。もちろん前者の河原の記憶の場合、後にアルバムの写真を見て再構成された「場面」なのだと思い直すこともある。それにしても礫の手触り感とか、波の寄せ返しとか、洋品屋のやや照明の暗いショーウインドとか、具体的な場面が記憶としてあるのは確かだ。幼・小・中・高の記憶でも印象深いことは、「こんな授業で先生がこんなことを言った」のを理屈ではなく場面映像のように覚えている。今回は数年前に母と東京の家電量販店で買い物をした際の記憶を、紐付けに紐付けをくり返し鮮明に思い出した。商品の選択時に母が言ったこと、会計の際の母の行動、などを思い出していたら、さらに商品が搬入された時の記憶まで蘇ってきた。人と人との関係も同様だが、「紐付け」をして情報を保存しておくことが実に大切だと痛感した。
具体的な場面を描写するのが短歌
過去も変えられるとしたら記憶の描写から歌で再現をすることだ
パソコンやAIにも負けない生きた心の記憶保存。
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小中学校ではせめて韻律感を身体に
2021-10-26
課題は「短歌創作」とするとなぜか「十七音」で提出する学生がいる
さらには一句多い「五七五七七七」とか一句足りないとか
学部1年生のほぼ全員が履修する「国語」という教科専門科目がある。教員免許取得のための単位の上では「小学校」免許に必要な科目である。(所属学部は小学校免許を主として、中等教育教員志望者でも小中一貫の理念のもと小学校も取得する場合が多い)まさに、小学校で一番時間数の多い「国語」の授業を教えるための基礎基本となる科目である。オムニバス(複数担当者)形式で4名の教員で担当するが、もちろん僕の守備範囲は「詩歌教材」ということになる。小学校で詩は間違いなく全学年で教科書教材となっており、中学年で文語を含めた短歌・俳句を扱い、高学年では必ず「短歌・俳句・詩」の創作を扱うのが一般的だ。免許状更新講習などで現職の先生方とお会いすると、なかなか「創作」の指導に自信が持てないという声を多く耳にする。自らが経験のないことを児童には教えることへの、不安と罪悪感のようなものが入り混じった感覚なのだろう。それだけに担当講義「国語」では、せめて「短歌創作」を体験しておく必要があるのではないかと考える所以である。
だがいざ学生たちに創作課題を出すと、冒頭に三行書きしたように「短歌」と言っても「俳句」を平然と提出してくる者が、履修者約120名のうちに数名以内だが毎年のようにいるのだ。また三十一文字を大幅に逸脱する者や句が足りない者もある。やまとうた1300年の歴史を考えれば、連歌とか旋頭歌・仏足石歌、近代では都々逸などの歴史もあって、「句切れ」というのがある意味での必然であると考えれば理解できないものではない。それにしても、学生自身は小・中・高の「国語」の教育経験の中で「短歌・俳句」を学んできたはずである。「一首」や「一句」の問題はもとより、世間では「短歌」と「俳句」の区別がついていない人々があまりにも多いのである。昨日も上皇后さまの眞子様誕生の際の和歌を紹介するTV番組で、平然と「詠まれた”一句”」と言っていた。ここで大切なのは、韻律感とも呼ぶべき身体感覚である。我々は当然だが、読めば「短歌」と「俳句」の区別は容易につく。複雑な「句割れ句跨り」などではない限り、「字余り字足らず」も身体感覚でわかる。6月の日本国語教育学会西日本集会で指摘されたことだが、毎日のように牧水短歌を朗詠する坪谷小学校の子どもたちの韻律感は抜群であったと俵万智さんも指摘していた。些末な技法名や意味を覚えるよりも、せめて小学校・中学校でこの韻律感ぐらいは学んでいて欲しいと願う。ゆえに将来教師を目指すうちの学部に来るすべての学生には、短歌創作を体験し韻律感を養うべく「音読」の機会も講義中に設けているのであるが・・・。
今週は最後の担当回
課題で創作された短歌などの批評
自らの感覚を含めて、いまいちど短歌の「韻律感(音楽)」を見直そう。
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ブーゲンビリアこの子いとしき
2021-10-25
宮交ボタニックガーデン青島空港名にも関する「ブーゲンビリア」の栽培講習
妻と義母に導かれて
宮崎は、市内中心部と空港が極めて近い稀少な地方都市だ。直通列車で9分、車でも15分ほど、僕の自宅も大学も車ならほぼその程度で往来できる。市内にそれほど隣接していて騒音は問題ないのかといえば、海上に滑走路が張り出しているからだろうか、居住地域にもよるだろうが騒音に悩まされることもない。時折、自宅や大学上空を航空機が飛ぶのだが、身に沁みるほどの騒音は感じない。発着便数が適当な数であることも大きいだろう。さてその宮崎空港が名称公募によって「宮崎ブーゲンビリア空港」となったのは既に僕が宮崎に移住後のことだった。当初はその名称に「?」を感じたこともあったが、ブーゲンビリアという植物を知るにつけ「南国」イメージが醸し出され次第に違和感がなくなって来た。宮崎は空港もそうだが、公共の道路に多種多様な花が植えられている。主要道路に聳え立つ「ワシントニアパーム」を始め、かつてのハネムーンの聖地としてリゾート感があるのは悪くない。むしろ「ブーゲンビリア」をもっと身近に愛好すべきとも思うようになった。
「宮交ボタニックガーデン青島」は、青島参道と海に隣接する熱帯植物園だ。義母が「ブーゲンビリア」の栽培講習に参加するのに妻も一緒ということになり、結局は僕の父母も含めて青島に行くことになった。ようやく感染状況も改善してきて、宮崎では感染者「0」の日が続いている。青島には思った以上の人出があって、地元の飲食店なども嬉しい状況が戻ってきたようだ。休日に人々が気が和む景色を求めて名勝地に集まるという、ごく自然なる行為が自然にできることが何よりの幸福であろう。講習中に僕もブーゲンビリアの苗木をあれこれ見つつ、係員の方に諸々と話を聞いた。多くの品種が、気温「0度」までは耐寒性があると云う。宮崎の冬は平野部でも氷点下になる日が年間に何日かはある、となると外気での越冬は厳しい線であるようだ。中には「マイナス5度」までは耐寒性のある品種があって、空港などに多く植えられているのはそれだと云う。講習後に妻も一株の小さな苗木を購入した、その際に係員の方が「この子」と愛情を込めて苗木を呼んでいたのが印象的だった。苗木のまま今年は越冬し来春には鉢に植え替えると、来年の今頃までには50〜80cmほどの樹に成長すると聞いた。季節とともにこの「ブーゲンビリア」を愛しく思う日々を送ってみようか。
地元の釜揚げうどん屋さんも待ち時間ながき
社会が正常に動き、また自然を身近に感じることも
僕らは南国リゾートに住んでいるのだろう。
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海面に出ていない記憶を探る
2021-10-24
「検索」「紐付け」などデジタル的な発想だが、人間の記憶も氷山のように表面に出ていない多くが
ふとしたことから辿れる人間の脳の脅威
行動様式が変わると、「やり方」がわからなくなるものがある。例えば、この1年半で酒場で呑むというのがどういうことか?などふと思わないでもない。あらためて確認すると、既に東京に足を踏み入れていないのが1年間に及んでしまった。研究学会も編集委員会も掛かり付け医も理容店にも、親類親戚に会うことも墓参りも、洋服店も眼鏡店にも、そして馴染みの酒場や飲食店にも1年間のご無沙汰となってしまった。研究関係は多くがオンラインで事済ませており、服は馴染みの店長が写真を送付してくれ「リモート買い」などと通信で成されたこともあるが、その他は生身でその場に行かないとどうしようもない。両親はコロナ以前に宮崎に移住したからよいが、もし東京在住を続けていたら1年間は生身で会えなかったと思うとゾッとする。このような意味で、生活上の「分断」を明らかにコロナ禍はもたらしたのだ。だがしかし、僕らの脳内には記憶という大きな武器がある。「コロナ以前に戻る」というよりは、「新しい日々を夢に変えて」いければとも思っている。
メールやデータなどをPC上で扱うと、すっかり「検索」機能に助けられることが多くなった。大まかな整理さえしておけば、あとは「検索」ですぐに発見できる。その「大まかな整理」の部分が人間の記憶に依存するところだと自覚する。反転してPCの「検索機能」のような動作を、自らの記憶や物理的書類の上で「実行したい」とさえ思うことも出てきた。そのような意識で即時的ではないが、「紐付け」に「紐付け」を繰り返していると次第に表面になかった記憶が浮上して来ることがある。「この時は何処で誰とどのようなことをしたか」が、その時の会話を含めて記憶から検索されるのだ。最近、必要があって何年も前の買物の記憶を辿ったら、明らかな記憶として蘇って自分でも驚いたことがあった。しかし、時に記憶は「恣意的」であることも少なくない。人間の欲求が、記憶に一定の偏りを施すのだろう。深海の奥深く沈んでしまって、決して浮上させたくない記憶があるようにも思う。ゆえに、前述したように「新しい日を夢に変えてゆける」記憶が蘇ればいいのだ。比較的、幼少時からの記憶が鮮明だと自覚するのだが、そのデータ集積が上手く研究や創作に活かされるべく蘇ることを意図したいものである。
生きた時間の証として
変わらない脳の大きさの中に皺を刻み続ける
人間の精巧な素晴らしさ。
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地元高校生の道を照らすー出前講義で語ること
2021-10-23
県内高等学校の進路指導企画
大学で何を学ぶかその歩む道を照らす
「短歌県みやざき」の国語教育を携えて
大学から約1時間、県内を北上し出前講義のための出張に赴いた。距離約80Km、南北に長い宮崎県であるが、宮崎市から北行きは高速道路もあり比較的、便利に移動することができる。かつて僕が高校教員だった時、進路指導部に所属することが多かった。その企画でも「大学模擬講義」を実施していたが、その際に様々な大学の先生方が来校し講義を聞く度ごとに、いつか自分自身が講義をする立場になりたいものだと常に思っていた。その宿願が叶い、今やこうして県立高校への模擬講義に赴く立場になった。特に地方国立大学の場合、地域連携という大きな目的もあり地元高校生たちが進学の意志を持ってくれることは重要である。生まれ育った故郷の子どもたちを夢に導く教師になろう、という進学意欲をさらに掻き立てることが望まれる。このような公私の思いを胸に、県立高等学校に向かう長い「希望の坂」と名付けられた坂を車で登った。
近刊『日本の恋歌とクリスマスー短歌とJ-pop」の内容を本邦初公開として、その一部を紹介しながら恋について、人が生きること、西洋文化の受容、短歌は自分が体験していないことを味わいその立場の気持ちになれること、などをテーマとしての60分講義を2回実施した。テーマ名に惹かれたのか、1回目が70名以上、2回目も40名以上と総計で100人以上の1・2年生が聴講してくれた。時折、まさにクリスマスJ-popの音楽を流しながら、2ヶ月早いがクリスマスについて体験的に考えた。もちろん若山牧水や俵万智という「短歌県みやざき」に欠かせない歌人の短歌を多く紹介した。受講した中に牧水の母校である坪谷小学校出身の生徒さんがいて、講義後にあれこれ片付けの手伝いをしてくれ、控室まで案内をしてくれた。話すとどうやら先日の短歌オペラに「村の子ども」役で出演した児童の兄だという。彼もまた「教員になるか考えています」と話していたが、幼少の頃から宮崎の豊かな自然と短歌によって豊かな心に育った子どもらが、ぜひ多く宮崎の教員になって欲しいと願う。けふもまた、未来の宮崎へ向けてこんな「こころの鉦」を鳴らす講義となった。
講義の後、日向の地元の人々との交流も
「地域連携」とは名ばかりではなく、
人と人とがつながることだ。
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小言や意見を言うことが大切な理由
2021-10-22
小言や意見は相手を尊重しているがゆえそこが自分を変えていける大きな契機
忌憚なく言ってこその教育
怒れない社会になった。それゆえか、意義ある「怒ること」と非難・中傷の区別がつかなくもなっている。特に日本社会では「当たり障りのない」ことが、公にまかり通るようになった。「見て見ぬ振り」が反転して、暗躍する輩はどんな卑怯な手段を使っても隠し通す社会だ。今筆者は「・・・なった」と書いたが、昔から「知らぬが仏、知るが煩悩」「知らぬが仏、見ぬが極楽」という諺があるように、軋轢を生むよりも「見て見ぬ振り」をするか、敢えて踏み込んだ物言いをしないことが求められた社会なのかもしれない。直近での流行語でいえば「空気が読めない(KY)」なども、この類のうるさいことは言わない同調圧力を求めるものだ。だが表面的に「怒らない」一方で、ネット上の匿名での誹謗中傷が高揚してしまう社会。体裁を繕い陰で攻撃する陰湿さが増長する社会だ。欧米の若者たちの地球温暖化への非難デモとか、差別問題に毅然と立ち上がる姿を報道で目にすると、日本の高校生らでも運動をしているものがいない訳ではないが、あくまで少数派であるように思う。むしろ「出る杭」にならないために、ただ入試に合格するためだけを考えて若い時間を空費しているようにも見える。これが選挙で投票率の上がらない理由にもなってやしないか。「正統なる社会」を求める行動がこの国では危ういのだ。
親しい友人ががネット記事「”思い”の伝わる注意の仕方を欠かせないこと」を引用しつつ、「三項関係」の大切さについて投稿していてなるほどと思った。記事にはあるCAが先輩から再三の小言・苦言を受けた経験談があって、その小言の延長上には「お客様の背中に熱い飲み物をこぼさない」ための万全の配慮が根付くためという大きな目的・意義があることにようやく気づけたという内容だった。少なくとも「プロ」の仕事をするに当たっては、妥協のない育成が欠かせない。ならば僕が携わっている日々の学生への教育では、「子どもたちに熱湯をかけてしまうような(←ここはCAの話題に関連した比喩ですので念のため)絶望を与えるような言動を教室でしないため」の心構えの根底を学部で養わねばなるまい。指導者が教材を調べ尽くしてこそ授業ができること、児童・生徒にも小言や意見を忌憚なく言わないと育たないと理解すること、嫌われることを避けずに小言をくり返すことが卒業の時に児童・生徒に感謝されること、そこに教師冥利があること、等々を日常から学生に伝えるべきと考えている。昨日から演習の学生発表が始まったが、発表後にクラスの学生らから様々な質問が出たことは、前述したような教育を施した成果のように感じられて納得感があった。それゆえに発表資料内容が十分調べられていない場合には、存分に学生たちに小言・意見を忌憚なく言うように心掛けている。それが常識となる社会にするためには、まず眼の前の学生たちにそのように接することだ。
筋断裂をさせるのが筋トレ、ゆえに筋肉は育まれる
意見を言ってこそ相手を尊重しているのだ
未来の社会に絶望しないために。
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