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体操から学ぶことー究極の再起・修正力を讃えよう

2021-07-25
思いもよらぬ落とし穴が
内村航平さんの鉄棒に学んだこと
メダルだけではない学びがスポーツにある

メダル獲得という結果のみを騒ぎ立て、競技から学べるものに目を瞑る。当該競技の映像が流れる画面に「メダル獲得」のニュース速報音が流された時、メディアのスポーツに対する次元の低すぎる意識を垣間見た。今回に始まったことではないが、五輪となると「メダル・メダル」と連呼し、それまでは注目しなかった選手でもスター扱いに豹変する。とりわけ「メダルラッシュ」などという用語には、呆れ返るばかりである。この空気感が半世紀以上にもわたりこの国のスポーツ選手を重圧で縛り付けていることから、いい加減に目覚めた方がよい。このTOKYO2020こそが、そんな意識改革が成される大会と信じたいと思っている。体操男子初日の競技で鉄棒のみに専念して出場した内村航平さんが、落下してしまい予選通過ができなくなった。もちろん彼自身も、頂点を目指しての挑戦であったのは確かであろう。本来なら動揺を抑えることができないはずの競技後のインタビューにも、冷静に自らを客観視するように語っていたのが印象的だ。同時進行で競技していた若き日本代表チームに動揺が伝播しないようなその後の振る舞いなどは、TVでは映らない部分だが、たぶん彼なりの十分な配慮の元での言動であったことは想像に難くない。

内村さんの競技を見て学んだのは、幾度となく配した「離れ技」での落下ではなく、車輪中のひねりを加える技によるそれだったこと。最も落下の可能性が高い「離れ技」は全て完璧に遂行したといってよい。たぶん本人も練習時の「通し」において、今回に落下した部分で失敗したことは一度もなかったのではないかとさえ思う。だが「落とし穴」というのは、そんなところにあるものだ。車輪中のひねり技とて、決して簡単なものではない。だが演技の構成としては、後半の「離れ技」や「降り技」に向けて気持ちを向ける部分でもあるだろう。向き合う「いま」の技を丁寧に着実にくり返すしかない体操演技において、先を予見した思考は禁物であるように思うのである。百戦錬磨の内村さんが、そのようであったとは言わないが「ミス」とは普遍的にそんな箇所で起きるものである。だが何より内村さんを世界一の体操選手として讃えるべきは、落下後の演技である。他人では想像できないほどの落胆があるだろうに、まったくそんな様子もなく完璧ともいえる演技で着地も微動だにせずに止めた。その演技には「無意識の底知れぬ境地」のようなものを感じ取れた。実は僕自身も高校3年間は、部活動で器械体操に挑んでいた。次元は違い過ぎるが、試合で演技が「通った」(落下・静止などなく演技を一通りこなすこと)時は、その途中経過が記憶にないほどの境地であったことを記憶している。分野は違うが現在の職業でいうならば、講演などで自らの流れで乗った話ができた時、その途中経過が記憶に刻まれないのと似ている。「作為」の言動ではなく、無意識に身体と脳に刻まれた「自己」が表出するのである。「芸術体操(アーティスティック・ジムナスティクス)」たる領域をいま魅せられるのは、内村さんだけだ。「失敗」という「喪失」を含み込み「美の極致」を体現できる力。いまこの国に必要なのは、メダルの順位のみに拘る栄誉ではなく、内村さんのような究極の再起・修正力なのではないか。

結果のみをとやかく言う世の中で
競技の機微に何が視えるかを見極めたい
内村航平さんの演技の自然美をもっと讃えるべきだろう。


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