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言葉の奥の「コトバ」を見つける

2021-06-25
若松英輔著『種まく人』(2018 亜紀書房)
詩人が言葉に向き合ったエッセイ集に学ぶ
文学が社会に生きるためにも

先週末の学会講演を受けて、冒頭に記した書籍を読んでいる。2018年「詩歌文学館賞」を受賞した詩人のエッセイは、短歌にとっても学びとなり「私の心」を考えさせてくれる。「ジャンル」などという偏狭な枠組みにも支配されず、「言葉と心」を考えることは『古今和歌集』仮名序以来の永遠のテーマであろう。書名の『種まく人』とはミレーの描いた農夫の絵のことであるが、それは「彼は絵によって、文字を読めない人にも、この世の摂理とは何かを伝えようとしたのだった。」と同書P171に記されている。我々が芸術としての絵画を観るのも、また芸術としての音楽を聞くのも、「言葉」ではない方法で「この世の摂理」を伝えようとする営為を悟ろうとする行為だと考えることができる。「種をまくという原初的な労働の意味と、その行為に潜む美である。」(同書P170)ことを僕たちはミレーの絵から、各自各様な「心」を悟ることになるだろう。「言葉の領域を超えている。」ことを悟った時、僕らはやっと「言葉」に自覚的になれるのかもしれない。

人間はある意味で「言葉」で自覚し制御し行動をするものだ。朝起きて「眠い」という言葉で「我」の存在を確認し、「おしっこ」という言葉を心の中で呟き、トイレに向かう。生理現象のみならず、「今日は昨日と違う」ことを知るために僕などは「昨日」に考え感じたことを元に、小欄に「言葉」を記そうとする。そして自らの生活の随所に取材することで、「三十一文字」の韻律に適う言葉を探す。いや「生活の随所」はあくまで「契機」でしかなく「言葉」を声にして文字に記し、錯綜と混濁の果てにようやく「短歌の音楽」らしきものを見つけるということになろうか。「詩を書くとは、おもいを言葉にすることであるよりも、心の中にあって、ほとんど言葉になり得ないコトバにふれてみようとする試みなのではあるまいか。」(同書P45)実用的で表面的な「言葉」のみしか自覚しない生活には、真の豊かさや潤いは生じない。詩歌をはじめとする様々な芸術に触れることで、人は「言葉の奥にコトバがある」ことを自覚するのだと同書から大きな示唆を受けるのだ。社会が「言葉」のみしか相手にしなくなった時、我々の未来は荒んで枯れ尽くした平原になるだろう。ゆえに「国語」の学びの中で、いや「国語」という枠から離脱したっていい、「コトバ」に近づこうとする学びの場があらゆる人に提供される社会を目指さねばなるまい。

誰にでも見えるが、その奥にあるものに光を当てる
枯れ尽くした平原で身を削っていてはならない
けふもまた「言葉」を記し「コトバ」を探している。


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