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役立つ役立たないを超えて価値はある

2021-06-19
入試にないから要らない???
学ぶ時に「役立つか?」などわからない
人生を生き抜くためにあらゆるものが・・・

中学校教員をやっている卒業生から連絡があって、「短歌の授業をしますが、その工夫について教えて欲しい」と言った趣旨が記されていた。それを見たとき感じたのは、学生時代に講義においてもゼミにおいても「工夫」の要点は教えていたはずだということ。もちろん当人は卒論で「小説教材の読解法」について研究したので直接的に「短歌でない」のは確かである。だが同級生で「短歌学習」を卒論にした者がいたことだし、いくらでも学びの機会はあったのではないかなどということを指導教員として考えた。この当人だけの問題ではないが、人は自らが実行する当事者にならないと、学びの価値に気づかないことが多いものだ。学部生にも日頃の講義でその価値を話しているつもりだが、いざ教育実習で自らが身につまされないと目の色が変わらないのが一般的である。あれもこれもと吸収しようとする貪欲さを持った学生は、昨今では稀なのかもしれない。

いつからだろうか?学びの価値を「役立つ?役立たない?」で判断する人が増えたのは。入試の偏差値偏重教育が問題となって久しいが、その偏狭な学力観は「共通テスト」ぐらいの改革では改善される兆しも見えそうにない。高等学校の授業内容は「入試対策化」してしまい、「予備校」なのか「高等学校」なのかもわからなくなってしまう。「国語」では「話すこと 聞くこと」を含めて総合的な言語・思考・表現・伝達などの力をつけるべきだが、「入試的な試験」で高得点を取る「対策」のみが高等学校の学びだと勘違いされている。「漢文」などに至っては「入試において要らない」となると「国語」の学びから外されてしまうという感覚を、生徒のみならず高校教員までもが持つ有り様だ。漢語の受容と言語的な融合、訓読という方法による日本語の音韻・音律的な要素の獲得、明晰な論理を文章で誤解なく伝える漢文体の論理性などは、「日本語」の運用においても不可欠な学びである。「短歌」についても「やまとことば」の歴史的な展開を考えれば必須な学びであり、何も「創作者の特別な文芸」であるわけではない。件の卒業生には、本日(6月19日)に主催する「日本国語教育学会西日本集会宮崎大会」をオンラインで視聴することを勧めた。「短歌」が「国語」の学びとしてどれほどに活かされるか?その価値をあらためて多くの現場の方々に知ってもらう機会でもある。

学びは利害関係にあらず
あらゆることを当事者意識を持って
学べる時に学ばずしていかに生きるというのか。


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