AIに向き合う未来をどうしようか?
2021-06-05
いつでもどこでも同じ授業されど、人間でなければ教えられないことは
文学の遊びを最後の砦に
自動車のCMではメーカーの考え方によるが、「自動運転」らしきものができることを前面に喧伝するものが目立つようになった。ハンドルから手を離したり、前車を捕捉してぶつからないことを可視化した映像に加えて、人気俳優が起用されている。「考え方」と言ったのは他でもない、「自動」が大切なのか?「安全」が大切なのか?という向き合い方の問題である。これまで「自分の運転技術と経験」に頼って自動車に乗って来た身として「楽になる」よりも、「安全である」という考え方を個人的には選択する。「機械」をそうやすやすと信頼できない、きっと故障もあるだろうからと思うゆえである。まさに僕たちは、こんな「文明」次元の大きな変革の入り口に立たされている。「教師」においても、例えばこの30年ぐらいで大きくPC類に依存するようになった。少なくとも、僕が高校時代の試験問題は手書きで国語の問題文が記され、インクの匂いのする藁半紙に試験が印刷されていた。
「授業」をAI(人口知能)に任せれば、いつでもどこでも同じ授業内容を公平に安定して学習者が受けることができるようになる。だが、このことに「自動運転」と同じような戸惑いを覚える。「余裕」が出て「不平」もない授業になるわけだが、その先には「教師不要」という想定さえ為されている。「楽になる」ことで、存在自体が脅かされる。自動車も目的地へ行くためのみならず、運転そのものを楽しむという考え方もあるだろう。果たして完全無欠な「運転」や「授業」の恩恵を受ける者は、人間としてどう「生きる」ことになるのだろうか?「教師」が「人間」であれば、誤りもあり得手不得手もあり個々に特有の偏りもある。それを「学校」という社会で経験することで、人間社会の縮図を学ぶ。もし完璧なシステムによる学習で育てば、その人は社会でも「完璧」だけを求めるだろう。どんな食事を好み、どんな絵や音楽を愛好し、どんな人とどんな恋愛をするのだろう?結婚しても双方が同じ「システム」で育っていれば、「完璧」同士で大丈夫なのだろうか?まったく「人間観」まで変えてしまいそうだが、だからこそ「完全でない人間」を表現したこれまでの「文学」こそが、反動的に大変に重要な教材になるのではないかと思う。「言語技術」は完璧な奴らに教えさせておき、間違いながら人間同士が教材に「遊ぶ」という、人間の聖域の砦を「文学」が担うようになると信じたい。
遠隔講義で高まる集約化
技術から逃げず学習や人間の本質を突き詰める
思わず未来の教育実習像などを妄想している。
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