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手紙を書く気持ちで

2021-06-30
相手の立場になるためには
「真の手紙は、その本性からして、詩的なものである。」
(ドイツ・ノヴァーリス『花粉』より)

真に相手に気持ちを伝えるためには、どうしたらよいか?月並みに「相手の立場になる」というが、それはどういうことなのだろう?少なくとも、よく学生らに話すことはこうだ。自分がどんなに上手く話したつもりでも、あくまで独りよがりに過ぎない。相手の反応を伺うようにして話したとしても、十分に伝わったかは疑わしい。よく講演などで大きく頷いて聞いている方の理解の度合いは、むしろ低い場合が多い。最終的に「伝わる」ということは「聞き手の中に価値ある意味を生成できるかどうか」にあるということ。大学講義であるならば、学生らに当事者意識を持たせて「意味生成」が成されれば、学生らは居眠りすることはない。よい書き手の文章は誰が読んでも「分かりやすい」と感じるのは、多くの人の中で「意味生成」がしやすいものであるということだ。それは簡単なことのようで、深く意識しないとできないことである。

相手の立場を思う想像力、例えば「この人はなぜ遅れてしまうのか?」を考えた時、「厳しく責任ある仕事を終えてから来るのだ」と想像すれば、「待つこと」は苦痛ではない。むしろ「途中の車の運転などに注意して慌てないで来なさいよ」と伝えたくなる。もしその人が「仕事にも無責任」であったり、「制限速度を違反してこちらへ向かっている」としたら、「時間を守る」ことの意味は無いに等しいだろう。「愛情を持って信じる」とは、そういうことだろう。僕が大学学部卒業後に高校教員となった初任校でお世話になった先生から、「あなたは生徒らの側に立って物事を考えている」と言われたことが記憶にある。初任時などは所謂「舐められまい」として、「教師側の権力」を生徒らに押し付けがちだ。だが僕は自分が高校の時に「(権力を)押し付けられた」経験があったので「生徒の側」で物事を考えることが自然とできたのだろう。教師は何とも思わずとも、生徒側からすれば「深刻な大問題」であることも少なくない。詩歌など文学を「よむ(読む・詠む)」ということは、これと同じだろう。書き手・読み手の立場になれるかどうか?僕が「国語」を専攻し研究しようと思った大きな理由は、こんな要因が大きかったのだと今にして思うのである。

短歌は手紙
すでに見えない誰かにも届くコトバ
ある意味で教育現場の基本でもある。


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深いことを分かりやすくー俵万智さん宮日新聞連載「海のあお通信」

2021-06-29
19日開催「日本国語教育学会西日本集会宮崎大会」のこと
秀歌に選ばれた3首の魅力を誰にも分かりやすく
「短歌県みやざきの未来が、頼もしい。」と締め括る。

宮崎日日新聞毎月第4月曜日には俵万智さんの連載「海のあお通信」が掲載される。俵さんが宮崎に移住した年に始まったので、かれこれ丸5年が経過し60本ほどの話題が展開したことになる。今までも何度かいささかは僕自身に関連した話題もあったが、今回は主催した学会の内容について「短歌県の授業」と題して詳報を伝えるもので、誠にありがたいものであった。毎回思うことであるが、俵さんの文章の明快さは誰もが認めるところだろう。記事として要点を分かりやすく伝える表現は、何より肝心なことである。学会当日の対話そのものもそうであったが、対話する相手の話を的確に捉えて、実は奥深い勘所を簡単な言葉で誰しもが分かるように伝えてくる。書き言葉でも話し言葉でも、双方に癖も難解さもなく表現者としていかに長けているかをひしひしと感じるのである。我々など研究者は、往々にして難解で分からない言葉を平然と学生や一般の方々に投げてしまいやすい。自らの表現が分かりにくいことに自覚的でない研究者は、その研究そのものを問い直した方がよいように思う。

今回の「海のあお通信」に俵さんが書かれた当日のシンポジウムの対話内容は、多方面から概ね好評だというご意見をいただいている。それは実践発表をした各学校種の短歌の全てを俵さんにお読みいただき秀歌3首を選んでいただき、その内容を具体的に対話の俎上に挙げたからだろう。そこが他の学会シンポジウムにはない「具体性・個別性」のあった特長ともなった。短歌そのものも「観念的」で具体性を欠くものはよしとされないが、研究者のみが参画する学会シンポでは往々にして理論的な空転になってしまう残念なケースが少なくない。学校現場で創作学習を進めるにあたり、指導者はどのような短歌をどのように評価したらよいか?短歌を褒める観点も修正を求める切り口も、当日のシンポジウムでは「秀歌3首」を具体的に論じたことで断然分かりやすくなった。さらにここで、僕だけが書けることを密かに記しておこう。角川『短歌』最新号(21年7月号)には迢空賞受賞を記念した俵さんの「笑いたい夏」30首が掲載されている。その中には、このシンポジウムのリハーサル段階で発想を得た歌があるのだ。自らが接するあらゆる経験から、前向きに肯定的に取材して表現する姿勢。あらためて表現者・俵万智を身近に感じたことで、僕自身が大きく変わる契機を得たような気がしている。

「子どもらのそばに短歌があることの陽ざしの恵み、海からの風」
(「海のあお通信」掲載歌)
短歌に携わる者として、これ以上の幸せはない土地に僕は住んでいる。


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先生は多彩に夢を持とう

2021-06-28
かつて「学者・医者・易者・役者・達者」
いま実務に追われて趣味もできないなんて・・・
いや、宮崎には多彩な先生がいるのです

僕が大学受験を志していた頃、城山三郎の小説『今日は再び来たらず』を読むとある大手予備校に取材したもので、冒頭に記したような先生の条件として「五者」が記されていた。学問研究に長け(学者)、受験生を的確に診断し(医者)、その未来を占い(易者)、教材に登場する様々な人物を演じられ(役者)、何より受験は日々が勝負ゆえに休まないように身体が丈夫でなければならない(達者)という五条件が揃っている先生が理想だとあった。当時、僕自身が大変にお世話になったラジオ講座で全国的に有名な先生も、いつもこの五条件を念頭に講義をしていると常々語っていた。先生は多彩でなければならない、その時から僕自身もこれを信条に先生をして来たように思う。言い換えれば先生が夢を持つことである。ところが昨今の小中高の学校の現状は、実務的な忙しさばかりに追われて、なかなか先生が夢に向かって個性的な活動をしづらくなっているように思う。偏狭な料簡で先生の個性的な才能を感じさせることができない授業では、学ぶ側の豊かな心も育たないように思う。

劇団ゼロQリーディング公演・第9回みやざき岡田心平演劇賞戯曲部門受賞作品「風〜つるっとじゅわっと消せない想い」を観覧するために、照葉樹林の吊橋で有名な綾町まで出向いた。街の格式ある蕎麦屋さんの店舗を活用した舞台で同公演が開催された。劇団代表の前田晶子さんとも朗読関連で交流があり、彼女のラジオ番組に出演させてもらったこともある。また演出の永山智行さん(劇団こふく劇場主宰)とは、小学校への演劇・朗読アウトリーチで何度かご一緒したことがある関係だ。そして今回の公演の脚本を執筆した藤崎正二さんは、高校の先生として活躍しつつ市内で「ポエトリーリーディング(詩の朗読)」を毎月開き、牧水短歌甲子園に出場する高校生らを育て、自ら短歌甲子園の司会も務め、「詩のボクシング」を始め詩作などの文芸に多彩な才能を発揮している先生である。今回の「戯曲(脚本)」も高校の風景に取材し、高校生らがコロナ禍の現実の中でいかにコトバに向き合うかがリアルに描かれた秀作で前述した岡田心平賞を受賞した作品であった。みやざきの高校生たちが豊かな学びをするためにも、藤崎先生のような方の活動は実に貴重である。短歌を始めとする詩歌の創作をはじめ、朗読や演劇などの表現活動が連携してこそ豊かなコトバが活性化するみやざきになる。かつて高校の先生であった僕自身が、このみやざきではどんな夢を追うべきなのか?それを藤崎先生の姿を見ていて、あらためて考え直す契機となった公演であった。

出演する役者さんに僕の講義をかつて受講した学生さんも
教育学部での学びは多彩であるべきだろう
先生に夢がなくてどうして夢のある子どもたちを育てられるのであろうか?


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「かなしみ」のおくに出逢うために

2021-06-27
「かなしみ」とはどんな感情なのだろう?
「悲しみ」「哀しみ」「愛しみ」「美しみ」
「真の『かなしみ』に人は支えられている」

学生らに古典和歌の恋歌への批評を課題にすると、毎年のように「この歌はポジティブ(肯定的)」「この歌はネガティブ(否定的)」という二項対立の方法を前提に書いてあるものがあって、コメントに「?」を付けて返すことが多い。「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」(『古今和歌集仮名序』)とあるように、和歌は抒情詩であるゆえに人の本来は言葉にならない部分を言語芸術として表現して見せたものである。それゆえに「AかBか?」「○か✖️か?」という二者択一の思考で考える自体が、その本質から遠い「短時間」の中でわかったような「結論」をとりあえず指標的に導くようで、文学や芸術の理解からは程遠い方法であることがわかる。例えば冒頭に記したように、「かなしみ」と言えば「否定的」な感情が表現されているだけなのであろうか?若山牧水の名歌「白鳥は哀しからずや・・・」一首を例としても、「否定的」と決めつけては名歌の名歌たる所以は一向にわからなくなる。人の人たる感情は、機械的に語ってはその奥行きを知ることはできない。

再び若松英輔『種をまく人』(2018亜紀書房)から、大きな考える契機をもらった。「それぞれのかなしみ」「かなしみのちから」といった章には、詩的に「かなしみ」のおくまでを思考するヒントが満載である。「私たちが何かをうしなって悲しむのは、それを愛しいと感じているからであり、遅れてきた「愛しみ」の情感は、真に美しいものがすでに己れのかたわらに存在していたことを告げ知らせる、という経験が籠められているのだろう。」(同書P63)とされている。まさに「悲」→「哀」→「愛」→「美」というように”やまとことば”を漢字表記した際の多義的な重層性を思考する契機が示される。さらに「離別という悲痛の経験は、誰かと、真に出会うことがなければ生まれない。誰かを愛し、互いの人生に大きな変貌をもたらしたことのない者に別れはない。別れを感じた者は、己れの人生を誇りに感じてよいのだろう。」(同書P66)とも記されている。まさに「会うは別れの始めとか、サヨナラだけが人生だ」という詩的表現をあらためて反芻させられる批評の言葉である。「出会い」があれば必ず「別れ」があるという真理に、例外な人間はいない。それゆえに、「かなしき」存在である人間は恋し愛し合い人とつながり語り合うのである。一組みの恋人・夫婦からはじまるつながりが肩寄せ合う時間、誠の「愛しみ」と「美しみ」に溢れている。

「けっして消え去ることのない
 永遠の世界での新しき邂逅の幕開けではないだろうか。」(同書P66)
僕たちは永遠の時の中で生きていられるように”コトバ”を探し続けるのであろう。


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題詠「テープ」ー宮崎大学短歌会六月例会

2021-06-26
「セロテープ・ガムテープ・カセットテープ」
「つなぐ・はがす・はる・きる・ふれる」
世代間の差なども感じる批評が・・・

宮崎大学短歌会六月例会、題詠「テープ」出詠13首、出席者6名にて開催。互選票も割れて、題詠として多様なテープが詠まれたことが実感できた。果たしてあなたは「テープ」という語から何を連想するだろうか?一般的には「セロテープ・ガムテープ・ビニールテープ」などの日用品としてのテープだろうか。幼少の頃から様々な場面でお世話になっている代物だろうが、詠まれた用途は様々である。場所に印をつけるなどもあれば、ガムテープには引越しの香りが醸し出され、セロテープを絆創膏のように使用するなども。必然性と意外性の境目にどれだけの「テープ」の効用を発見できるかのような批評が続いた。また規制線のような「立入禁止のテープ」、「ゴールテープ」などの日用品でないテープも登場し彩りを増した歌会となった。

粘着用以外では、やはり「カセットテープ」が印象深い。Web音源・CDで音楽を聴くのが普通である現在の学生世代からすると、その存在自体が遺物ということになろうか。父が遺したものとか、カセットの劣化や巻きつきなどに取材した歌も見られた。そんな歌もあったせいか、なぜか「カセットテープ」には遺品のイメージが伴うという議論も。「四角い箱に声を納める」という行為がそのようなイメージ化の要因だろうか?再生機に挿入した際も、「蓋を閉める」という行為が必ず付き纏う。120分テープなど長いものは早送りの際など巻きつきやすく、あらかじめ鉛筆を穴に差し込み、テープの緩みをなくす作業などをしたことを個人的には思い出して、学生たちに伝えたりもした。最後に「ピンテープ」、小学校のギョウ虫検査で使用される製品名だが、調べると2016年以降はギョウ虫寄生率が低下したのに伴い廃止になったらしい。製品名はともかく学生たちもまだ経験者であったが、あの誰しもが経験した苦手な一品を取り上げる奇想はどう批評したらよいのだろう。

つなぐ・はなれる・しるしする
裂けたものをくっつける・境となる
「テープで貼り付けるような関係」???誠に人の世は難しい。




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言葉の奥の「コトバ」を見つける

2021-06-25
若松英輔著『種まく人』(2018 亜紀書房)
詩人が言葉に向き合ったエッセイ集に学ぶ
文学が社会に生きるためにも

先週末の学会講演を受けて、冒頭に記した書籍を読んでいる。2018年「詩歌文学館賞」を受賞した詩人のエッセイは、短歌にとっても学びとなり「私の心」を考えさせてくれる。「ジャンル」などという偏狭な枠組みにも支配されず、「言葉と心」を考えることは『古今和歌集』仮名序以来の永遠のテーマであろう。書名の『種まく人』とはミレーの描いた農夫の絵のことであるが、それは「彼は絵によって、文字を読めない人にも、この世の摂理とは何かを伝えようとしたのだった。」と同書P171に記されている。我々が芸術としての絵画を観るのも、また芸術としての音楽を聞くのも、「言葉」ではない方法で「この世の摂理」を伝えようとする営為を悟ろうとする行為だと考えることができる。「種をまくという原初的な労働の意味と、その行為に潜む美である。」(同書P170)ことを僕たちはミレーの絵から、各自各様な「心」を悟ることになるだろう。「言葉の領域を超えている。」ことを悟った時、僕らはやっと「言葉」に自覚的になれるのかもしれない。

人間はある意味で「言葉」で自覚し制御し行動をするものだ。朝起きて「眠い」という言葉で「我」の存在を確認し、「おしっこ」という言葉を心の中で呟き、トイレに向かう。生理現象のみならず、「今日は昨日と違う」ことを知るために僕などは「昨日」に考え感じたことを元に、小欄に「言葉」を記そうとする。そして自らの生活の随所に取材することで、「三十一文字」の韻律に適う言葉を探す。いや「生活の随所」はあくまで「契機」でしかなく「言葉」を声にして文字に記し、錯綜と混濁の果てにようやく「短歌の音楽」らしきものを見つけるということになろうか。「詩を書くとは、おもいを言葉にすることであるよりも、心の中にあって、ほとんど言葉になり得ないコトバにふれてみようとする試みなのではあるまいか。」(同書P45)実用的で表面的な「言葉」のみしか自覚しない生活には、真の豊かさや潤いは生じない。詩歌をはじめとする様々な芸術に触れることで、人は「言葉の奥にコトバがある」ことを自覚するのだと同書から大きな示唆を受けるのだ。社会が「言葉」のみしか相手にしなくなった時、我々の未来は荒んで枯れ尽くした平原になるだろう。ゆえに「国語」の学びの中で、いや「国語」という枠から離脱したっていい、「コトバ」に近づこうとする学びの場があらゆる人に提供される社会を目指さねばなるまい。

誰にでも見えるが、その奥にあるものに光を当てる
枯れ尽くした平原で身を削っていてはならない
けふもまた「言葉」を記し「コトバ」を探している。


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ワクチンのことなど考えて

2021-06-24
「接種」はあくまで個人の判断
「ねばならない」という同調圧力の空気は?
総合的に考えて自らのリスクはどうあるのかを考える

米国の状態を傍目から見ていると、ある意味で不思議でもあり、ある意味で必然的であるように思う。昨年の感染者数拡大のスケールも大きかったが、ワクチン接種の加速感とその後の日常回復への感覚が桁違いな感を覚える。既にMLBのボールパークは人数制限なく観客を収容しており、大谷翔平がホームラン競争に出場する来月のオールスターは、たぶんまったく「普通」の日常のボールパークにて行われることになるのだろう。さらに驚くべきは、ワクチン接種をした人は「マスク着用義務がない」ということ。飲食店も通常営業を再開し、確かめてはいないが「酒類販売」もまったく問題ないはずだ。米国の「日常」の感覚ならば、ボールパークでビールなどを飲まずに観戦するのはほぼほぼあり得ないことだ。このような米国だが、そのボールパークでの酒類販売にも州によるが厳格なルールがある。酒類を公共の場で買う場合、たとえ「お婆さん・お爺さん」でもID提示がなくては買えない。「自由」を尊重する国でこそ、厳格なルールがあることを考えさせられる。

米国のあり方を盲目的に良いとばかりは思わないが、国民が自らの意志を政治に反映させ、その意志があるゆえに「政府への信頼」が生まれる。やるとなればとことんやってくれる対応に対し、国民が様々な形で意志表示ができるということが肝要なのだろう。誰でもどこでも、地下鉄の駅やボールパーク来場者もワクチン接種ができるという機動力というかカジュアル感というか、日本にはない社会的な構造と力があるのだろう。その背景に、個々の意志の責任があるのは言うまでもない。かつて知人の登山家(日本人)と海外旅行に行った際に、食事前に「除菌シート」を僕が携帯し彼に渡そうとすると「俺はいらない」と頑なに拒否されたことが記憶に刻まれている。欧州の感覚に馴染んだ彼は、「瑣末な衛生」を確保しようとする「除菌シート」を感覚として拒否したということだろう。瑣末な規律や枠組みの中で行動が制約され、どこかで個々の「良心」など精神的な部分に依存し、「みんながやれば私も」という横並び主義に動かされ、その結果の同調圧力を社会に生じさせる。世界的に見てここまでワクチン接種が遅れた理由はなんだろう?家族や自らのワクチン接種と新型コロナへのリスク回避を考え、あくまで自らの意志を大切に判断しようかと思っている今日この頃である。

社会的な現象を捉える適切な眼を
ワクチン接種をしても感染対策は十分にすべき
どんな社会でどのように生きているか?新型コロナが教えてくれていること。


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韻律の身体化ー声が短歌を創っている

2021-06-23
牧水の母校・日向市坪谷小学校の朝の朗詠
朗詠のリズムで児童自らの短歌も創られていく
さて、大学生に短歌創作の課題を出すと・・・

先週末の研究学会の熱き対話が冷めやらぬうちに、あらためて「短歌は声で創る」ことが大切だと実感している。若山牧水の母校・日向市立坪谷小学校の習慣としての朝の朗詠、毎朝児童は登校すると玄関前で校長・教頭が出迎えて、ともに提示されている「牧水かるた100首」のうちから選ばれた短歌1首を独特の節回しで朗詠する。その姿は宮崎県内において、牧水祭や牧水賞授賞式で公に披露されることも多い。今回も俵万智さんが対話の中で、まだ東京在住の際に牧水賞を受賞し式典でその朗詠を聞いたら涙が止まらなくなり、その後の受賞者挨拶が大変であったというエピソードを披露してくれた。確かに僕も折に触れて児童の朗詠を聞くと、不思議と涙ぐんでしまうのでそれはなぜかと思っていた。素朴な児らがひとえに牧水の短歌を朗詠する生命感、学年を超えた児らがお互いを認め合うかのように個々の発達段階の声を発する共鳴感、もちろん朗詠されている牧水短歌の自然・故郷・家族との親和感などの要素が、声となって僕らの心の奥に届くというのが涙の要因であろうか。

このように朗詠が身体化している児童らの創る短歌は、「圧倒的な韻律感」があるというのが対話で話題となった。「読むは詠むこと」とよく短歌創作で云われるのだが、その「読む」「詠む」にはそれぞれ「声に出してよむ」という過程を忘れるべきではないということだ。坪谷小学校の児童らは「指折り数え」などしなくとも「五七五七七」の形式を刻むことができる。平安時代の資料では、まだ漢詩が中心で和歌が復興してきた時代に、宇多天皇が旅の途次で一行に和歌創作を求めたが、多くの人が和歌に慣れておらずその創作態度の稚拙さを「指折り数えた」と記してあるものがある。和歌短歌は「文字を置く」のではなく、「声で詠う」ものなのである。さて「日本の恋歌ー和歌短歌と歌謡曲」という全学部対象の基礎教育科目も10回目を迎え、課題に短歌創作を課す段階に入った。多様な大学生の受講者が提出する短歌はどうであるか?何よりも韻律感の欠如が気になってしまう。「五七五七七」の形式に載るならば字足らず字余りは問題にあらず、「四句」で途切れているとか、中には「五七五」の「俳句」を提出してくる者までもいる。少なくとも小中高時代に多少でも短歌を教科書で学んだはずであろうが、圧倒的な韻律感の無さに愕然とすることがある。発達段階が上がるにつれて失う「音声言語」の感覚、この日本語の豊かな響きを身のうちに持たずして、「国語」で何を学んだというのだろう?さらに機械的な「論理」などという看板に塗り固められようとしている「国語」、短歌朗詠に泣ける感性をせめて宮崎では継承していかねばなるまい。

やはり「音声化」の重要性を再認識
短歌は「文字」のみで味わってはわからない。
「聲」こそが「生命」であることを宮崎から発信したい。


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わたしたちはひとりじゃないー短歌と挨拶

2021-06-22
他人と道ですれ違う際に挨拶をするか?
講義で知っている学生に限らず挨拶を交わすか?
「わたし」も「あなた」も「ひとりじゃない」と思うために

いまこの文章を綴ろうとしたら、太陽が東側の窓から顔を覗かせた。敢えてブラインドを上げて太陽に「おはよう」と挨拶をすることから一日を始める。それは何も「太陽のため」であるわけでもなく、まずは地球のリズムの中で自らの身体に活動期であることを知らせる意味が大きい。この行為は一日を過ごしたのちに、就寝へと導くためにも大切であるらしく「身体の休息=良質の睡眠」に繋がるらしい。挨拶とは、巡り巡って自分にその恩恵が返ってくる重要なコミュニケーションなのだと考える一事例である。先週の日本国語教育学会西日本集会宮崎大会での広島大学・山元隆春氏の講演は、「詩歌学習というのは『わたしはひとりじゃない』ことを自覚する契機である」といった結論を導く内容であった。詳細は記さないが、詩歌を「よむ」ことで得られる「生命感」の発見における共感性と意外性を指摘したことになるだろう。和歌短歌では特に「挨拶歌」と呼ばれるものが伝統的にあり、旅の訪問や宴席の際にはコミニケーションの具として「歌をよむ」ことが少なくない。「詩歌は見知らぬあなたへの挨拶」であるといっても過言ではない。

小欄の文書を書き終えると、居住している街を高台にある公園までウォーキングするのが習慣である。その際に出会う町内の見知らぬ人にも、必ず挨拶をするようにしている。東京在住時には「そうしたくともできない」環境に置かれていたが、宮崎では「出会う人全員に挨拶」することができる。もちろん返してくれる見知らぬ人は100%ではないが、ほぼほぼ90%は挨拶が成立する。子どもらの場合、小学生はほとんど挨拶を返してくれるが、中学生・高校生になると挨拶をしなくなるのは「教室の音読」の活性化率と比例している。「本当の大人」にならないと、見知らぬ人への挨拶をするに至らないと言えるのかもしれない。また歩いていて人を追い越す際には少し会釈をするとか、刹那ではあるが小さなコミュニケーションはやがて自分に返ってくるはずだ。欧米に行った際に感じるのは、見知らぬ人のコミュ力の高さである。すれ違う・空間を共有する際には「笑顔」になるか、小さくとも「Hi!」と挨拶を多くの人がする慣習がある。書物で読んだことがあるが、それは「わたしはあなたの敵ではありません」という意志表示なのだと云う。米国などは特に差別や銃社会の問題も孕み、「わたしはあなたにとって安全です」という表示が求められるのであろう。などと諸々と考えて、町内に限らず挨拶の励行を心がける。大学内では見知らぬ先生・学生にも挨拶をしてみる。これまた東京の大学ではあり得ない返答率の高さがある。それだけに時折、東京的な態度を取られると気が滅入るのだろう。

太陽の生命感に「おはよう」
「生きとし生けるものいづれか歌をよまざりける」
短歌は、挨拶は、「わたしたちはひとりじゃない」と心をあたたかくするためにある。


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期限と解放のバランス

2021-06-21
「タイムプレッシャー法」が生み出すフロー状態
茂木健一郎氏のYouTube映像に気づかせられる
緩める日曜日でありたい

Twitterにて、茂木健一郎氏の「タイムプレッシャー法」の有効性を解説したYouTube動画があることを知り閲覧した。簡単に言うと「ゴール」の時間を敢えて設定することで、そこに至れば苦しみから解放されることを期待して脳がそこまでは活性化して働くということらしい。こうした状態がさらに活性化すると「フロー状態」を生み出し、負荷がかかっているにもかかわらず「幸福」を感じて「仕事」ができる域に至ると云う。スポーツのアスリートであればさらに「ゾーン」と呼ばれる状態になることがあるが、これは人生の上でも2〜3回しかない稀少な現象であると云う。試合などで「奇跡のプレー」などを我々が目の当たりにするのは、たぶん「ゾーン」の目撃ということになるのだろうか。僕なども日常からいくつもの「〆切」が与えられているが、それを意識して自らの中で「フロー」を目指すことが望まれるのだろう。小欄の文章作成にも、〆切時間が必要なのだ。毎朝、これをどの程度の時間で書いているか?お分かりだろうか。

思い返せば、大学受験の頃からこの方法を自ずと実践してきたように思う。単語学習は「15分」文章を読む内容が入る学習は量に応じて「30分」か「45分」で途中に5分か10分の休憩を必ず挿入し、その時間になれば「飲み物が飲める」とか「音楽が聞ける」とか自らに「ご褒美」を与える。朝の時間帯ならば「登校するまで」という必須な「ゴール」が設定されているので、「〆切」が絶対化される。この方法で高3の夏までは部活との両立、その後の半年で志望校合格という目標を達成できた。まさに日々に「フロー」状態を得て、「学習が楽しくなる」といった感覚であったように思う。何事もそうであるが緩急も重要、「飲み物」「音楽」などが脳の働きを緩めてくれることが次のフローを呼ぶような気がする。こうした意味では、休日には脳を休めることも大切だということだろう。〆切を決めずに欲望のままに「せねばならない」を作らない。学会開催後であったこともあるが、この日は思いつくままに過ごしてみた。また今週の「フロー」へ向けての「音楽」のごとくである。

小さな〆切・小さな達成感
何も考えずに思いの丈を話す時間なども
緩急の中で脳が活性化してくれますように。


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