「短歌県みやざきの授業実践」日本国語教育学会西日本集会宮崎大会
2021-06-20
短歌創作はどんな国語力を育むのか?指導者も学習者もともに「よむ」ことで発見し合う
身体化された韻律、多作することで日常となる
標記の大会をオンラインで主催した。申込者数概ね200名、「短歌創作学習」に焦点化したシンポジウム、そして広島大学の山元隆春先生の講演「発見の契機としての詩歌学習」という内容で約4時間のプログラム。オンライン機器や通信の大きなトラブルもなく、成功裏に大会を終えることができた。視聴いただいた全ての視聴者の方々と、この形式・内容の開催にご理解・ご協力いただいた多くの関係する先生方、学会事務局に対してあらためて感謝の意を表したい。これまでの西日本集会では終日の予定で「分科会」と「ワークショップ」か「公開授業」に「講演2本」などが通例であった。今回は「短歌創作で響き合う主体的対話的な深い学び」をテーマに掲げ、地元「みやざき」でこそ開催できる内容を精選した大会とした。参加した先生方からも「焦点が絞れてよかった」、「短歌だけのシンポジウムは珍しい」と言った讃辞をちょうだいし、「(45回を数える)西日本集会の本来の姿」ではないかという原点回帰への評価もいただく結果となった。
実践報告は各学校種から1本ずつ計3本、県立宮崎海洋高等学校の「長期乗船実習」に取材した短歌創作授業。宮崎大学教育学部附属中学校の「立志式」という学校行事と連携しキャリア教育も意図した短歌創作による決意表明。そして若山牧水の母校・日向市立坪谷小学校の朗詠を基盤に据えた短歌創作活動の実践・以上のような内容で各20分の発表の後、宮崎在住の俵万智さんを交えてその実践内容や短歌への批評を中心にした対話を展開した。乗船実習という素材を短歌にするまでの工夫、ワークシートなどの綿密さが導く部分もあるが、短歌を難しい「お勉強」のようにはしない方が良いという考え方も。「決意表明」は往々にして標語のような観念的な短歌になりがちだが、具体的な日常の光景を決意の具体として表現することができるか?正岡子規の歌を教材とする中で「病が苦しい」と詠むのではなく、「庭の具体的な植物を詠むことで自らの生命を対置する思いが読める」という読みを応用すれば、短歌創作への見方が育てられるという俵さんの卓見は大きな収穫であった。また毎日登校時に学校玄関で朗詠を続ける坪谷小学校の児童たちの身体化された圧倒的な韻律感と、多作をしていることの効用には大きな注目が集まった。総評として「歌は響き合うもの」ということが挙げられようか。学習者と指導者が分け隔てなく日常生活を丁寧に過ごし、言葉に敏感になり臆せず三十一文字に表現する。そこに生ずる「生命の響き合い」によって、「自分は一人ではない」と実感できる文芸であることを再認識したシンポジウムとなった。
短歌に偏見を持たず生きた言語活動として欠かせない要素を引き出そう
「できない」のではなく「表現しない」だけ。
短歌を創れば今日から生き方が変わるはずだ。
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役立つ役立たないを超えて価値はある
2021-06-19
入試にないから要らない???学ぶ時に「役立つか?」などわからない
人生を生き抜くためにあらゆるものが・・・
中学校教員をやっている卒業生から連絡があって、「短歌の授業をしますが、その工夫について教えて欲しい」と言った趣旨が記されていた。それを見たとき感じたのは、学生時代に講義においてもゼミにおいても「工夫」の要点は教えていたはずだということ。もちろん当人は卒論で「小説教材の読解法」について研究したので直接的に「短歌でない」のは確かである。だが同級生で「短歌学習」を卒論にした者がいたことだし、いくらでも学びの機会はあったのではないかなどということを指導教員として考えた。この当人だけの問題ではないが、人は自らが実行する当事者にならないと、学びの価値に気づかないことが多いものだ。学部生にも日頃の講義でその価値を話しているつもりだが、いざ教育実習で自らが身につまされないと目の色が変わらないのが一般的である。あれもこれもと吸収しようとする貪欲さを持った学生は、昨今では稀なのかもしれない。
いつからだろうか?学びの価値を「役立つ?役立たない?」で判断する人が増えたのは。入試の偏差値偏重教育が問題となって久しいが、その偏狭な学力観は「共通テスト」ぐらいの改革では改善される兆しも見えそうにない。高等学校の授業内容は「入試対策化」してしまい、「予備校」なのか「高等学校」なのかもわからなくなってしまう。「国語」では「話すこと 聞くこと」を含めて総合的な言語・思考・表現・伝達などの力をつけるべきだが、「入試的な試験」で高得点を取る「対策」のみが高等学校の学びだと勘違いされている。「漢文」などに至っては「入試において要らない」となると「国語」の学びから外されてしまうという感覚を、生徒のみならず高校教員までもが持つ有り様だ。漢語の受容と言語的な融合、訓読という方法による日本語の音韻・音律的な要素の獲得、明晰な論理を文章で誤解なく伝える漢文体の論理性などは、「日本語」の運用においても不可欠な学びである。「短歌」についても「やまとことば」の歴史的な展開を考えれば必須な学びであり、何も「創作者の特別な文芸」であるわけではない。件の卒業生には、本日(6月19日)に主催する「日本国語教育学会西日本集会宮崎大会」をオンラインで視聴することを勧めた。「短歌」が「国語」の学びとしてどれほどに活かされるか?その価値をあらためて多くの現場の方々に知ってもらう機会でもある。
学びは利害関係にあらず
あらゆることを当事者意識を持って
学べる時に学ばずしていかに生きるというのか。
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仕事の雨に傘はさせない
2021-06-18
今は降っていないと家を出るといつしかポツポツと雨に濡れることも
どう整理しどう捌いていくか
南九州は梅雨入りが早かったせいで、もう慣れた感はあるが湿度の多い日々は辛い。1日1万歩を最低限の目標にしているが、自ずと六月は目標達成をしない日もありがちだ。雨雲を見上げながら「この程度なら」と、多少の雨なら朝も近所の公園までは歩きたい。エンジンであれば「アイドリング」、身体を覚醒させる朝の3000歩程度が貴重だ。大学まで歩いて行けば、それでもう5000歩程度、まだ午前9時になる前に目標の半分を達成するように「先行」するのは独りで優位に立った気分にさせてくれる。それでも時折、歩いてしまって失敗したと思うことがないわけではない。Gore-Tex(ゴアテックス*防水性の高い靴の素材)を使用した靴、やや大きめの傘など防御にも用意周到なのだが、南九州の雨は時に強引に暴れることがある。衣服や背中のバッグの濡れ具合を気にしつつも、邁進する自らの姿が象徴的に思える時もある。雨と同様な要素を持って「仕事が降ってくる」と感じてしまうことがあるからだ。
実行委員長を務める「日本国語教育学会西日本集会宮崎大会オンライン」開催が、週末に控えて大詰めの作業・調整・連絡が進行中。実行委員会の先生方のご協力もあって、何とか順調な開催へ目処が立った。視聴申込数もほぼ200人と最低限の目標は超えた感がある。これと同時進行で「国文祭・芸文祭2020みやざき」の大学附属図書館連携企画の運営が進む。来月に向けて諸条件の整備が急務である。附属図書館関係では、九州地区の国立諸大学と連携する部会の長も輪番で仰せつかっており、関連した諸連絡のメールが多数届けられる。さらにこのタイミングでオムニバス講義が2つ追加され、前期の後半は授業コマ数が増加する。自ずと授業準備や学生課題へコメントする作業が増量する。そして研究分野では、母校文学部の研究誌の委員をしており、この日もその仕事に関する内容がメールで届いた。母校の先輩とそのやりとりを通じて、学部の仕事に関しての大変さを語り合うことで少しは癒されたりもしたのだが。どうやら仕事の雨には、傘もさせない梅雨時のようだ。
帰宅して夜にはありがたいお電話が
新刊予定の著書原稿に対する助言をいただき
ずぶ濡れでも生きる芯を支えていただいているありがたさに救われる。
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監視・管理は豊かな創発を生み出さない
2021-06-17
「授業」における監視・管理は仕方ないのか?抑制された身体・思考での音読・感想文・文法
この国の「豊かさ」を取り戻すためには・・・
「国語」授業で嫌だったことを学生らに問うと、「音読・感想文・古典文法(暗記)」などが挙げ列ねられる。しかしよくよく考えてみると、やり方次第で豊かに実践できる内容ばかりである。創造的な「音読」、創発的な「感想文」、読解の欲求を得たのちの「(活用できる)文法学習」とすれば、学習者はかなり主体的に学びは豊かになるはずだ。それがわかっていながら、なぜ学校の「授業」は創発的にならないのだろう?考えるにそれは「監視・管理・一律・一斉」などを旨とする集団教授の幻想から、授業者が抜け出せないからではないか。「集団」を監視・管理することが重要であり、個々の思考や多様性が踏み躙られる。「自由」をひとたび与えてしまうと「収拾がつかなくなる」と考えて、授業者が「管理」できる範囲に押し込めておくので創発的な要素まで萎縮させてしまう。「先生」の考えに「反する」のを嫌い、「先生」の個の考え方を「正解」として押し付け、隷属的な支配をすることで「授業(あるいは学級)」をまとめた”ように”見せかけるために権威的になる。「音読・感想文・文法」はこうした構造で押し付けられる。
内田樹氏がTwitterに「人は管理されていない方があらゆる領域で創発的になる。」と記していた。そして現在の「日本の没落」こそが「監視と管理を最優先する政治」だからであると云うのだ。「1966年から70年の日本は大学は全共闘運動でカオス状態」であるとして、多様性のある社会こそが「平均10.9%という驚異的な成長率を記録」したのだと続ける。「昭和がよかった」という時にそれは単純な懐古的な発想ではなく、混沌とした多様性と自由を求める市民の主体性があってこそ、むしろ権力側を監視することができて均衡が取れた力のある創発社会であったということだろう。若者に活力があるのも主体性があり政治に関心が深いのも、混沌とした多様社会で自由に泳げる豊かさがあるからなのだ。標語の上では「多様性」を求めながら、むしろ監視・管理を強める社会こそが、若者の活力を去勢し本来は底知れぬ力を表面化させず内に籠らせてしまう。その結果、周囲が「思いもよらなかった」とする事件などとして暴発してしまう。創発への豊かなアプローチができない若者を批判する前に、こんな監視・管理社会を作っていることを恥ずべきだろう。
内田樹氏の「予言しますけど・・・
日本の没落は終わりませんよ。」
身近な講義をまずは創発的にするために力を尽くそう。
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課外単位「恋愛」必修科目
2021-06-16
若き日に自らを否定される経験を「お勉強」だけで人は成長しない
色恋沙汰の効用を考える
前期も中盤折り返しを過ぎ、講義も終盤へ向けて変化が欲しい頃となった。全学部生が対象の「日本の恋歌ー和歌短歌と歌謡曲」では、短歌の創作主体に手紙を書いたり、恋歌に啓発されて自分自身へ向けて手紙を書くなどの課題から、短歌創作をしてその物語を添えるという内容として佳境への道を歩む。この講義を担当していて思うのは、単に言葉の力や文章作成能力など「お勉強」としての学びと同時に、個々の学生が人生で恋愛をどう考えるか?という大きなテーマ性が大切だということだ。現状のこの国の若者の特徴として、「恋愛忌避・晩婚化」の問題は極めて深刻であると考えるゆえである。「傷つきたくない」という保身への思いが先行する背景に、誤った過度な「批判社会」という構図も見逃せない。実習や就職後3年以内の環境に耐えられず、離脱する若者が目立つというのも、こうした心性に起因するのだろう。正面から真っ向な否定を受けることで「傷つく」ことが、心の筋トレとなって逞しく生きられる可能性があることを知るべきだ。
当該科目の学生課題を読んでいると、ついつい自らの学生時代の恋愛を思い出すことが多い。まさに正面から否定されたり、理不尽にも否定された苦い経験、それとともに「こうしておけばよかった」という取り返しようのない後悔が記憶の襞を刺激する。だがその「傷ついた」経験があればこそ、社交性も気遣いも衣類のセンスも優しさも身につけられたのではないかと思う。その「別れてとおきさまざまな人」のうちにはもちろん「逃げた」経験もない訳ではない。そのような意味ではもっともっと「恋愛」を若いうちに勉強しておいた方がよかったという思いが、どうしても心のどこかで蠢いている。そう!「恋愛」こそが「課外必修単位」なのではないか、という思いを強くするのである。そこで試されるのは理屈の課題レポートではない、相手の心と向き合って真に伝わる言葉を学ぶ貴重な機会となる。古代にあった「歌垣」の場もしかり、欧米の高校卒業時の社会的風習など、「恋愛」を促進する社会的な装置がやはり必要なのではないか?「批判」ばかりとか「保身」のみでは生きられない現実が、突きつけられる体験を味わうのが若者にとって必須であろう。
「面影につと現れて去る人のかくあまた人われに住めるか」
(窪田章一郎『六月の海』より)
短歌でも音楽でも「恋歌」から多くを学びたい。
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悪者扱いしないでおくれー酒と発声の叫び
2021-06-15
「酒類販売禁止」の効果は?飛沫だと言って歌うこと、朗読すること、なども
悪者にでっち上げられていい迷惑なものたち
TV映像で知る限り東京の人出は、「緊急事態宣言」という方策を益々「無力化」しているように見える。駅前スクランブル交差点には人が溢れ、感染者数が減っ来たと言っても「下げ止まり」傾向が否めない。その裏で「酒類販売」をする店舗は休業を余儀なくされ、もうかなりの期間が経過している。専門家によれば問題は「人流の多さ」であることは世界のどこでも明らかなはずだが、飲食店や「酒」を「悪者扱い」することで対策を取っているかのように見せている。これはどうも、この列島に長い間に根付いてしまった「見せしめ」を作り出し同調圧力で根拠なき安心を偽装する方法に類似するように思えてならない。報道に拠れば駅周辺とか公園での「外飲み」をする者が大量に現れて、結局は酒類販売店舗で安全に飲んだ方がましだという状況も後を絶たないようだ。〈教室〉の中で「いじめられっ子」を作り出し、その他大勢が安閑と優位な位置を姑息に占める悪辣な構造と似ているように思えてならない。
大学では対面講義が続くが、最初に「こんにちは!」と言った時の学生の反応には躊躇がある。どちらかというと溌剌と挨拶を交わしたい性分だが、それを学生らに求めるのがままならなくなった。座席は周囲と間隔を空けて指定しており、窓は開放したままプロジェクターを投影するスクリーンが揺れたとしても、通気が良い環境で講義を進めている。さらには学生ら同士で対話をする時間の設定には、悩むことが多い。「対面」であるからには、受講者が他の者と意見を交換してその内容から気づくという学びこそが昨今は求められている。オンラインでも「個室」を制作して話し合う活動は重視していた。せっかく感染対策を取って「対面」を叶えていても、オンラインと同じ内容しかできないのは、講義の質としていかがなものかという問題意識を持っている。特に僕の場合は、研究分野の一つでもある「音声表現」のための「音読」がカラオケならぬ「悪者扱い」されている訳だ。学生の座席からはかなり離れ、アクリル板が設置された教卓の後ろ側から恐る恐るマスクの下から「音読・朗読」をしている。学生にはマスクの下で唇を動かすだけでもいい、家に帰って一人になったら必ず「音読」の練習はしておいてと促す。果たして「発声」そのものがそんなに悪いのか?という疑義を持ちながらの講義は続く。
「あ〜わかってくれとは言わないが
そんなに俺が悪いのか・・・」(チェッカーズ『ギザギザハートの子守歌』)
所謂「腐ったミカンの方程式」社会が今も続いている。
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ことばの精度に敏感たれー第358回心の花宮崎歌会
2021-06-14
比喩をいかに読むのか?動詞の微妙な違いへの繊細な意識
五七五七七のどこにどのように語を置くか?
先月は県独自の緊急事態宣言もあり開催できなかった定例歌会であったが、今月は県内の感染者数も落ち着き中央公民館で開催することができた。会場の隣は宮崎市のワクチン集団接種会場である中央体育館、特設されたタクシー降車場や看板類が目に止まり時勢を感じさせた。出詠44首、選者を伊藤一彦先生・俵万智さん・長嶺元久さんとして、事前投票の結果が一覧とされ会員は投票した歌に対して評を述べるという形式で時短を意識して会が進行した。2時間で44首の評を終えるには今のところこの方法が最善かと思う。本来ならば投票歌以外にも会員の意見が多く述べられて、議論が活性化するのが本望であろうがしばらくは様子見といったところか。司会を仰せつかり、手際よく先に進めることに尽力した。以下、個人的に歌評の中で覚え書きとしておきたい点を記す。
・【比喩の読み】
比喩として提示された表現をいかに読むか?もちろん読者ごとにそれぞれの「読み」が平等に認められるべきと思うが、それだけに歌会での多様な捉え方に耳を深く傾ける必要がある。例えば「風のような」とある時に、今現在自ら読んでいる書物などに左右される自己を発見した。「比喩」そのものが流動性あるものなのかもしれない。ゆえに愉しいのだ。さらには「オノマトペ」に諷諭的な意味を取る解釈が為され脱帽。
・【語句選択の精度】
動詞などで類似したものがある際に、どれほどの精度で使用するかにこだわるべきという貴重な学びを得た。日常生活でもどれほどの精度で語句を使用しているのか?常に繊細に意識すべきと痛感した。そこにはあくまで何も知らない人に「伝える」という深い意識が垣間見えた。当然だと思って使用した語句に疑いを持ってみよう。
・【三十一文字のどこに置くか】
あらためて三十一文字のどこにどのように語句を配するかは、大変に重要なことだと学ぶ。個々の「文体」という個性とともに、いかなる順番で歌を演出するかという意識を推敲時に持つべきだろう。素材の焦点化を含めて三十一文字という舞台の見せ方は、実に多様な操り方ができるはずである。
新語を使用した歌なども
やはりライブ感ある歌会の妙味
さらに深く語り合え、そして懇親会ができるのはいつの日か。
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「今」だけが変えられるー「心のタイムマシン」
2021-06-13
「今」しなかったことは「過去」となり「やった未来」となるか「やらない未来」になるか
「思ったその時」しか生きられない人間
幼少の頃から「時間が制御できたなら」といつも思っていた。アニメ類ではそれが「21世紀には叶う」と想定されて夢の道具として憧れとなっていた。ドラえもんの「のび太の引き出し(タイムマシン化している)」「どこでもドア」はその典型的な「道具」である。「スーパージェッター」という未来の国からやってきたヒーローは、自らが装着するスマートウォッチのようなもので「時間を30秒だけ止められる」というもので、事件の要所でその機能を使用し人々を救うという物語であった。「ルパン三世」の初代TV版は高畑勲も制作に加わっていた名作だが、そこでも「まもうきょうすけ」というタイムマシンを操る敵が現れ、ルパンの先祖を「殺し」に行こうとする計画を見事にルパンは阻止するという物語が痛快だった。挙げればきりがないほど「時間制御」は、虚構の中で「夢」として語られていた。
1970年代のアニメにとって21世紀は「夢の未来」であった。しかしもちろん、そこで想像されたロボットは現実化しておらず、「時間制御」もできるはずもない世紀が進む。たぶん、スマホで便利に情報を取得できたり、遠距離の人とも顔を見ながら会話ができるという「実現した未来」が大きく「時間制御」に貢献しているのは確かだろう。しかし、未だに行動をしなければ「後悔」が残り「未来」が開けて行くことはない。「後悔」をしたからといって、その「過去」に戻ってやり直すことはできないのだ。だが20世紀でも21世紀でも同じなのは、「今」を変えていけば「未来」が変わるということ。もしかすると「今」を前向きに更新していけば、「過去」は変わるかもしれないこと。つまり人は、時間や社会との関係性の中でしか生きられない。「今」に夢中になったり、「今」が輝いていれば、過去への拘りは無くなるということだろう。こうした意味では、いつの時代でも僕らは「心のタイムマシン」を持っていることになる。
身体を休める「今」
「しなかった後悔よりした後悔」
さあ!「今」だけを生きていこう!
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空(ゼロ)の発見ー創発読書会Vol7
2021-06-12
車輪が回転するのは中心に「空」な部分があるから「無為」にこそ大きな力が宿っている
端役が人と人とを繋ぎ社会が動く
朝から講義の準備、国文祭・芸文祭みやざき2020の附属図書館連携企画の打ち合わせ、講義、学部内での打ち合わせ、と隙間のない1日を過ごす。その隙間時間には、メール返信など「やるべきこと」は絶えない。常に「走ってる」ような状態であり、「自己」という「車輪」はどのように回っているものかと思う。「回転」し続ければ摩擦が生じ、やがて熱を帯び摩滅していくことになるのだろうか?『老子』に「三十輻一轂を共にす」のことばがある。『故事俗言ことわざ大辞典』によれば、「車輪は三〇本の矢が一つの轂(こしき)に集まり、轂は中心に穴があり、空であることによって回転できることをいう」とある。物事が回るためには実は「空(ゼロ)」なる部分が何よりも重要であり、目に見える「三十輻」はその車輪全体の均衡を相互に支えているということになる。生きる上でも「空」の時間を持たないと、うまく回っていくことはできないということになるだろう。
『老子』の話題は創発読書会で議論して再考したものだ。夕刻からオンラインで開催された読書会に参加して、ようやく「自己」を「空」にすることができたように思った。引き続き、河合隼雄『神話と日本人の心』を読んでいるが、「中空均衡構造」に関する記述の続きである。日本の場合は欧米に比べて、「調整」を旨とする長が組織の上に立つことが多いというのも興味が惹かれた。欧米からすると「長」には適さない人物が、なぜか「長」たる位置に座ることが少なくない。「調整」ならばまだ良心的な物言いだが、ここ最近は「忖度」にすっかり変化してしまった。リーダーシップなき新型コロナ感染対応を我々は目の当たりにして欧米諸国を羨みながらも、変質し歪んでしまった「中空」に身を委ねるしかない混濁の中にいる。明治以降の西洋文化の摂取・受容への前向きな姿勢の賞味期限も切れ、世界でも有数の経済大国であるという「過去の夢」だけを抱え込みながら、均衡なき歪んだ「車輪」がギクシャクしながら新型コロナの「悪路」を激しく揺れながら走っているのだ。そこに「TOKYO2020」という荷物を過剰積載を承知の上で、同じ「忖度」構造の中で車輪の上に載せようとしている。「歪み」ならばまだよいが、「三十輻」が折れ始め最後には「轂」の「空」を喪失した時、回転しない車輪になりはしないか?などと最悪の想定も考えておかねばならないのだろうか。
「空(ゼロ)」の存在を発見すること
「自然」の摂理に通ずる動きを歪めてはならない
せめて読書会の議論で意識化し、僕ら自身が均衡ある健全な「空」を保つべきか。
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和歌・短歌への偏見を解くために
2021-06-11
学校の先生が抱く「和歌・短歌」観「必要感がない」「ハードルが高い」「系統性がない」
散文至上主義という近現代の偏見のうちに
例えば、高等学校の古典の授業を考えてみよう。「物語・日記」などの散文に比べると「和歌」単元はどうしても後回しにされる傾向が一般的である。「入試には単独で出題されない」などの生徒の実利的な理由を前面に出しながら、実は教師が「和歌を扱いにくい」というあたりが大きな理由のように思う。教員免許状更新講習などで講座を立てると、「読解力」とか「音読・朗読」などを標榜すれば多くの受講者を集めてきたが、「和歌・短歌」とすると自ずと”客足”は鈍る印象がある。どうやら「学んでみたいが優先順位は低い」というのが多くの教員の実情らしい。少なくとも「小説」が文学の中核となったのは明治以降であるだろうし、文学の起源を考えれば口承性や音韻に富んだ歌謡的なものを想定するのが妥当であろう。また研究者の中にも「学生に和歌・短歌」を創作させるのは「ハードルが高い」と考えている人が少なからずいて、以前に学会で「どんな点からハードルが高いと思うのか?」と疑問を呈したこともある。
「偏見」を『日本大百科全書』で繰ると、「客観的な事実の裏づけや合理的根拠が認められないのに人が示す非好意的な偏った態度」とある。また「偏見は、その対象との直接的な接触の経験に基づいて形成されるというより、しばしば自分の所属する社会集団内に存続しており、多くの人々に共有されているものが、年少の頃からの大人とのコミュニケーションを通して学習されることが多い。」ともある。いわば「教師」という「集団内」において「和歌・短歌」に対する「偏見」が形成され、先輩教師が後輩とコミュニケーションをすることで負の連鎖が止まらないのが現実ではないかと思う。研究者を見回すともちろん「文学研究者」であれば、「和歌文学会」に一定の会員が存続しているように「和歌・短歌」研究者は一定の数はいる。だが、「国語教育」の研究者で「和歌・短歌」のみを対象とする人はほとんど皆無である。かく言う僕も「音読・朗読研究」を対象にしている側面もあり、「和歌短歌学習」が全てではない。要するに小中高校の「偏見」を解く存在が非常に稀少であると言わざるを得ない。ならば「短歌県日本一」を目指す宮崎から「和歌・短歌」学習が誰でもし楽しめる豊かな学習であることを、どんな抵抗を超えても訴えて行くべきと決意を新たにするのである。
教職大学院の講義で学んだこと
大学の研究者がより小中高校教師と連携すること
日常的に豊かな言語生活を目指すためにも。
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