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時間量より密度が肝心

2021-05-06
時間を刻む
15分・30分・60分・90分
それぞれの単位で何ができるのか・・・

1日が充実したと思えるのは、まさに「実が充つる」と字のごとく時間単位の密度が高かった日である。物事は決して長い時間を要すれば充実するわけではなく、刻まれた時間をどう活かすかが大切であるだろう。例えば、小欄を朝に書く時間にどれほどを要するか?ただただ、ダラダラと考えていては無駄に長くなってしまう。一定時間を区切り、その刻まれた時間内でこなすことが肝要である。「筋トレ」などを永遠にやるのではなく、効果的な回数と時間を決めて実施するから効果的であるのと同じだ。その結果、一定の時間内に一定量の文章が書ける「筋力」が身についてくる。実務的な文章を含めて、「書きたくない」ものがないわけではないが、「書けない」ということはほぼほぼあり得ない。小欄が脳トレになっている所以である。

小さな「ゴール」を決める、これが「密度の高い時間」とするためのコツである。時間の刻み方は「15分」を一単位としてその倍数。2倍・3倍・4倍と考えて、その内でも「15分」の刻みを意識する。講義でも聞く立場を考えれば、ダラダラと長い説明を喋り続けるのはよくない。「ちびまる子ちゃんの一話分」とよく言うのだが、そこで「CM」らしき小休止を挟みギアチェンジするのである。自分の作業の際は、構えないとできないのではなく、すぐに「トップギア」で走る。「あと15分が何セットできるか?」を考えて、挿し込み時間を有効に使う。この「即座にトップギア」は筋肉だと肉離れなどの可能性があるが、脳はその心配もないとある脳科学者も推奨していた。小欄こそが「早朝トップギア」のトレーニングなのである。

などと考えて文章ができた
長年で培った文章作成の作法
このように自ら書くことでまた自覚を高める効果もある。


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まわり道より道もいいじゃない

2021-05-05
まっすぐ目標に向かう生き方もあれば
まわり道より道をする生き方もある
旅は観光名所のみを見るべきにあらず

巣籠もり2度目のGW、仕事から離れて自由に原稿を書いていることがただただ幸せ。こうして毎朝、小欄を書くことは文章を書く「筋トレ」のように作用し、だいぶ充実した筋肉がついた気がする。さらにまとまった原稿を書くことで、文章で表現する楽しさ・面白さに無条件に出逢っている。確か高校生の頃だ、マラソンなどスポーツの大会がテレビ中継されるのを観て、そこで感じたことを原稿用紙に書くのが楽しかった。全国的なYゼミナールの「小論文模試」にて、「全国ランキング3位」になってさらに自信をつけた。どこかで「物を書く」ということが生業になればと感じていた。その結果、教育学部(教員養成)と文学部とを迷って、後者に進学することになった。そのまま、「物書き」またはスポーツアナか記者という夢も思い描いたが、やはり「教師」になりたくなった。「物を書く」と同時に、人に語るのがどうしても好きだという習性に気づいたからだ。

現在はすっかり旅に出るなどいつのことか?という世情だが、観光名所ばかり巡る旅は面白みがない。他愛もない裏路地で名も知らぬレストランに入り、手作りの料理を味わい他愛もない人と呑み交わす。そんな旅こそが、人生に必要だと思うことがある。僕自身の人生も旅だとするならば、すべて順風満帆に航海してきたわけじゃない。研究者・物書きを目指しつつも、教育現場で生徒らと時間を過ごすことに魅せられ中高教員になった。現場の楽しさが、しばし「研究」や「著述」を僕から遠ざけた。しかし、果たして「自分」とは何がしたいのか?を問うようになり半ば強引に教職に身を置きつつ大学院修士に入学した。まっすぐに目標に向かった同級生が次々と大学教員になる中、院生として研究発表をくり返し論文を書く日々。次第に短大の縮小化や「国文学科」の極端な減少から、大学教員としての就職口が狭められた。だがしかし、難破しそうな航海にも必ず風は吹くものだ。「教員経験」の実務がある研究者こそが、教員養成学部で求められるようになった。よって宮崎への移住というのは、僕のまわり道より道をいいじゃないと言ってくれるありがたき好機となったわけである。

野球で言えば中盤からの大逆転
人生はいくらでもやり直しができる
まわり道より道の経験をこそ活かした人間味のある仕事がしたい。


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医療で信頼すべきものは何か?

2021-05-04
止まるところを知らない感染拡大
ワクチンの効果や副作用などの判断は?
薬事承認とか医師の適切な判断とか・・・

幼少の頃に発熱した折のことだ、普段は行かない家から少し遠目の医院に連れて行かれ、腿の裏側に強烈な痛みを伴う注射をされた記憶がある。何歳の頃だったかは覚えていないが、そのあまりの痛さを鮮明に記憶している。たぶん2回はその医院で行われた「痛みの記憶」は、その後も身体から離れず今に至る。しばらくはその医院のある方面に買物に行くのも嫌な感覚を持っていた。しばらく時間が経って小学校中学年も過ぎた頃、足への注射による「大腿四頭筋短縮症」が社会問題化するニュースを知った。あの「痛み」の記憶こそが筋肉注射で、全国で副作用が問題化していたというわけである。しばらくは自分の足の筋肉を憂えたりもしたが、その頃から足が速くなったこともあり、自分はその症例には当たらないだろうと祈り願い思い込むようにしていた。その結果、祈りと願いは通じた。

医師をいかに選ぶか、医師をいかに信頼するか、昭和の時代はそんなことも誠に曖昧だった気がする。医師は正確で適切な情報を開示もせず、どんな処置をしてどんな副作用があるかの説明もなかった。僕の母の世代だと「医師に説明を求めたらよい」と言うと、「医師に文句を付けるようで、その後の診療がきちんと為されなくなる」などと憂えて、ただただ医師の為すがままであることが、自分が大人になって来て大変に気になった。もちろん「医師への信頼」は大切であるが、それだけに適切な治療方針や副作用の可能性等の説明が必ず求められるように思う。以上のような経験から、今回の新型コロナワクチン接種についても、どれだけ信頼をしてよいものか?という不安が簡単には払拭できない。情報はほとんどが報道頼りで、自らWebなどで情報を仕入れるしかない。こんな時こそ係り付けの医師があれば、と強く思う今日この頃である。

薬事規制当局の承認がどれほどのものか
そして個々の医師の意識や判断の差異は
イスラエル・米国・英国などワクチン接種が進む国はどうなのだろう?


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都市集中地方波及の理屈

2021-05-03
「新型コロナ」の全国感染状況地図
都市部の感染拡大が次第に地方へと波及する
その渦中でいかに地方が生きるかが問われる

大都市部へ緊急事態宣言が発出されているが、感染者数というのは直近2週間の状況ゆえに更なる感染拡大に見舞われているような思いを致す。また感染者が次第に地方へも波及しており、宮崎県でもクラスターなどのニュースが毎日のように聞かれるようになってしまった。北海道の感染者は過去最高となり、九州でも福岡県の感染者は厳しい数字が出ている。要は札幌と博多という地方都市繁華街を持つ街は、大都市部と同等に感染が拡大している。こうした構造は既に一年前から見てきたものだが、毎回毎回同じ轍を踏むことをくり返しており、一向に対策が為されていない印象を受ける。「大都市部」と「人の移動」概ね素人でもこの二つの要素が感染を拡大させていることはわかるのだが、「経済対策」への中途半端な思惑が、さらに経済を圧迫している構図ではないか。

もはや仔細な感染経路の特定などは報道すらされなくなったが、今でも昨年の初期と同じような対策でしか動かず、検査拡大などの措置は民間レベルでは見掛けるが、大規模な官主導の体制が整うことはない。ワクチン接種の地方自治体任せのチグハグさを尻目に、新型コロナウイルスは自らの生存のために変異という名の進化をくり返している。中には山梨や鳥取のように県単位での徹底した対策が功を奏しているところもあり、地方自治体のあり方そのものも炙り出している。建前の選挙活動よりもあらゆる政治の力は、今が一番見やすい状況にあるのかもしれない。宮崎県の場合は「観光」も大きな県の経済的政策であるゆえ、都市部からの観光客の流れには多様な思惑を持たざるを得ない。新年早々の感染拡大という経験があるゆえ、今回もその兆候があるとして県独自の対策に乗り出した。過去に東京に住んでいただけに考える様々なこと、あらためて生活に「都市的要素」は要らないことを本気で主張すべきと思う。

移住者の増加傾向とか
手がまったく付けられない東京大阪一極集中社会の破綻
あれだけ「地方創生」と言っていたじゃないか。


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令和になって丸二年

2021-05-02
風薫る五月
令和改元の日が忘れられぬ
あの日の気持ちを大切に歩む

五月へ暦をめくると、何か新しいことがあるような気がした。ちょうど「令和」へ改元されて丸2年、その日からの歩みを思いつつ新しい明日を夢見るような心境である。信念として「思い続けたことは必ず現実になる」は、これまでの人生で体現してきたことだ。風薫る五月に身を任せ、細胞次元で新陳代謝が日々起きているように新しい自分を築いていきたい。「風薫る」と言うには風があまりにも強い一日であったが、陽光も海も明らかに五月の色になった。初夏の気分が誘発するものを掴みながら、宮崎の海岸線を眺めているのは爽快だ。

令和の丸二年間のうち、半分以上は「新型コロナ」に覆われた時世となってしまった。しかし、どんなに世界が変わろうとも己の生きる軸の確固たるものを持つべきと思う。いやむしろ「軸のあるブレない人」かどうか?を新型コロナ社会が炙り出しているとも言えるかもしれない。夫婦の愛情や親子相互の慈愛、親戚それぞれの身の処し方、職場での意識の深浅、店舗経営者の信念と心の持ち様、そして僕たちはどんな地方自治体に住み、どんな国に税金を払って身を委ねているのか、そんなことを尽く新型コロナが炙り出している。「今ここにある」幸せを強く実感しながら、新たな「五月一日」を生き始める。

海を見ていた午後
日向灘を眺めその雄大さに抱かれ
「五月一日」を固く胸に


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日々是情報更新ー学ぶ意欲を忘れずに

2021-05-01
現場に立ってわかる学ぶ尊さ
緻密に調べ詰めて書き尽くす
常に更新される己をであるために

PCを扱っていると「アップデートがあります」という表示が出て、OSやソフトに修正が加えられることがしばしばである。その「更新」には聊か時間を要し、パソコンを閉じる際にその動作が開始されることも少なくない。もちろん使用者の都合で「夜間に行う」とか「再通知」なども選択できるが、「更新」のタイミングは仕事に支障をきたさない選択が望ましい。以前に学外からいらした講師の方が、授業で話をするタイミングで「更新」状態となり、結果的にPCを使用せず話すのを目の当たりにしたことがある。PCは自分自身の健康管理のように、常に状態を確かめておきたい。などということを考えて、連休に入る前に仕事を終えた後、研究室の据え付けPCを「アップデート」にして帰宅した。

PCのみならず、人間も「アップデート(情報修正更新)」が必要だ。特に僕ら研究者にとってはそこが生命線とも言えるだろう。また学校の教師もまた、一度覚えた要領だけで授業をすべきではないように思う。教職大学院の講義において、学校現場から研修で参加する教員の方々がいる。中学校教科書の『万葉集』掲載歌から自らが好きな歌一首を選び批評するという課題を出すと、実に詳細なレジュメを作成してコメントをしてくれた。時間に追われる現場を離れ「学びたい」という意欲に満ちた姿勢に敬意を表したい。この先生方は明らかに、自らを「アップデート」しようと意欲的なのである。僕自身も現職教員でありながら修士に入学し、博士後期課程まで長年にわたり「アップデート」を続けた。それは学位取得後も同じで、日々新たな自分でありたいと思っている。向き合う学生たる現職教員の方々からいただく刺激はありがたい。研究室のPCもみならず、自分が今日もまた新たになるために。

学ぶ意欲のある先生こそが
学ぶ意欲のある児童生徒を育てる
現場の実情はどうか?僕らが学ぶ場でもあることを忘れず。


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