どこまで「科学的」なのだろうか
2021-04-29
「科学的根拠」という曖昧科学ではわからないこともあり、
また信じたくない事実もあるだろう
僕らが子どもの頃はまだ、「科学的」という語のあり方が明確だった気がする。科学には憧れがあるとともに、科学で解明できないことも多いことも明言されていた。だがいつしか「科学」が万能であるかのような幻想が社会を覆い尽くし、「科学」なら何でもわかるかのように虚飾されてしまったかのように見えることがある。「科学的に安全」と云われていても、それは「完全」などがあり得ないのを「科学的」と呼ぶはずが、精神論のようなもので議論がすり替えられていく。すると、より「科学的」に考えようとする側が「異常」「悪者」のレッテルを貼られ、「現実的ではない」と批判されてしまう。その「現実的」とか言う輩は、「科学をする人」を選別し自らの欲望を満たす傾向の「科学を贔屓」することになる。この時点で十分に「非科学的」な偏向に満ちた思考である、と言わざるを得ない。
2000年代になってから、朧げに前述のような傾向が強まって来たことを感じていたが、とうとう新型コロナ禍によって、世界中の虚飾や欺瞞が炙り出されているような気がしてならない。国によっては明らかに従来の「信頼できる定義の科学」を以ってして、感染拡大を抑制できた政府がないわけではない。こうした成功例においては、まさに「科学的」な知見として尊敬し情報を入手し見習うべきと思うが、他国の情勢の報道でも悲惨な状況のものばかりが先行し、まだ我が国は良い方だという思い上がりをメディアも醸成してしまってはいないか。既に90日前にもなった東京五輪の開催をめぐる問題では、世界で他には決してない「国のあり方」を世界に露呈することになる。果たしてどれほどに「科学的」に対応できると言うのだろう。地球温暖化対策もしかり、フクシマの汚染水への対応もしかり。世界に見つめられていることは、少なくないのであるが。
「科学」ではないが
人の心の美醜を文学は切り取る
いまこの国に必要なものが時折わからなくなる。
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