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寿司とケーキを買って

2021-04-30
寿司を食べるという特別感
ケーキに蝋燭を灯す愉しみ
誕生日を大切にするようになった近代

一昨日は義母の誕生日で、妻とその甥っ子とともに実家でお祝いをした。その「ご馳走」としては寿司とケーキが食卓に並んだ。この二種類の食べ物の特別感というのは、どういう風に考えたらよいのだろう。「寿司」に関しては、昭和のように街のお寿司屋さんが出前をするという光景はかなりなくなったが、チェーン店系のお店がテイクアウトでそれなりのネタを提供してくれる時代になった。宮崎の地元に根づいたお店で、プラスチック製ながら大きめの寿司桶に握りや軍艦を並べた光景はよいものだ。また誕生日ケーキも必須、現代に家庭で「ケーキを買う日」というのも限られているだろう。とりわけ個々の小さなケーキではなく、大きくて蝋燭が立てられるケーキである。

明治時代以前、前近代的な世の中では、あまり誕生日を祝う風習は少なかったようだ。戸籍の問題だろうが、誕生日が記録されたり意識されることは少なく、誕生日がわからない人も少なくなかった。明治以前の歴史的に有名な人物の多くが「忌日」は記録されていることが多いが、誕生日は定かでない場合が多い。(明治初期生まれの文人でもあやしい者がいる)周知のように「数え年」となると、年越しをして新年を迎えれば一つ年齢が加算されたわけである。他に母体内にいる月日から「数えた歳」とする考え方もあるようだが、個々の誕生日が意識されない風習の名残であろう。近代的であれ「命をいただいた日」として、誕生日は祝いたいものである。やはり「寿司とケーキ」という和洋折衷の組み合わせも、近代以降を感じさせるのである。

人々が大切にする日
家族という存在の尊さ
美味しく団欒の時間を大切にしたい。


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どこまで「科学的」なのだろうか

2021-04-29
「科学的根拠」という曖昧
科学ではわからないこともあり、
また信じたくない事実もあるだろう

僕らが子どもの頃はまだ、「科学的」という語のあり方が明確だった気がする。科学には憧れがあるとともに、科学で解明できないことも多いことも明言されていた。だがいつしか「科学」が万能であるかのような幻想が社会を覆い尽くし、「科学」なら何でもわかるかのように虚飾されてしまったかのように見えることがある。「科学的に安全」と云われていても、それは「完全」などがあり得ないのを「科学的」と呼ぶはずが、精神論のようなもので議論がすり替えられていく。すると、より「科学的」に考えようとする側が「異常」「悪者」のレッテルを貼られ、「現実的ではない」と批判されてしまう。その「現実的」とか言う輩は、「科学をする人」を選別し自らの欲望を満たす傾向の「科学を贔屓」することになる。この時点で十分に「非科学的」な偏向に満ちた思考である、と言わざるを得ない。

2000年代になってから、朧げに前述のような傾向が強まって来たことを感じていたが、とうとう新型コロナ禍によって、世界中の虚飾や欺瞞が炙り出されているような気がしてならない。国によっては明らかに従来の「信頼できる定義の科学」を以ってして、感染拡大を抑制できた政府がないわけではない。こうした成功例においては、まさに「科学的」な知見として尊敬し情報を入手し見習うべきと思うが、他国の情勢の報道でも悲惨な状況のものばかりが先行し、まだ我が国は良い方だという思い上がりをメディアも醸成してしまってはいないか。既に90日前にもなった東京五輪の開催をめぐる問題では、世界で他には決してない「国のあり方」を世界に露呈することになる。果たしてどれほどに「科学的」に対応できると言うのだろう。地球温暖化対策もしかり、フクシマの汚染水への対応もしかり。世界に見つめられていることは、少なくないのであるが。

「科学」ではないが
人の心の美醜を文学は切り取る
いまこの国に必要なものが時折わからなくなる。


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対面&オンライン融合講義

2021-04-28
50名の対面講義
約100名のオンライン参加
感染対策とともに双方の利点を活かすために

担当する基礎教育科目「日本の恋歌ー和歌短歌と歌謡曲」(学士力発展科目)は、全学部の学生が受講できる講義である。今年で担当して3年目となるが、1年目は通常の対面講義で124名の受講、昨年は急な新型コロナにより全面オンラインとなって242名の受講であった。昨年のオンライン方式については様々に熟考した結果、「ラジオ番組方式」を採用。音声録音データをWeb配信し毎回の秀作課題はその「放送内」で紹介し、さながらDJをしているような方法が意外にも受講生の中から好評である意見を多くいただいた。「身構えず楽に聴ける」「何度でも聴ける」「想像が拡がり短歌がわかるようになった」など「怪我の功名」のような成果があり、新聞地方版の特集にも取り上げていただいた。

そこで今年はどうするか?と模索した結果、標題のような「融合講義」を実践してみようと発想した。全学的に開始2週間を経てほとんど「対面講義」が認められているが、昨年より受講者は少ないが160名が一堂に会すのは感染対策上の配慮が求められると考えた。そこで受講者を三分の一に班分けし、50名参加の「生番組」をオンライン配信するという「融合講義(ハイブリッド)」を実行することにした。この日はその初回、附属図書館には教育学部の50名の学生のみが集まり、会場のマイク音声をオンライン回線に繋ぐ。画面共有はプロジェクター投影とともにオンラインでも配信され、流したい音楽などもマイクが拾って双方に流れるよう機材設定を試みた。でき得るならば、それぞれの利点を活かすことを1週間ほど妄想して来たが、現実には無難に講義を進行させるのみで精一杯な状況となった。PC操作の上でもいくつか問題が生じ、オンライン参加の方に共有画面の頁が進行しないなどのトラブルもあった。しかし、何事も経験である。対面を50名にすることで、個々の学生らの顔と反応がよく見える。オンラインの向こう側の学生らに挨拶を求めたが、なかなか無謀な声をオンラインに投げることは、昨年の経験から憚られているような身体になっているという発見もあった。

昨年は受講者と一度も会えなかった
今年度は3回に1回は会える
今後はどのような対話をこの講義に取り込むかが課題である。


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「国民的」と云う欺瞞

2021-04-27
「国民的・・・」と語られた時
果たしてその本質は何なのだろうか?
新型コロナが暴いた「個人」や「我」

若山牧水やサザンオールスターズに、「国民的」と云う形容がつけられることがある。近現代短歌史に欠くべからざる歌人として、全出版社(高等学校)の教科書に短歌が掲載されれいる牧水。43年間にわたりヒットチャート上位の曲を創り続け、Jpopの先端を走り続けて来たサザン。国民の多くが知り得るという意味において、そのように語られるのだろう。過去には最大視聴率が50%を超えたことのある「8時だよ!全員集合」なども、「全員」の響きよろしく「国民的娯楽番組」と言われた時代があった。だが視聴率が「50%」で「怪物番組」なのであり、単純に考えて「半数」でしかない。「視聴しない」という個人も半数はいるわけで、「国民的」と呼ぶのは強引であると言わざるを得ない。現に僕の学校の級友や従姉妹なども、家庭で「全員集合」の視聴が禁止されていた。そんな「個人」の考えが背景にあっての「国民的」なのである。

「国民的」とすぐに言いたがる体質は、明治時代に由来する。幕末から明治の世の中を迎えて、各藩が「国」であった世の中が「日の本」の統一した国に大きく転換した。「尊王攘夷」の思想のもと、「夷狄」(外国人を野蛮と卑しめて呼ぶ語)と呼んだ外国船の渡来は「国」の観念を一変させた。(今年の大河ドラマを観るとよくわかる)幕末の志士は各藩の方言で喋るゆえ、なかなかコミュニケーションもままならなかった。そのために新学制が明治33年に制定され、「国語」という教科が誕生した。「令和」に改元される際に典拠として話題になった『万葉集』が「国書」であり「国民的歌集」だと喧伝されたのは、この明治の方針に由来するものだ。既に僕ら多くの研究者は、『万葉集』を「国民的」とは思っていない。明治政府が「国」を「形」にするために「国民的シンボル」を作り出し、半ば強引に民に押し付けたともいえよう。

明治から153年目の今日、新型コロナがこの社会をあらためて暴き出している。都市部での緊急事態宣言、地方でも感染が急拡大している折ながら、「(国民的)聖火リレー」が宮崎にもやって来た。感染対策は「各藩の大名」がやってくれと言うが如く、地方自治体の長に委ねられている。いくつかの県知事は感情を露わに、「中止」に言及する会見を開いたりしている。歪極まりない「この国のかたち」、世界もまた危うさを含有するゆえに「国」として過剰に権力を行使するところが目立つ。今日向き合う「ひとりの学生」を尊重するように、「個人」が何よりも大切にされるのは何世紀になったら成し遂げられるのだろう。

あらためて考えたい「国民的」
僕らは社会の何を信じたらよいのだろう?
明治以降の社会に生きるという視点で考えたい。


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寄席の粋な意地を讃える

2021-04-26
「社会生活に必要なもの」として
都からの要請文には「社会生活の維持に必要なものを除く」と
もはや噺のネタのような社会である

東京に四軒ある寄席、在住時には中でも上野「鈴本演芸場」には足繁く通っていた。宮崎移住後も東京へ行く機会ごとに、なるべく寄れるなら足を運んでいた。ある時、タクシーに飛び乗り「上野鈴本まで」と言ったら、運転手が「鈴本って何ですか?」と応じたことに甚だ幻滅したことがある。一時期から東京のタクシーが運転手不足で転職等での新人も多いとは聞いていたが、少なくとも都内を走るなら主な遊興施設ぐらいは覚えておいて欲しかった。それでも落語ブームの再来もあり、昨年からの新型コロナ禍でもYouTube配信を試みるなど頑張って経営しようという意地のあるところを応援していた。それがこの度の三度目の緊急事態宣言にあたり、冒頭に記したような主張で「無観客に応じない決断」をしたのだと云う。東京寄席組合・落語協会・落語芸術協会が協議しての結論らしい。

落語等の演芸・舞台の芝居・映画などは「遊興」、ゆえに「社会生活に必要がない」と果たして言えるのだろうか?これはどこか国語教育の上で「文学は必要か?」などと云う議論が展開してしまう世知辛さと同線上の社会における文化的後退であると思う。この日曜日にTVを観ていると「ヘイトクライム」の問題を論じていたが、政治による社会の分断とともに、文化的なものへの意識の後退が大きな要因になっているとの指摘をする論者がいた。落語では「与太郎噺」を始めとして、江戸時代に由来する人情が弱者を包容する社会の温かさが描かれている。御治世の社会に矛盾があれば、それを逆手にとって笑いに転じ乗り越えようとする江戸っ子の意地も見える。親友の落語家は、現状の社会を「禁酒番屋」だと演目に擬えていた。自らの愚かさに対する意識の低さこそが、文化的水準を左右する。「学校」でも「生活に必要なものを教えよ」と号令がかかるが、否、「人生に必要なもの」と言い換えてもらいたいものだ。

昨日の「酒」に続き「落語」なども
僕自身が愛好している「文化」のあるところ
健全な社会にはいつも「笑い」があるものだが・・・


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酒が悪いんか

2021-04-25
再び緊急事態宣言
酒類販売の制限も
「社会生活の維持に必要なもの」とは?・・・

教師が授業中に教室の生徒らがザワつくのを、「うるさい!」と叱ったとしよう。最初は一時的な効果で静まるにしても、それを連発したら次第に「あの先生はいつもうるさいって言ってるから」と静かになる効果はほとんどなくなる。僕が初任時に、教室で学んだ心得である。教師は生徒らの思いを受け止め対話し、上から叱るのではなくむしろ心を通わせることで初めて「授業」が成立してくるものだ。少なくとも生徒らが「聞きたくなる授業」をすべく分析や工夫の努力がなければ「プロ」とはいえない。再度の「緊急事態宣言」に、教室での「うるさい!」に類似した性質を感じた。何が問題で何が感染拡大の要因であるか?政治も専門家もメディアもこぞって「酒場の環境」や「路上飲み」などの様態を指摘し、「酒」という「悪者」を意図して見つけ出し吊るし上げる。だがしかし、果たして酒が本当に悪いんか???と思わずにはいられない。

若山牧水は酒浸りで肝硬変になって死んだ、などと人生の側面を取り上げて否定的な見方が為されることが多かった。もちろん飲み過ぎは健康によくないのは明らかだが、360首以上に及ぶ「酒の短歌」までを否定するものではあるまい。「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ」(牧水『路上』より)少なくともこの短歌に表現された酒は、崇高な陶酔、ヨガ的な瞑想の彼方にあるような「しづかに飲む」である。『万葉集』にも大伴旅人の「讃酒歌」があるが、酒ありてこそ「生きる」ことを見つめられる気さえする。問題は「酔い方」でもあり、その際の「言動の性質」が問題なのだと思う。僕の懇意にする東京のバーでは、明らかに「生きる楽しみ」のための「酒」がいただける。その「酒」は、人と人との出逢いをつなぎ、折れかかった心をつなぎ、明日へと希望をつなぐ。良質の陶酔の中でこそ、自らの愚かさも輝きも見えてくる。「生活」に必要でないと叱られても、「人生」に酒は必須だ。「酒を販売するな」などと自らの努力を怠った「教師」が権威のみで「教室」の中で怒鳴る。「崇高な陶酔」を知らない日本社会の文化的な後退、と言わざるを得ない。

酔うための酒、否、生きるための酒だ!
あらためて牧水や旅人の短歌を再評価したい
「崇高な陶酔」のお店は軸がブレずに動じない、宮崎からいつも心で応援している。


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対面講義が活きるためには

2021-04-24
2週間のオンライン期間を経て
始まった対面講義
ライブがやりたいと言うミュージシャンのごとく

新年度の講義が始まって2週間、帰省などで各地に移動した学生らを考慮し全学的にオンライン講義が続いていた。その2週間の観察期間が明けて、この日から対面講義が始まった。事前事後課題などはWeb上の提出が有効と考えてシステム上のオンデマンド(各自の時間・条件に応じて提出期限までに提出する)を継続、資料・テキスト等を使用して「教室に集まる意義」を最大限に活かした講義内容が求められると自覚する。もとより「90分の講義につき時間外学修が180分必要」として「単位の実質化」が求められている。かなり昔日からある議論であるが、諸外国の大学に比して日本の大学の学びの浅さというのは問題視されてきた経緯がある。1コマの講義に対する「課題量(例えば文献を読む量)」なども甚だ少なく、一時期は「大学レャーランド」と社会に揶揄されたこともあった。

昨年からのオンライン講義で「課題量が過剰」という点も指摘されてきたが、果たしてそうなのだろうか?学生に聞くと僕の課題もキツいと聞くが、毎回の課題を担当者が読んで短くともコメントできる範囲ならば、「過剰」とは言えないのではないかと思っている。ようやく「180分の時間外学修」を適切に実行してもらう習慣がついたように思う。その上で問われているのが、まさに「対面」の質ではないだろうか。資料提供で成し遂げていることに「説明」など加えるのも無益、もちろんテキストをなぞるのは「時間外」に学生がすべきことだ。こうした方法を「反転学習」と呼び、一人で学んだ方が有効なことは「時間外」に行うことになる。

ならば「対面は?」となるが、集まった学生らに課題についての対話を班別などで「親密に」して欲しいところであるが、感染対策上まだ憚られる。個々の学生の考え方を聞くため、僕が机間を巡りたいがそれもやはり憚られる。アクリル板が設置してある教卓と黒板の間に挟まれ、通常では使用しないマイクで飛沫に考慮して話す。「聞こえなくともよいから、自分がいいねと思った和歌を声に出して読んで」という程度に学生からの反応を止めた。そんな制約の中であるが、やはり「聴く者」たちを眼の前にすると語りが流暢となり、「考えて欲しい問い」を具体例を挙げながら提供できた。オンライン講義のやや「機械的」とも思える「語り」とは大きな差が生じた。これぞミュージシャンが「やはりライブはいい」と云う所以なのだと、あらためて実感した。

県内の感染状況も見据えつつ
「対面」の意義を突き詰めていけねばなるまい
新型コロナ2年目の大学講義の格闘が始まった。



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花の下にて春死なむ

2021-04-23
「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」
(西行法師『山家集』より)
桜の樹の下には・・・・・

親友の落語家から電話があって、親しい先生のお母様の訃報を知った。彼の元には複数の訃報があり、色々と気が滅入っていると漏らした。そこからがさすがは落語家、「どうして桜の花が咲く頃に、人が亡くなるのでしょう?」と自らに問いかけているのだと言う。思い返してみれば、僕の記憶にも「花の下にて」亡くなった方々の顔が複数思い浮かぶ。あの「桜」の喩えようもない美しさ、大地の養分がその花を咲く力として吸収され一気に咲き乱れるといった印象。古来から数多くの和歌に詠まれてきた「花=桜」には、単なる季節観だけでは済まされない生命の神秘的な力さえ感じられる。

冒頭に記したのは、著名な西行法師の歌。「願うならば私が心を奪われてきた桜の花が咲く樹の下で春に死のう、そんな如月(旧暦二月)の満月のころに」といった解釈だが、西行法師はこの歌通りに「春死なむ」の最期であったと云う。今年などは1月の寒い時期から桜の樹のある公園を歩くことが習慣となり、その蕾から芽吹き花が咲くまでをよく観察していた。固く包まれた蕾が花を咲かせるまでには、かなりの力がいるのではと思わせた。落語家曰く「花が咲くための力を人々の命から持ち去るのでしょうかね」と、確かに桜花爛漫は「始発であり終焉」でもあるような無常を感じさせる。しかし、それゆえに「桜の時節」には親しき故人を深く偲ぶことが、我々が「生命」を再確認できる時間となるものだ。

「桜」と日本人の不思議な関係
社会的な動向にも大きな影響を与える
「その如月の望月のころ」満月もまた人の生命の喩ともなる。


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自由に飛べる翼が欲しい

2021-04-22
学べることの尊さ
失われて知る貴重な時間
学ぶための自由をください

「教師」というものは、教師になってからが勉強である。誰からともなくそんなことを言われて、今まで確固たる信念を持って実践してきた。学部卒で高等学校の非常勤講師となって1年勤務すると、当該校から専任教員となることを認められそのまま就職した。研究をしようか?教育現場で生徒らと向き合おうか?当時は非常勤講師での授業を経験しながら真剣に悩んでいた。しかし、次第に非常勤でも部活のコーチをしたり学校行事にも参加したり、現場で生徒らとともに歩む楽しさを知ってしまった。自ずと研究への手は止まり、学会などへも行かないようになった。「勉強」には様々な種類があるが、「現場」こそ自分を「教師」として高める豊富な学びの場だと実感する時代であった。

だが人間は勝手なものである、暫くすると再び研究への思いが募り「学校」の拘束から自由になりたくなった。土曜日は学会に行きたいので部活動の活動日から外し、生徒に不評を買ったこともある。大学院のゼミ演習に通うために研究日の曜日指定を受けると「なんであの人だけ」と誰からともなく批判され、「学校の仕事に集中せよ」と指導を受けたこともある。「研究日に研究をして何が悪い」などと思い、ほぼ「休日」と同等の価値しか見出していない同僚を怨んだ。年度末の「研究日報告」には必ず雑誌掲載論文のコピーを添え、多くの同僚が数行ぐらいの文章で済ませていることに疑問を感じた。学部卒直後にもっと勉強しておけばよかった、そんなことを痛切に感じる日々であった。尊い学びが目的であっても、自由は奪われて初めてその価値を知るものだ。学位を得て大学の非常勤講師になった際、給与は大幅に減ったが学びの自由に回帰できた喜びは計り知れなかった。

学べる環境があるうちに学べ
自らを困難な状況に追い込むことも学び
自由に飛べる翼の価値は失われて初めて知るものだ。


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一寸先はやはり闇

2021-04-21
予定通りに物事は
交通機関の定時運行という幻
果たして1ヶ月後、来週、今日の夕方、そしてこの直後

世界を見回しても、これほど公共交通機関が定時運行する国は類い稀である。僕自身の経験でも中国の船はいくら経っても出航しなかったし、イギリスの列車は概ねドーバー海峡を渡った船からの乗客が乗り切ったと見るや定刻前に走り出した。東京で電車に乗ると「当電車は、1分ほど遅れて運行しております。お忙しい中、ご迷惑をおかけします。」と詫びのアナウンスがある。日本の航空会社は、「定時運行率」が世界でトップクラスの努力を続けていると聞く。海外では航空機の遅延や欠航は、織り込み済みな雰囲気が一般的だ。この「予定通り」を常識と考える国民が、先の見えない「新型コロナ」に直面していると考えてみることも必要なのかもしれない。

朝、出勤しようと予定通りに行動するが、何かアクシデントがあれば大幅に行動は変容してしまう。そのアクシデントの可能性を事前に摘み取っておく、それが「定時運行」の基本的な努力であろう。かのイチローが試合のある日の昼食は必ずカレーを食べ(お腹のコンデションをいつも一定に保つため)、球場へは誰よりも早く足を運び、身体の手入れや準備を入念に行なっていたのも「定時運行」のように力を発揮する国民性が表れていたようにも思う。しかし、新型コロナ感染拡大から1年以上が経過したが、未だに「定時運行」は難しい。大阪を中心とする関西圏の大学は対面講義を予定していたところが多いが、府知事の「オンライン要請」が出された。僕自身とて例外ではないだろう、2週間のオンライン期間を経て対面に入るにあたり、「予定通り」行くのか一寸先はやはり闇と見ていた方がよいのかもしれない。ということで、受講者が160人を超えた講義は感染対策上も「対面&zoom中継」というハイブリッド型講義を模索することにした。対面で教室に来るのは1回につき50名少々、その際に個別的な対話ができるという利点も見据えつつ、いつでも全面オンラインに戻すことも可能だ。「定時運行」をしたい前期講義の予防線となればと思う。

この直後、アクシデントなく進むには
ワクチン接種は、今年開催される行事は
闇を冷静に見つめる眼が求められているのだろう。


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