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特異な五輪と巣篭もりの効用

2021-02-28
例年の1月2月と比較して
巣篭もりゆえに長いとも感じられ
その間にじっくりとした仕事に取り組むこと

オリンピックの年であるのに、2月が28日までという異例な年を僕たちは過ごしている。開催年の歴史を紐解いても、1896年の第1回アテネ(ギリシア)大会に始まり、1916年ベルリン(ドイツ)大会と1944年ロンドン(イギリス)大会の中止、また1940年(昭和15年)東京(日本)大会の返上という事態を除き、4年ごとに規則正しく開催されてきたわけである。しかし「中止」「返上」ではっても、「4年ごと」のサイクルは決して変わることがなかったわけである。一旦は「中止」となった際には、やはり4年ごとのサイクル上に当て嵌めて開催していることがわかる。となると今回の「オリンピック1年延期開催(予定)」というのは大変に特異なことで、1940年(昭和15)の「返上」とともに「東京五輪」の因縁のようなものを感じさせる。

私たちは「五輪開催国」に住んでいるというよりは、「世界的パンデミック」の中でいかに個々が身を護るかという願望の元に生きている。年が明けて2ヶ月が経過しようとしているが、生活の焦点は「コロナ対応」である。引き続き「巣篭もり」を強いられているのだが、その中でいかに自らが信じるものに対して行動し事を先に動かせるかが大切だと思う。尊敬するミュージシャンの弁を聞くと「この期間に自分の何百曲という作品をすべて聴き直した」ことで、「新たな音楽の展開を見出せた」というような趣旨の発言には刺激される。配信ライブを積極的に実施し、この社会においても言い訳なしに自らの音楽を届けようとする人々を見て、僕らの仕事にも言い訳はできないという思いを強くする。この2ヶ月、論文執筆・評論校正・特集依頼原稿執筆・研究学会オンライン開催案作成・附属図書館オンライン読書会創発等々に加え、次なる著書への原稿執筆を進めている。年明けの県独自の緊急事態宣言下で在宅勤務を有効に活かした感がある。尊敬するミュージシャンに負けず劣らず、新たなものの受容と発信が求められている。

1日の質的な密度を上げる
今日何ができるかが明日を築く
2月28日を例年よりも深く意識している。


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「顔文一致」分裂的な盲信

2021-02-27
『檸檬』梶井基次郎
あなたは教科書で写真を見たことがありますか?
漱石・鷗外・芥川・太宰に牧水・啄木・・・

早稲田大学演劇博物館主催「逍遥祭 逍遥をかたる人々〜逍遥祭のあゆみ」というオンライン講演に参加した。演劇博物館副館長の児玉竜一氏により「逍遥祭」のあゆみを辿り、坪内逍遥を囲む人々について貴重な映像や音声も活用した講演であった。「逍遥祭」とは坪内逍遥が生前から「囲む会」が熱海などで開催され、没後は命日の2月28日に開催されてきたと云う。貴重な映像や音声の中には歌人「窪田空穂」が映るものや、演劇界からは「久保田万太郎」の肉声なども紹介され、早稲田大学の文学・演劇における研究の拡がりの要に坪内逍遥が大きな存在であったことをあらためて認識した。昨年から僕自身は、若山牧水が早稲田大学の学生だった頃、坪内逍遥博士の講義を聴きいたく刺激を受けた内容について評論を執筆した。掲載雑誌は近々刊行される運びとなるが、牧水の歌作にも逍遥先生の文学論が活きているといえるのだ。

さて、オンライン講演での映像や音声の紹介はさることながら、「顔文一致」という指摘には大変に興味を覚えた。冒頭に記した梶井基次郎の例で語られたのだが、みなさんも梶井の『檸檬』という繊細な小説を教科書などで読んで、その後に梶井の顔写真を見た際には、ある種の衝撃が走らなかっただろうか。小説内に描かれる人間の微細に揺れる心のあり方を思うに、やはり教科書に掲載される梶井の顔写真があまりにもイメージ的に分裂しているからである。(ぜひ「梶井基次郎」でWeb検索をしてみると理解しやすい)我々は近・現代作家に関しては漱石・鷗外をはじめ多くの肖像写真を知っている。僕などは研究室に若山牧水の肖像を掲げている。「あの顔」から「あの口」によって紡ぎ出される「短歌を読む」という意識がどこかで付き纏う。残念ながら肉声が遺らない牧水の場合、その「顔」と短歌の「文(体)」は一致していると思い込んでいる。だが古典和歌の歌人などの場合は、あくまで想像上の肖像画であることも多く、僕らは人麻呂・貫之の「顔文一致」を考えることは稀である。『平家物語』などを読むと、名の知られた「源義経」であっても敵方平家の武将たちは顔がわからず、良い鎧を着ているなどの状況で判断していたと記されている。Web検索が盛んな時代にあって「文学作品表現」と作家の「顔」、実は読者の中で分裂的に盲信したイメージが増幅していることも多いように思われた。

「作家」と「文学作品」との関係をどう読むか?
中学校・高等学校での「国語便覧」を読むのは楽しい
作家たちの顔に、身近な誰かを当て嵌めた経験があなたもあるのではないか。


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『宮崎文学の旅上下巻』刊行!

2021-02-26
宮崎県内にゆかりのある文学全集
構想から3年目、ようやく刊行へ
非売品で県内中学校高等学校や公立図書館へ寄贈

24日(水)に記者会見が行われ、『宮崎文学の旅上下巻』の刊行が発表された。構想からすればもう3年の月日を費やしたであろうか。企画当初から執筆者としてお声掛けをいただき、主に中古から近世の「古典」部分を担当した。完成して手に取ると感慨深いが、「古典」とはいえ専門とする平安時代和歌に関する題材は『枕草子』ぐらいで、説話・軍記・浄瑠璃・謡曲など多彩な作品をわかりやすくするために苦心した。それにしても、宮崎にゆかりのある文学が時代を超えて集約でき、僕自身としても大変勉強になった。また県内において古代から近現代までの文学研究者が揃っていることにも、新たな可能性を覚えた。

本書は非売品で、県内の全中学校・高等学校および公立図書館に寄贈される。制作費は、県内企業など各方面から手厚いご寄付をいただき、「文学」を県の地域資源として活かす姿勢が明確にできた。今後は中高生へ向けてのワークショップ活動や、一般の方へ向けての執筆者の講演活動などができたらと企画・編集委員会で提案している。僕自身としてまず手始めに、大学附属図書館で「宮崎文学の旅仮想ツアー」などが実現できたらと思う。新型コロナ禍で行動範囲が狭くなった今だからこそ、「文学」上の想像の旅が実に大切であると思う。もとより「郷土文学作品」による教育は、今後の重要な各地域の課題でもある。宮崎の学校で学んで「宮崎の文学」を知らないというのも、間が抜けた話である。この地を愛するゆえに、どんな文学の素材としていかに輝いているかを、多くの県民の皆さんに知っていただきたい。

あらためてご寄附にご協力いただいた皆様と
企画・構想をまとめていただいた方々に感謝
「文学」を重要視する他県にない輝きを放ちたい。


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郵便物の楽しみ

2021-02-25
デジタル時代に物理的郵便物の楽しみ!
特に新刊書籍を開封する際のワクワク感
装丁や目次とあとがきなどを読んで・・・

帰宅して気が惹かれる大きな材料が、その日に届いた郵便物である。研究学会の案内や学術雑誌、県や市からの様々な通知、贔屓にしているサプリや日用品関係の広報、時に既に不要な情報が紛れていることもある。それでもだいぶデジタル化を進めて、「紙」の郵送物を減らした自負はある。カード会社の明細などは明らかにWeb上の方が便利で地球環境にも優しい。郵便物一つをとってもデジタル時代を実感するのだが、やはり紙の書籍が届くのは誠に大きな喜びである。親しくする歌人の方からの歌集、研究学会の仲間の学術的な新著、さらには多分野に及ぶ新刊書、いずれもパッケージを開けてページを開く際の楽しみは言葉にならない極上の嬉しさがある。

昨日も大学の先輩の新刊書が届いていた。長い間、『百人一首』関連の書籍を執筆されてきた方で、アニメ「ちはやふる」の公式ガイドブックも手掛けていた。そこを足掛かりに、今回は和歌短歌全般を題材にして「二首読み比べ」を肝に据えた内容構成。昨年から僕自身も研究学会のパネル報告などで「和歌短歌二首の読み比べ」を提案していたので、「一本先手を取られた」というライバル心も蠢めいた。それにしても「和歌短歌」が多くの人が親しむように書かれた書籍は、大変に貴重である。しかも研究者・歌人のみならず多彩な分野の執筆者が書く必要もあろう。早速にメールで届いた旨に御礼を申し上げたが、内容を読んだら封書で感想をお送りして、先方の郵便物の楽しみを創ることを通例としている。

出身大学の多彩な書き手の人々
そしてまた僕自身も新刊に向けて歩む
文筆の楽しみこそが人生の活かし方である。


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日南の春と抒情詩

2021-02-24
緋寒桜と城ヶ崎が咲き誇り
暖かな陽射しの中で昼のひと時
そしてなぜ自らが抒情詩を求めているのかを再認識

朝から急に思い立って妻の実家に行くことになった。気温は裕に20度を超え、4月5月の陽気の宮崎であった。日南海岸の遠望はやや春霞がかかり、気温の高さを目で捉えることができた。この冬も巣篭もり状態であった僕の両親も伴い、日南へ向け明るい春を探しに行った趣だ。小学校の校庭で野球少年が元気に練習している様子を見ると、なぜかとても安心する。人が集まり人が声を掛け合い、一つの球(ボール)に夢中になる純朴な姿が貴重なものと思える世相である。そのような意味では、僕らが「普通に幸せ」であることを今一度見直すべき時なのかもしれない。義母の美味しい手作りランチをいただきながら、そんな幸せを実感する。帰りには棚田で有名な「酒谷」の道の駅に立ち寄る。緋寒桜や城ヶ崎という品種の花が盛るだと聞いたからだ。「酒谷」には5年以上前に「朗読ワークショップ」で小中学校を訪れたことがあった。しかし日南ダムや道の駅までは、なかなか訪れる機会はなかった。評判通り花は盛りで、既に葉桜に近い樹々も見られた。「花見」という行為自体が「普通」にできる環境も貴重になったものだ。

帰宅して夜はWOWOWで録画した谷村新司「THE SINGER」(『谷村文学2020』の曲を中心にし、コロナ禍の苦難の中、昨年のツアー予定のうち唯一9月に開催したライブ)を観た。「組曲ーいい日旅立ち・いい日旅立ち西へ」「サライ」「群青」に「グレイス」などの曲に涙が溢れた。そうだ!「昴」が発表されたのは僕が高校生の頃、「我は行く、青白き頬のままで」の歌詞に背中を押され、憧れの大学の先に煌めく星たちがあることを夢見た。今、この歳になって「チンペイさん(谷村新司さんの愛称)」の熱唱を聞いて思い出した、抒情詩を自らのライフワークにしているのは、谷村さんの影響も大きな要因であったことを。二世代上の谷村さん、一世代上の桑田佳祐さんらの歌詞は、ともに文学的で素朴に深い読みを許容する。「人は音楽なしでは生きていけない。古代でも宗教的な場面で音楽を人々は奏でたことを思えば」そんな趣旨のことをこの日の映像で谷村さんは呟いた。新たな春に自らの置かれている生活に限りない幸せを感じて生きてゆきたい。

「グレイス」という曲が生きる後押しにも
「我は行く 心の命ずるままに」
ライブが普通にできるようになる日に谷村さんの声を聞きに行きたい。


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酒場の上質は普遍なりー吉田類さん酒場放浪記1000回記念

2021-02-23
吉田類さん「酒場放浪記」1000回記念
酒場では大声をあげたり怒ったりしてはならない
「酔ひそぞろ天には冬の月無言」(吉田類さんの俳句から)

「酒場放浪記」で吉田類さんが訪ねる酒場が、2003年の放送以来で1000回に到達した。この日はスペシャル版が放映され、東京下町森下の酒場の原点たる「山利喜」さんが紹介された。森下といえば深川と隣り合わせ、かの芭蕉翁も庵を結んでいた俳句ゆかりの土地である。類さんは「酒場詩人」とも称し、嘗ては俳句の会なども主催していたようだが、酒と短詩系との繋がりは厚い。大晦日スペシャルで若山牧水の足跡を辿ったのも、「酒」と「旅」というキーワードでの繋がりであった。実は数日来、別件で俵万智さんと連絡をとっていたが、前日に1000回記念にリモート出演すると教えてくれた。相互の酒の歌三首・三句の対話はなかなか面白かった。俵さんの「(類さんの)一人の背中」に焦点を当てた短歌も冴えていた。

まだ2014年頃であったか、MRT宮崎放送の企画で吉田類さん・俵万智さん・伊藤一彦さんの鼎談が実現し、市内の会場で生ライブを聞くことができた。実は、僕は東京でも常連として懇意にするワインバーが類さんの御用達で、東京堂という神保町の書店でトークイベントがあった後に、ともにグラスを傾けた経験がある。実に良い方で真実に酒が強く愛している印象であった。この日の放映でも語られたが、酒場では大声を出したり怒ったりしてはいけないなどと、神保町の名店酒場「兵六」の掟にあった。したがってコロナ禍で制約を受けても、「私は(騒ぐのを制約されて)苦痛ではない」と類さんは語っていた。酒場とは「酒を愛する」場である。世の酒好きの多くが慕う類さんのお言葉、コロナならずとも酒場には庶民の「上質」があることを再確認したいものだ。

8月には国文祭・芸文祭で宮崎にも
若山牧水の短歌が吉田類により新たな読み方も
「酒はしづかに飲むべかりけれ」


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一段を大切に登る

2021-02-22
階段で躓かぬよう
今の一段を大切に登ること
意識なき登りには落とし穴がある

起床して小欄を書く書斎の机に座るまでに、台所のバリスタマシンで珈琲を入れ片手に持って階段を登り来る過程がある。台所は1階、書斎は2階なので14段の階段を登らなければならない。これまでの記憶にある中で、2回ほどどちらかの足が階段に躓いて片手の珈琲の一部をこぼしてしまったことがある。その2回が2回とも、なぜ躓いた1段を疎かにしたのだろうという後悔の念に苛まれた。わずかにつま先が次の段に接触し、身体が揺れるのである。何も手に持っていなければ何でもない行為が、片手に液体の入ったカップを持っていると次の行動が制約される結果になる。やむなく階段にこぼれた珈琲を拭き取り、匂いが残らぬように水拭きなどするのに数分間は時間を要する結果となる。

身体の中でも脚の筋力の維持は、大変に重要である。「躓(く)」という漢字をみても「あしへん」に「質」を組み合わせた形声文字で、「足の質」が問われていることを表現している。高齢者が頻繁に躓くようになったら、筋力の衰えとか場合によると脳梗塞の兆候と疑うべきとも云われる。自らの身体の小さな兆候には、敏感であるべきだろう。本日はもちろん「一段一段」を意識して登ったので、珈琲を無事に机上に置くことができた。当たり前のことにも、繊細な意識を向けることで「質」が安定することがある。身体の些細なことにも実は日々の生活の姿勢で、行き先で大きく左右されることがあるのかもしれない。大切なのは「今の一歩」、様々な可能性を見据えて「一歩」を意識を持って歩むことが必要だ。

身体作用と意識と
目覚めの珈琲が投げかける課題
「今日の一歩」の先にあるまだ見ぬ光景が見たい。


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オンライン顔を出すのか出さぬのか?

2021-02-21
オンライン授業受講の際の映像情報
「顔を映す」意味が問われている
対面ライブ空間との比較で指導者・学習者はどう変化しているのか?

研究学会でのご縁があって、ある大学附属中学校の公開研究会にオンラインで参加した。関西地方にある学校なので、通常であれば入試業務も控えたこの時期に参加するのは難しい。しかしそこはオンラインの力、自宅で10時から昼休みを挟んで14時半まで様々な勉強をさせてもらった。研究会の大きなテーマにこの1年間直面した「オンライン授業」のあり方が探究されていた。中学生などでもオンラインを駆使すれば、学校外の専門家や多様な分野の人々と、交流して学ぶことが可能になった。しかし、その学びが一方的であったり、基礎知識が欠如したり、対面では捕捉されていたことが不十分であるという問題も抱えている。小中高大すべての校種でいえることだが、「オンラインを活かす」ためには学びの質を見定めた取り組み方が求められる。

複数の公開授業が編集整理された情報で提供されたが、もちろん「国語」に参加した。昨年の秋に研究学会でパネルを共にした先生により、オンラインで古典『徒然草』を教材とした授業実践が展開された。教科書教材に「読み比べ」用の補助教材を加え、中学生が自らの体験において身近に捉えられるよう工夫がなされていた。オンラインを駆使した「話し合い」の様子も録画映像で拝見することができたが、その際にお互いの「顔を映すか否か」という点も話題に上った。また敢えて「チャット」を使用した話し合いの様子も紹介されたが、SNS時代に生きる生徒たちの日常の言語生活を上手く活用できるかどうかが大きな焦点かと感じた。提起された問題として、ネット上に情報を扱う姿勢が「深読みが困難」であるということ。その上で「自分の信じたものを疑う姿勢」など思考の新たな次元への意識が求められている。学習材として紙情報かデジタル情報かについても、一概にどちらが優位という問題ではなく、今後はいかに融合して活用するかが問われているのだろう。

受け手話し手の相互に「顔が見える」意義は?
対面時に疎かにしていたことが問われている
ライブ時にどのような関係を結んでいたかも重要であるように思う。


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お昼に楽しみを置いて

2021-02-20
昼食+散歩とか
午前の歩みを讃え午後に英気を養う
人生にもそんなギアチェンジが必要

先日、同僚から借り受けたDVDにて、マイケル・ムーア監督『世界侵略のススメ』を観た。そこに映し出されていたのは例えば、「イタリアの会社での昼休みは2時間」といったドキュメンタリータッチの映像であり、2時間もの昼休みに多くの社員は帰宅して自作の昼食を楽しむのだそうだ。かなり以前からこの手の話は聞いたことがあったが、現実の映像で人々の陽気な姿を観るとあれこれと考えさせられる。現状の我が国では、多くの人々がコンビニ弁当を最小の時間で掻き込んで、眠気に襲われながらも午後の仕事にしがみつくのがいいところだろう。欧州でも陽気な人々の多いイタリアの料理もワインも、僕は個人的に好みであるが、それは風土が生んだ思考が詰め込まれているのかもしれない。

他にも「学力が世界でもNo1のフィンランドでは宿題がない」など、話題として追究してみたい内容が満載であった。小さな日々の習慣が違うことで、広く人生そのものの豊かさも違うのではないかとさえ思う。日本の子どもたちは過重な宿題に悩み、その上で塾通いなどを親が課し土日も遊ばず余裕のない日々を過ごしている者も少なくない。最近は「オンライン塾」が「学校」などと名乗って、TVのCMがつまらない生活の入口に誘っているかのようだ。個人で生活がシフトできるならば、他国の良い点はマネび(「学び」は「真似び」であるという掛詞的な造語)て良いのではと思う。まず手軽にできることとしてランチタイムの見直し。午前中の集中力が原稿などに向かう勝負であると僕は考えるが、昼食に楽しい目標があれば、さらに充実するのではないかと考えた。ご褒美の温かいランチに、自然豊かな環境の中で散歩を楽しんだり花を観に行ったり。人生そのもののを、あくせくとつまらないものにしてはいけない。勤勉なのは我が国の大きな美徳であろうが、生活を楽しむことを忘れてはならないだろう。

大学キャンパス内でも自然豊かに
職場が自宅へ簡単に帰れる距離にあることも
宮崎は日本のイタリアかハワイになれるかもしれない。


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安全第一のオリンピック

2021-02-19
透明性らしき茶番
「必ず開催する」の危うさ
もとより「東京」であることの不公平感

組織委員会会長の一連の発言・釈明・辞任・新会長選出を、僕たちは本番の5ヶ月前に見せられている。ただでさえ感染拡大という世界的問題がある中で、もし他国でこのような開催国事情を見せられたらどのように思うだろうか。男女平等は基本中の基本であるが、公平に評価されるべきスポーツが政治に関わり恣意的な臭いを放つことそのものが、いかがなものかと思う。遡れば開催地候補に「東京」が決まる経緯、招致に関する賄賂の疑念、国立競技場の建設問題、エンブレム騒動等々、この「東京2020」が抱え込む「呪い」のような構図は最後まで払拭されずに延期と直前の騒動に至っている。

片や島根県知事が「聖火リレーの県内中止案」を提言した。理由は大きく2点、自県は必死の感染対策を実行してるのに、開催地である「東京」の感染対策の杜撰さを改善して欲しいという点。また緊急事態宣言発出都道府県には飲食店をはじめとする補助金が国から支出されるが、宣言が出ない県で国からの補助がない実情も非常に苦しい。そんな中で「聖火リレー」に費やされる「・・・・千万円」を県から支出することは困難だとう点であると云う。島根県知事の会見では「聖火リレーをやらせてやる、やらされる」といった中央との関係も切実な現状として吐露された。考えるに元よりオリンピックの為に「東京」だけが優遇され特別視される状況そのものに、この国の歪みが見えるのではないか。

「どんな状況でも開催する」という無謀な思い込み
撤退する勇気を持たない閉鎖的な判断が悲劇を生んだ歴史がある
新会長の「安全第一宣言」が本質的なものであるかが世界に問われている。


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