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原稿読みにできないこと

2020-10-31
「原稿」を読んだ音声
なぜ人の心に伝わらないのだろう?
ライブ感あるしゃべり言葉

宮崎高等教育コンソーシアムという複数大学の連合会における、今年の講義の時節となった。例年であれば宮崎公立大学の講義室で行われていた講義だが、今年はオンライン形式で実施することになった。1回のみ90分の講義ゆえ、多彩な動機付けも必要かと「動画+音声+スライド」の三つの媒体を組み合わせて講義を構成するようにした。受講する側が飽きないで学修できる配慮も重要と思う。そのための動画撮影を、職員さんの支援の元で行った。モニターにプレゼンソフトで短歌等が映し出されるようにした上で、それを背景に20分の解説講義をライブ録画した。リハーサルはなしの一発録り、やや乱暴なようだが講義を対面でやるとすれば「一発」なのである。

研究学会の発表でもオンライン講義でも、原稿を作成して丁寧に読み上げるスタイルがある。僕も若い頃は時間内で発表を終わらせる目的で、たいていは「原稿読み」で行っていた。しかし、ただただ「原稿」を読み上げるだけの学会発表が物足りなく感じるようになった。聴衆へ目線を送り、強調すべきところは訴える声色と表情が必要であり、この研究発表で何が言いたいのかを明らかにすべきと考えたからだ。「原稿読み」は比喩的にいうならば「のっぺらぼう」なのである。文字言語を表情なく音声言語に転換しているだけで、聞き手に伝えようという意志に欠ける。書き言葉文章の「句読点」のあり方を忠実に読めば読むほど、聞き手の内部に浸透しないものとなる。明治以降の150年以上の歴史が、文字言語と音声言語があることを我々に忘れさせてしまった結果なのだと思われる。

自らのうちから湧き出るように語る
内容に対して習熟する仕込みが不可欠
音声のみコンテンツと併用して浮かぶ上がった観点。


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川沿いの青い屋根の素敵なお店

2020-10-30
青い三角屋根の斜面よろしく
雰囲気のよいご夫婦の笑顔が香る
丁寧な料理に表われる良心

お店には店主の個性が滲み出るべきと思う。いつでもどこでも「同じ味」が横行する社会の中で、「いま此処」でしか味わえない料理と出逢いたいものだ。店構えや外装の色、ドアを開けて入ると店内のインテリアが目を引く。最近は入り口に消毒液が必須で置かれているが、その機材にもセンスが光る。メニューの中でも自己のお気に入りができて、注文を取りに来る奥さまも何となくその「定番」を意識している。熱々の料理が出て来ると、外を流れる川面に目をやりつつ舌鼓を打つ。夏頃までは夕暮れが遅いために、川にいる鷺などの動きも気になったりした。

この嗜好はなんだろう?自宅から便利に行ける範囲に数軒の馴染みのお店があるが、いずれも店主夫妻に好感が持てる。丁寧で冷静沈着、謙虚な姿勢が見事な料理のあり方に繋がるのだろう。厳選された材料や盛り付けのセンス、具材の一つにも手を抜かないセンスが感じられる。たぶんそのような仕事への向き合い方に、別業種であっても共感できる要素があるのだろう。またこれらのお店に共通するのは、水が美味しいこと。安心して適温の水が出るため、ついつい何杯も水をいただくことになる。一杯の水にもささやかな配慮が効いている、そんなお店が好きである。

夫婦はかくあるべきか
小さくとも最高の幸福を味わう
お店とのご縁は誠に重要であると思う。


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やさしき緊張感が欲しいのです

2020-10-29
笑顔と関係性のよさ
だが馴れ合いになってはいけない
やさしさにも引き締まる緊張感を

今月17日(土)に開催された「中古文学会秋季大会シンポジウム」の討論にパネリストとして参加し、その後、各方面から様々な反響をいただいている。その中に「笑顔がよかった」という印象を持たれた先生がいらしたことは嬉しいことであった。もちろん僕だけへの印象ではなく、パネリスト三人が自然な笑顔で討論できたという印象だと思う。オンラインの画面で喋ることにもだいぶ大学講義で慣れたものだが、ともすると研究室や自宅書斎という環境が「公的」な顔をさせないことがある。だが、通常の対面と違って、自分自身の顔も確かめながら喋ることも可能だ。前述したシンポジウムの際はどうであったかと言うと、「自分の表情は意識の隅にもなかった」のが正直なところだ。討論が豊かであったゆえに、「自然と笑顔になった」ということだろう。

学部卒業後に中高の教師になった頃、教室でどのような表情であるべきかと考えたことがある。初任校は全国でも名だたるサッカー部があって、その監督の先生が著書も書いていたのだが、そこに「部員に緊張感をもたらすために、意図的に機嫌が悪そうな表情でいるようにしている。」という趣旨の記述があった。現実に職員室でもその先生は憮然とした表情でいることが多く、新米教師の僕などは当初近寄り難かった記憶がある。しかし、あれこれお話をすると実に気さくで冗談も多く、学ぶもの多き先生であった。部員の生徒らに聞くと「甚だ怖い」のだと言うのだが、それが練習や試合での緊張感を作り勝利に繋がっていたのだと気付かされた。とはいえ、僕自身はなかなか教室で憮然とした表情でいることはできなかった。ついつい笑顔になってしまう、むしろその「やさしき個性」を逆手にとって生徒らと付き合うべき、とわかるまで5年はかかったように思う。丁寧さとかやさしさが緊張感を生み出す方法を、僕は相対的に学んだのだと今にして思うのである。

営業の人との客としての関係
やさしき緊張感をもたらすためには
本音を鋭く言うべき時には言えるのが学生らを育てるのである。


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決して一人で生きてきたわけじゃない

2020-10-28
この人あの人に支えられている
コロナ禍でさらに思う人との関係性
苦境に思い浮かべる顔と顔

心の支えとなる人の顔が、どれほど浮かぶだろうか?そしてその人々のことは、どんな状況になろうと大切にし続けているか。人生は出逢いの連続であるが、特に相性もよく長きにわたり付き合いたいと思う人々は大切である。コロナ禍は、我々の生活をもう元に戻すことはないであろう。「元通り」を求めている以上、その渦の中に呑み込まれて溺れてしまうだけである。こんな情勢下で、支えられてくれた人々と逢うことも儘ならなくなった。だがそれでいじけてばかりもいられない、その人々に向けて言葉を投げ続ける必要もあろう。人間にとって一番の後退は、「言葉を失う」ことである。支えられたと思える人々には、通信手段が様々にある現代だからこそ、せめて「言葉」は送るべきである。

我々はいま、どんな地点にいるのかがわからなくなった。第1・第2の波があったが、この秋冬はどうなっていくのだろうか?手帳は年度内まであるのだが、あと2ヶ月の年内、そして新年の1月から3月まではどんなことになるのだろうか?これまでの波がボディブローのように効いて、冬越え年越しに跳ね返って来ないだろうか?などとまったく先行きは不透明であるのだが、「新しく」前に進まないわけにはいかない。むしろ仕事の采配も個人的な人間関係も、その本質が見えてきているのではないかと思う。「10年後に消える職業」は、既に為されてきた様々な予測を超えて顕在化してきている。むしろ仕事と人間関係の「新しい未来」に向けて、「いま」が試されているのではないだろうか。

ありがたき人々のあたたかさ
多くの人が早く宮崎に来たいと言ってくれる
我々にはどう足掻いても「明日」しか用意されていないのである。


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あらゆることに言い訳はせず

2020-10-27
エラーした野球選手がグラブを見る
「コロナだから」というけど・・・
基礎基本ができていれば言い訳など

自分が野球をしていた少年時代にも経験はあるが、野球選手が守備で失策をするとその後に自分のグラブを見て首を傾げる動作をする。失策はほぼ100%が自分自身の責任の筈だが、どこかでグラブのせいにしたりする心理である。そんな仕草をするぐらいなら、日頃からグラブの手入れを徹底すべきと思う。イチローさんなどは、もちろん失策もほとんど無かったわけだが、失敗の理由を作らないようにグラブの手入れをしたり、感覚が狂うからと他人のバットを握らなかったりしたことは有名である。本当の「プロフェッショナル」とは、イチローさんのような行動のことを言う。プロ野球選手でなくとも、誰しもが自分の仕事でお金をいただく以上、「プロ」の筈であるが、環境や条件のせいにする言い訳をしている光景にも多く出会うことは少なくない。

医師でも店員でも飲食業であろうと、患者さんやお客さんに向き合ったら「プロ」である。今年のように予期せぬコロナ禍に見舞われた際にも、基礎基本がある者は言い訳をしないのだとつくづく思う。甚だ苦しい状況に遭遇し心が折れそうになっても、自分の基礎基本を徹底して貫く。ウィルスや国の政治や他人のせいなどにはしない。もちろん国の政治家も税金で高給を手にしているプロなら、逃げないで向き合うべきではある。また「新しい生活様式」は、単なる理念ではない。「新しい」なかで自分には何ができるかを徹底して模索すべきではないか。大学が遠隔講義であるから教育効果が低いでは済まされない。講義とは?学びとは何か?と考えていれば、自ずとどんな状況下でも、やれることに向き合うべきなのである。

自分が親しくしていた人たちを見廻すと
誰も誰も言い訳をしない人たちだった
自分自身で「新しい」ものを既に開拓し始めている親友たち。

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上質とは何か?

2020-10-26
高級感?ステータス?
GoToで人気なのは高級旅館とか
自分にとって必要なものは何であるか?

巷間には様々な商品が溢れかえっている。食材も外食産業も日用品からスマホまで、ありとあらゆるものが多様に展開している世の中である。そんな中で気になるのは、「百均」などの格安がある一方で「高級」志向の商品が展開していることだ。それは、「GoToトラベル」でも「35%安いから」という理由で「高級宿」ばかりが人気であると聞く。現実に「35%」は消費者としては大きく、「せっかくなら」というのも人情であろう。だが、当該の宿で「高級」を味わうのが「旅」なのかというと、そうばかりとはいえまい。その宿の空間で「いかに」過ごし、当該地をどのように味わうかが本質的に大切なのだ。あからさまに言えば、本当に当人にとって必要ならば「35%オフ」でなくてもその宿を選ぶべきなのではないかと思う。

かくいう僕は、食材や商品を選ぶ際に「高い方」を選択することも少なくない。例えば、プラスチック製品ひとつでも原料や製造過程を考えると、安易に安価なものに飛びつけない怖さがあると思う。個人で材料を吟味し手間隙をかけて美味しい料理を提供する個人商店が窮地に追い込まれる情勢下で、我々の選択はさらに狭まっているようにも思う。単に「高価なもの」を推すのではなく、その質が確かめられる眼が求められるのではないか。大企業としての「名前」で押し付けるのではなく、その製品にどんな「思い」を込めて作られているかを見極めたいと思うのだ。コロナ禍は、そんな消費者としての眼の確かさを、さらに深く求めてきているのではないか。人気の「高級・・・」という名ばかりに行列を作るような行為はしたくないと思う。

日本のものづくりは質を問うてこそ
丁寧にかつ「こだわり」を見抜きたい
横並びで商品に飛びつきたくない天邪鬼である。


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心の赴くままに翔べたなら

2020-10-25
心が動かされるもの
「志」の文字は「心」が「上に向く」という字源
良き師の受賞の喜びを胸に

人が鳥に憧れを抱くのは、空を自由に翔んでいるように見えるからだろう。何にも押さえ込まれず、枠組みのない大空をどこでもどのようにでも自由に翔んでいる。だがもちろん鳥たちに「自由」などわからぬものだろう。「自由」などと考えることそのものが何らかの「束縛」に嵌まり込む要因なのではないかと思うこともある。同様の意味で僕は都会生活から離れ、宮崎での生活を選んだことで少しは「鳥たち」に近づけたのではないかと思う。今、こうして小欄を書いている書斎の外からも、鳥たちの元気な声が響いている。無駄な騒音のない宮崎の居住環境には、自然の声がたくさん届けられるのだ。

地元紙・宮崎日日新聞賞の特別賞を、師である伊藤一彦先生が受賞された。大学卒業後に故郷の宮崎に戻り、高校教員をしながら日本でも指折りの歌人として活躍されてきた。また全国の有力歌人の登竜門となった牧水賞の制定、若者から高齢者まで「短歌」に関係する企画開催に尽力され、「短歌県みやざき」の礎を築かれた功績が大きな受賞理由である。その長年の「志」と「努力」を思うに、心から尊敬できる良き師である。週末で落ち着いた頃と思い、お祝いの電話を申し上げた。すると「短歌県」としての更なる企画や構想のお話を、多く聴かせていただいた。思うに僕自身が宮崎に居住している理由の大半が、伊藤先生の存在が身近にあるからだとあらためて思う。人間が向かう空には、翔び方があるのだと悟るひと時となった。

やらずにはいられない翔びたい空域へ
いつも支えてくれる妻とともに
「心」を向けて青き宮崎の空へ


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10000万歩分のはじめの1歩

2020-10-24
朝のスタート
夕方の憂鬱
躓いたとしても前に歩むために

昨日の小欄を書く直前のことである。起きると一杯の珈琲をマシンで入れて、PCのある2階の書斎に持ってくる。その際に階段で左足が引っかかるようになって、珈琲を三分の一ほどこぼしてしまった。幸い自分自身は転んだりしなかったが、起床時間ではまだ暗い状況になってきたことも影響があるだろう。その後はタオル2枚を使用して、階段のこぼれた珈琲を拭き取る作業をせねばならなくなった。所要時間は10分程か、毎朝のルーティンに余分な作業が加わった。今、「余分」と書いてしまったが、本当にこの語でよかったのだろうかと思う。もしかしたらこの些細な出来事は、何かを暗示し何かの予兆なのではないか?と考えれば「余分」ではなく「必然」の作業だったのかもしれない。

ここのところ、毎日の歩数が確実に10000万歩を超える。職場への往復を含め、できるだけ徒歩を心がけているからである。キャンパス内でもなるべく一度は図書館に足を運ぶようにしており、遠隔講義で研究室で籠りっきりになるのを避けようとしている。朝の出来事を思うと、「一歩」に匹敵する時間が大変に貴重なのだとあらためて痛感するのだ。その個々の「一歩」を、自らが納得した過ごし方ができているか?「余分」な作業や建前の行動をしてはいないか?だがすべてが効率化された、精選された行動で「一日」は成り立っているわけではない。「無駄」に思える時間や仕方なく「せねばならない」時間も含んで「一日」なのである。などと言うことを、「今日」になって小欄に書き付けることで、自らを客観視している。珈琲をこぼした際の虚脱感は、どうやら一日に拡がり引きずってしまったように思う。

眼の前の「一歩」
「してしまった一歩」
今日は再び来らず


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与謝野晶子の「髪」と「われ」

2020-10-23
「髪五尺ときなば水にやはらかき少女ごころは秘めて放たじ」
(与謝野晶子『みだれ髪』収載歌)
「和歌」から「短歌」へ 浪漫的に

ゼミ生が卒論で「髪」に関する和歌短歌を扱っており、与謝野晶子の「髪」が詠まれた短歌についてのゼミ発表があった。興味深い内容であり指導の関係であらためて『みだれ髪』を読み通してみた。晶子の歌は人口に膾炙したものも多く、個別に読んでいる場合が多いことにあらためて気づかされる。だが歌集として、399首の配列や題をモチーフとしたテーマ性などを考えることも重要である。冒頭に記した歌も大変に有名であるが、「少女ごころ」を表象しているところは奥深く読んでみたい。歌に詠まれる「君」の存在、与謝野鉄幹との関係を前提として読みがちであるが、歌集収載前の初出なども考えて浪漫的な詠風の成り立ちを考えたい。

また明治30年代の情勢を考えると、「和歌」から「短歌」へと革新が名実ともに進められた時代。「公的主体・儀礼的(和歌)」なものから、明治近代色を帯びた「個的主体・日常的」な発想に意識が転換した時代である。こうした転換は瞬時に起きるものではなく、晶子の中での変遷も考慮すべきであろう。このような意味で、古典和歌の持つ没個我的な象徴性を踏まえた上で晶子の「われ」を読むべきと思う。さらにいえば、「君」と「われ」との対象性を見出しつつも古典にみられる一元的な「神」の存在も意識されている。平安朝和歌に詠まれる「黒髪」という素材、恋の情念を表象し自由を束縛される要素もあるからこその「みだれ髪」なのかと思う。卒論のさらなる進展が楽しみである。

「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」
「その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」
こうして明治に始まった近代短歌の延長に我々はいるのである。


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自分の眼で現実をみること

2020-10-22
「実相に観入して自然・自己一元の生を写す。」
(斎藤茂吉『短歌写生の説』)
「他人の借り物ではなしに・・・」

いまさら言うまでもないが、冒頭に掲げたのは茂吉の『短歌写生の説』である。根本的なところに据えておくべき考え方であるが、ともすると忘れがちになってしまうので反芻すべき機会も必要と考えてみた。特に思索的な研究者である身にとっては、執拗に反芻する必要性を覚える。「実相」ではなく「観念」ばかりが先行し、「理屈」にまみれた「・・・とは?」といった落とし穴に嵌りがちであるからだ。「物事を正確に直接に見るということである。」や冒頭の「借り物ではなしに・・・」は佐藤佐太郎の言葉であるが、この「正確に直接に・・・」がなかなか容易ではないものである。

日常生活や仕事上の組織内でも、前述したような「見方」をするのは難しいと思うことがある。我々は多くの物事を、「他人の借り物」で見がちなのではないか?仕事上の場合は、あまりに「実相に観入」するとなると、心が伸び切ってしまうため防衛本能が働いているのかもしれない。正岡子規に拠れば「取捨選択」が必要で「面白い処を取りて、つまらぬ処を捨つる事」の大切さが説かれているが、これも簡単なことではない。仕事ともなれば「面白い処に気づかず、つまらぬ処に目くじらを立てる」ことになりかねない。短歌に向き合う頭と仕事に向き合う頭は、明らかに違う。先日、妻から「(自動車を)運転しながら歌を考えれば」と言われたが、それはあり得ないことだと実感した。どうやら本日に記したことが、作用しているのではないか。歌人の方々が、あまり自動車運転をしない傾向にあることも薄々感じていたことだが。

「大を取りて小を捨て、長を取りて短を捨つる事にあらず」(子規)
世間には数多くの歪んだ眼も存在している
ただただ人間を見つめること。


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