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海水面の下降と戻るではなく進む

2020-09-24
新型コロナ禍が社会の海水面を下降させた
「(以前に)戻る」のではなく「進む」
普段から基礎基本に忠実であるか・・・

世界各国の政治指導者の「新型コロナ対策」への評価が、様々な形で問われている。もちろん各国なりの「文化」などを背景に多様な考え方があるので、一概に評価はできないようにも思う。だが、我々の身近な日常を含めて「社会の海水面」が「コロナ以前」よりも下降し、見えなかったものを見えるようにする作用があるのは確かである。感染拡大の大きな要因に「人との接触」があるわけで、社会的なモラルやマナーの面が影響しているのだろう。そんな中で、世界の大学はいづこも「遠隔講義」を強いられている。その成否や学生の評価が最近は大きな話題となっており、ここでも海水面が下降して「講義」にどのような姿勢で臨んでいたかが問われているようにも思う。

社会生活全般に「(コロナ以前に)戻る」という考え方があるが、前述した海水面の下降で海底が見えたならば、その反省を踏まえて「(新しい生活に)進む」べきではないだろうか。大学では「遠隔講義」によって、「大学の真の学びとは何か?」という問題意識の海底が見えた。学生は「授業」をやっている「空間」に居れば「学んでいる」わけではなく、いかに「授業テーマ」に対して自ら「調べ読み書きして思考を表現するか」というように脳内を働かせたかが肝要となる。「対面」で直接に語り掛けた事実があるから、学生は「学びが深まる」わけではない。授業担当者が直接対面で語り掛けた方が自己満足に陥りやすいと、やや皮肉めいて考えることもできるのではないだろうか。

あらゆることで「基礎基本」の大切さが見えた
「新しい・・・」は何も感染対策のみにあらず
地球上での生き方を多くの人々が「(あるべき方向へ)進める」のだ。


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1日10000歩以上を歩くために

2020-09-23
秋分の日で昼と夜が均等に
朝陽とともに歩み10時には寝床へ
人間の活動時間帯も自然の巡行によって

小欄を書いている際に日の出時間となる夏季であったが、今現在、窓の外は暗闇となっている。ここのところ日の出時間が遅くなることと、日の入りが急速に早くなったことを体感する。この時間帯のあとに一連のトレーニングをするのだが、ウォーキングをする時間帯が、次第に朝陽を浴びる度合いが変化して来る。帰宅時の暗さというのも大きな変化で、夏の間は夕食後にもまだ明るさが残っていた。日の出・日の入りにこれだ敏感になったのも、宮崎に住んでからのことだ。都会生活では人工的な光が氾濫し過ぎており、自然たる太陽の巡行を意識することは稀である。

連休ながら先週の土曜日以来、歩数の週平均が10000歩を超えている。朝20分、夕食後に20分、そして日中の生活の中で30分程度の歩きを蓄積することが肝要である。聊か汗が滲んで来るような感覚まで歩く、夕食後にもこの時間が確保できるのは貴重である。足のみならず身体全体の血の巡りがよくなるようで、脳の動きも明らかに活性化するように思う。また朝陽を浴びれば、「セレトニン」という幸福感が湧いて来る分泌物が脳内に出るのだと云う。宵の22時から深夜2時頃までは、「成長ホルモン」が身体を修復するとも聞く。自然に沿って生きること、そして自らの身体で歩むこと。この人間の基礎基本を今一度見直して生活をしたいと思う。

月平均は7600歩、年間平均は6800歩
5月6月の歩数の落ち込みが顕著だ
ようやく東の空に光が見え始めたところである。


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集うは縁の不思議な力

2020-09-22
妻の両親・自分の両親
そして学生・卒業生もご両親と
限りなき偶然のような必然・・・

この広い地球の中で、妻と出逢えたことは計算上かなり稀少な確率になるだろう。さらに考えれば、双方の両親が出逢えたこと、それで無事に妻も僕も生まれて育ててもらったこと。その双方の両親が戦災などの危機もありながら生命を繋いでくれていたこと、等々と考えれば考えるほど「奇跡」の積み重ねがあって僕らは出逢えたと思えて来る。「敬老の日」だからというわけではないが妻のご両親が我が家に来訪し、双方の両親を交えて6名での食事に喩えようのない幸せを感じた。「敬老」とは「老いるを敬う」というよりは、自分という存在を含めてこの社会を創って来てくれた世代の人々に深い感謝と愛情を注ぐ意識を再認識する日なのではないかと思う。

昼食に出向いた店で、卒業生と現役学生姉妹のご家族に偶然にも逢った。僕も双方の両親と何処の店に行こうかと、あれこれ思案した結果がこれである。計算にはまったく無頓着で無能だが、「確率」ならばどのくらいのものなのだろうか?その日その時間帯にその場所で出逢う、双方の家族全員の行動が少なくともその日の朝からすべて合致して来ないと叶わないことである。僕らの仕事では学生との出逢いも大変貴重な「奇跡」のようなものである。出逢ってゼミ指導をしてどのように社会に送り出すか、学生当人の人生の大きな節目を見守る重責がある。そしてこの縁は学生時代のみならず、学生たちがどんな人生を歩んでいくかにも立ち会っていく歓びがある。それをひしひしと感じる「偶然」な昼下がりであった。

人が出逢えなくなっているコロナ禍で
久しぶりにモールで買い物も
僕の宝ともいえる宮崎の縁である。


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忖度・保身をぶっ飛ばせ

2020-09-21
「半沢直樹」最終回前の熱演
結局は政治家の黒幕に忖度する銀行
「矜持と国民のために」と「千倍返し」を言い放つ直樹

「君は銀行員でいられなくなるよ」黒幕政治家が「半沢直樹」に皮肉たっぷりに脅しをかける。銀行の頭取・常務も政治家に忖度しその意向を鵜呑みにし、不正の証拠を隠滅すべく引き渡し政治家と会食をしている。常務に強引に「土下座」させられそうになる「半沢直樹」は、銀行内の力関係以上に「正義」を貫き通そうとして自力で抑圧を跳ね返す。暗躍な企みによる不正を闇から闇へ葬り去り、金と権力にまみれた政治と金の関係がこのドラマに描かれている。時折、虚構なのか現実にモデルがいるのかと思うほど、日本の状況をよく写し取っているようにさえ思う。

誰しもが自らの生活・経済(力)・立場を守りたいと思う。権力者は「人事権」を振り翳すことにより、不都合な真実を知った者に言うことを聞かせようとする。それを必ず「これが社会というものだ」と言って自らを正当化する。だが「保身」に身を委ねた者は、果たしてその後の人生を豊かに送れるものかと思う。ましてや「不正に加担」したなどとうことになれば、自らの正義感の上で耐え難い思いに追い込まれるだろう。僕が経験した中高教員の現場でも、自らの人事を有利にするために管理職と密通するごとき輩がいた。その「保身野郎」も野郎だが、応じる管理職側にも「矜持」はあるのかとよく考えた記憶がある。少なくとも生徒を導く教育の場である。広く考えるならば、現状の政治の状況を見て育つ若い人は、この国をどのように思っているのか誠に不安である。

また「ドラマはドラマでしかない」という声が聞こえる
虚構は現実以上の真実
「半沢直樹」がなぜこれほどの視聴率なのかを考えてみるべきである。


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歩むこと声を出すこと再考

2020-09-20
二足歩行の原始の時代から
好きな人に声をかけるその心もて
人間の根源的な身体性を失わぬように

「暑さ寒さも彼岸まで」すっかり秋めいて涼しい気候になってきた。月別の平均歩数をスマートウォッチが計測しスマホに表示してくれているが、5月が最低の数字を記録している。コロナ禍での自粛に加えて遠隔講義の開始と、外出や歩き回る授業をしなくなったせいである。「人との接触を避ける」という標語が浸透し、ともかく必要以上に外出することが憚られたのであろう。自宅周辺をウォーキングすることなどもせず、スポーツジムにも行けなくなった。遠隔授業の制作に無我夢中になっていたこともあるが、仕事上でも研究室からトイレ以外は一歩も出ない日々が続いた。すると必然的に「人と接しない」ことになる。されば「声を出さない」で過ごす1日となるが、生声で話せるのはせめて妻のみという状況であった。

歩くこと、声を出すこと、この二つが人間にとってとても大切だということをあらためて実感する。歩かないと単に足が弱るのみならず脳内が活き活きと動かなくなり、精神も卑屈になりストレスが抜け出ない。声を出すこともまた同じで、脳内で「思う」だけではダメで「声にする」脳内作用をするかしないかで精神の安定は大幅に違う。繰り返しての話題であるが、歌人の若山牧水は作歌スランプになると散歩するとか『万葉集』を音読するなど、歩み声を出して解消していたようだ。古来から歌人・俳人・詩人らはよく歩きよく吟ずるものだ。創作をするには脳内のみではなく、こうした身体性が必然的に伴うものだ。となれば「国語」の授業内で創作活動などを行う場合も、「歩む・声を出す」に配慮する必要があるのではないだろうか。新型コロナが多くのものを奪う世情にあって、この二つの身体性を僕らは根源的な人間性として確保しなければならない。

近所の知人は子どもを抱いて散歩を
適度な揺れが子どもを安らかな眠りに導く
路上での世間話で声を出すこともまたよし。


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不思議な時間を過ごしている

2020-09-19
新型コロナ感染が始まった3月頃
あの頃がもう遠く遠く感じるのはなぜ
9月お彼岸の時期ではあるが・・・

10月更新の仕事の引き継ぎをすべき時節となった。3月とともに「年度」の中間点でもあるが、その「3月」を思うと遥か遠い時間であるような感覚に今年は囚われている。言い換えるならば、「新型コロナ」が明らかに社会的個人的な時間意識を変えてしまったかのようである。「半年」が特急のようでもあると同時に、その局面が数週間で変化に変化が折り重なることによるものであろう。夏の豪雨と台風という暴虐な季節の記憶だけはあるが、桜や紫陽花や向日葵といった歳時記的な草花の記憶には乏しい。

とりわけ仕事上で新型コロナ対策の講義に関する様々な対応に追われてきて、ゴールなきマラソンのように走り続けていたことも「不思議な時間」の要因である。会食や飲み会がないこと、スポーツジムに行けなくなったこと、授業といっても研究室に籠ってパソコン画面越しに顔から上だけで授業をすること等々が、生活を一変させてしまった。いかにも身体性を喪失した頭でっかちで動きのない生活感が、時間意識も変えてしまったのだろう。顔を局所的に捉えるならば、大学構内で人に会っても会議で距離をとって話すにしても、眼のみしか露出していない対面がある。口紅の売れ行きが大幅に減退したと聞くが、「心の出口」たる口の存在が内実ともに疎かになるのは憂えるべきことのように思う。

この時間は今後はどのようになるのだろう?
季節なき季節がまだ続くというのか
人類史に遺る時間を僕らは生きているのだ。


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謎に立ち向かう学びこそあれ

2020-09-18
「わかりやすい」ということ
創作的活動に対して実用的文章
絵本の突拍子もない展開のような謎めいたものを味わうこと

20代教員になって初任3年目を終えた頃に、同僚で同期の友人と欧州を10日間ほど旅したことがある。当時は現在のように格安航空券などもなかったが、旧ソ連国営「アエロフロート」は格段に安く、薄給の僕らの往路はモスクワ経由チューリッヒ行き、復路はパリ発モスクワ経由で、共産圏の空港やトランジットホテルを経験した。空港からトランジットまでの移動バスに自動小銃を持った兵隊が入ってきて、僕らのパスポートを取り上げ、まるで「強制送還」されるような特異で謎めいた経験であった。今にして思えば、それは僕の貴重で歴史的な「旧ソ連」体験になった。その後の旅先でも、僕は偶発的なものに出逢いたい好奇心ばかりで、計画していた観光地を予定通りに周り切ろうとする同僚と明らかに考え方が違うことを自覚した。出逢った外国人と自由奔放な話をして、危ういかもしれないが彼らと観光地で時間を共にすることが冒険的で謎めいた行動であって、たまらなく刺激を受けたのであった。

この同僚はたぶん、「実用文」を適切に使用できるようになりたい感性だったのだろう。しかし、僕は旅に「物語(文学)」を求めていたことになる。その展開の中には、予期しない事件(ハプニング)による発見とスリルと高揚感がある。予定調和ではなく先が読めず、絵葉書のような風景と出逢うよりも場末のレストランで感性の違う人々と世間話などに興じたかった。僕がそれまでに読んだ短歌も詩も絵本も物語も小説も、そんな偶発性や不透明性のある展開であったからだ。最近は殊に思うのだが、「国語」教材や授業方法が「実用的」になる傾向が強い。「わかりやすい」文章を「論理的に」理解し、自らも「わかりやすい」文章を書くのだと云う。いわば「文学教材」でも「説明」できることが重要、なのだと云われる。つまり旅でいうならば、ツアーのように予定調和的で絵葉書のような風景を観て、海外でも日本人だけで固まって旅程をバスで歩むような「安全な」学習を求める傾向がある。もちろん、こうした学習も否定はしない。だが「人生」という旅を歩むためには、謎めいた見知らぬ物と出逢っておく経験をしておかなくてよいのかと思うのである。それを叶えるのは、「文学」に他ならない。先の初任校の同僚に比べると、僕は自由奔放な旅のような人生を歩み、いま宮崎にいる。初任校に予定調和で長年の勤続表彰でも受けながらやり過ごす「規定ツアー」のような水槽の中には、どうしても居られなかったのである。

「わかりにくい」ことも学ぶのが学校では
いつでもどこでも便利に、「コンビニ」のような学校でいいのか?
大人になっても絵本のようなワクワクする体験がいつまでもしたいと思う。


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こころとことば、そして音楽

2020-09-17
言の葉そして多彩な花を咲かせる樹木
ならば「幹」は何に当たるであろうか?
そして「感情に直接アクセスする音楽」

教育実習視察で附属中学校を訪れ、ゼミの学生を始め当該学年の国語専攻の学生の授業を参観した。中学校各学年にわたる授業であるが、いずれも詩的言語(和歌・短歌及び連句、またはそれに関連する説明文)に関する単元で「ことばの力」について学ぶ内容であった。『古今和歌集』仮名序に示されたように、「よろづの言の葉」となるその根源に「人の心を種として」という「心詞論」がこの国の歌論・文化論として基本をなしている。ここで肝心なのは、「言葉」はあくまで場面・条件・環境に沿って多様な「言の葉」であるということ。ゆえに「こころ」を直接に表現したものでない場合や、「こころ」の多面性を背景とする点もあるということだ。

実利主義の風潮を強める社会の中で、教育界では「言葉は功利的であるもの」という単一思考に陥っている傾向が否めない。ゆえに「わかりやすい」「誰でも理解する」ものを良しとして、謎めいたもの、逆説的なもの、悲劇的や空想めいたものが否定される傾向にある。だがしかし、実際の社会や人生を考えてみよう、現実には「わかりにくいもの」で溢れている。子どもたちが絵本の空想的な世界が好きなのは、理に適わないものが平然と出現するからだ。それは大人が、映画やドラマにスリルや爽快感を感じる作用と同じである。実習視察でこんなことを考えて、夜は歴史番組で古関裕而さんの作曲が生み出したものについて語り合う内容を観た。レギュラーコメンテーターが「(音楽は)知性を吹っ飛ばして、感情に直接アクセスする」といった趣旨の発言をしていた。戦前に「戦意高揚」に加担してしまった曲も、戦後に平和への祈りを込めた曲も「古関」の共通した訴える「音楽性」がある。換言すれば「詞」によって「曲」の性質は多様な「言の葉」に化ける可能性があるということ。僕らが意識せずとも好きになる「音楽」には、こうした人間への無意識・無自覚な浸透性を伴うものである。では「言葉」と「音楽」の中性的な存在である「やまとうた(和歌短歌)」はどうなるのか?まさに僕に与えられた命題がここにあるようだ。

「言葉」が一元化しないように
政治家が述べる「言葉」をすべて信じられるのか
『刑事コロンボ』では、犯人が自らの言動によって暴かれることが多い。


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大学図書館の向かうところ

2020-09-16
感染対策もあれこれ施し
学生が集い共に創る場であるはずだが
コロナ対応で変わりゆく大学図書館

県内の大学図書館で構成する協議会が開催され、開催当番校の副館長として隣席する機会を得た。今年の協議内容はともかく感染症対策。春先よりいかなる対策をとって安心安全な開館に繋げて来たか、各館長やご担当の参加者から多様な報告と協議があった。入館履歴を記録し座席は指定制、またキャンパスそのものへの入構にも自己検温や非接触体温計での検温を経て、等々と並々ならぬ対策を実施して来た大学もあった。また貸出本が返却されるとウエットシートを利用して除菌するとか、24時間は別室でウイルスの感染力の減退を待機させるとか、尋常でない努力が払われている。

新しい時代の図書館は「共創の場」となることを当館ではテーマに掲げている。学生らが集い交流し対話し、新たな発想を得て何物かを創り出していく。従来のように「静粛」に本と向き合うだけの場ではない。集い語り合うことが必要になるゆえ、各階をゾーニングし目的に合致した環境を整備している。しかし現在はコロナ禍で一転、学生が容易に集うことはできなくなった。仕方なく従来の「静粛に管理された」環境のみを機能させている現状だ。だがそれだからこそ大学図書館は、さらなる未来へと向かう。オンラインの発信拠点としての機能を備えようと、あれこれと模索中である。

新たな時代の大学図書館の提案は12月にシンポジウムを開催
学生とともに県内の参加館の方々と共にオンラインを含めて語り合う
コロナは時代を急速に先に進めようとしているのかもしれない。


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庭木に花を咲かせましょう

2020-09-15
残念ながら枯れてしまった一つ葉
その庭の一角にどんな庭木を植えましょう?
常緑樹・落葉樹、虫に強い、陽当たりはよく

居住する地域で昨年は所謂「尺蛾(キオビエダシャク)」が大量発生し、奴らが特性として唯一好む一つ葉の生垣がだいぶ被害にあった家が多かった。県内市内では、約10年ぶりの大量発生であると聞いた。今年も春先にはその兆候が見られたため剪定業者に薬剤散布をお願いするとともに、自らも小まめに薬剤を散布した。その甲斐あってか?今年は気候条件が違うのか?夏を跨いで奴らの飛来・棲息はほとんど見られなくなった。しかし昨年の大量発生時に集中して食われたのか、庭木にしてある一つ葉の低木がとうとう今年は芽を出すことはなかった。綺麗な形状であったので残念であるが、仕方なく今回は剪定業者に伐採してもらうことにした。それに乗じて庭の環境を、妻と僕なりに新たなものとしていきたいという希望が湧き上がってきた。

とりあえず今回は伐採まで行ってもらうのだが、11月ごろの植栽時期には新たな庭木を植えてみたい。そこで庭木には何がよいだろうか?とあれこれと考えるようになった。隣家の玄関先に接している敷地の角であるため、「常緑樹がよいのでは」というのが剪定業者の意見。落ち葉の時期に、ご迷惑をかけない樹木を選ぶ必要がある。何よりこれまで、僕自身が庭には無頓着であった。しかし周辺の掃き掃除を含めて、自宅の庭に意識を向けてみたくはなっている。「常緑樹」であると緑の葉が年中楽しめるのだが、季節の変化を知るには乏しい。またこれまでの経験から、害虫対策も重要で虫の付きにくい品種を選ぶ必要もある。季節ごとの変化が楽しめて、鳥が来て歌うなどというのは理想な姿なのだろうか?小さな鉢植えを含めて、今後の庭木の整備が楽しみになって来た。

「ハナミズキ」「イロハモミジ」・・・
「あの家には・・・が植えられている!」というシンボルとして
庭の哲学的な世界観を詠んだ短歌は少なくない。


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