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あれはドラマだからねーフィクションの受け止め方

2020-09-30
「あれはドラマだからできることだ」
よく学園ドラマを観ていた時に聞いた
フィクションを受け止める心の有り様

文学作品をどれほど読んでいるかと同じように、映画・ドラマを観ることから学べることも少なくない。小学生から中学生の頃に学校を舞台とした所謂「学園ドラマ」を観ていたことは、少なからず「教師」という職業を志望したことに影響を与えたように思う。ほぼ「授業」の場面がない青春学園ドラマは、高校生と型破り教師の心温まる交流の連続であった。「規則規律に縛られ我慢するだけが学校ではない」そんなメッセージを型破り教師は、いつも体現しているのが青春ドラマであった。また著名な「3年B組金八先生」は同世代同時代性を存分に感じたせいもあったが、「15歳の出産」「校内暴力」など社会問題に正面から向き合った内容で心に響いたものであった。

実際に「教師」になると学校現場で中にはドラマのように振る舞う同僚がいて、「それは違うのではないか」と思ったことも少なくない。要は「フィクション(虚構)」の受け止め方が、人によって差異があることに気づいたのであった。逆に前提から「あれはドラマだからね」と視聴をしているのかどうかわからないが、否定的に捉える同僚もいた。もちろん文学も映画もドラマも、自らの主体性で選ぶ必要性もある。だが、何より肝要なのは「現実以上の真実」であることを、どのように受け止めて自らの生きる糧にするかという精神作用にあるように思う。などと考えると、なかなか「大学教授」は映画・ドラマの主人公にはならないようだ。この度の「半沢直樹」の反響などを見ていると、やはり「現実モデル」との間で錯綜があるようなWeb記事を目にする。信念を執拗なまでに貫く「半沢直樹」で演じられたものを、僕らはどのように受け止めてこの国で生きたらよいのか?映画・ドラマの質の高さが「民度」に直結するようにも思うのだが。

生きるための矜持
カタルシスの浄化作用
この国は何を求めていけばよいのだろうか?


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国会では許されても此処では許さない

2020-09-29
「半沢直樹」最終回
暗躍する政治家を最も優秀なバンカーが滅多斬り
証拠たる情報も大切だが人間の「誠実」こそが未来を開く

一昨日「半沢直樹」最終回が放映された。前作ほどではないが視聴率30%超というWeb全盛時代の昨今のドラマとしては驚異的な数字であったようだ。特にSNSなどでの反響を読んでみたわけではないが、僕自身も胸が熱くなるシーンがいくつかあった。直樹の愛する妻「花ちゃん」が、白井国交相に花言葉「誠実」の桔梗を渡すシーンにはついつい感涙してしまった。瀬戸際の夫・直樹を、「花」一輪で支える妻の素朴で実直な姿勢に感じ入ったのだ。夫婦の愛情はまさに「誠実」や「実直」が求められるであろう。今回のシリーズに妻である「花ちゃん」が登場するシーンは少なかったが、要所での「最強一アシスト」が直樹の窮地を救い、社会の「誠実」と「正義」を貫かせたのである。

それにしても視聴率がこれほどの高さであれば、「半沢直樹」の視聴者は実際の政治にももっと関心を寄せて欲しいなどと考えるのは現実的ではないのだろうか。不正融資を隠し口座に保有する金権政治の象徴のようなドラマの蓑部幹事長、半沢の追及に「記憶にございません」と返答する。それを半沢は「そんな答弁は国会で許されても此処(国民を前にした会見)では許されない」と言い放ったのは痛快であった。「銀行は顧客一人ひとりの幸せを支えるものだ」といった趣旨の半沢の信念とともに、現在の世の中から欠如してしまっている「正義」である。昭和では「不正」が社会的に暴かれ総理であっても逮捕された時代であった。その際に流行語にもなった「記憶にございません」、いつからそれが国会で横行する社会になったのか。勧善懲悪世直し劇の現代版「半沢直樹」を痛快と思うのであれば、現実の社会では我々一人ひとりが「関心」を深め「行動」することで、「此処では許さない」社会を築くべきではないのか。

僕ら一人ひとりの中に住む「半沢直樹」
銀行や社会の信頼やいかに
「花ちゃん」のような潤いある家庭が溢れることを幸せな国というのだろう。


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車は夢を運ぶもの

2020-09-28
若き頃に憧れたパリダカールラリー
人生そのものを冒険的に歩んで来て
車と生活との相関的な関係

若き20代の頃になぜか「パリダカールラリー」に憧れていたことがある。両親の友人が知人であるということで、日本を代表する名ドライバーの篠塚健次郎氏にも何度かお目にかかったことがあった。パリからアフリカ西海岸のダカールまで、砂漠や岩場などの悪路を走破する世界一過酷なラリー競技会が所謂「パリダカ」である。そのブームに乗って経済的には無理をして「パジェロ」も購入し、あまり実用的な意味をなさない東京で街乗りを中心に愛用していた。それでも神奈川の林道に行ったり、スキーで雪道を走る際などの走破性は実に快適であった。道なき道を走破する、その夢はやがて「学問研究」という「車」に形を変えて、中高教員から大学教員となる「ラリー選手権」を僕は走ることになった。

研究に専心してからは車は無用、しかも東京在住時は特に「不要」である。修士・博士後期課程を経て学位取得から公募採用に至るまで、自家用車を所有したことはなかった。縁あって宮崎に赴任する際に、実習指導などの出張の必要性もあり再び自家用車のオーナーとなった。通勤というよりも、市内への出張やスポーツジムへ通うなどが主な使用目的であった。地球温暖化も考慮してしばらくはハイブリッド車に乗っていたが、最近はあらためてどんな夢を目指す車が必要かを考えるようになった。愛する妻と僕自身の身を護る安全性、さらには両親を乗せて遠出をする快適性、これからはどんな未来へ向けて走りやすい車を選んだらよいのだろうか。自家用車の持つ思想そのものが、人生の歩み方を乗せたものになる。車は人の夢を運ぶものである。

安全性と自動運転的な機能の充実
これから宮崎での夢を乗せて走る車
今なにが必要なのか?それを考える機会でもある。


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いにしへ人に祈る秋の日

2020-09-27
平安朝文化を開眼させた偉人
そして近代短歌を開拓した歌人
彼岸花咲く山の辺の道へ

今月末で節目を迎えることもあり、また毎年9月17日に訪れていた「牧水祭」に行っていなかったこともあり、県北方面へ妻と両親を伴って出かけた。最初の目的地は延岡「今山大師」、東京在住時は「西新井大師」へと事あるごとに詣でていた。母方の祖母や曾祖母が「大師信仰」に厚く、僕自身も受験など人生の難所ではいつも気持ちを整理し立て直し冷静に前に進める状況をもたらせてくれていた。「今山大師」には日本一の「弘法大師立像」があり、延岡の小高い丘の上から遥か高野山方面へ眼差しを向けている。その威光と包容力に、また新たな気持ちが湧いてくるようであった。

参拝を終えて一路日向市の東郷町へと向かう。宮崎が生んだ国民的歌人・若山牧水の生家と記念文学館へ立ち寄るためだ。今年は新型コロナ禍のために命日(9月17日)に大々的な行事は行われず、小規模な献酒と小学生による歌の朗詠が行われた。しかし、やはりこの9月に当地へと一度は足を運ばないと、うたごころが晴れないような気分。日向市内から東郷町坪谷への道野辺には彼岸花が数多く咲き、田圃には黄金の稲が実っている。生家の牧水が座った写真がある縁側に触れ、また牧水が人生の行き先に苦悩した納戸で過ごしている日々に想いを馳せる。その後は若山牧水記念文学館へ、企画展として「牧水のふるさとの風景」絵画展が開催されていた。なぜかその絵画も秋の風景が多く、現実とともに坪谷の様々な秋が楽しめる二重な喜びを味わうことができた。

精神が再び湧き立つ場所
大きな力をもらい秋の気は充実する
いにしへ人の生き方に導かれて。


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贈呈式そして高校出前講義の歓び

2020-09-26
「夢と希望の道標」奨学金贈呈式
その後、市内の高校の出前講義へ
学生・生徒らの希望を支える仕事

大学が成績優秀者に贈る「夢と希望の道標」という奨学金の贈呈式が挙行された。役職上にて参列することになったが、ゼミの4年生1名・3年生1名が贈呈を受けることとなったことは実に大きな歓びであった。全学部を代表しての謝辞を4年生のゼミ生が述べることになり、その文面については事前に対話をして調整を済ませていた。そこには当該学生にしか語れない内容を、盛り込んでいたのだ。それは地元紙・宮崎日日新聞が主催する「俵万智短歌賞優秀賞」の受賞歌を、今回の贈呈への謝辞に結びつけて述べることであった。そんな腹づもりの中、学生謝辞の前に学長挨拶があったが既にその中で「優秀賞」への言及があり、謝辞で具体的な短歌も披露でき実に呼応する贈呈式の構成となった。まずは何より頑張った学生を讃えたい。基準の成績に達するのはそう簡単ではないが、日常からの問題意識の高さがこのような結果となったことは歓ばしい。

午後は市内の県立高校へ、出前講義へと向かった。進路指導(キャリア教育)の一環である学校行事であるが、何よりこの時期になって対面で実施できたことは歓びであった。50分の講義を2コマ、ほぼ教室に満席の1・2年生の希望者に「日本の恋歌ー和歌短歌と歌謡曲」縮約版をお送りした。和歌短歌を「比較研究」する意義や大学で身につける力を口火に、「思い出」を詠んだ短歌の中から「いいね」できるものを選び、簡単なコメントをする。顔を見ながら肉声で語り肉声で答えが返ってくる、もちろんマスク越しではあるのだが、この教室での感覚の新鮮なこと。中には野球部の学生がいて「短歌のリズムがいい」という答えに「野球もリズムだよな」と僕が答えて交流が深まった。最後に「教師という人生」について短歌を通して考えてもらい、教育学部で学べることの意義を強調した。中高教員が長かった僕だが、やはり高校の教室で授業をすると水を得た魚のようだった。帰宅しても生き生きとした気分が収まらないほど、僕自身が生気を取り戻したことにも自分ながら驚きを覚えた。

学生と生徒らの未来を築く仕事
短歌は様々な人生を知るかけがえのない教材である。
「高校の国語で和歌短歌を扱う時間が少ない」という高校生の意見もあった。


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宮大九大合同歌会ーテーマ詠「丸いもの」

2020-09-25
オンラインの効用
宮崎と福岡を結ぶ短歌の縁
14首の「丸いもの」について3時間の歌会

宮崎大学短歌会の定例歌会が、九州大学短歌会と合同で開催された。従来も先方のメンバーの一部が帰省した際など交流の機会はあったものの、オンラインを使用した本来の「合同」は初めての試みであった。新型コロナがもたらした新しい方式は、このような広域の縁を繋ぐ効用もある。総歌数14首、テーマ詠「丸いもの」。月・太陽・地球などの天体やシャボン玉の歌が複数みられたが、卵の黄身、(時節柄で)おはぎ、ドアスコープやスマホのカメラなど、ユニークな素材を「丸いもの」と見た歌もあった。また宮崎のお土産品として有名な「青島せんべい」は、九大の人から「宮崎愛」があると好評であった。また中には「魂」を詠んだ歌も見られた。

歌評は様々に展開されたが、概して「肯定的」なのか「否定的」なのか?という議論になることが目立つ。これは講義の学生レポートにも顕在化している現象だが、いかがなものかと疑問に思っている。和歌の長い歴史を見れば、「否定」することで物事を鮮烈に印象付ける表現もあり、「肯定」することで稀少な価値を露わにする表現もある。歌評の中で「肯定とも否定とも言えない」という意見もあり、その融合の曖昧さの中にこそ、詩歌が目指す表現の混沌があるように思う。また語彙の知識によって、歌の読みが多様になる面白さが随所にあった。例えば、スマホカメラにはどの程度の機能があるか?その使用方法をどのように見るか?新しい機械、また新しい科学的知見などの語彙の場合、「深読み」かもしれないが多様な読みができることを個人的には楽しめた歌会となった。

また機会を見て
様々な地域の学生たちが短歌で繋がる
またの機会を約束し熱い夜がお開きとなった。


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海水面の下降と戻るではなく進む

2020-09-24
新型コロナ禍が社会の海水面を下降させた
「(以前に)戻る」のではなく「進む」
普段から基礎基本に忠実であるか・・・

世界各国の政治指導者の「新型コロナ対策」への評価が、様々な形で問われている。もちろん各国なりの「文化」などを背景に多様な考え方があるので、一概に評価はできないようにも思う。だが、我々の身近な日常を含めて「社会の海水面」が「コロナ以前」よりも下降し、見えなかったものを見えるようにする作用があるのは確かである。感染拡大の大きな要因に「人との接触」があるわけで、社会的なモラルやマナーの面が影響しているのだろう。そんな中で、世界の大学はいづこも「遠隔講義」を強いられている。その成否や学生の評価が最近は大きな話題となっており、ここでも海水面が下降して「講義」にどのような姿勢で臨んでいたかが問われているようにも思う。

社会生活全般に「(コロナ以前に)戻る」という考え方があるが、前述した海水面の下降で海底が見えたならば、その反省を踏まえて「(新しい生活に)進む」べきではないだろうか。大学では「遠隔講義」によって、「大学の真の学びとは何か?」という問題意識の海底が見えた。学生は「授業」をやっている「空間」に居れば「学んでいる」わけではなく、いかに「授業テーマ」に対して自ら「調べ読み書きして思考を表現するか」というように脳内を働かせたかが肝要となる。「対面」で直接に語り掛けた事実があるから、学生は「学びが深まる」わけではない。授業担当者が直接対面で語り掛けた方が自己満足に陥りやすいと、やや皮肉めいて考えることもできるのではないだろうか。

あらゆることで「基礎基本」の大切さが見えた
「新しい・・・」は何も感染対策のみにあらず
地球上での生き方を多くの人々が「(あるべき方向へ)進める」のだ。


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1日10000歩以上を歩くために

2020-09-23
秋分の日で昼と夜が均等に
朝陽とともに歩み10時には寝床へ
人間の活動時間帯も自然の巡行によって

小欄を書いている際に日の出時間となる夏季であったが、今現在、窓の外は暗闇となっている。ここのところ日の出時間が遅くなることと、日の入りが急速に早くなったことを体感する。この時間帯のあとに一連のトレーニングをするのだが、ウォーキングをする時間帯が、次第に朝陽を浴びる度合いが変化して来る。帰宅時の暗さというのも大きな変化で、夏の間は夕食後にもまだ明るさが残っていた。日の出・日の入りにこれだ敏感になったのも、宮崎に住んでからのことだ。都会生活では人工的な光が氾濫し過ぎており、自然たる太陽の巡行を意識することは稀である。

連休ながら先週の土曜日以来、歩数の週平均が10000歩を超えている。朝20分、夕食後に20分、そして日中の生活の中で30分程度の歩きを蓄積することが肝要である。聊か汗が滲んで来るような感覚まで歩く、夕食後にもこの時間が確保できるのは貴重である。足のみならず身体全体の血の巡りがよくなるようで、脳の動きも明らかに活性化するように思う。また朝陽を浴びれば、「セレトニン」という幸福感が湧いて来る分泌物が脳内に出るのだと云う。宵の22時から深夜2時頃までは、「成長ホルモン」が身体を修復するとも聞く。自然に沿って生きること、そして自らの身体で歩むこと。この人間の基礎基本を今一度見直して生活をしたいと思う。

月平均は7600歩、年間平均は6800歩
5月6月の歩数の落ち込みが顕著だ
ようやく東の空に光が見え始めたところである。


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集うは縁の不思議な力

2020-09-22
妻の両親・自分の両親
そして学生・卒業生もご両親と
限りなき偶然のような必然・・・

この広い地球の中で、妻と出逢えたことは計算上かなり稀少な確率になるだろう。さらに考えれば、双方の両親が出逢えたこと、それで無事に妻も僕も生まれて育ててもらったこと。その双方の両親が戦災などの危機もありながら生命を繋いでくれていたこと、等々と考えれば考えるほど「奇跡」の積み重ねがあって僕らは出逢えたと思えて来る。「敬老の日」だからというわけではないが妻のご両親が我が家に来訪し、双方の両親を交えて6名での食事に喩えようのない幸せを感じた。「敬老」とは「老いるを敬う」というよりは、自分という存在を含めてこの社会を創って来てくれた世代の人々に深い感謝と愛情を注ぐ意識を再認識する日なのではないかと思う。

昼食に出向いた店で、卒業生と現役学生姉妹のご家族に偶然にも逢った。僕も双方の両親と何処の店に行こうかと、あれこれ思案した結果がこれである。計算にはまったく無頓着で無能だが、「確率」ならばどのくらいのものなのだろうか?その日その時間帯にその場所で出逢う、双方の家族全員の行動が少なくともその日の朝からすべて合致して来ないと叶わないことである。僕らの仕事では学生との出逢いも大変貴重な「奇跡」のようなものである。出逢ってゼミ指導をしてどのように社会に送り出すか、学生当人の人生の大きな節目を見守る重責がある。そしてこの縁は学生時代のみならず、学生たちがどんな人生を歩んでいくかにも立ち会っていく歓びがある。それをひしひしと感じる「偶然」な昼下がりであった。

人が出逢えなくなっているコロナ禍で
久しぶりにモールで買い物も
僕の宝ともいえる宮崎の縁である。


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忖度・保身をぶっ飛ばせ

2020-09-21
「半沢直樹」最終回前の熱演
結局は政治家の黒幕に忖度する銀行
「矜持と国民のために」と「千倍返し」を言い放つ直樹

「君は銀行員でいられなくなるよ」黒幕政治家が「半沢直樹」に皮肉たっぷりに脅しをかける。銀行の頭取・常務も政治家に忖度しその意向を鵜呑みにし、不正の証拠を隠滅すべく引き渡し政治家と会食をしている。常務に強引に「土下座」させられそうになる「半沢直樹」は、銀行内の力関係以上に「正義」を貫き通そうとして自力で抑圧を跳ね返す。暗躍な企みによる不正を闇から闇へ葬り去り、金と権力にまみれた政治と金の関係がこのドラマに描かれている。時折、虚構なのか現実にモデルがいるのかと思うほど、日本の状況をよく写し取っているようにさえ思う。

誰しもが自らの生活・経済(力)・立場を守りたいと思う。権力者は「人事権」を振り翳すことにより、不都合な真実を知った者に言うことを聞かせようとする。それを必ず「これが社会というものだ」と言って自らを正当化する。だが「保身」に身を委ねた者は、果たしてその後の人生を豊かに送れるものかと思う。ましてや「不正に加担」したなどとうことになれば、自らの正義感の上で耐え難い思いに追い込まれるだろう。僕が経験した中高教員の現場でも、自らの人事を有利にするために管理職と密通するごとき輩がいた。その「保身野郎」も野郎だが、応じる管理職側にも「矜持」はあるのかとよく考えた記憶がある。少なくとも生徒を導く教育の場である。広く考えるならば、現状の政治の状況を見て育つ若い人は、この国をどのように思っているのか誠に不安である。

また「ドラマはドラマでしかない」という声が聞こえる
虚構は現実以上の真実
「半沢直樹」がなぜこれほどの視聴率なのかを考えてみるべきである。


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