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感謝と恩返しで明るい未来をー「半沢直樹」の生き方

2020-08-31
「大事なのは感謝と恩返しだ。その2つを忘れた未来は、ただのひとりよがりの絵空事だ。これまでの出会いと出来事に感謝をし、その恩返しのつもりで仕事をする。そうすれば、必ず明るい未来が開けるはずだ」(「半沢直樹」第3話での台詞から)

日曜日の夜、昨夜から大河ドラマも再開したが、今のところそれ以上に楽しみなのが「半沢直樹」である。7年前の前作では銀行内の不正や虚飾を暴き出す爽快な姿が描かれていたが、今回は政府(国土交通大臣とその後ろ盾となる黒幕)が敵となり「勧善懲悪」のスケールがさらに大きくなっている。政治的権力があれば銀行は何でも言う事を聞くという傲慢と、「一介の銀行員」は「組織のネジ」に過ぎないという横暴な発想が「半沢直樹」に振り翳されている。経営再建を目指す航空会社は自力で再生することこそ社員らの仕事への誇りまでも蘇らせる道だと硬く信じる「半沢直樹」、航空機に使用された何万何億本という「ネジ」の一本一本があってっこそ航行の安全性は保たれ、「お客様」の明るい未来に貢献できるのだという仕事へのプロ意識がそこにある。

誰しもが職業を選択する際に、自分の生育環境から得られた深層的な動機があるように思う。「半沢」の場合は前作で強調された大銀行に融資を打ち切られて倒産し、自殺に追い込まれた父の経営する中小零細「ネジ」会社の思春期でのショックが銀行での仕事への取り組みの根底にある。その「ネジ」が今作でも大きな鍵となっている。組織内の理不尽な論理にも従わざるを得ないと泣き寝入りが横行する日本社会、「不平不満を愚痴ってそれで終わり」なのか?「何をしても無駄だと全部を諦めるのか」?(以上鉤括弧は今作第1話の台詞より)冒頭の台詞にも記したように、「感謝と恩返し」がなければ「ただのひとりよがりの絵空事」になってしまう。本作がこれほどの視聴率を叩き出しているのには、大きな理由があろう。それは昭和から築かれてきた負の遺産を、独善的に引き継ぎ暗躍する組織や政治の内幕である。平成から令和の新しい時代にあって、あらためて「組織」の中でどう生きるか?が一人ひとりの胸の内で試されているのかもしれない。

「自分のためにした仕事は、内向きで卑屈で醜く歪んでいく」
(第4話の台詞より)
「プライドと達成感」僕らに求められるのは歪みの矯正からなのかもしれない。


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なぜ好きな色があるのだろう?

2020-08-30
洋服は何色を多く持っているか?
ラッキーカラーと思い込んでいる色は?
理由なき感覚の最たるもの

食べ物ならば何らかの理由がつけられそうだが、「好きな色」となると理由付けが難しい。服を買うお店で大変馴染みにしているところがあるが、何年も担当してくれている店長は、「・・・・さんの色ですね」と大抵は同系色を勧めてくれる。だが時には「(パターンを)変える」「挑戦する」などと言って違う系統を勧めることもあるが、最終的には「・・・・さんの色」に落ち着く。自分自身の思い込みとも思うのだが、他者にも「この色が似合う」というキャラクターイメージのようなものが共通感覚として根付くのが興味深い。容姿の違いで似合う似合わないが果たしてあるのか?と思うこともある。

服以外の身に付けるもの、また自家用車や家の色に対してはどうだろう?身に付けるものは服の範囲内であろうから、やはり服と同じ傾向があるのは否めない。では自家用車の色は?自宅の家の色は?となるとなかなか一定の傾向がある訳ではない。車はその車種なりのイメージ色というのがあるようで、CM等で前面に使用される色には左右されることが多い。使用している間の洗車など手入れの具合とか、仕事上のイメージと合致しているかなども大きな選択要素である。さて、自宅の色を考える経験というのも、一生に一度あるかないかの機会である。もとよりマンションならば、自分の好みが反映されるわけでもあるまい。家がどんな色であるか?で何に影響があるだろうか、などと考えを巡らしている。

色の好みの意味は・・・
他者に与えるキャラクターイメージ
色は「生きる」にどのように作用するのだろう?


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Zoomでゲストも宮大短歌会歌会

2020-08-29
題詠「百」夏休み歌会
九大からゲスト参加2名もお迎えして
出詠13首なかなか多彩な批評の展開

今月からZoomを活用した宮崎大学短歌会歌会を復活させているが、月2回の定例2回目。今回は九州大学に在籍の宮崎出身者2名をゲストにお招きし、普段より多人数での歌会が開催された。以前から夏休み時期にはこうして宮崎に帰省している他大学参加者も招くことがあったが、Zoomの利用でむしろ気軽にどこからでもゲストに参加してもらうことができるようになった。「本来はWeb利用でこのくらいのことができた」ことを実行しないでいたことが多いことにコロナ禍は気づかせてくれる。今後もより多彩なゲストを、宮大短歌会にはお迎えしたいと思う。

今回の題詠は「百」、「百億」「三百円」「二百円」「百度」「百万回」「百パーセント」「百キロ」など数詞としての使用とともに、「百円ショップ」「百均」「百日紅」「百葉箱」「百恵」などの名詞(中には固有名詞)の使用もあったが、なかなか難しい面も否めなかったようだ。「百千」と並列すれば平安朝の用例(『菅家文草』)にも見えるように「数の多いこと」を表現するわけだが、現代では「億千」に格上げされ、決して「百」は「多い」とは限らないという印象も受けた。むしろ「百均」などの存在が「安さ」の象徴のように作用するあたりが面白かった。

各自が自宅で手軽に参加できる
新入会員の初出詠も嬉しい!
また来月の定例会が楽しみである。


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無鉄砲・我武者羅・むこうみず

2020-08-28
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。」
(夏目漱石『坊っちゃん』冒頭より)
「理非や前後をよく考えないで事を行なうこと。」(『日本国語大辞典第二版』)

初めて漱石の『坊っちゃん』を読んだ小学生の時、同級生に「弱虫やーい」と囃し立てられ小学校校舎の二階から飛び降りたという書き出しに妙に惹かれた記憶がある。家に帰ると「おやじ」が「二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるか」と言われると「この次は抜かさずぬ飛んで見せます」と切り返す。その後の「西洋製のナイフ自慢」の顛末などは想像するに痛みに耐え難い場面であった。人はどこかで「無鉄砲」だとか「我武者羅」だとかいう性格に憧れを抱くのかもしれない。青春学園ドラマの主人公教師が、どこかで『坊っちゃん』をモチーフにしているのも十分に頷ける。規則を遵守させる立場の「教師」が「むこうみず」だという、ある種の矛盾みたいなものがたまらなく恋しいのである。「学校」には、様々なキャラクターの多様な「人間」が「教師」として存在すべきと言えるのかもしれない。

大学時代は、敢えて「無鉄砲」になれるような行動をしていたように思う。自分自身の中の「性格」に対する、一つの「挑戦」のような精神作用である。その延長で20代の初任校での教員生活は、現実に「むこうみず」な先生方も多かったせいか、『坊っちゃん』まがいの楽しい時間であった。ある意味で大学時代の「挑戦」が、実を結んだと言えるのかもしれない。「我武者(羅)」という言葉は、最近では「無我夢中」と混同されがちであるように思うが、「血気にはやること。むこうみずで乱暴であること。むちゃくちゃに物事を行なう事。」(『日本国語大辞典第二版』)とある。新たに物事を開拓したり、人生の流れを大きく変える場合などは、こうした姿勢が必要とされる時があるのかもしれない。20代や学生時代でない今でも時折、「無鉄砲」こそが力になるのではないかと思うことがある。

冷静で判断力よく落ち着いている
荒波を越えていくための「我武者羅」な姿勢
さて「新しい時代」の『坊っちゃん』には何が求められているのだろうか?


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日の出日の入り安眠習慣

2020-08-27
日の出日の入り時刻を知っているか?
自然天象とともに生きて健康な生活を
質の高い睡眠をとるためには・・・

早朝に起きて何らかの活動をすることを、「朝活」などと最近は呼ぶようだ。今までの人生を振り返ると、高校生として受験勉強をしている頃、「国語」の先生に勧められて「朝型勉強」を始めた。決して長い時間を浪費するのではなく、小刻みに時間を区切り集中して勉強するという方法を伴った。そのお陰もあってか志望大学に現役で合格できたので、生活習慣としては自分に適したものであったのだろう。しかし大学生活では多くの大学生がそうであるように、なかなか「朝型」の生活習慣を続けることは難しかった。サークル活動や夜の飲み会などがあれば自ずと帰宅時間も遅く、朝に弱い身体が築かれざるを得ない。むしろ「完徹呑み」などと言って終電で帰宅することや友人の下宿で夜通し語り合うなどということもあった。レポートや卒論は夜の時間帯に活動していたように記憶する。

中高教員になると必然的に「朝型」の生活が求められた。20代の頃は職場の「飲み会」も多く、睡眠を削ってもまったく平気な体力があった。大学時代の延長のような教員生活、僕の青春時代はある意味で長かったとも言えるのかもしれない。再び研究生活に転じてからは「飲み会」どころではない、教員としての仕事との両立にがむしゃらになって駆け抜けた。この時期は「朝型」「夜型」など意識せずにやれるだけ研究発表や論文書きに時間を割いた。博士後期課程になった頃、深夜に論文を書いている脳があまり冴えていないことを自覚した。ここから再び「朝型」へ。時間が取りたいときは、3時4時など早朝というより深夜の果ての時間に活動を開始した。その頃から社会的にも「朝」の方が脳が活性化するなどという風潮が喧伝されるようになり今に至る。今もやはり午前中の脳が、一番活性化しているように自覚している。

時間の密度が夜よりも質が高い
日の出日の入りに合わせて生きるのが健康の鍵とも
質の良い睡眠をとるために心得ておきたいこともいくつか実行している。


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知りたくてたまらないという気持ち

2020-08-26
「せねばならない」という外発的な
「自らやりたい」という自発的な
さらには自然に時間に組み込まれていること

多くの方に同様の経験があると思われるが、「・・・しなさい」と強引に言われると大抵はやる気を失うものだ。中高教員時代から保護者と生徒の面談機会を多く経験したが、高校生ぐらいともなれば過干渉されると当人が明らかに嫌気がさして意欲が下降しているのが常である。発達段階にも拠るがあらゆる学習活動は、「・・・させられている」という動機で行うと身にならないものとならざるを得ない。未来への道に明かりを照らし、本人が自らの意志で内容に興味をもって取り組むように導くのも教員としての大切な仕事である。

幼少期・思春期のみならず、大人も自発的な動機によって動くことが重要であるように思う。その内容にいかに興味が持てるか?その度合いによって仕事への姿勢も左右されるであろう。「読まねばならない資料」なのか「記してあることが知りたくてたまらない」資料なのかで、明らかに読解の深浅がある。この両天秤の均衡が仕事の上では大切であり、前者のようなものをいかに後者のようなものと意識するかも重要だ。読書の意欲というのは、あくまで内発的でありたい。一首の新たな短歌を読みたくてたまらない意欲をもち、どんなに忙しくとも「読み」また「詠む」時間を創っているようでありたい。学生指導や自らのことを省みながら、こんなことを考えた。

学び手の思考を動かす大原則
自らがどう生きたいか?ということ
極めればその短歌で何が言いたいか?ということ。


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Zoom補講ー恋歌を語ろう&歌会

2020-08-25
音声だけを届けてきた講義
せめてZoomで語り合う補講を
自由に語り合う楽しさ&歌会の自由な解釈

定期試験明けの週が始まり、基礎教育科目「日本の恋歌ー和歌短歌と歌謡曲」のオプション補講をZoomで行った。既に小欄に幾度も覚書をしてきたように、本講義は「ラジオ方式」を採用し、音声とプレゼン資料をオンデマンドに提供しラジオ番組のように課題の秀作を投稿として紹介するよう展開してきた遠隔講義である。受講学生の感想は概ね好評で、学びの意図や内容が十分に伝わった感触がある。学生との対話性が持てただけに、まったく学生らと交流しないで終わるのは誠に惜しい気持ちであった。そこで開いたのが参加任意のZoom(同時双方向オンライン会議システム)による補講である。試験を終えた解放感からか参加者は少なかったが、学生らと楽しい話ができて充実した時間となった。

「自分が書いた文章や短歌がどう読まれるか?」「三十一文字に表現するのは大変に難しい」「恋に限らず様々なことを深く考える習慣がついた」「多様な種類の文章を書くきっかけとなった」等々、学生との語り合いの中からは担当者として学ぶことは多い。ラジオ番組でも「視聴者の集い」のような企画が行事のように開催されるのはよく理解できる。まさにライブ感、その場で生身の人間が喋ることで深い思考に至ることができ、精神的に明確な思いが刻まれるように思う。後半は自由詠の歌会、既に課題として提出している短歌を引っ提げて受講者も参加し、この講義で「批評文」を書いてきた経験からか、初心とは思えないほどの評を展開してくれた。宮崎大学短歌会会員もサポート参加してくれ、短歌を通じ学部学年を超えた交流ができた。誠に補講としてこんなに充実した時間が持てるなんて、担当者として幸せを感じるひと時となった。

短歌に向き合う・恋に向き合う
授業が終わることへの愛惜深し
思い出深い講義として学生たちの胸にいつまでも・・・


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汚い手口を暴く当事者意識ゆえ

2020-08-24
組織内の暗躍する黒幕
さらには政治的権力の私物化
それを暴き仕事に誇りあるプロ意識

日曜劇場「半沢直樹」が毎回のように高視聴率を更新し、Web上で多くの話題が飛び交うという社会的現象になりつつある。7年前の前回シリーズ最終回が驚異的な視聴率となり「倍返し」が社会的な流行語になったことが、冷めやらずの人気ぶりだ。既にWeb上で指摘されているようだが、社会の悪を退治する「勧善懲悪」な展開が「時代劇」に通じ、「水戸黄門」を始めとする痛快な展開に年代層を超えて人気の要素があるのだと云う。「悪者退治」の見せ場である殺陣はもちろんないのだが、壮絶な舌戦や現代社会の時間的な緊迫感をうまく演出することで「チャンバラ」同様の激しい「鍔迫り合い」や「格闘」がドラマに仕組まれている。また「伝家の宝刀」である「三葉葵」の「印籠」があるわけではなく、半沢自身が敵を撃退する確固たる「証拠」を翳してひれ伏せさせるという構図が、いっときは窮地ではないのかと思わせるところから大逆転する急転に酔わせる要素があるのだろう。

多くの視聴者が「社会悪」に対して「正義」で「倍返し」したい、という意識が高いであろうことも窺える。「水戸黄門」はもとより、権力と金にまみれた政治家や豪商が暗躍して手を組み、社会的弱者である農民などを苦しめることで私腹を肥やすという構造がある。それを「徳川幕府」という時代的政治的権力を善用することで、社会の大掃除をしていくという図式になる。「半沢」が大きく違うのは、主人公が「一介の銀行員」で組織内権力で如何様にも処遇される弱い立場にありながら、「勧善懲悪」をやり遂げる点である。現実の組織内などで「エビデンス」などという外来語が無為に横行しているが、人間同士の信頼で繋がった輪を信じ、情報戦を勝ち抜くことでその回ごとに「半沢印籠」たる「証拠」が築かれていく。組織内や政治的権力者らの悪辣な所業は「いつかは暴かれる」という、一介の社員・国民としての当事者意識が視聴者の中にドラマを虚構だとは理解しつつ、精神的に「立ち向かう」という正義感に火を点ける構造に多くの人が心を踊らせるのであろう。こうした意味で、「変身」は地球上で「3分間」しか使えない「ウルトラマン」の隠れた英雄要素も満たしてくれるのが「半沢直樹」なのかもしれない。

歌舞伎役者と舞台出身俳優の熱い演技
「こういう奴はいそうだ」と思わせる悪役の巧みな設定
現実の社会悪も「一介の市民」によって暴かれることを願う視聴率なのだろう。


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夏バテ疲れにやっぱりサザン

2020-08-23
6月25日「デビュー42周年無観客配信ライブ」放映
2019年「ふざけるなツアー」も再放送
夏バテか講義終了の燃え尽き感か?落ち込んだらやっぱりサザン!

前日までに、学部の定期試験期間を終えた。このことは3月4月の頃の感覚からすると、大きな快挙のようにさえ思う。新型コロナ感染拡大によって通常の対面講義ができなくなり、遠隔講義へと舵を切り約1ヶ月遅れで始まった前期。実技・実験系での対策を施した対面講義の設定、さらには一部対面希望科目の実施可能期間などを組み込みつつも、「原則遠隔」という中で講義方法への模索が続いた。学生たちも課題の多さやオンライン講義の不自由さ、Web環境などと幾つもの問題を個々に抱えながらここまで来た。同時に課題対応や遠隔講義の制作時間と労力は我々教員を苦しめ続けたといってよい。そんな相互の無理難題を、ようやく「定期試験」まで終えることができたのだ。個人的にある種の達成感が湧き上がり、今週はやや「燃え尽き感」のように気持ち的に疲弊している自分を顧みた。

この日は、WOWOWで冒頭に記したサザンライブが放映になる日。ともに既に本番もまた2019年開催の後者はDVDも購入して観ているのだが、やはりまた入念に観たくなるのがファンの性(さが)だ。いつ何度観ても、サザンのライブはでは曲や演奏の機微に新たな発見がある。その一つは、最近のライブ映像は「歌詞」が字幕で流れる。「音楽」のみで聞いていたサザンと「歌詞対照」で聴くサザンでは、大きな違いがある。音声化する単語の元は通常では読めない「漢字」であったり、例えば「地球(ほし)」「純恋(すみれ)」などのことである。文語を歌詞にした曲もあるが、そこではなおさら英語も混在しつつ、複層性のある歌詞となっていたりする。「東京VICTORY」を始め最近の有名な曲から力を貰うこともあるが、アルバム内にある僕が20代ごろの曲もまたいい。またあらためて、スタッフの方々総勢400名にも及ぶという無観客配信ライブの社会的な意義も考えさせられた。放映後23時からは「桑田佳祐のやさしい夜遊び」、新たなCM曲「金目鯛の煮付け」も全編初オンエアとなった。

音楽こそが僕たちの日常を笑顔にしてくれる
希望の明日へと導く曲の数々
ありがとうサザンオールスターズ!!!


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雑談なき前期終了

2020-08-22
前期定期試験最終日
遠隔講義と一部対面の融合でやり遂げる
だが考えてみれば、学生としていないのは「雑談」だった。

前期科目はほとんどがWeb上に提出するレポートでの評価としたが、「文学史」の講義に関しては「試験」が必要と考え「実施希望届」を出し、この日が実施曜日であった。入学以来わずかしか対面講義を経験していない1年生ということもあり、むしろ「試験」そのものも体験すべきではないかという思いもあった。暑い中であったが、やはり「試験を受ける構え」でやってくる学生らを見ていると〈教室〉とは、こうした場であることを自覚する。感染対応で学籍番号順に指定され、前後左右は空席となる。3回ほどの対面講義でも同様の座席であったため、数回ながら学生らの顔と座席位置で全ての学生の名前を覚えている。冷房で十分に室温を安定させておいて、窓や扉を開放して換気に配慮する。暑さ対策ということもあり、試験中に飲み物を認め、必要な者は空席となっている隣の座席に置くように指示した。

75分間という短縮された講義時間内で、学生らは存分に学びの成果を文章として書き付けている。その生身の姿をリアルに眼前で見るということに、担当者として大きな意義があると実感する。講義は担当者の一人舞台では決してあるべきではなく、受講する学生がどれほどの芝居を演じられるかを展開する場であろう。その「公演」の様子を目の当たりにする場が、教員であれば欲しくなるはずだ。こんなことを考えながら、一人ひとりが答案に書き込む様子を試験監督として眺めていた。試験終了のチャイムが鳴り答案回収、この瞬間の解放感は誰しもが経験があるだろう。その後、少々のコメント・注意を加えて解散。学生は自分が使用した机にアルコール消毒を施すことになっている。消毒液や拭き取りペーパーを取りに来る際、「社会的距離」には注意しながらなるべく声を掛けてあげたいという衝動に駆られる。何より大切で失われていた時間はここだったのだ。講義とは関係のない話題、学生らの生活ぶり等々、雑談をすることで学生らとの関係性は親密になってゆく。オンラインでは「講義終了」とともに画面上から忽ちに20名前後の学生らが消えてゆく。オンラインは講義の中でも「雑談」をしづらい雰囲気にあるのはなぜだろう?オンラインでは叶えられないこと、「雑」と名付けられたものこそ尊いのがこの世の常である。

声掛けがあって〈教室〉は生き生きと
余白のない文字面は詩にならない
「雑談」なき前期終了にあれこれと考えさせられている。


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