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Web配信「山下達郎さんライブ」

2020-07-31
“TATSURO YAMASHITA SUPER STREAMING”
(MUSIC/SLASH)
音響・映像・ライブ感などへのこだわり

先月のサザンオールスターズWeb配信ライブに続き、昨日は山下達郎さんのライブ映像配信チケットを購入し1時間半の音楽に酔った。「クリスマスイブ」はCMに使用されてあまりにも有名だが、それ以外にも他者に提供した楽曲をはじめ著名な名曲の作曲者として素晴らしいものがある。あの独特な高音の響きはもちろん、マニアックなギター演奏を含めて見所は満載。今回は生配信ではなく、過去に行われたライブ映像をご本人の確認を経て流されたものであったそうだ。デビュー45周年で古民家のようなライブハウスでのアコースティックライブは、バックのベースとキーボード奏者もよろしく、実に聴きごたえの深いものであった。

後半は「氣志團」の夏フェスに参戦したという野外ライブ映像。雨の中でも物ともせず、花道で豪快なギターソロも魅せ、バラードなしの夏フェス仕様セットリストが前半と対照的で良かった。コーラスには竹内まりあさん(達郎さんの妻でミュージシャン)も加わり、KinKi Kids「硝子の少年」などの演奏もセットリストに含まれた。1950年代生まれで60〜70年代に思春期から青春期を過ごし、楽曲制作に深いこだわりがありラジオDJ番組を長年持っている。こんな点で達郎さんと桑田佳祐さんは、J-POPを牽引してきた存在感があり相互に敬愛しているあたりも興味が惹かれる。曲はもちろんであるが歌詞の質感と点描性の深さは、今後の分析対象として様々な角度から扱っていきたい。

映像配信の音響や質感
オンライン企画イベントなどへ参考となる
達郎さんの声に酔う宵のうち


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附属図書館「国文・芸文祭2020みやざき」PRコーナー設置

2020-07-30
「国文・芸文祭2020みやざき」
PRコーナーを大学附属図書館に
若者が育つ場にこそ文化の光を

新型コロナ感染拡大により本年10月から開催予定であった「国文・芸文祭2020」が、来年の7月からと開催期間が延長されている。今年になって開催までのカウントダウンも始まっていたゆえ残念ではあるが、むしろPR期間が長くなったと前向きに捉え「プレ企画」を含めて楽しみたいと思っている。県民全体が「文化」に親しみを持つ意義深い機会として、テーマの一つに掲げられている「若山牧水(短歌)」に関連して協力をしているところだ。県内ではここのところ毎日のように感染確認が相次ぎ、見る見るうちに感染者総数は3桁となってしまった。PR企画もプレ行事も、現状では思うようにいかない困難さも垣間見える。

こんな情勢下だが、開館したばかりの附属図書館1階コニュニケーションコモンズの一角にPRコーナー設置を模索していた。僕のゼミ生である学生創発活動の学生が仲介役となり、この日は県庁ご担当の方々が設置作業にいらした。ポスターやパンフも期間変更の訂正が為され、比較的余裕のあるスペースにコーナーが設けられた。本県出身者ばかりとは限らない学生たちに、少しでも宮崎での「国文・芸文祭2020」を知ってもらいたいと思う。大学図書館は単なる学修の場であるのみならず、「文化」交流の場であるべきだ。学生は専門の学修をするだけでは、人生の萌芽期には物足りない。正解のない人生を見通すためにも、「文化」を体験的に受け入れるべきと思う。

「学び」の捉え方が閉塞的な昨今
「文化」の力は若者の感性を耕す
宮崎大学附属図書館1階「国文・芸文祭2020みやざき」コーナーをよろしく!


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寺山修司にもらうヒントを

2020-07-29
「空を呼ぶ夏美のこだまがわが胸を過ぎゆく時の生を記憶す」
九州南部は梅雨が明けて夏本番
ラジオドラマや歌詞・歌謡曲への思いなども

この時期になると、寺山修司「初期歌篇 夏美の歌」が読みたくなる。冒頭に掲げた一首をはじめ歌に「夏美」と名を入れた歌群が恋しい。昭和の時代、「燃えろいい女 燃えろ夏子🎶」という楽曲があったが、夏と海と美しい女の配置は絵になる。もっとも今年は通常通りビーチを開く海も少なく、「海の恋」も花開かない我慢の年になってしまった。梅雨明けとなればギラギラした夏の到来感に酔うものだが、宮崎県内でのニュースはそれよりも感染拡大の速報が止まらない。せめて寺山の作品世界で「夏美」を味わうとともに、サザンの海を舞台の名曲を聴きながら「想像の夏」を楽しむしかない。

基礎教育科目「日本の恋歌ー和歌短歌と歌謡曲」も15回分の13回をこの日に収録。ラジオ式録音と資料配布と学生らのWeb検索を組み合わせた方式を、遠隔オンデマンド講義として展開してきた。この日の回は前述した寺山の短歌なども紹介したが、「ラジオドラマ」や「歌謡曲」と文芸性との関係は寺山の生前の仕事から大きなヒントが得られる。「歌謡曲はしばしば、人生を処方してくれることがある。」(遊びのすヽめ 歌謡曲」より)という言葉には、文学の生きる道を多視点で示してくれているようにも思われる。「時には母のない子のように」などの歌詞制作のみならず、シナリオライターや演劇・映画制作なども手掛けた寺山の領域は、今現在取り沙汰されている「文学」の社会性への大きなヒントとなる。2年前の神奈川近代文学館「寺山修司展」のパンフを見返しながら、こんなことを考えている。

「パン焦げるまでのみじかきわが夢は夏美と夜のヨットを馳らす」
サザンオールスターズ「涙の海で抱かれたいーSEA OF LOVE」
我慢の夏も想像力が実学となる。


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もう宮崎の梅雨は明けそうですが

2020-07-28
暑さよりも湿度の辛さが続き
蝉たちも多く鳴き出した今日この頃
ようやく梅雨明けとなるのか・・・

高木を家の庭に植えているところには、蝉が多く鳴いている。散歩しながら様々な家の様子を眺めているが、中には虫網で蝉の捕獲に乗り出しているご婦人がいらした。数匹を捕獲したところで鳴き声に大差はないように思うが、集団での大合唱には人情が動くのも分からないではない。昨年は自宅の玄関先の外壁に「空蝉」がしがみついていた。風雨にも耐えてしばらくは飛ばずにいたが、その生きる意志のようなしがみつく足の強度はたいしたものであると感心した。生きとし生けるもの、どんな自然条件の中でも生きることを前向きに全うしているものだ。

翻って、ウイルスは「自然」なのであろうか?人に寄生し変異してさらに他者に拡がり生存し続ける。その「変異」の性質が新型コロナは、実にしたたかなのであると聞く。何よりその感染力の強さは、あくまで想像的な域であるが実に生存への意志が固いようである。植物や虫や鳥たちと共存する感覚は、宮崎に移り住んでから変革した意識である。自然の一部として生きるということ、そんな感覚を意識しながらも「100年に一度」の世界史に刻まれるようなウイルスの流行に我々は向き合うことになった。都市部とは違う環境の宮崎は、このウイルスといかに向き合うことができるだろうか。

あらためて感染対策の徹底を
虫や鳥たちは変わらず元気に鳴いている
梅雨明けに遅き夏本番とはなるようだが・・・・


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感染拡大緊急警報の宮崎県

2020-07-27
県内でクラスター発生
人と人の接触から感染が拡大
今一度原点を見つめて

この日、宮崎県は「感染拡大緊急警報」を発出し、県内初のクラスター発生も含めた感染拡大に危機感をもって対応すると発表した。県の「感染症対策本部会議」では、県独自の「緊急事態宣言」も検討されたようだが、「警報」という次元での対応ということになったようだ。クラスターが発生した地域においては、補償をした上での「休業要請」も求めていく方針と報道されている。都市部と違い医療期間の感染患者受け入れ数が少ない宮崎においては、厳に拡大を抑える対策を迅速かつ効果的に実施をして欲しいと思う。国のクラスター対策班との協働した対応も、進むように報じられている。

東京をはじめとする感染拡大地域との往来は、やはり必然的にウイルスをもたらせてしまう。まずは「移動」を慎み、人との接触は極力避けるのが基本となるだろう。経済最優先の風潮の中で「対費用効果」ばかりが前提として喧伝され求められるのだが、長期的な視野で考えれば何にどれほどの資材を投じれば感染拡大は抑えられるのだろうか?3月4月に採られていた対策が付け焼き刃であり、長中期的な視野がまったくなかったことが今明らかになって来ている。中途半端な「経済空吹かし」をすれば、貯まっている燃料を無駄に消費し、行く先で疲弊するのは必定ではないか。さらなる我慢は我々にとっても厳しいのは確かだが、今こそ原点を見つめ直すべきである。決して痺れを切らしてはいけない、このマラソン的共存までにはまだ長い道のりが待っている。

「移らない移さない」行動
ウイルスは其処にあるのだ
警報は8月末までのロングランである。


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誰もが当事者の立場で

2020-07-26
3月末4月当初を思い出す
「一人ひとりが感染していると思って行動せよ」
じわりじわりと宮崎にも忍び寄る感染拡大の実情

地震や台風などの自然災害とも違う、何か異様な身に迫る恐怖を覚えつつある。特に3.11以降は常に当事者意識を持つことと、最悪を想定しての予防措置を講ずる思考が習慣になって来た。日常の飲み水や食料品にも十分な吟味の眼を向け、Web上の情報などの精査を十分に心がける。最終的に被害を受ければ「自己責任」とならざるを得ない社会構造について、僕たちは被害を受けないうちに気づいておかねばならないように思う。3月以降の新型コロナ感染拡大においても、常に身近にウイルスはあり、自らが感染しているとして他者に移さない行動が求められると、繰り返し肝に命じて来た。

都市部や他県でのクラスター発生を、僕たちはどう見ていただろう?「宮崎はまだ感染が少ないから〜」という緩い思考に陥っていなかっただろうか?感染拡大の度合いが緩いことで、当事者意識を失っていなかったか?この連休に入ってから、宮崎県内での感染拡大が急増し、県の発表ではクラスターの発生も指摘されている。市中の日常生活の場でも感染は拡がり、身近に出入りする場所でも感染リスクが高まったと認識せざる得ない。都市部を中心に感染者数の増大を色塗りした地図は、次第に多くの地方にも拡大しており、このウイルスが夏季でもまったくその力を衰えさせずに人間を蝕む実態が明らかになって来た。この異様なジワリじわりと襲い来る恐怖、「新しい生活様式」は建前ではなく自己防衛のためにも、あらためて深い当事者意識を持つべきものと強く思う日々だ。

「家にいよう」「人との接触をなくそう」
経済も大切なのは自明だが、
感染拡大すれば余計に大きな苦しみを伴うことを忘れずにいたい。


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元に戻れると思ってはいないか

2020-07-25
都市から都市へ
周圏論ではないが地方に波紋を描くように
元へ戻れると思いたいのだが思えず・・・

東京をはじめ都市部の感染拡大が深刻で、在住の妹をはじめ親友らの顔を思い浮かべては歯止めのかからない現状を憂えている。しかしそれのみならず「過去最大」の感染者数が更新される都道府県が多い中で、旅行客の増加を狙って税金を投入した政策が強行されている。その背後で医療現場は逼迫しているという実情が囁かれ、明らかに「第二波」であるにも関わらずその語句使用がされないという子どもじみた隠蔽体質。一度決めた「作戦」は情勢が大きく変化しても敢行されると犠牲が大きくなることは、誰もが知っている歴史的な事実であろう。「元に戻りたい」という誰しもが抱く希望を叶えるかのような経済政策であるが、我々一人ひとりがこの愚弄されたような政策を注意深く拒む必要があるのではないだろうか。

全都道府県の中でも感染者数が少数規模に抑えられていた宮崎県であるが、連休に入ると同時に感染拡大の速報が相次いでいる。前述した観光キャンペーンが直接の原因とは言えないが、都市部との人の往来が契機になり「市中」にウイルスが放たれたかのような印象である。また感染拡大予防の「新しい生活様式」についても、多くの人々が飽きるかのように重要視しなくなってきてやしないか。大学キャンパスでも一部の対面授業に学生が来ているが、ここのところ幾度となく「マスクなし」を注意せねばならない機会が多い。手洗い・換気の励行はもちろんであるが、大勢の会食を避けるなど「元に戻りたい」欲求を今こそ抑え込む必要があるだろう。いや「元に戻れる」と思うこと自体が無理な注文なのだという現実を、僕たちは十分に肝に銘じる必要があるのだろう。

被害・犠牲が大きくならないうちに
撤退する勇気こそを英断と呼ぶ
もう既に遅いのかもしれないという恐怖が宮崎でも身に迫る。


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朗読研究会(詩歌)オンラインー『東北おんば訳石川啄木のうた』

2020-07-24
詩の朗読と『東北おんば訳石川啄木のうた』
さらに「牧水 酒の歌十首」朗読
オンラインゆえの多様な参加者の研究会

関西在住の懇意にする歌人の方が主催し、「朗読研究会」がオンライン開催された。詩人の新井高子さんをお迎えし、詩集『ベッドと織機』から代表作品を朗読いただく。生家が織機工場であったご自身の体験について、そこで働く女工さんの姿や交流についてリアルに内容が描写されている詩であった。生育環境で接する「音」が濃密に身体に沁み込んでいることや、子どもとして初めて出逢う大人である女工さんらとのやり取りが律動ある言葉で表現されている。下町で商売を営んでいた僕の生家とも共通するものがあって、幼少期の体験をこのようにリアルに描写する詩歌のあり方も模索できた。その後はやはり新井さんのご著書『東北おんば訳石川啄木のうた』を東北ご出身の「おんば」さんのネイティブな発声と新井さんの啄木のうたとの交響朗読を動画で拝見、新井さんの近現代詩や言葉に対する繊細な捉え方が印象的であった。

その後、僕が「牧水 酒の歌十首」を朗読。「かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆふぐれ」と朗読会の時間に合致した「酒好き」の歌から、「酒の毒しびれわたりしはらわたにあなここちよや沁む秋の風」あたりの好きな歌を十首選でお送りした。近現代短歌の朗読は近現代詩のそれに比べて、朗読もあまり為されず方法も確立していない。特に牧水の短歌は、律動性・愛誦性もあり声に出して読むのには適している。元来、牧水自身が「音読」する身体を活かした歌づくりをしていることも大きな要因である。新型コロナ対応で「飛沫」が抑制されるべき「新しい生活様式」の中で、「朗読」はどう生き続けたらよいのだろう?オンラインでの「朗読」では、何が伝わり何が不足するのであろうか?自宅の一室で声を出す「朗読」、「酒の歌」ということもあって、かなり自己陶酔の境地には至ることができた。いずれにしても詩歌に声で語る行為は不可欠であるという確信は得ることができたのだが・・・。

近現代のことばの生成の問題として
地方出身の啄木と牧水らが抱いた方言と東京ことばの境目
「国語」が機械的に作った「標準語」幻想を超えていけ。


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書店・図書館・街と郊外

2020-07-23
Web販売と街の本屋さんと
まちなかと郊外の人の往来
リアルとオンラインといかなる融合を成していくか

子どもの頃からの大きな楽しみは、街の本屋さんに行くことだった。『小学◯年生』などの定期購読本を、母と商店街の買い物がてらに書店で受け取る日がたまらなく楽しみだった。小学校も高学年ぐらいになると少し離れたところに大きな本屋さんがあるのを発見し、その店内ではどこにどんな本があるかを把握するようになった。特にお気に入りのコーナーでは、「この本が売れてしまった」など本屋さんの在庫管理並みに把握していたことなどが思い返される。本屋で参考書を選ぶことは、受験の意志を強くする一歩として大きな動機付けであった。さらに大学生になるにつれ、神保町の古本屋街で自分なりの巡り歩く「コース」ができた。リアル書店の存在は、僕の若かりし頃の成長を大きく支えてくれていた。だが、宮崎に移住してからは市内から居住地が離れていることもあり、Web書店に依存するのが実情だ。研究室で読みたい本があればすぐにスマホから購入することができ、数日以内には確実にメールボックスに届く。もちろん市内に出向けば、リアル書店さんの店内を巡り歩くのであるが。

市内にある大手書店会社の懇意にする方が、本学附属図書館を見学のために来校した。昨年末に県庁文化振興の仲介もあり、書店の閲覧スペースで出前講義を2回やらせていただいた。通常はなぜか高校生などがかなりの人数集って、勉強をしているスペースだ。決して静かでもなく人通りのあるスペースを、なぜ高校生は勉強場所に選ぶのか?たぶん僕の経験の中にもあるような、「学ぶ」動機付けが書店にはあるのだろう。その閲覧スペースを利用したイベントも、現在はコロナ対応で使用ができないと云う。「まちなか文化堂」と名付けて来たるべく「国文祭・芸文祭2020」(来年に延期となったが)を盛り上げる企画を展開したいところだ。実施の可能性は「オンライン」にあり、附属図書館には限られた講演者・出演者・スタッフのみが密を避けて集い、企画内容をオンラインで配信する。大学附属図書館ならば「感染対応ガイドライン」も整備され、遠隔講義を実施している方法も熟知している。次第に市民の方々も大学附属図書館の存在を「利用できる」と知るようになる。書店と図書館が繋がった展開を見せる先例が目立ち始めている昨今、街と郊外という距離を超えて販売と閲覧、企画と公開という線で「本屋さん」と大学が繋がるチャンスであるように思われる。

「本屋さん」で抱く知的興奮
地域の小中高校生にも広く開放して行きたい
郊外である大学キャンパスに人を呼ぶための仕掛けを模索している。


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世の中に土用丑の日なかりせば

2020-07-22
「石麻呂に我物申す夏痩せに良しといふものを鰻捕り喫せ」(3853)
「痩せ痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻を捕ると川に流るな」(3854)
(『万葉集』痩せたる人を嗤ふ歌二首・大伴家持)

宮崎はここ2日ぐらい、35度を超さむとするほどの夏らしい気温となった。妻と父母と土用丑の日なので鰻を食べに行きたいということになり、ゼミを終えた夕刻によく行く有名店に確認の電話をすると、既に売り切れてしまい申し訳ないという返答であった。市内まで出向けば他店もあるのだが世情がら密になるのも憚られ、近所の馴染みの洋食屋さんに行き先を切り替えた。美味しい肉料理をいただき、栄養補給という目的は十分に達成できた。あまり知られていないようだが、宮崎は国内では鰻の産地としても有名で、地元の人に言わせると近所の川で橋の上から釣り糸を垂れれば、容易に鰻が釣れるのだと云う。県内には有名店が何軒かあって、キャンプ時にはプロ野球選手なども足繁く通う。

鰻が食べたい気持ちに後ろ髪引かれながら、「土用丑の日」の文化的背景が気になった。委細はともかく『日本国語大辞典第二版』を繰ると、「江戸時代」からの習慣であるとされている。町人文化が花開いた江戸であればと納得するところだが、どうせ鰻屋が儲けようとする算段からではないかとやや懐疑的にもなる。バレンタインやホワイトデイが菓子屋の仕掛けであることなどが思い返され、鰻を食べられなかった負け惜しみから「土用丑の日」でなくても食べに行けばよいのだと思い直す。しかし『日国』の記述に『万葉集』大伴家持の歌などに見られるとあったので確認すると、冒頭に記した歌が検索できた。「石麻呂」という「痩せたる人」に対する戯笑歌で「夏痩せに良しというので鰻を捕って召し上がれ」とか「鰻を捕ると川に流れるなよ」と戯れて笑い「物申す」歌である。奈良時代の古代から栄養価が高いことが知られていたわけで、人間の文化とは何かと考えさせられる。

今年は二の丑もあり8月2日
どうせなら梅雨も明けてカラッとした夏が待ち遠しい
栄養をつけてコロナの夏を乗り切らねば。


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