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身体性をあらためて意識する

2020-06-30
対面講義でわかる情報量と
遠隔講義の方がやりやすいことも
身体性を見失わないためには

1300年に及ぶ長き歴史の上で近現代150年以上に及ぶ局所において、短歌は身体性を失って来た。佐佐木幸綱はそれを「運動不足の歌」と言って警鐘を鳴らし、自ら「動物的な本能」で捉えた歌を詠おうと意志表示している。自戒を込めて記すのだが、どうしても「頭でっかち」で短歌の素材を捉え、どこか「観念」を振り翳して歌を詠んだ気になってしまっている。自らの中の「自然」である部分とか、「内臓的な生理感覚」を置き去りにしていないだろうか?ある原稿依頼を受け、佐佐木の若き頃の第一歌集『群黎』の「あとがき」を読み、あらためて今気づかされることだ。このようにただでさえ意識しないと「身体性」は回復しないのだが、そこへ来てこのコロナ禍である。人と人とが接して交流する機会を極力減らす方策が、社会の多方面で進捗している。

遠隔講義は、まさに「身体性を欠如」させるには格好の場となるのでないか?Web上から配信される資料を閲覧し自ら思考し学ぶ度合が高いものから、説明動画が配信されるものまで、その方法も多種多様である。中でも「説明」をするにあたり教員側が話している姿を映し出す動画は、果たして必要か否かと考えてしまうことがある。例えば対面の講義だとしよう、学生が「教員の説明」をどれほどに身体性を意識して注目してその動作や表情まで観察して講義を受けているのであろうか?僕などは幼稚園から「人の話を聞くときは相手の目を見て」と教わったので、小中高とそれを実践したが高校ぐらいから揺らぎ始め、大学になって講義によってその態度が不可能か不必要であることも悟った。今あらためて講義にとって「説明」とは何か?という命題を意識せねばならない。部分的な「対面」実施と遠隔が融合している現状で、「対面」でしかできない身体性ある「動物的な本能」に根ざした講義の意味は何か?教室に来る学生たちの質量や生声や視線を受け止めて講義を有効に運べたのか?双方向オンライン会議システムなら、接触を気にせずにグループ対話が可能である。PC画面に映る学生たちや自らの姿は、当然ながら「首から上」が大半な情報なのであるが。

教育に必要な身体性とは何か?
「動物的な本能」がさらに失われる岐路なのか今は
場を共有してこそ「ライブ=生きる」だと確信する道は遠い。


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悲しみを大声で歌おう!

2020-06-29
「ロックとは悲しみを大声で歌うものさ!」
(桑田佳祐さん・ラジオ番組「やさしい夜遊び」の弁より)
こうした時だからこそ音楽がある!

「聞き逃し配信」というのがWebにはあって、リアルタイムの配信時間に視聴できなくとも、また何回でも視聴できる仕組みである。先日のサザン無観客特別ライブも日曜日の23時59分までは視聴可能であったが、時間的な余裕がないこととともに、やはり1度の視聴に賭けるという意志も重んじたくなる。だがラジオ番組は別で、土曜の夜放送の「桑田佳祐のやさしい夜遊び」を休日出勤の妻が帰るまで夕食を作りながら再度聴いた。また食後には妻がもう一度聴きたいというので再び配信しつつ、僕は風呂に入った。そのDJの中で桑田佳祐さんが先週のライブを振り返りつつ語っていたのが冒頭に記した言葉である。コロナ禍の逆境を逆手にとって音楽を多くの人に伝えていく。どれほどの人が再び勇気と希望を持ったことか。人生に「悲しみ」はつきものである、ゆえに和歌短歌もそうであるが「悲しみ」を歌うのである。

最近は「悲しみ」を、「ネガティブ(否定的)」だと言って避ける者も少なくないと聞く。もちろん「ポジティブ(肯定的)」だの「前向き」だと言うことも大切だ。だが、この両者のどちらかに偏るのが世の中ではない。青少年期の考え難い犯罪行為増加の背景に、「悲しき音階」を聞くことを避ける傾向があると書物で読んだ。「悲しみ」を擬似的にもで体験しなかった者は、人の苦しみや死を安易に仮想的な現実のように考えてしまいがちであると云う。恋愛の「悲しみ」や「苦しみ」もまた同じ、その苦悶を「ネガティブ」だと避けるがゆえに現実の「恋愛」に一つも踏み込めない若者が多い傾向が窺えるわけである。この夜は鈴本演芸場の寄席がYouTubeで生配信され、親友の金原亭馬治師匠が主任(トリ)の高座に上がった。落語には生きる悲しみが存分に描かれ、そこから再起する生き方が語り出される。長編の噺(唐茄子屋政談)を途中までで止め「この続きは来月の鈴本演芸場で」と幕を降ろす師匠の粋なWeb配信生中継であった。どうやらこちらは「聞き逃し配信」はなく、寄席にリアルに足を運び「ライブ」こそ演芸ということを見据えているような気もする。

悲しみの声こそ大声になるもの
映画も音楽も「悲しみ」を避けず追体験しよう
人間は奮起と再起の動物なのかもしれない。


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太陽のたまごを東京へ

2020-06-28
宮崎が誇る太陽の恵み
未だ感染が続く東京の街
宮崎に住む今を噛み締めて

新型コロナ感染拡大は新たな局面に入ったのか?全国的に経済活動の再開が促され、県境を越えた移動の緩和、人の集まる興行などが広まりつつある。宮崎をはじめ地方では新たな感染者はしばらく出ていないが、東京の感染者数はある程度の水準で下げ止まることもない。都が独自に決めていた「アラート」の基準値を超えてしまっているのではないかと窺われるが、どうも選挙などしていると新たな「警告」にはならないようだ。新型コロナ対応では、都に限らずこれまでいつでも「ご都合主義」がこびり着いてしまっているように思う。真に「専門家」と呼んでいる研究者の意見は反映されているのだろうか?などとあらゆる面で不信感が先行する。故郷でもあり親戚・親友・知人の多い東京は、誠に住みにくいことになっていやしないか。

最近は昨夏に宮崎へ移住してきた両親が、つくづく「宮崎に住んでいてよかった」と二人で語り合っていると云う。一般論として「宮崎の方が暑い」と見られがちだが、東京の「苦悶する暑さ」の中でマンションに籠っていた両親は、爽やかな自然の風が通る宮崎に住むことを心から希望していた。緑があり山も見え、そう遠くない海岸線からの海風は人に優しい。もちろん紫外線は強く交通網は不便で、多くの店が揃っているわけでもない。しかし地域の人々は優しく穏やかで心の交流もあり安らげる環境がある。僕自身の公募による赴任で偶然にも出逢った宮崎だが、両親を含めて此処に住む必然性があったとさえ思う今日この頃。母は東京に住む娘(妹)や叔母に従兄弟などにマンゴーが贈りたいと、この日は親友の専門店を訪れた。観光地たる青島にあるお店は、ようやく少しは観光客の足も戻りつつあるが、この間は厳しい状況を強いられたといつも聞いている。完熟な「太陽のたまご」はまさに名の通り、日向国の太陽の恵みである。東京へせめてこの自然の恵みが届き、不安が少しでも解消されればと願いを込めて。

観光立県たる宮崎の今後の生き方は
「いかに生きるか」を様々に問われる世情
マンゴー専門店の親友夫妻との語らいから学ぶものは多い。


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社会的距離と対面性を考える

2020-06-27
座席を離しての対面講義
ビニールシートなどで仕切られた学生窓口
マスクで塞がれた顔と顔

大学で廊下を歩いていると、遠目から怪訝そうな顔で同僚の先生が僕を見つめて近づいて来る。どうやら話したいことがあるらしく、「社会的距離」まで近づいて僕だと確認し立ち話。マスクをした顔はなかなか当人と判断し得ない状況があるのだと自覚した。久しぶりに会った学生などでも、僕も当人かどうか確認してから話しかけた場合もあった。顔の三分の二をマスクで覆っているだけで、対面情報が限定されてコミュニケーションが滞留するような状況を経験する。会議などでも、なるべく距離をとって座るようになった。発言や応答の通い合いは、やはり以前よりは形骸化した印象が拭えない。「社会的距離」の励行により、対話の環境が変化しつつあるようだ。

この数年間大学教育に求められてきた「アクティブ・ラーニング」、班別の学生同士の対話を取り入れて講義を進める方法を中心に採ってきた。なるべく「密」になってお互いの相違する考え方を対話することで、学生各自の思考傾向を客観的に知覚して気づきの学びを進めるということ。学部内で分散し開始した対面講義においては、「社会的距離」を保つ座席を指定し教室の収容率も定員(座席数)の50%まで、以前は指導しなければ後ろに固まっていた学生たちが、教室全体に均衡に拡がって着席している。僕は従来、教壇から学生までの近い距離が重要であると考えて、なるべく教室の前半分に座るように勧めていた。班活動をする際も机を向き合わせて対面度を上げて実施するようにしていたが、尽く反対のことをしなければならなくなった。試みに「社会的距離」を保った班別対話も行なってみたが、どうも煮詰まったものにはならないような印象だ。サザンのWeb配信ライブでも、メンバー同士やダンサーと桑田佳祐さんは「社会的距離」を考慮したと云う。「またみなさんとライブでお会いしたい」というメッセージに、やはり「ライブ」は「生きた」上での対話なのだと思う。こんなことを考えつつ、「教育に対面性はなぜ必要か?」という命題を考えている。

人と人とが遠ざかる
文化として持つ対人的習慣による感染の差もあるか
以前から考えてきた「ライブ性」を多面的に考えなければならない時代になった。


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#KeepSmilin 笑顔で明日を生きることさ!

2020-06-26
「人生は過去に憂えること〜じゃなく〜
 笑顔で明日を生きることさ〜みんなのうたよ〜!」
(『みんなのうた』序曲より)

どうしても外せないことに向けて生きる1日がある。天候気象あらゆる環境条件もこのことを阻害しないで欲しい。もちろん仕事も生活も普通にこなすのだが、願うように祈るように過ごすのである。大好きなサザンオールスターズがデビュー42周年記念日に当たる6月25日に、横浜アリーナから無観客Web配信特別ライブ2020を敢行した。でき得る限り早く帰宅し夕食を済ませ、PCを起動し視聴サイトにアクセス。直前でWebがつながりにくくなる事態に、巻き込まれるのはどうしても避けたい。発売当初の早朝に購入した視聴券の方法でログイン、すでに公演前のSEが流れていた。定刻の20時になるがなかなか始まらず、これもライブではよくありがちなこと。約10分後に画面は横浜アリーナのステージを映し出した。「前説」も生ライブ同様に行われる凝りようである。

視聴券18万人が購入、視聴者は推定50万人とメディアの報道。昨年のアリーナ&6大ドームツアーが総計55万人動員というので、一夜でそれに迫る人数がWeb画面の前でサザンに興じた。全19曲にアンコール3曲の計22曲、約2時間超のライブが日本全国を笑顔にすべく配信されていく。心酔するファンとしては、もう少し各アルバムのコアな曲をセットリストに入れて欲しかったが、一斉配信とコロナ禍の社会を笑顔にしたいという意図の中で、所々の歌詞を改変しメッセージを込めた楽曲の数々に納得した。「希望の轍」での「大変な毎日をご苦労さま!今日は楽しく行きましょう!」また「勝手にシンドバッド」では「いつになればコロナが終息するのかな?お互いにそれまではグッと我慢の生活を続けましょう!」といった趣である。それにしても感激して泣けたのはアンコール最後の1曲「みんなのうた」、この曲は大抵のライブで定まった歌詞の前に当日なりのメッセージある序曲が歌われることで始まる。冒頭にこの日の序曲の一部の歌詞を掲載した。医療従事者の方々への感謝、コロナ禍による暗く苦しい生活から、僕らを元気にしてくれる心あたたまるメッセージであった。

「あなたに守られながら
 わたしはここにいます
 笑顔になってください」笑顔の明日を!!!


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「刑事コロンボ」のかっこよさ

2020-06-25
ヨレヨレのコートに
ボサボサの髪で葉巻を吸って
真犯人が侮ることが死角になって・・・

毎週水曜日夜9時〜にNHKBSプレミアムで「刑事コロンボ」を放映している。特に夜は決まって観る番組などないが、ここのところこれだけは欠かせなくなっている。昨夜も最後の真犯人を落とすシーンとその後に傘を持って出張先のロンドンの街を歩くコロンボの姿を、つくづく格好いいと思った。真犯人の殺人を暴く方法はもちろん現実には証拠とはならないのは承知の上だが、証拠を隠滅し完全犯罪を意図した知能犯の心の死角を暴き出す方法が毎回心憎いばかりの演出である。現在では考え難くも葉巻を常に吸いながら真犯人の居る場所に図々しくも入り込んで、インテリであることの多い真犯人の仕事の分野などに抉り込むような質問を執拗に繰り返すその姿がたまらなくいい。

表面上は「昼行灯」のような風体と態度、鋭さは最後の最後まで見せないあたりは、日本のウルトラマンのスペシュウム光線か水戸黄門の印籠にも類似するものがある。よく観ていると殺人の現場を見る際の洞察力は、並々ならぬものがあることがわかる。偽装や証拠隠滅に対して異常なまでの嗅覚や観察眼を持ち、真犯人の得意とする分野を知らないフリをしながら「うちのカミさんが興味ありまして」など、とぼけて専門性の領域にいつしか踏み込んでいる。ドレスコードのある社交場などでも捜査に必要とあれば、ズカズカと執拗にやって来る態度も笑いを誘いつつも頷けるものだ。昨夜の放送作品は「ロンドンの傘」、出張研修中に遭遇した殺人事件を当地の警察が偽装されるがままに「事故」と見立てたものを推理で覆し、それでも証拠が隠滅されたことで大きな賭けに出る。傘の中に証拠が入り込んでいるいるはずだと場面を一か八か創り出し最終的には真犯人を自白に追い込むという内容であった。人の能力とは、外見でもなく威勢を張ることでもない。他者を見下すという下劣な心が、必ずや真実を露呈させることを「コロンボ警部」は教えてくれる。

権力や財力に社会的立場に溺れた醜き心
日本の時代劇の勧善懲悪にも似て、正体本性を明かさず相手を落とす
僕が中高生の頃に覚えた興奮を、今新たに日常態度の指針としたい。


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振り向けば道がある

2020-06-24
「波音に消えた恋 悔やむことも人生さ
 立ち止まることもいい 振り向けば道がある」
(桑田佳祐『君への手紙』より)

人生を考えられる歌がある、『君への手紙』はまさにそんな一曲だ。アコースティックギター基調の曲に収められた素朴な歌詞は、僕たちに「生き方」の様々な機微を回想させてくれる。基礎教育科目の担当講義「日本の恋歌ー和歌短歌と歌謡曲」を遠隔講義で開講して、ほぼ前期の折り返し点まで来た。動画は敢えて使用せず、ラジオDJ方式の音声と資料による遠隔講義方法を採った。ここ数回は課題を「君への手紙」と題して、短歌や曲を素材に登場人物や歌人(作者)に手紙を書くことを実践した。さらに今回は担当の僕に手紙を書き質問も施して、DJ方式の講義内容を盛り上げる内容とした。学生は概ねこの遠隔講義を楽しみにしている趣が手紙の文面から伝わってきた。さらには自身の恋愛やこれまでの人生と、正面から向き合っているような姿勢が読み取れるものが多かった。

「手紙」は単に相手に伝える事務的な役割があるのみではない。書き手自身の心情を揺さぶりその生き方を考えさせてくれる。これは短歌にも通じるものでメッセージ性があるということは、読み手の中に創造的な意味を生成させるほどの言葉による斬り込みがある短歌と言えるであろう。桑田佳祐さんの名曲『君への手紙』もまた同じ、素朴な曲調と歌詞は深く各自の人生に沈着する。学生にもDJで語り掛けたが、高校や大学(現在)にどれほどの「波音に消えた恋」があるだろうか。もしその恋が成就していたら?そんなとりとめもない後悔を持つこともまた人生である。仕事もまた同じ、もし僕がアナウンサーになっていたら今頃はどうしているだろう?中高教員をせずに学部卒後に直接に研究者を目指していたら?いくつもの人生の岐路で「立ち止まる」ことも辞さず、苦悩のどん底も味わいつつ考えを沈着させた結果、僕は今此処で学生たちと「恋歌」についての対話を続けている。「振り向けば道がある」そう!この「道」こそ僕にしか歩めないもの、今は宮崎で「君への手紙」に託す。

「君と僕は同じ空の青さに
 魅せられながら生きている」
宮崎でのこんな講義と今の生活が人生最高の「道」である。


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「音読嫌い」をつくる教室

2020-06-23
「音読をする意味がわからない」
小中高と過ごした多くの学生に沁みついた感覚
だから一人でも多く意義を理解した教師を養成する

学部2年生配当の遠隔講義で、Zoomで実施した渡辺知明さんとの対談を観ての講義レポートを課題とした。学生からは「短歌の音読がこれほど多様であるとは思っていなかった」「音読をして解釈等を話し合い、その後にまた音読をするので理解しやすかった」などの好意的な意見も多かった一方で、「これを観た上でも学校で音読する意味は見出せなかった」という意見があった。後者の意見を持つ学生からは「渡辺さんや先生のような音読なら意味があるが、多くの学校の先生方は音読を意味を考えずにやっている」という自身の教育経験から発する嫌悪感が根底にあるようだ。確かに県内で多くの学校に授業研究に行くのだが、小中高校と発達段階が進むにつれて「音読」は「頽廃的」になって行く現実が見える。

道具は誤った使用法を採れば、できるものもできなくなる。薬を誤った適用・用法で使用すれば副作用に見舞われ病は治癒しないどころか、身体の別の部分が悪化する。小学校低学年のうちは乳幼児期から音声言語で育って来た身体性・精神性を維持しているゆえに、音読には疑いも持たずに前向きに取り組む。だが小学校なら4年生の終わり頃、中学生になると2年生の夏頃、そこを境に「音読は頽廃的」になってしまう。こうした教育経験を多くの教員志望の学生たちも経験して来るという現実がこの講義で毎年のように痛感させられる。国語教育の研究でも実践でも避けられてしまうが、最大の問題を抱えた分野が「音読」なのではないかと思われる。今回実施した渡辺さんとの対談はYouTube上で公開しその中でも紹介しているが、両者の同時期に発刊された著書で世に問い掛けている。学生の中には「〈学校〉のすべての先生方に『音読の意義』を啓蒙するのは絶望的だ」とまで言い切り、いかに「音読」経験で苦しんで来たかを窺わせる意見を持つ者もいた。このような事態に遭遇し、やはりあらゆる機会を通じて「音読」について語り啓蒙していかねばならないと決意を新たにする。それほど「文字」のみに蝕まれてしまった100年以上の歴史を、我々は生きているのだ。

宮崎に定着する家庭学習課題「読み聲」
意義をわかるように目的を付した改良版を提唱したい
まずは眼の前の教員の卵たちには「音読」の意義を十分に体験的に説いておきたい。


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オンライン歌集読書会ー『禽眼圖』『黒い光』

2020-06-22
「闇」「光」は「静」「声」にも
「二〇一五年パリ同時多発テロ事件・その後」
対照的でもあり共通項もあり

大阪在住の歌人の方からお誘いいただき、題に示した2冊の歌集のオンライン読書会に参加した。対面であればたぶん関西地域でのみ行われた読書会であったかもしれないが、季節が反転しているオーストラリアからも数名が参加し、国内は東京から宮崎(私)までと東西に20名近くが参加し賑やかな読書会となった。僕としても初対面の人も多く、様々な世代の方々の参加で大変勉強になった。垣根を超えた多様性が求められる時代において、オンラインの普及は新たな意識変革を生み出すであろう。既にテレワークの議論で指摘されているが、何も人口が集中する都市部に無理して居住する必要はない。僕のような地方在住者が、このような読書会に参加できる環境が生み出されつつあるのだ。

今回は2冊の歌集の読書会であった効用も大きいと思う。比較相対化されることでそれぞれの歌集の特長が読書会の中で浮き彫りになった。内面の闇に正対し他者との関係性の中にいる自己存在に、承認を求める心の動きを写生的に描く『禽眼圖』。パリにおけるテロ事件の現実とその後の日常を、モノクロ写真と精選された短歌で描こうとする『黒い光』。僕自身は両者ともに「声」という視点から批評を試みた。「朗読の声の途切れて右耳からざんと抜けゆく白き両翼」など『禽眼圖』の歌では置かれている自己へ届く声を自覚的に描写する歌に惹かれた。また『黒い光』では、「声にならぬ声響きをりモノクロの排水管よりいつの世の風」には写真家・ユージン・スミスの『水俣』が意識され、「写真は小さな声だ」「写真はときには物を言う」というユージンの信念にも通ずる社会的な訴えを読むことができる。「声」とは時に内面的に保持され心の呟きで外部と関係を結ぶ葛藤と対立の中に誰しもその存在が必要なものだが、短歌という形式が社会的な現実を見つめる客観的な成果となることもある。あらためて「短歌=声」という概念も多様であり、近現代約150年間の今に生きる僕らに「短歌を詠む」=「声を上げる」ことの大切さを教えてくれた読書会となった。

あらためて参加者の方々と肌感覚で話したくなる
2時間半を自宅の書斎で大阪まで行った気分に
僕たちの短歌は決してコロナに負けないことを悟る。


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両親とうなぎを食べる

2020-06-21
宮崎の名産のひとつとして
東京でもよくともに食べた
妻の実家で行きつけの店へ

土用丑の日には早いが、夏場に力をつけるには鰻がありがたい。宮崎牛など肉類やマンゴーが目立つ宮崎名産品であるが、鰻もなかなかのもの。だが近年の稚魚の減少による漁獲の難しさなどから、あまり全国展開できない事情もあるのかもしれない。だが地元では名店の鰻はやはり定番であり、これまでに名だたるお店に大抵は足を運んできた。自宅から至近の青島には、ジャイアンツのキャンプ時に多くの選手が訪れる店もあり、特に松井秀喜さんが現在も宮崎に来ると必ず来ると云う店もある。地元の人たちは「東京と比べると」と謙遜するが、どのお店で食してもまったく遜色ないか、むしろ新鮮さが際立つ良質の鰻が味わえる。

この日は妻の実家へ僕の両親とともに行くことになり、地元のお店で鰻を食べることになった。川沿いの素朴な建物で駐車場に生簀があり、其処には鰻やら亀さらにはチョウザメ(日南には養殖場もあり特産)までが浮遊していた。素朴なお店の造りだが、テーブルにはコロナ対策でビニールシートが張られている。妻の両親が懇意にする店だということもあり、予約により奥の個室に案内された。窓を開ければ店のすぐ下を流れる川風が心地よい。メニューには鰻ばかりにあらずカレーライスや麺類もあり、地域の「食堂」という趣もまたよい。ここ日南市では「プレミアム商品券」も発売されたようで、飲食店を地域で支えて行く意識もはっきりしている。宮崎では関東に比べると醤油系が全般に甘いのが特徴だが鰻のタレも同様、これがまた蒲焼の味を引き立て話すのも忘れて美味な鰻重をいただいた。僕自身も両親とは東京の実家近くでよく鰻を食べていたが、妻の両親も含めた6人での会食は大変に楽しい時間であった。個室でも「社会的距離」対応であろうか、双方の親子が2つの座卓に距離を開けて食べたのも、後から考えると昨今の世相の賜物であったといえるのであろうか。

日南へ向かう道路から見る海の美しさ
宮崎のさらなる素晴らしさ美味しさを知る機会
活力を鰻で養いかけがえのない縁に感謝。


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