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親しき友らと語り合う夢

2020-05-31
週末となればの「日常」
果たして今後は戻るのか?
親しき友らと語り合う夢

こんな夢を見た。特段の理由もなく家の近所の親友に電話すると、海鮮料理の美味しい店にでも行こうということになる。双方とも夫妻でタクシーに四人で乗り込み、約15分で2000円ほどの料金を払い店の真ん前で降車する。車中でタクシーの運転手さんとは、「あの時は辛かった」とコロナ禍の真っ最中の社会情勢の話題となる。店に着いてカウンターに四人が並び、どれだけこんな「日常」が失われていたかを噛みしめるように乾杯のグラスを傾ける。その店もしばらくは休業を余儀なくされ、少しずつでも前に進まないとと再開しているが不安は拭えないと奥さんと若主人は云う。ともかくスーパーで購入した刺身を家で食べるのではない宵のささやかな宴が、夢の中でしばらくは続いていた。

コロナ以前には「日常」であったことが、今は「夢」になった。地域の親しき店で至福のときをいただき満足極まりないお金を使い、地元のタクシー会社に往復の料金を払う。まさに見える顔と顔の上で繋がる「経済」を回す一人になれない現実が辛い。僕は僕なりに大学での遠隔講義へのシフトなどで様々に辛い思いもしていたが、飲食業や観光客相手の自営業の人々が、今後の生活の不安をいかに抱いたかを肌感覚で想像する機会もなかった。だが僕はこの自らが見た「夢」から目覚めて、自分のような仕事に就いているならどんなに辛いと感じても、文句や泣き言は決して言うべきではないと悟った。給付金ひとつとっても、明日の生活のために切実に感じられるかどうか。社会と交流できなくなった実情の中、各自が各自の蛸壺に入り勝手な言い分を持つ社会でもある。せめて僕は「夢」に出て来た親友の存在があって、知るべき「社会」の現実を想像できただけでも真っ当であると「夢」から覚めて思うのである。

先は見えず不安は尽きない
僕たちはいかに「新しい日常」を創ればいいのだろうか
Webも電話もあり、多くの異業種の親友らとせめて語り合おうではないか。

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「パフォーマンス」にあらずー「聲」の学問

2020-05-30
聲にして読み解かれていく
オンライン講義でも『万葉集』を双方向音読
「パフォーマンス」と卑下してみる勿れ

5月31日(日)14時〜コトバ理論の実践研究家である渡辺知明さんとZoom対談をすることになった。SNS上のやりとりを通じて急遽決定したものだが、遠隔講義を始めとして「オンライン上の声」にも焦点が当てられる社会的状況下で、これ以上ない好機だと感謝の念に堪えない。この日は遠隔講義を終えた後、渡辺さんとZoomで打ち合わせの時間を持った。宮崎に赴任する直前に研究会例会に伺った際のことを回顧しつつ、最近は渡辺さんが若山牧水の短歌の表現にも深い興味を覚えていることの奇縁を感じることになった。牧水短歌の朗誦性に関して僕は既に何本かの評論を書いているが、その観点からすると渡辺さんが牧水短歌に惚れたのも必然なのかもしれない。牧水の短歌創作そのものに「聲」が引き剝がし難く関わっているのだ。核心については、当日の対談にとっておきたいと思うのでこのぐらいで。

和漢比較文学研究をしていた僕が音声表現に向き合い、自らも朗読家として幾度となく発表機会に参画してきた。10年ほど前になろうか、「”パフォーマンス”ばかりしていないで本道の研究をさらに進めよ」といった趣旨の忠告をある方面からいただいたことがある。だが中高教員であった僕は日々、生徒とともに教材を考えるための「音声」を実践している。〈教室〉でのライブ感は待った無しであり、その年その日にいる生徒らの授業は一生でそこだけである。「聲で共鳴」してこそ教材作品が十分に味わえる責務が果たせると思ってきた。教員養成系学部に赴任できたのも、2012年に出版した『声で思考する国語教育』(ひつじ書房)のお陰だと思っている。宮崎でも、当地に従来から定着してきた「読み声」課題のさらなる向上を目指す仕事もある。さらには牧水短歌に出会い直し「短歌と聲」について歌壇で今語るべき課題に向き合うことができている。「パフォーマンス」の語義は、本来「特に身体を用いて表現を行なう芸術形態をいう。」(『日本国語大辞典第二版』)とある。芸術として文学として「聲」を追究してこそ、和歌短歌が学問的にも解き明かされていくことを証明する機が熟したと言えるのかもしれない。

対談は録画の上でYouTubeに掲載される
渡辺さんの牧水短歌の表現読みが楽しみだ!
日々、埋蔵されている好機を逃さないことである。


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仕方なくで思考停止しないー卒業生の言葉

2020-05-29
対面講義をする効用は何か?
遠隔講義にも多々利点あり
卒業生との交流で教えられること

緊急事態宣言の解除という状況を受けて、大学では「原則遠隔講義」を継続しつつ対面講義を今後はいかに融合して再開していくかという議論を進めることになった。3月以降、じっくりと考える間も無く「走りながら」という感覚で遠隔講義に移行する対応を進め、講義を開始して3週間ほどが経過した。巷間でも自粛を余儀なくされていた商業施設や飲食店の再開、しかし報道に拠れば簡単に客足が戻るわけでもないという嘆きも聞かれる。さらに九州圏内では北九州市でさらなる多くの感染者が確認され、同市内に所在する大学では6月からは対面講義実施を決めていたが、やむなく遠隔講義を延長せざるを得ない決定を下したことも知った。公の言う「解除」「収束させた」「抑え込んだ」という文言をわれわれ巷間の民も精神的に求めてはいるのだが、決して実態は気の抜けない状況が依然として身近にあることを忘れてはなるまい。個々人が、今も眼の前にある感染危機に向き合う姿勢を崩すべきではあるまい。

宮崎に赴任する以前に母校で非常勤講師をしていた折、指導教授の代講で卒業論文を指導した学生たちがいる。既に卒業して干支で一回りの年月が経過するが、毎年7月の指導教授の命日に合わせ、墓参と懇親の会を開催している。今年はいかにするかとグループラインの気の利いた便りが届いた。結論として各自が無理をしないためと、先の状況は見えないこともあり、「リモート飲み会」にしようという結論になった。各自各様の職業に就き家庭も持って意識の高い市民として暮らしている彼らの姿には僕自身の学びも多く、母校の偉大さの恩恵だと思うことがある。今回のLINEのやり取りからもまた、僕自身が刺激を受けた内容がいくつもあった。特に遠隔講義への取り組みや学部の方向性の決定に苦労しているという僕の発言に対して、「遠隔だと対面みたいな授業はできない!と思考停止に陥っている」場合があることを指摘して、状況に即応し自らの講義のあり方を見直す機会にすることが肝要ではないかというLINE会話の流れになった。コロナ禍の中にあっても、過去を省みつつ未来を進取に模索する姿勢、彼らは卒論指導の中で常にそのような徹底した対話を繰り返していた。時にぶつかり合いながら、とことん絡まった糸を解こうとする。この卒論指導のあり方は、僕自身の大学教員の原点である。今回もすっかり僕が励まされ、あらためて卒業生に感謝する機会となった。

思考停止しないために
「走りながら」も理性を失わないこと
「仕方ない」のではない、新たな時代に生きているだけである。


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Zoom対談やります!

2020-05-28
昨日の小欄を契機に
Zoom対談のお誘いが
5月31日(日)14時〜(いずれYouTubeに動画掲載)

Webの力をあらためて思い知った。昨日の小欄で、遠隔講義としてラジオDJ風に学生提出課題のドラマ朗読をしている旨を書いた。すると連携投稿されるTwitterに反響があり、DMへメッセージが届いた。それは宮崎に来る1年前、僕が朗読に関連する単著を出版したことを契機に、あれこれ助言をいただいた言葉や表現の研究者の先生であった。いささかDMでの会話をしていると、そのうちZoomで対談をしませんかというお誘いをいただいた。ちょうど今週の24日(日)に、所属する中古文学会のオンラインシンポジウムがあったばかりだった。頭の中でイメージができていた僕は、この学会シーズンにも全ての学会が中止になっていることもあり、特に予定もなかったので即座に実行を了承した。

対談の話題は「表現読み」、つまり身体的な音声表現のこと全般になるだろう。お誘いいただいた先生も最近は若山牧水に興味を抱かれているということ。牧水の短歌が「聲」を基盤に据えながら創作されており、評するにあたっても「音声表現」から解釈を考えていくべきと考えている僕の主張を具体的に語る機会にもなりそうだ。音声で表現するのことは、何も他者に聞かせることのみが目的ではあるまい。聲を発する自らも聞き手の一人であり、表現することで作品解釈が深まるという効用を見逃してはならない。多くの〈教室〉で行われている学校の「音読活動」には、この大切な視点が決定的に欠如している。音声表現をすることで自らが「読者=語り手」となり、その作品の地平の内側に立つことができるわけである。奇しくもこのコロナ禍によって、「聲」の存在に今一度光を当てる時が来たようである。

身体的に聲を出し解釈を深める
短歌が「わかった」というのはどういうことか?
Webの力のうちに素朴な身体性を語るという面白さを


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聴いてDJ講義ー我の語りを

2020-05-27
遠隔講義の音声配信
ラジオDJ風の作り込み
自らの語りを省みる夜

遠隔講義が始まって3週目となったが、何事も3の倍数で適応し順応し更新するものである。研究室のゼミや専門科目の20名以内の講義では、双方向会議システムで相互に喋りながら、十分とは言えないものの対話的な展開を成し得ている。画面に映る学生の表情と発言の音声という情報があるだけで、理解度の把握は格段に違う。ゼミなどではさらに踏み込んだ自由な対話へと発展させる契機を、掴もうとしているところだ。その一方で担当の基礎教育学士力発展科目(全学部の学生が対象)は履修者がかなりの人数に及び、双方向会議スステムというわけにもいかない。そこで考案したのが「ラジオDJ」方式の講義配信である。学生が購入したテキストとなる短歌関連の文庫本と講義のPDF資料は、さながら市販テキスト。これに約60分〜70分の音声録音を大学Webシステム上に配信している。

録音はPCの「録音アプリ」を使用し、接続するヘッドセット(両耳に掛け片側から口元へ向けて伸びるマイクが付属するもの)を使用。次第に喋りの背後にBGMを入れてみようか、などと欲が出て来ている。ここで活かされるのが、僕自身が研究対象にもして来た「朗読力」である。「文字」次元のものをいかに生きた音声表現に変換して伝えていくか、その「朗読家」としての実力が問われているような気がする。これでは「単一方向」で学生の学習実態が掴めないと思われるだろうが、そこはやはり「ラジオDJ方式」なのである。毎回、テキストにある短歌を素材にして「ラジオドラマ」を800字以内で創作することを、この講義の課題としている。寄せられた「作品」の中から「秀作」を5編ほど選び、毎度のDJで朗読し披露している。恋歌を扱っている関係から作品には男女の会話が含まれる場合も多く、単に読み上げるのではなく一定の演技力も求められる。こちらは落語師匠への入門経験や、以前から県内で実践して来た演劇ワークショップが実に役立っている。録音音声は編集の時間的余裕など一切なく「一発勝負」であるが、それだけに「生放送」のような緊張感がある。自らへの振り返りとして、帰宅後に妻とともに自らのDJを聴き直し改善点を探る日々である。

話す速度や間合いと時間内に収めること
作品朗読と地の文などいくつかの「語り手」を自らの中に持つ
大学の頃まで描いていたアナウンサーになる夢が小さく叶えられている。


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ピンチはチャンスー霊長類ヒトとして

2020-05-26
「人類はいくつものピンチを乗り越えてきた」
人類・霊長類学者である京都大学総長・山極寿一先生の弁
「人間らしきものが奪われた」いま・・・・・

地元紙・宮崎日日新聞には月1回の俵万智さんの連載「海のあお通信」が掲載。「トランプの絵札のように集まって我ら画面に密を楽しむ」という歌を添え、「オンライン歌会」に参加した旨が記されていた。文の結びには、「アフターコロナの地方のあり方は、この経験をプラスに生かしたいものだ。」とあり「わざわざ東京に行かなくても、可能なことは意外と多い。」とされていた。さすがは「全肯定」の歌が特長とも言える俵さん、この期にも粋な歌と前向きな提言はさすがである。僕自身も日曜日にZOOM(Web会議システム)を利用した「オンライン学会」に参加して、通常は土日を関東か関西まで出張しているところを、自宅で学会シンポに参加できたのは収穫であると思った。疲労もなく限られた予算も節約でき、家族から離れない週末が得られた。都市圏ではない地方大学の教員として、研究学会へ赴くのは様々な意味で負担であったのも事実である。

夜のニュースで京都大学総長・山極先生がインタビューにて冒頭に記したような趣旨の発言をしていた。新型コロナ禍で「人間らしきものが奪われ」たのだが、この「ピンチもまたチャンス」であり、必ずヒトはこの災禍を「乗り越えると信じている」と云う。人類や霊長類の研究者として著書も多い山極先生、考えようによっては「ピンチ」を乗り越えるのが「ヒト」の宿命的な歴史であるのかもしれない。今回のコロナ禍は、人類史に刻まれるのは確かであろうが、それほど特別な「歴史」ではなく、人類が数多く直面してきた「乗り越えるべき試練」の一つに過ぎないのではないかと考えさせられた。Webそのものの存在においても、我々は「人間らしきものが失われる」と警戒する面も否めない。携帯・スマホが普及しても、日本の学校(小中高において)で持込や使用が禁止されて来たのは、このような理由もあるだろう。霊長類として「火」を使用できるようになったヒトが、獣から身を護れるようになり集団による組織力で「社会」が形成できるようになった。”Web”を21世紀の「火」として、僕たちは新たな可能性を獲得できるチャンスに遭遇したということだろう。

新たな地方での生き方に光が
Webを存分に活用した教育へ向かうために
人生100年時代、今の子どもらは既に22世紀まで生きるのだから。


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オンライン中古文学会シンポジウム開催

2020-05-25
中古文学会「文学研究と国語教育の未来を拓く」
オンライン会議システムを使用し4人のパネリストが
「家にいよう」学会初参加

研究学会の季節であるが、ほとんどの「リアル学会」は中止。本来は京都で開催されるはずであった中古文学会であるが、この日は冒頭に記した内容でオンライン上で開催された。同学会では昨年来、関連したテーマでのシンポジウムが続いており、「文学」と「国語教育」の双方の業績がある僕としても、大変に気になる内容であった。しかし、パネリストからも因果なものとして発言があったが、昨秋は台風によってシンポジウムを開催するはずの初日は中止、またこの企画を中心的に進めていたご担当の先生が急逝、さらには今回の新型コロナ禍ということで、憂えるべき情勢が続いていた。今回は「オンライン」という方法を採用し開催されたのは、大変に意義深いものがあった。コロナ禍で大学の授業がオンライン化したことで、さらに「文学研究」と「国語教育」の「未来」を考えることが、喫緊の課題として我々に突きつけられた形であるからだ。

パネリストのうちの野中潤先生(都留文科大学)は当該学会の会員ではないが、むしろそれだけに興味深い発言も多かった。ご経歴からしても僕に類似していて、「文学」と「国語教育」の双方の多角的な視点からの発言は当該学会においては刺激的である。特に「古典文学」研究者というのは、なかなか広く外側からの多角的な視点を持ちづらいと自戒を込めて思う。「代替・添加・変容・再定義(SAMR)」モデルが不可避的・不可逆的に起こると云う、ICTによる授業や学習者への影響度については興味深いものがあった。またYouTubeなどを「現代の動画版図書館」のように活用する中で、「声」で身体的に伝わる「文学」の存在を問い直すことなどが啓発されると云う。四技能(話す・聞く・書く・読む)のみならず、「訳す力・動く力」つまり「つくる力」を含み込み、「楽しむ力」へと変革する教育の流れがあってもよいと云う提言である。「大人の都合と子どもの未来」という提言には、「既存」の研究・教育を問い直す刺激があった。他のパネリストの先生方の提起ももちろん刺激的であったが、今朝は紙幅の関係で主旨のみ記すことでお赦し願いたい。

河添房江先生の「動画作成(学生)実践」はコンテクストを生み出し
吉野誠先生の丹念な授業実践から「親しむ」には「批判」も必要と
萩野敦子先生の現代社会の課題も読める定番外教材の提案も


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日々の歩みを取り戻す

2020-05-24
月毎の平均歩数を見ると
1月2月に比して3月4月5月の大幅な落ち込み
様々な状況が減退する世情のうちに

休日に地元の百貨店で買物がしたいという母の要望もあって、久しぶりに妻と父母と4人で街まで出掛けた。休業要請が解除され、百貨店も営業時間は短縮ながら再開されている。また諸々の飲食店も再開しており、いずれも今後の客足の回復に期待が寄せられる状況である。所謂「新しい生活様式」には十分に配慮しながら、社会生活をいかに取り戻すかを実感する日となった感がある。街中の蕎麦の名店に行くとそれなりに客足は戻っていたが、以前なら店外に客が並んでいるような店でも、なかなか「元通り」には戻っていないようだ。百貨店では母の所望する商品のフロアを巡り、その後は地下食品街で惣菜などを見て廻る。数ヶ月に及び家ばかりで過ごしていた父母は、やはり一定の時間を歩くのがキツいようで、特に父はすぐに椅子を求めるような状態であった。

地下食品街でも目ぼしいものが見つからず、結局は「家にいよう」というこの数ヶ月にもよく訪れた地元のスーパーに立ち寄って食品を購入した。僕たちの感覚が、やや内向きになっているのだろうか?夜になってスマホの「ヘルスケア」アプリを久しぶりに確認すると、平均歩数が1月2月をピークに3月4月5月と次第に大きく減退していた。その波が「緊急事態宣言中」に明らかに落ち込んでおり、まだ3月は1月2月からの意識が多少は継続していたことがわかる。特に今月は「遠隔授業」が始まったこともあり、授業はすれどPC前に座っているわけで、歩数が大きく落ち込んでいる。実感としてもカロリー消費はしないが、精神的な消費が大きいのがPCを介した「遠隔授業」だと思う。人は動かざる身体で心まで衰退するのであろう、日々を適切な歩数を確保する重要性を痛感する。父母にもぜひとも新たな段階となったことで、新たな健康生活を回復してもらいたいとつくづく思うところだ。

1月2月の平均歩数は「8000歩」以上
今月の平均は「5000歩」少々にしか
「3000歩」の違いが3年後には大きな差となると自覚しよう。


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わたしには歌があるー師そして文芸・学問

2020-05-23
どんなに苦しくも
いくつになったとしても
わたしには歌がある、そして文芸・学問がある

「わたしには歌がある」という思いで、今週は「紺碧の空」が朝の連続テレビ小説で再燃し、YouTubeなどで何度も聞いている日々となった。先日、宮崎で師と尊敬する母校を同じくする先生と仕事でお会いする機会があったが、やはり普段はあまり観ていなかったが今週は連続テレビ小説を観ていると仰っていた。「紺碧」は昭和6年にできた(まさにドラマの場面)わけで、それ以降の卒業生であれば胸高鳴る歌である。宮崎にいても先生と世代を超えて「紺碧」で共感できたことで、やはり母校のありがたさを感じた。先生とともに「短歌」を文芸として学問としてこの宮崎で追究できていることそのものも、「紺碧の空」の「輪」の中にあるのだ。「青春の時、望む栄光」と二番冒頭の歌詞、この曲を聞くだけで青春に文芸や学問を追い求めた時が蘇るのだ。

3月頃から大学における新型コロナ対応で、正直かなり辛く苦しい思いが続いてきた。この年にこの役職であることを怨むにも恨めず、心が折れそうになることも妻に支えられてなんとか乗り越えてきた。今にしてあの3月4月当初ごろに「紺碧の空」を聞いたり歌ったりしたら、もっと心が強くなれたかもしれないなどと聊かの後悔をしている。「家にいよう」の方策を遵守してきたことで、心までやや閉鎖的になり自分の確固たる人生の糧を思い出せなかった悔恨である。だが今となってであるが「紺碧」に出会い直すことができ、もう決して心が折れることはないと思う。そして何よりも自分がいま研究者として大学教員であるのは、母校で学んだ礎により「文芸・学問」の道を邁進するためであることを再考した。宮崎での邂逅は大学とのそればかりではなく、母校で短歌を学んで来た著名な歌人の方々との出逢いでもあった。「紺碧の空」は野球の応援歌のみならず、卒業生が自分なりの道を「理想の王座」目指して進むための応援歌なのである。

生きる誇りまでもが蘇った
和歌短歌をとことん追究しつづけること
宮崎の「紺碧の空」は誠に美しい!!!


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遅けれど進め自転車ー倒れぬための一漕ぎ

2020-05-22
自力で如何様にもなる自転車
自らの身体をエンジンとして
倒れぬためには進みつづけること

新型コロナ対策のため都会では、公共交通機関を使用せず自転車で通勤する人が増えていると云う記事を読んだ。地下鉄・都バスを含めて公共交通は網の目のような東京では、不要にこれらを利用してしまうことも少なくない。だが中高教員だった頃の僕は、長きにわたり自転車で通勤していた。数日前の小欄にも書いたが、教員と大学院生の二足の草鞋を履くために、敢えて意図的に自転車を選択して公共交通機関以上の個人的な利便性を確保していたのも事実である。何よりガソリン・電気などのエネルギーを浪費することもなくecoであるとともに、自らの身体を活性化する利点がある。雨の際は余計に時間を要するので、天候には敏感になるというのも利点に加えられようか。また、教員として通勤に自動車を利用すると「遅刻する生徒の気持ちが理解できない」という考え方があって、自転車や徒歩だと平等な立場(雨などの悪条件が実感でき生徒の立場がわかる)となる効果もあった。

だが様々な利点の中でも、自らの向上心を昂揚させる面こそ僕にとっては大きかったのではないかと振り返る。15段変速のマウンテインバイクを愛用していたが、坂道の多い都内を自転車で走るのは容易ではない。また常に交通事故の危険とも、隣り合わせである。集中して注意深く焦らずルールを守り、堅実に忍耐強く漕ぎつづける必要があるのだ。当然ながら信号機で停止することもあるが、なるべく避けられるように速度を調整する(事前から速度を落とし青信号のタイミングを計る)などという習慣が身につく。完全に静止すれば倒れる、ゆえに遅けれど動きつづける。そのために微妙な「一漕ぎ」が有効なことがある。大きな漕ぐ力のみならず、この微細な漕ぐ力にも筋力がかなり必要になる。どんなに苦しくても、どんなに晴れる見通しが薄くとも、ともかく漕ぎつづけること。いつしか、自転車を愛用して得られた人生哲学のように僕の中に根付いたのである。

朝の連続テレビ小説「エール」
果たして「紺碧の空」は早慶戦前夜にして作曲されるのか?
筋力も脳力も動かしつづけてこそ、前向きに生きるということだ。


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