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仕方なく進めるべきなのか?9月入学

2020-04-30
東大が2012年に導入を断念
秋学期入学枠を設けた大学も
この事態になって「9月入学」と言われるのだが

世界の多くの国の学校制度は、9月始業で5月か6月頃までには終業する。日本ではあまり疑いもなく、4月〜1月か2月ごろまでの年度構成で学校が運営されてきた。従前から海外留学をする生徒・学生にとっては半年のズレが生じ、大学の在籍年数などにおいて余計に1年間が加算せざるを得ない状況であった。この学年制度のみが原因ではないと思われるが、2000年代に入っってからの日本人の留学生数は激減して内向き志向になってきた。一方で「グローバル化」などという言葉が、盛んに喧伝される矛盾した社会構造を特に教育界では実感してきた。制度のみならず質的な面でも、日本の大学のあり方そのものが欧米に比して見劣りする。現に世界の大学ランキングでも、OECDの学力的な位置づけやGDPに比して見たときに決して高くなく、アジア諸国でも見劣りするのは我が国の将来を考える上で憂えるべき問題であった。

新型コロナ感染拡大によって、社会の表面を覆っていた水位がかなり干上がり、今までは見えなかったものが見えるようになっていることが多い。問題視されていたものに蓋をするかのように社会の表面から水没させ、放置して何ら問題解決に向き合わず思考停止になっていたことがいかに多いかと痛感している。世界各国の感染対策においても、「国民の満足度」からするとかなり貧弱な我が国の状況が浮き彫りになっているではないか。医療現場などで人材も予算も「合理化」と言って正当化し、削減してきた様々な現場の窮状が露呈されているのではないか。学校制度に関していえば、ICT教育の整備事業も語学教育のグローバル化においても迷走するばかりで、現場の実情と国の議論が乖離する状況が続いてきたように思う。そこにきて場当たり的に「9月入学」が提起されつつある。我々教育現場に関わるものが真摯に考えねばならない問題ではあるが、いかにも「仕方なく」消極的に議論される実情こそが教育の現在を浮き彫りにしているのではないか。もちろん我々大学教員がどうあるべきか?という面でも水位が急に下がり始め、今後の生き方が問われているように思うのだが。

「今まで通り」は戻らないとすれば、
ならばいかに思考停止せずに向き合うか。
何を否定し何を肯定するかのみでは収まらない時代が来ている。


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健康リスクの複合性

2020-04-29
1、生活習慣 2、感染症 3、環境汚染
4、食品汚染 5、ストレス(精神疾患)6、医療事故
7、アレルギー 8、災害・事故 (2004年厚生労働省白書より)

人の健康に生じる障害、その発生頻度や重大性などのことを「健康リスク」と呼ぶのだそうだ。手元の『日本大百科全書』(ニッポニカ)を繰ってみると、冒頭の厚生労働省白書に記された健康リスクの高い順番が記されていた。同百科全書に拠れば、その後の東日本大震災と原発事故、また台風などの自然災害に熱中症などによって「国民の意識は高まっている」とも記されている。気になるのはその先の記述で「人の主観にも大きく左右される」という部分である。既にSARSがアジアで致死率の高いと知られていた2004年頃の白書においても「感染症」は第2位であった。「ゼロリスク」を求めるあまり、「除菌」などの製品が世に顕在化したのもこの15年ほどということになろうか。潔癖な人で「吊り革や手すり」にも触れられないというような、日常生活への支障を「ゼロリスク症候群」とも呼ぶのだと同百科全書にはある。

この数カ月間で「健康リスク」順位の首位は、”瞬間最大風速”的に「感染症」であるだろう。しかし、これもまた「人の主観に大きく左右される」ことを実感する。当初は「インフルエンザ程度のもの」という楽観的な見方を耳にしたが、それも「インフルエンザ」を甘く見た考え方であろう。数カ月で終息するとか夏になればウイルスは減退するなども根拠なき楽観視であり、「長期戦」という構えが様々な方面から提起されている。その世情にあっても、あくまで個々の「主観に大きく左右」されている楽観的な見方に接することも少なくない。「ゼロリスク」はあり得ないと理解した上で、判らない敵と向き合うには「最悪」の事態を回避する行動が求められはしないか。考えるに「健康リスク」は個別事象ではなく連鎖的に僕らの健康に障害を与えるのではないか。冒頭の1〜8は、今回の「新型コロナ」においても複合的な「リスク」となって僕たちに襲いかかっている。

大河ドラマで「織田信長はうつけ」と評判で
周囲が侮ればしたたかに先鋭化したものだ
リスクは常に身近にあり、さればいかに行動すべきか?を常に考えよう。


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速いよりも質の高い理解

2020-04-28
新しい情報を得る
速く見えるだけで浅い理解と
じっくりでも質の高い理解では

この度のコロナ禍は、単に感染症の怖さのみならず情報が飽和状態の社会の圧迫にも僕らは耐えねばならないように思う。日々のTVニュース報道のあり方、新聞紙上で捉えられた見方、それ以前にWebを介して舞い込む情報、特にSNSでは多様な一般の方々が多様な切り取り方で情報を寄せている。ひとえに「メディア」とはいうものの、意識的に制止しないと氾濫した水のごとく僕らの耳目に浸水を繰り返す。むしろ、何も知らなければどれほどに楽かとも思うが、命を護る情報である以上は無頓着ではいられない。特にWeb情報がスマホからいつでもどこでも取れるようになってから、情報更新の速さに引き摺られているようにも実感する。その「速さ」に僕らは、安心しつつ翻弄されているのではないだろうか。

就寝前に妻と話していて、「頭はよかったか?」「理解は速いか遅いか?」などという話題になった。思い返せば、小学校の低学年の頃などは特に勉強の理解は極めて遅かった。2年生になって担任の先生に「これほど九九を覚えない子は見たことがない」といった趣旨のことを、言われたことを記憶している。いま思えば覚えられない原因として「理解しないものを吸収したくない」という脳の働き方の傾向があったのではないかと思う。現に算数の問題の理解などは甚だ遅く、その傾向は高校の数学段階まで続いた。どうも新たな物事に接した際に、表面上を素通りして「理解した気になる」ことが嫌いなのだと自己診断できる。ゆえに文章の余白に疑問を読み取るので、決して読書も速いわけではない。こんな自らの頭の性質が、妻との会話から新たに浮き彫りになった。日頃から「質の高い理解」を求めている、その姿勢が情報氾濫の時代に功を奏しそうな気がして眠りに就いた。

情報の構造的理解
客観的にどのような傾向の情報かを見極める
生きてきたあらゆる物事への処し方を超えていまここに生きている。


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『もうイライラしない!怒らない脳』茂木健一郎著(徳間書店)

2020-04-27
「怒らない脳」にするために
イライラが募るこの世情にあって
急遽電子書籍を購入し一気に読破

もう2ヶ月以上に及ぶだろうか、今まで以上にストレスの多い世の中を僕らは生き抜かねばならなくなった。様々な報道によれば、「家にいよう」と云う施策によって家族内での暴力が深刻な問題となっており、減収や解雇によって先行きの見えない不安が社会全体に蔓延している。マスクの極端な品薄によって販売店の店頭で無用な諍いが生じたり、新型コロナ感染を公言した自暴自棄な行為や狂言的な行為まで、報道では目立つものだけが取り沙汰されるが、巷間での「イライラ」は膨大なものがあるように思う。何を責めてよいかもわからず、その上で社会生活をするだけで感染リスクの恐怖に曝されるという、実に「怒り」を生みやすい環境となってしまった。それがほぼ世界で例外なく蔓延してしまっているわけである。

かく云う僕もこのように小欄に考えや思いを言説化することで、少しは精神衛生を保とうとしている。しかし、「今まで」であったら通用していたものが、ほとんど全て通用しなくなった大学内で今後の方策に対応するにあたり、計り知れない「イライラ」を抱えているのも事実である。休日になってもそれは脳内から離れず、身体的に影響を及ぼすのではないかと思うほどである。そんな「自身」を「メタ」に客観的分析を施した結果、急遽本日の標題とした電子書籍を購入して一気に読み切った。その内容は、これまでも自らが「生活の知恵」のように日常から体得し既に実践しているものも多かった。例えば、「朝早く起きる」のもその一つに茂木氏は挙げている。「怒らない脳」にしないと、仕事にも趣味にも集中できないと云う。いやむしろ集中できるものがあれば、「怒らない」ようになると言えるのかもしれない。今月の新刊、「イライラ」が募る方にはぜひご一読いただきたい一冊である。

愚かなる「怒り」の言動
自らの言動は相手に映し出される
丁寧に謙虚に前向きに生きてこそ人間の「脳」であろう。


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鳥影が射すこと

2020-04-26
鴉が鳶を追いかける
白鷺が重そうな身体で車の前を横切る
米屋さんの軒先に燕の番いが巣を護っている

「鳥かげも鶯ならば歌の友」(雑俳・柳多留90)などと詠まれるが、俗信では障子などに映る鳥影は「来客の前兆」であるなどと云われている。また「縁起がよい」とか「人から物を貰う」など吉兆の象徴としての俗説も有名である。近所のパン屋さんへと妻とともに自宅を出ると、上空で鳶の声が聞こえた。見上げてみると鴉に威嚇され追われているような様子、すっかり鳶の方が強いものと思っていたが、雑多性に優れたしたたかさが鴉にはあるのだろう。これから雛の繁殖時期を迎えて、樹上などにある巣に近く外敵は容赦なく攻めてくる。僕も若かりし頃に建物の外階段ですぐそばに樹木がある場所で、脳天を足で衝かれたことがある。それ以来、あまりあの鳥だけは好きにはなれない。

午後になって米屋さんに向かうと、綺麗な河川の橋を渡る際に白鷺が重そうな身体でフロントガラスの前を横切って行った。身体に卵を持つのか?臓器が元来から重いのか?俄かにはわからないが、その姿をには興味が持たれた。その後、米屋さんで精米を待つ際に、軒下に燕が巣食っていることに気がついた。お店では止まり木をその前に吊り下げたらしく、そこを足場に巣内の雛を番いが育てている様子だ。店のおじさんに聞くと、その止まり木を設置しないと鴉に巣がやられてしまうのだと云う。それにしても人間社会がこれほどの苦難を抱え込んでいる中で、この例年と変わらぬ燕の姿は、どこか勇気づけられるものだ。人間には羽もない、その意味を今あらためて考えてみるべきかもしれない。

「家にいよう」
お好み焼きをドタバタ劇ののちに焼き上げて
この日に鳥影のさしたことを吉兆であれよと願う。


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永遠のうちなる「雨の粒ら」

2020-04-25
「遥かよりわれに近づき落ちきたる雨の粒らは永遠を知る」
(伊藤一彦『待ち時間』より)
永遠の宇宙のうちなる地球、2020年をともかく生きる

「なぜこんな世界になってしまったのだろう?」と、誰しもが個々の置かれた厳しい状況の中で考えているのが「今」の地球であろう。20世紀は「戦争」という人為的な惨禍が絶えなかったが、21世紀は様々に形を変えて人類を苦しめる惨禍が断続的に続いている。自然そのものが変容し人類の生活に影響を及ぼすのか、それとも近代化による人為的な行為がやはり自然を変質させ、その見返りを人類自らが被っているのか、それは「サル知恵」に過ぎない人間では、どんなに叡智を集積しても今はわからないことだ。科学は何でも解決する、といった20世紀の誤った全能感のような傲慢に矯正が必要であることを示唆しているのだろうか。いずれにしても僕たちは、この日本の世界の地球の宇宙の「永遠」の中で、今与えられた環境を活かして生きていくしかないのである。

外に飛び出したいような空、今朝もカーテンを開けた妻が「日向の青」を声をあげて讃えた。だが変わらず僕らは「家にいよう」という社会的要請の中で生きている。誰しもが享受できる自然としての空模様にも、様々な物語を読むことができる。冒頭に掲げた伊藤一彦先生の歌は、人間が傘などをさして避けたいと思っている「雨の粒ら」こそが「永遠を知る」と説く。「(雨の粒)ら」とされてることでむしろ雨の一粒一粒が自然の一部であることが読める。僕自身が小学校の時の授業内で初めて行った「研究発表」では、「水の循環」を課題としたことをよく記憶している。雨は大地を潤しまた川となり大海に注ぎ、海水は蒸発し雲となりまた潤いの雨として動物たちの住む地上に降り注ぐ。「雨の粒ら」は個々に想像も絶するほどの壮大な旅を繰り返している。海が生命の源だと云うのは、「粒ら」はその環境にも存在し円環的に「遥か」な空から僕らに降り注ぐのだ。ゆえに地球は「青空」ばかりでは、円環が停止してしまう。「今」まさに比喩的にたいそう厳しい「雨」が、地球上に降りかかる。だがそれも「永遠」のうちなる地球や宇宙の営為なのであろう。

「今」あるもので僕らは何ができるのか?
この永遠の円環を否定しても始まらない
あらためて「文学」や「歴史」の人文知が求められる世を目指さねばなるまい。


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そうだ!電話を見直そう!

2020-04-24
ふと夕食後にスマホに電話
あれこれ近況や歴史や俳句のことまで
そうだ!親友らともっと電話をしよう!

夕食を終えて妻と寛いでいると、親友の落語家さんから電話をもらった。従来の計画だと先週末に彼は宮崎を来訪し大学内でもイベントに出演してもらう予定であった。しかし緊急事態宣言による「移動自粛」もあり、計画はやむなく断念せざるを得なかった。真打ち昇進から5年目となり日々芸に磨きが掛かってきた彼の高座を学内で聞けるの楽しみであったが、その後ゆっくりと酒を飲みながら語り合えることを何よりも楽しみにしていた。そんな友と友の「楽しみ」を世間から奪うという暴挙が、数限りなく今や地球上で起きているのであろう。あらためて親友と逢える機会こそ、生きる上での宝物だと痛感する。そんな思いもあり、電話では様々な話題を大笑いしながら話すことができた。

電話をし終えた後の喩えようのない爽快感はなんだろう!通常であれば7時のニュース・9時のニュースでやり場のない憤りや悲しみに苛まれている宵のひと時である。その感情のあり方が意識しないうちに自らを疲弊させているであろうことは、先日も小欄に記した。「家で過ごそう」というキャンペーンの中では「Web飲み会」などが取り沙汰され推奨されているようだが、何もSNS等を使用しなくとも「電話」による声の交流は心地よい。映像至上主義な世の中で、あらためてラジオの良さを見直すのと同様な価値がある。幼少の頃は母が親戚などと長時間にわたって電話をしていると、「なぜだろう?」という疑問を持ったことも少なくなかった。しかし、故郷の新潟から東京に嫁いだ母は、きっと親戚との「電話」こそが自らの心を支えるための重要な時間だったのであろう。親友の落語家さんとの電話では、「東京が殺伐としている」ということをさらに実感した。生の場面に直面している人と声で会話することは、SNS等の写真や映像にない臨場感があるものと電話の効用を再認識した宵のうちであった。

テレワークならぬ電話交友
Web上の「リレー・・・」よりも電話で誰かと繋がろう
やはり「文字」ではなく「聲」で語り合うことは尊いものだ。


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「痛み知らぬは」十年前を今にあらためていく

2020-04-23
「こと過ぎてすべてを分りゐしごとき論評をせり痛み知らぬは」
「十年前に口蹄疫あり十年後にまたあり得むと予言するあり」
(伊藤一彦『待ち時間』より)

10年前の4月20日、宮崎では牛三頭に口蹄疫感染の疑いありと発表された。先週あたりから地元放送局のニュースなどでは、当時のドキュメンタリーや報道で振り返る内容が放送され、あらためて感染症への意識を喚起させられている。その想像も絶するほどの数の牛や豚たちの魂は、今や宮崎の自然となって新型コロナ感染拡大の人間たちの狼狽ぶりを見つめているであろう。宮崎の風に彼らの声を聞き、宮崎の水に彼らの涙が含まれ、大学内にもある家畜鎮魂碑に頭を垂れる日々である。現在の要請による集会や人の交流の自粛は、宮崎の人々にとって10年前を彷彿させあらたな行動に変えていく機会でもある。一頭の牛がその尻にワクチン接種を受ける重き痛みを思い、宮崎でこそ「感染拡大」に意識を高くして防止していかねば、彼らの魂に報いることはできない。

伊藤一彦先生の当時の歌を収載する第十二歌集『待ち時間』を紐解いた。冒頭に載せた二首をはじめ、県内口蹄疫の記憶を鮮烈に感じさせる作品が多く読むことができる。冒頭に記載させていただいた歌にある「十年後にまたあり得む」は、まさか人間社会を根本から揺るがす「新型コロナ」だとは当時予測しなかったであろう。いや、伊藤先生ご自身や自然に敏感な歌の読者であれば、自然の一部とされた牛や豚のことを慮り、人間にも及ぶ脅威があると「予言」していたのかもしれない。また当時も、「すべてを分りゐしごとき論評」が横行していたことが知られる。現在もまた、TV番組での政治家やコメンテーターらの横暴な物言いには、情勢を「逆撫で」しているかのような憤りを覚える。自らは「痛み知らぬは」であることを自覚してこそ、社会にもウイルスにも向き合えるはずだ。GWを前に観光を大きな収益とする宮崎では、さらに大きな「痛み」が伴う。あの牛や豚たちへの鎮魂を祈り、「今」をあらためていくしか道はない。

記憶は活かされてこそ生きていく
単に報道ではなく短歌は「こころ」が今に生きていく
県外からの移動自粛を要請する『十年後」の宮崎の春である。


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ありがとう!ザ・ドリフターズ!

2020-04-22
笑いはストレスの特効薬
報道番組ではなくドリフのDVD
「8時だよ!」の名作コントは今に活きる!

平日の日常生活には、ほぼルーティンがあり朝の出勤前と帰宅後の行動は同じようになるのが通例である。だが今は「非常時」であり、具体的に精神の安定を図る行動の変容が必要であると痛感した。帰宅後には妻が作ってくれた美味しい夕食をいただいているにもかかわらず、ニュースや報道番組を観ると自ずと気分が優れなくなる。報道のあり方や出演者の閉塞的なその場凌ぎの言葉に憤りが込み上げて、胃腸の消化にも影響ありと思うからだ。この日の宮崎日日新聞10面「くらし」欄に、精神科医で一橋大学大学院教授の宮地尚子さんが寄稿していた。「感情の揺れを認め合おう」ということや「非常時 一貫性のなさ当然」という見出しで大変に参考になった。世界そのものが先が読めない一貫性のなさを露呈しているうちに、自らが「一貫性」を保とうとすると自ずと苦悩だけが蓄積されてしまうのだろう。

ならばとこの日から、帰宅後に好きなDVD映像を流すことにした。サザンのライブかドリフのコントかと迷ったが、まずは笑いを取り戻したく「8時だよ!全員集合」のDVDを流して観た。1969年(昭和44年)から1985年(昭和60年)まで16年間にわたり土曜の夜に生放送され驚異の視聴率を叩き出したこの番組こそ、今の苦悩の時代に笑いを取り戻す。小中高大と学校時代のほとんどに「8時だよ!」があった世代として、その形容詞を不要とする笑いはまさに抱腹絶倒なのである。当時でも下劣だとか食べ物を粗末にするという批判もあり、家庭内で観ることが禁止されている家もあった。しかし、僕の家では家族全員でこのコントを心から楽しんでいた。このような背景からも、この日はまさに涙が出るほど笑ってしまい憂鬱な気分はすっかり吹っ飛んだ。WOWOWでも先週今週の週末に「志村けんさん追悼ドリフ映画特集」が緊急で組まれている。

身体を張った生放送の迫真のコント
僕も公開会場に行ったことがあるが、子どもたちとの共感度が高い。
あらためて今の時代にして、ザ・ドリフターズよ!ありがとう!


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見えない敵は己のうちにとは言うが

2020-04-21
刻々と変化する状況への対応
諸々の立場を思いやるこころ
何に苦しめられているのだろうか?

帰宅すると自らが思っている以上に、心身が疲れていると実感した。土日には仕事も視野から外して、十分にリラックスしたはずであった。だが月曜一日で、大きなダメージを受けたように思う。もうかれこれ60日間ほどに及ぶであろうか?いつ頃からどのように深刻になったかも定め難いようにジワジワと、新型コロナ感染拡大への対応に苦しめられている。もしもできることならば、あの2月頃に返って2ヶ月先は深刻な事態であることを自分にも社会にも教えてあげたいほどだ。初期の世界のそして我が国の新型コロナ対応は、あまりにも危機感もなく甘い予測のもとにあったことが悔やまれる。一時期においては「4月」ともなれば、感染拡大は抑えられているのではなかったのか?「瀬戸際」や「ぎりぎりのところ」が断続的に提唱され、その結果は「拡大の一途」である。このように振り返るに、今後も「終息」などという願いがそう簡単ではないことを考えさせられる。

地元紙「宮崎日日新聞」の19日(日)付一面に、宮崎の観光における減収の厳しさが記事となっていた。記事中に親友のコメントがあって、大変に悲痛な思いであることがあらためて知らされた。一部の報道にあるように「長期戦」が必至の様相の中で、まさしくジリジリと僕らの大切な生活を新型コロナ禍は胸を締め付けるように襲い掛かってくる。東京でお店を経営する親友たちも、日々を必死に凌いで明日を迎えているようだ。このウイルスには、自らが感染しないことが何よりも大切な防御であるが、自らのこころを侵食されないことが同時に必要な防衛となるようだ。「一寸先は闇」の道を日々歩き続けることは、精神衛生上あまりにもよくない。標題のように「見えない敵は己のうち」とは思いながら、「敵」そのものがわからない。否、もしや「敵」などいないのかもしれない。なぜ2000年代になって感染症の蔓延が多いかについて、人間が地球環境を尋常ではなく侵食してきたからだという研究者の弁を聞いたことがある。我々人間が築いてしまった社会構造・社会生活によって、僕らは侵食されているのか?社会が構造や思考を変革するには、短時間で済むわけはないと考えねばならないのか・・・・・。

日々に向き合うものへ考え方を変えたい
こころの領域が侵食されないためにも
このウイルスの集団免疫には、身体とこころの両面が必要そうである。


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