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聲を聴くことは待つ・治めること

2020-02-29
「聲」の文字には「耳」がある
「聴」の文字には「待つ」「治める」の意味もある
「聲」と「耳」は「視る」にも連なる

集会などの中止が相次ぐ中であるが、学部の「母校創立135周年記念式典」が慎重な配慮のもとに開催された。以前に大学主催の「ホームカミングディ」で講演をしたこともあり、この機に「記念講演」をお願いしたいと依頼をいただき、25分間のお話をする機会をいただいた。「牧水の聲と耳ー宮崎でこそ聴こえるもの」と題して、牧水の身体性ある短歌の魅力と宮崎の学校に伝統的な「読み聲」の活動に関連させて、僕自身の研究について語った。牧水が若かりし日の第一歌集は、周知のように『海の聲』と名付けられた。「ひとり海聴く」といった姿勢が、多くの短歌に読み取れる。南北に長いこの宮崎の地では、海が近い場所も多く、僕の自宅でもそうだが耳を澄ますと「海の聲」が聴こえる。それはまた命の象徴たる自らの「聲」を聴くという行為と関連させて考えるべきで、自他ともにそして思考の中の異次元の想像的な聲を聴くことにも通ずる。

「聲」は目に見えるものではないが、「聲色」という語があるように多様に「視える」ものでもある。五感の相互が交響・融合・交錯して自覚されることを「共感覚」などと呼び話題となることも多いが、この能力こそが芸術的に優れているものを産み出す力なのではないかと最近は思っている。「聴」の漢字には「待つ」や「治める」という趣旨もあり、文字の成分を見ても「耳を澄ましまっすぐな心できく」と解字できようか。一方で「聞く」の文字が「門」を隔てて「耳」があると解字されるのだが、「へだたりを通してきく」という語義で、何となくきくとか(間接的に)又聞きすることであり精度や深浅が大きく異なる。また「聲」は安易にきこえるものではない、じっくり対象と向き合い「待つ」姿勢があってこそ自らの心がまっすぐに対象の向き合い初めて「聴こえる」ものである。漢字の何千年という歴史は、為政者にこの「待つ」ことに通ずる「聴く」を求めたのであろう。よって「治める」とは「聴く」ことなのである。「聴く」に及ばず「聞く」ことで現場の実情も計らずに断行される負の歴史を、僕たちは忘れてはなるまい。講演を通じて僕自身があらためて「聲を聴いた」ようであった。

宮崎でこそ聴こえるもの
喧騒の世情にあってこの地で耳を澄ます
自然の一部であることを忘れた人間の愚かな「聲」が聴こえる。


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文化・娯楽そして教育

2020-02-28
「不要不急の外出」
「多くの人が集まる処」
「臨時休校」社会の構造を読むならば

本年のアカデミー賞各賞に輝いた韓国映画「パラサイト」は、「ネタバレ禁止」が厳格に示されているのであからさまに書けないが、韓国社会に限らず世界各国の社会構造の諸問題を普遍的に浮き彫りにした名作ということになるだろう。その衝撃の展開に、僕たちは多くを学ばねばなるまい。比較文学研究の手法からすると、異質な点ばかりを指摘するのではなく、共通性や普遍性がいかに見えるかを考えることで初めて違いも認識されるものだ。現状の新型コロナの社会的状況の報道でも、隣国である韓国の急速な感染拡大が取り沙汰され、「日本はまだそれほどではない」という安心感を助長しているようにも見える。だが、検査体制の違いや社会的習慣の違いを認識するとともに、感染拡大の要因の緻密な精査を各国共通の普遍的な視点から考えるべきではないか。韓国やイタリアの対応は、この国の大きな学びであるはずだ。

イベント・ライブ・スポーツなどは筆頭に中止か無観客となり、そして昨日は全国の小中高校への1ヶ月近くに渡る「休校要請」が為された。文化・娯楽・教育は止めても「社会は混乱しない」という認識があると受け止めていいのだろうか?この延長で考えるならば、終息が難しい状況を仮定すると、東京五輪も難しくなるという前提にもなりかねない。また子どもたちのいる多くの家庭において、1ヶ月にわたる臨時休校の措置は大きな生活上の負担となるに違いない。学校側としても中高教員をしていた身として考えると、年度末のこの時期に生徒たちの登校がないのは、次年度までも波及する困惑の因子が山積みとなる。一方、社会における経済活動は継続されたまま、停滞感のイメージがなきよう見せているようにも思えてならない。こうした社会情勢の中で、いつも多くの負担を強いられるのは「半地下の家族」なのである。現実の社会構造にどれほどの理解と敬意があるか?非常時の対応にこそ、その国の現在が見えている。

9年前に学んだことは?
11年前にも似たような社会が見えた
学びが活かされない先の見えない年度末である。


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真に役にたつ学びとは

2020-02-27
欲しい時に欲しいものが手に入る
調べ考え行動し表わして交わる段階が
人として生きることに役立つとは?

小中高校の学びは、生きていく上でいかに「役に立つ」のだろうか?単に「国語の学び」を考えてみても、「ことばの力」こそが思考を創り自らが表現し他者と交流する「人間としての生きるための営為」に大きく貢献する。ただ「生活に役立つ」ことと、「生きるために役立つ」ことは同じようで大きく異なり、後者は学習者の中で即効性を持って理解されるものではない。「生きるため」と考えると、学習者が6・3・3の学びを修める高校卒業時点では、何が役に立って何が役に立たないかも十分に把握できるだけの経験がない。ならば、あらゆる可能性を考えての学びを創っておく必要がある。このように考えると、やはり「国語」においては「言語技術」のみを扱うのでは十分ではないことが明らかになる。

何か欲しい食べ物があった際に、いつでもどこでもコンビニで買えることが「役にたつ」ということではない。では果たして、その食べ物は本当に当事者の「生きる」ことの為になるのだろうか?原材料の産地や質感から十分に吟味して、いかなる調理法でいかなる美味しさを引き出すか?料理は達成感を即時的に味わえる営為と言われるが、「コンビニ買い」をすることでその「生きる」姿勢は失われる。最近の学生たちと接していると、コンビニ買い的な短絡的な発想によく出会う。根拠のないWeb上の情報を即座に信用してしまい、自らの学びに直結させてしまう。「検索」しただけで「調べた」気になっている危うさ。少なくとも大学という学びの場は、そんな安直さから解放し本来あるべき「生きる」学びに導く場であると大学教員としての強い信念を持ちたいと思う。

生きることは学ぶこと
学ぶことは疑うこと
安易な情報で右往左往しないためにも。


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坂を登り切る自転車のごとく

2020-02-26
電動でもなく他者の助けも借りず
ただひたすら坂を登る自転車の若者
あの日の自分を見るような光景


現職教員をしながら大学院への入学を決意した時、一番考えたのは勤務先から大学までの交通手段である。勤務時間は午後4時まで、4時半から開始される指導教授のゼミに参加するには30分で研究室に到達しなければならない。しかも勤務時間が終わって諸事に目もくれずに勤務先を飛び出さねばならない。東京ゆえに公共交通機関も充実してはいるが、一番短い時間で研究室まで到達するのは自転車であると判明した。しかも地図上に勤務先から大学キャンパスへ向けて直線を引き、その線上で自転車で走れるまさに網の目のような道を自分自身で定めたのであった。この経験は、意欲と合理的な方法が融合すると底知れぬ力となるということを身を以て学ぶ機会であった。

自転車の最短距離経路には、坂道がいくつかある。東京は「ブラタモリ」で紹介されたように、実に坂の多い街なのである。大学キャンパスが見えてくる目白台の坂は、極端な急坂で此処は下りになるので、急カーブを曲がるのに気をつけねばならない。また、途中にダラダラと長い坂があり、実に「辛い」と感じる日々が思い返される。その坂を登る際には、母校大学の応援歌を心の中で唄い、自転車の変速機にも助けられて何とか登っていた。その際の自分の姿は、まさに現在の大学専任教員となるための象徴的な姿なのである。人生には自力で坂道を登り切るような苦難の体験が、ぜひとも必要なのではないか。それ以来、僕の中で確信ある人生哲学の持論となった。苦難の丘を自力で登り切れば、必ず希望の未来が待っている。今は大学受験生を迎える側となり、まさに自力で自転車で坂を登ろうとする高校生に大きな声援を送りたい心境である。自転車という「道具」は利用するにしても、その車重を含めて自力で登り切ることが肝要であると切に思うのである。

誰も知らない東京都内の「獣道」
路地の先に、坂の上に研究者としての未来を見つつ
今も自らの脚の筋肉の強さは、この体験にも由来している。


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葛藤の中のジム

2020-02-25
市中は感染対策とエチケットと
されど免疫力を高める運動をすべく
栄養に妥協せず闘える身体を創る

ある県で電車内でマスクなしで咳をしていた乗客が近くにいたと云う理由で、緊急停止ボタンが押される事例があったと報道で知った。電車内という密室空間での咳やくしゃみはウィルスを撒き散らすことがTV番組で紹介され、「咳エチケット」という言葉さえも使用されている。くしゃみも「爆発力」があり、確か1.5〜2mほどは唾液や鼻汁などの粘液を含んで飛散するらしい。新型ウィルスにあらずしても、風邪などを他者に移してしまう可能性は自制すべきなのは社会慣習としても大切なことだ。この時季には花粉の飛散も始まり、くしゃみや咳(鼻や喉の粘膜への花粉の刺激による)も他の季節よりも多くなりがちである。かくいう僕もジムに行くと、どうも床のパンチカーペットの埃に反応してか、くしゃみを連発することがよくある。

この世情であるが、ジムにトレーニングに赴いた。ウエイトトレーニングのマシンなど、不特定多数の人々が手で接触し、汗や呼吸も普通の場所より頻繁で体液が飛散する可能性は高い。だが、元来は健康を創るための施設に行くことが阻害されるというのも矛盾があると思い、予定通りのパーソナルトレーニングを行なった。集団が密室で長時間の活動を行うことで感染のリスクが高まることは、国内外の事例を見ても明らかだろう。それゆえに個々の意識とエチケットなどが、日常以上に求められるはずだ。タオルを持参でくしゃみなどの防御、そしてアルコールティッシュ持参による手指消毒、水分補給の際のボトルなどの扱いも慎重でありたい。だが、考えてみればそのいずれもが日常的に行動すべきことでもある。栄養補給と免疫力の問題も含めて、風邪を引きやすいかどうかは日常の行動が左右するのではないか。ジムへ行きながらも、公衆衛生の様々な現在を考えさせられた。

帰宅して野菜と肉の鍋物
身体の健康を維持するための日常
市民として生きる僕たちの行動のあり方


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さらなる身体性の喪失にならぬように

2020-02-24
多人数の集まる場の自粛
Web通信などによる対応なども
対面対話の身体性を反故にしてはならぬ

毎月20日〆切の詠草を出した後、22日に3月の心の花宮崎歌会の中止が会員に告知された。現状の社会的状況を考えれば、早期に妥当な対応であり十二分に納得した。ただ、毎月において習慣化してあるべきものが喪われると、当該の事項の存在価値があまりにも大きいことを痛感する。詠草へ1首出す歌も、歌会でいかに読まれ得票は入るか?など大きな期待を持って〆切前の推敲に苦悶する。同時に50首に近い宮崎歌会の会員の方々の歌が読めるということを、どれほど楽しみにしているかと思う自分を再発見した。月例で歌会があり、多くの会員の方々との交流があることそのものが、歌作りそのものを支えてくれている。僕にとってなんとも貴重な身体的に刻まれた、月毎の生き方なのである。

こうした集会の自粛について、宮崎では2010年の口蹄疫の際の厳しい現実があったことを多くの方々から聞いた。疫病そのものの危険性はもちろん憂慮すべきことであるが、同時に人々の交流や流通が途絶えることによる社会へのダメージは、あまりにも大きいことを知った。このように、話に聞いたことで記すのも申し訳ないほどの悲痛さを覚える。現状の報道もましてや政府も、経済的な減速ばかりを気にしているように見えるが、問題は僕ら個人個人が人々と接する機会を喪うことの、大きな精神的損失が最大の問題ではないかと思われる。その判断を個々に依存している現状も、責任回避社会の悪弊のように思えてならない。あらためて僕たちは、人と人とが生の声で語り合い、表情や動作からその意図を十分に読み取り、暑さ寒さを共有して同じ場所で自らの「生きる」を賭した「ことば」を尊重する機会の重要性を噛みしめるべきなのかもしれない。これはなにも「歌会」だけの問題ではない。

感染症に様々なことを考えさせられる世相
この社会のあり方そのものが問われている
対面による対話という身体性をさらに喪わないために、考えねばなるまい。


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予期せぬ事態への対応

2020-02-23
予定調和な世の中で
予期せぬ事態への対応にこそ真価が見える
日常的に身につけておく姿勢・習慣そして生き方

先日、ある県立高校での短歌ワークショップの折、終了後にゼミ生と懇談していると「先生の即興力は凄いです」と言う学生がいた。「いやいや、“即興”に見えても、あれこれ事前に構想してやっているんだよ」と返答し、他のゼミ生とともに笑った。その会話の後、自己点検をしつつワークショップを振り返ると、事前の構想を行動化する際の実現力こそが重要なのだと気付かされた。日常からいかに「授業」などを通じて、学生たちの反応に即応できるか?様々な場面で適切な言葉と態度を選択できるか?を身体化しているかどうかが「教師」としての大切な要素であるとあらためて考えた。「教師」に限らず、これは社会的な生活でも求められることではないだろうか。真剣勝負の「プロ」は、日常から即応性を心掛けるべきではないのか。

新型コロナへの対応にもそんな日常性、つまり日頃の考え方が大きく行先を左右しているように思う。今年の正月時点で、東京五輪の直前にこのようなウィルス感染が拡がる事態になるとは、どれほどの人々が予想したであろうか?まさに「ウィルス」のイメージ通り、ジワジワジワジワと様々な予想外の事態が展開している。昨夜、TVを観ていると台湾などのコロナウィルス対策が報じられていたが、公共交通機関内や券売機など多くの人々が接触する場所を、1日に6度も消毒していると云う。翻ってこの国では、特に豪華客船への対応などが一つの縮図だとすれば、いかにも生ぬるく中途半端で責任回避的なものと感じざるを得ない。豪華客船のみにあらず、この市中でも既に感染経路の判明しないケースが拡がりつつある。闇雲にイベントなどを中止にすればいいのか?僕たち個々の日常生活習慣がいままさに即応性として問われている。電車内の支柱に頬を摺り寄せる子どもを見過ごす親?街中で食べ歩きをしつつマスクをしている若者?この国の日常やいかに?と思う。

緊急時対応の大切さ
日常からのものの考え方
情報の精査といかに自分の身は自分で護るかである。


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なぜに?困難の物語が与えられるのか

2020-02-22
自然災害はどうして続くのだろう
そしてウィルスとの闘いが続く希望だったはずの世紀
災禍続く時世をいかに考えるか

多くの「物語」では、人が生き抜くには困難が必ず立ちはだかることを教えてくれる。ここで「物語」というのは絵本などのそればかりではなく、映画などの「筋書き」などまでを指していう。むしろその「困難」がなければ「物語」が成立しない、といっても過言ではない。とはいうものの、ここ10年ぐらいの災禍の連続は、どうしたことだろうかと思う。東日本大震災から9年が経とうとしているいま、毎年のように日本の国土のどこかが災禍に見舞われてしまう。ここ3・4年間の台風などによる風水害だけでも、地球温暖化などと標語を言っている場合ではないほど、またどこかで起きる可能性がある待った無しの課題であろう。僕らは21世紀という希望の未来が、このような困難な時代になることを、幼少の頃のSF物語で読んだ覚えはないのであるが。

最近、Web動画サイトで「サンダーバード」の映像を見直している。そこで驚いたのは、この「国際救助隊」という「物語」の設定が2026年にされていたことだ。あと6年後、僕ら地球の住人はあのような高性能メカを人命救助だけに専制して使用する「物語」には出会えそうにない。しかも「サンダーバード」の「物語」理念は、人間が生み出し様々な機械文明が暴走したことで災禍が発生してしまうゆえに、高度な人命救助が必要なのだという趣旨がナレーションで語られている。この「物語」は「サンダーバード」の存在を理想としつつ、現在の世界の実情をある意味で予見しているように思えた。自然災害が止まらないのは、単に「自然」のせいなのか?そして21世紀の新たなウィルスとの闘いは、どこかで人類が足を踏み込む場所を間違えているからではないのか?平穏を祈るばかりではあるのだが、この世情の「人事」の悪質さゆえ、僕ら人間に「困難の物語」与えて目覚めさせようとしているのではないのだろうか?人間として人類として考えたい課題であるように思えてならない。

様々な企画・イベント中止の影響
歓送迎会をはじめ飲食店の経営を直撃する
僕たちは、人類の平和の祭典を今夏開催する国の住人であるのだが。



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悲しき1年前を思う夜

2020-02-21
ちょうど1年前の悲しき報せ
今やれることを大切に
人生を感じる夜に

この週末に企画されていたいくつかのイベントが中止になった。不透明で感染拡大が懸念される新型コロナ、死亡した方の報道や九州で初の感染者と云う報道に、その都度敏感に反応せざるを得ない。その一方で、企画イベントを開催しようとしていた方々の無念さも痛切なものがあると想像する。何より情報の一人歩きや公開が十分に為されないことに、不安や恐怖は拡大するものだ。3.11などでも覚えた報道への不信感が、今やこれほどまでであると、真実が試され暴かれているかのようである。自ら情報を精査し「正しく怖がる」と云うことの実践が各自に問われている。

ちょうど1年前のことだ、大変に親しかった大学の先輩が天国へと旅立った。直近の数年間は僕が宮崎に移住したこともあろうか、あまり逢う機会がなかったのが悔やまれた。あまりの急逝にご家族の心痛はいかばかりかと、葬儀での悲痛な思いは忘れられない。命日に当たる昨夜、ご家族とお電話で話すことができた。仲間内での「偲ぶ会」を今回を機に開けないものかと模索したが、この世情を鑑みて企画することを断念した。仲間内にも「逢える時に逢う」べきとの意識が暗黙にも醸成されたことを痛感している。先輩を偲び先輩が喜ぶこととは、複雑な胸の内を持ちつつこの世情を見つめている。

今なにができるか?
今やらなければならないことはなにか?
2020年を生きている今


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日常からの免疫力

2020-02-20
何か特別なことをするのか?
日常から免疫力を高め衛生的な生活
対処療法にならぬように生きる

ここのところ手を洗い過ぎて、爪の周りなどがやや赤切れのようになってしまった。本末顛倒な結果であり、むしろ手は保湿され健康な状態を保つべきなのであろう。などと考えて就寝前に、両手に愛用のクリームを塗り込んだ。手洗いも保湿もかなりの部分が、ほぼ日常的な習慣になっていたこと。今回の「新型コロナ2019」の騒動ゆえ、特別に処していることではない。手の洗い方も指の間、爪先、親指周辺に手首まで概ね30秒程度はかけて入念に洗う。部位もさることながらその程度の時間を石鹸で洗うことで、病原菌は死滅するのだと云う。思い返せばほぼ10年ほど前になろうか、「新型インフルエンザ」が大流行した際に多くの情報から学び身についた習慣だ。「パンデミック」の言葉とともに、この世紀の人類は新しい病原菌と闘う時代である。

手先から外部の病原菌を取り込まないこと以上に、大切なのは免疫力である。外部からの菌の攻撃に強い抗原抗体反応をできる身体、何よりもまずはここが肝心であろう。日頃から風邪を引きやすいかどうか。僕自身の感覚からすると、喉にやや違和感があるなと感じた際に、鍋などで十分な野菜とタンパク質を摂りよく寝ると概ねは回復をする。日常的な食事のあり方が、免疫力を左右するのは自明のことだ。この力こそ、現代が失いかけている人間としての力ではないのか。因果なものでそんな現代社会の隙間から、新たな病原菌が今回のように人間社会を襲う。既に様々な企画・行事の中止なども発表され、通常ではない社会的な進行を目の当たりにしている。薬局でマスクや消毒液等を求めたが、その品薄状態にも驚いた。多くの人々が緊急措置的な行動で、この危機を避けようとしている。

健康とは何か?
身体と語り合う時間も大切に
あらゆる身体活動を活性化するよう努めたい。


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