時代と和歌・連句とを選び語る学び
2020-01-31
定家・西行から宗祇に芭蕉と蕪村江戸の香川景樹に橘曙覧まで
連句はひと続きで表示し和歌との違いを見抜く
いよいよ後期講義も最終週を迎えた。主に2年生の専門科目を担当しており、3年生の夏に実施される基礎実習に向けて、教科専門である「国文学」の学びをいかに教科教育(教育法)へ活用するかといった課題が自覚される時期である。演習で『枕草子』の個人発表を繰り返してきたが、古典教育と発達段階の問題など、『枕草子』”を”学んだというより、『枕草子』”で”学んだ深い学びを、教材研究などへ「考え方」を活用できる力が求められる。もとより現代において「古典をなぜ学ぶのか?」と云う根本的な問いを、具体的な作品を調べ読解することで身につけるのが大学講義の役割である。知識は身近に検索でき膨大なデータもすぐに活用できる時代、いかに知識を組み合わせて編集することで、人間として独自な考え方を持てるか?「教師」が「消える職業」にならないために、何が求められるか?などの課題も学生から提起された。
「国文学史Ⅲ」(中近世文学)においては、『新古今集』あたりから宗祇の連歌、江戸時代の賀茂真淵や香川景樹の和歌、さらには芭蕉・蕪村の連句に江戸末期の橘曙覧の和歌まで10首を取り上げ作者を示さず、任意の1首を選び時代や和歌なのか連句なのかを、その表現特徴から予想した上で1分程度の批評を語るという方法でまとめを実施した。選歌して批評を構想する時間は5分間のみ。あまり考えず原稿を用意せず、15回を積み重ねてきた「文学史」の学びを即興で応用することが狙いである。得票としては芭蕉の連句に人気が集まったが、『新古今』の本歌取りをした和歌において「本歌」までも想起して批評した学生もいたことは、文学史講義をやってきた甲斐を十分に感じさせる活動となった。また文字の読み方をいかに考えて施すか、という課題も明確になった。学生は「音読(おんよみ)」つまり「漢語読み」を施す場合が多く、歌では「やまとことば」で読む必然性があることや、現代が明治以降の言語環境の末に「漢語」使用が多い時代になっていることも自覚すべきことが浮き彫りになった。また「四畳半(よじょうはん)」とか「門(かど)」などは、読み方を含めて日常生活になくなってきた物であることが痛感できた。既に畳の部屋のある家屋で育ったという学生も少なく、「門松」や「門出」を考えて文語の読み方を定めようという意識は希薄であるようであった。ゆえにこの「文学史」の講義の意義も、側面から考えて見るべきかと省みる材料であった。
「深い批評」を即興で述べるためには
趣向と思考が歌を句を選ばせる
横並びに選んで類似したことを語るか、我こそはという内容を語るかの差も大きい。
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会議に座っている身体
2020-01-30
一日の歩数や活動量など呼吸し思考している身体
どのように使っているかの自覚
先月から諸々の機能がついた、所謂スマートウォッチを購入し身に着けている。すると一日の歩数はもちろん、活動消費カロリーや立っていた時間、上った階数、などが自動で記録されるようになった。さらにエクササイズをどれほどにやったかなど、一日の健康管理が刻銘に記録される。大学でのデスクワークが続くと、「そろそろ1分間は立つ時間です」などと警告してくれて、気分転換に身体を動かすこともできる。これによって自ずと身体を動かそうという意識が高まり、最近は毎日1万歩は超えるほど歩いている。宮崎は車社会であり、意識しないと3000歩以内ということも少なくはなかった。周囲の人たちに聞いても、歩いて行けるスーパーにも車で行ってしまうことが多いと云う人も多い。
この日は会議が続いた、もし会議時間を記録してくれるアプリがスマートウォッチにあったら、新記録となるのではないかと思う。椅子に座り動かすのはせいぜい指先ぐらい、ただ脳内は様々な情報を受け取って処理し、様々な想像・判断を生み出し意見としてまとめ、あらためて言語化して表現している。役割によって発言機会が多いものもあれば、比較的聞いていることに徹する場合もある。いずれにしても、身体は乾き新鮮な空気を吸わず立つ時間が制限され、健康とは程遠い時間となる。嘗て大昔はどのような会議でも喫煙まで可能だったと聞くが、これで受動喫煙まで加わったら、どんなにか不健康な身体になるのかと思ってしまう。幸い昨日は、大学まで歩いたり夜の街を歩いたりする機会に恵まれた。歩数は12000歩台、小欄を書き終えた早朝に家でできるエクササイズも怠りなく。動かない歩かないと、脳内にも新鮮な血液が行き届かない。
深呼吸やデスクでできる小まめなストレッチなども
生活のうちに使わない筋肉を動かすエクササイズを
会議をしている身体の自覚。
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「自分の眼で現実を見る」ちから
2020-01-29
短歌という形式を選ぶ意味「他人の借物ではなく」
志・心を種として・有のままに写す
なぜ「短歌」という形式を選ぶのだろう?「俳句」と混同されると、不思議な抵抗感を覚えるのはなぜだろう?そしてまた馴染まない人々には、なぜ敷居が高いと思われてしまうのだろう?小中高とあらゆる校種で必須の教材ながら、「国語教師」で扱うことに消極的な人々も少なくない。だがしかし、日本語日本文化の形成に漢文が必要不可欠であったゆえに教材とされているのと同等かそれ以上の理由で、「短歌」の学びによって1300年の文化の命脈の上に身を置くことになる。このように述べればそれに抵抗感を覚える輩も少なくなく、ときに研究者であっても偏見視する度量しか持ち合わせない場合さえある。元を正せば「惚れた腫れた」の問題かもしれないのだが、文学そのものの価値が社会的に貶められている今こそ、声を大にして「短歌」を熱く語りたい。
日本文学史の上で歌論を辿れば、やはり『古今和歌集仮名序』の「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」をまずは挙げねばなるまい。その根本的な発想は、中国の詩論「詩は志を述べる」に由来する。何よりは人間が人間たる存在価値ともいえる「心を抒べる」ものが「歌(やまとうた)」であるという点を押さえておきたい。この平安朝からの和歌としての伝統は、中世の爛熟期を経て江戸時代まで続く。明治になって正岡子規による短歌革新運動が為され、「写実・写生」が唱えられることになる。以後、様々な近代化の波に「短歌」は耐え得る詩型なのかという問題意識が繰り返されたが、「他人の借物ではなしに自分の眼で現実を見るということ」を肝要とすることを佐藤佐太郎などが述べ、(大雑把であるが)塚本邦雄が前衛短歌でその衝撃力を古典を存分に踏まえて作品化・理論化したことで、韻律と言葉のちからによる己の存在証明を日常の中に見出す詩型が自覚され今に到るのであろう。この命脈を軽んじる者に、少なくとも日本文化を語る資格はないだろう。ゆえに迷うことなく「短歌」を熱く推したいのである。
「現実」を見るための日常
「短歌」を詠もうという意識が生き方を変える
常に新しい己を言葉のちからで築くのである。
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この冬に「雷ちかづきぬ」
2020-01-28
「ぬばたまの夜にならむとするときに向かひのをかに雷ちかづきぬ」(斎藤茂吉)乾燥した澄んだ空気の冬型気圧配置はいづこへ
強風と記録的短時間豪雨に竜巻注意報など夏の気象の様相が・・・
「ぬばたまの夜にならむとするときに」ジムへ行こうと車でやや高い位置を走るバイパスに上がった。側道の上り坂でバイパスの道路の高さに出ようとした際に、一瞬の閃光が目に入った。僕は自らの車が自動で上向きライトになることから、瞬時に「上向き」となってバイパスの他の車を感知し「下向き」に戻った動作をしたのかと思った。だが同乗する妻は、「雷ではないか」と言った。僕はこの時節に「雷もないだろう」と否定的であったが、バイパスから見ると遥か北東の空に巨大な雲の塊があって、その内部がまるで電気がショートするかのような火花を散らしている。空港方面かはてまた日向灘の海上か、場所はなかなか闇の空の彼方で特定できなかったが、何しろ映画のような強烈な印象をもたらす「冬の雷」であった。
天候は朝から異常であった。突風のような風に横殴りの雨、夏の台風の折などを彷彿させる。雷が見えた方向の宮崎県北部や大分県南部では、「記録的短時間豪雨警報」や「竜巻注意報」が発令され「避難指示(レベル4)」にさえ至っていた。世界が経済最優先の利益誘導型にうつつを抜かしているうちに、地球は明らかに怒っているかのようだ。北国の雪不足、予期せぬ地域でのドカ雪、暖かく凌ぎやすい気温に、我々はなぜ驚かぬのだろうか。「20✖︎○年までにCO2を・・%削減」と云うお題目は、既に実行して来なかったツケを払う段階に至っている。昨夏のような台風による甚大な被害は、決して1回性のものではないだろう。果たして国同士が、つまらぬ鍔迫り合いなどをしている時なのであろうか?冒頭の茂吉の歌は、素朴にして単純化の際立った名歌であろう。ただ茂吉もこれに類似した光景を、冬に現実として視る国になるとはゆめゆめ思わなかったのではないだろうか。
若い世代の中高年世代への反逆の問題も
世界が社会が分断している間に地球はどうなるのだろうか?
まだ自然に力があるうちに知性と理性の対応へと導くのは我々であるのだが。
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恩師の力は亡くなりてなお
2020-01-27
「幕尻」という表現場所中に悲しみの報せの中
番付を思わせない立派な相撲で優勝
「幕尻」という表現語彙も実力世界の偏見視を感じさせたが、大相撲でこの番付で優勝するのは20年ぶりであると云う。昨日の小欄に続き大相撲の話題。見事に徳勝龍関が、初場所14勝1敗という見事な成績で優勝を果たした。取り組みがあらかじめ全て決定している他の競技と違い、大相撲は前日の結果などによって取り組みが定められるようだ。前日の十四日目に単独で1敗を守った徳勝龍であったが、大関・貴景勝との取り組みとなったのは力の世界の無情な掟も感じさせたが、観る側にとっては興味深いものでもあり、「幕尻」力士が千秋楽結びの一番に上がるというのも昭和以降初めてという快挙であったようだ。結果、徳勝龍は「優勝」に見合った見事な相撲により、自らの力で賜杯を手にした。
優勝してみて話題となったが、徳勝龍関の近畿大学時代の恩師が場所中に急逝されたと知った。インタビューでも「(見守っていたという感覚ではなく・私注)先生が一緒に土俵の上で闘ってくれていた」という表現を述べた。師というものは、弟子に競技の技術や体力の鍛錬、さらには心構えなどを教えるものであるが、その場凌ぎではなく恒常的に力が付いていてこそ師匠と呼べるのであろう。徳勝龍の大学時代の恩師はまさに、死してなお教え子に力を与え続けている。考えてみれば、僕なども学問の恩師である学部・大学院それぞれの指導教授の教えから、今も力をいただくことも多い。更には大学受験でお世話になり長年のお付き合いがあった英語の恩師の言葉を今もこの自宅の机上に掲げ日々の力にしている。先生は云う「読んで面白い売れる本を書きなさい」と。僕も研究者としては「幕尻」から這い上がって来た部類だが、徳勝龍関も昭和33年(6場所定着)以降で3番目の年長優勝。彼の優勝に刺激をいただき、今年は著書の執筆に勤しむ思いを新たにするのである。
恩師の声の偉大さ
果たして僕は教え子たちに
教育の素晴らしさに眼を開く初場所大相撲であった。
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小兵はいかに闘うか?
2020-01-26
大相撲の楽しみは一番に気になるのが「炎鵬」関
倍ほどの巨体力士を倒す魅力
夕刻からホームセンターへの買い物に出ていたが、終盤になって大相撲中継が気になって来た。平幕1敗同士の「正代」対「徳勝龍」の取り組みが、食材を買うはずのCOOPの駐車場あたりで時間になったので、思わず車載TVにて観戦することにした。比較的に巨体な両雄の対決は平幕とはいえ迫力十分で、前頭付け出しの徳勝龍が”しこ名”を体現するかのように1敗を守る勝利を収めた。相撲という競技は、ほぼ何十秒かの取り組みのために場所前稽古から巡業など、激しい鍛錬を繰り返すプロスポーツである。場合によっては数秒で勝負が決する、刹那に無常観が漲る”文化”を背負っている。勝負が行われる時間的な微少さからすると、あの巨体の力士が何とも不釣り合いな気もするが、そこが「大相撲」の「大相撲」たる所以なのであろう。
そんな大相撲で最近一番に気になっているのが、「大相撲」の名に矛盾するような小兵の「炎鵬」の活躍である。今場所番付は前頭5枚目、昨今の力士の顔ぶれが200Kgにも迫る巨体が居並ぶ中で半分の100Kgにも及ばない身体で今場所も昨日までに8勝6敗と勝ち越して健闘している。昨日の「大栄翔」関との取り組みのように巨体に任せて正面から押されてしまうと、子どものように押し出されてしまうが、僕にはその姿にこの上もない魅力を感じてしまうのだ。果たしてそれはなぜであろうか?と考えた。僕自身が幼稚園や小学校の低学年頃には決して威勢よく振る舞えるわけではなく、力任せの者に萎縮していた経験が思い返される。その後、小学校中学年頃からも決して大きな身体になったわけではないが、考え方次第で力を発揮できることを知った。そのためか中高の教師でも、力任せに生徒に押し付ける輩は嫌いだった。自身が中高教員になってからも、組織内の力任せの人間関係や評価に嫌気がさして、研究という公正な評価が得られる道に踏み出した。丸腰・丸裸でも勝負できる力とは何か?炎鵬関の姿を観て、僕はそんな自己の生き方に重ねているのだろうと思うところがある。
知性と技術と怯まない心
北辰一刀流免許皆伝ながら太刀を抜かない龍馬のごとく
炎鵬関の活躍に、謙虚で前向きな気持ちをいつも忘れないでいたい。
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「立ち会う事を 奇跡と呼ぶのだろう」
2020-01-25
「SMILEー晴れ渡る空のように」桑田佳祐作詞・作曲 民法共同企画応援ソング
「情熱を消さないで 一人背負わないで」
2020東京五輪まであと半年に迫った。五輪招致や決定した頃には、まだだいぶ先の話と思っていたが、あっという間に眼の前に現実として現れつつある。少なくともあの「TOKYO」という字をIOC会長だかが宣言してから、今日まで僕は無事に生きてこられた。地球の近現代という歴史の中でオリンピックが4年ごとの祭典として世界の平和の定点観測点になっているとするならば、人生で何度立ち会えるということになるのだろう。日本の平均寿命を概ね80年超とするならば、赤子の時代を含めて20回ということになるのだろうか。1964年の東京五輪から今年まで14回の祭典があってそれに出逢える。それは「奇跡」と呼ぶのだろう、そんな歌詞の歌い出しにして様々なことを考えさせられた。
放映権を含めて巨額の商業主義的基盤に成り立つという、「平和の祭典」という概念と矛盾するかのような競争的な資本主義による舞台。各国がそれぞれの誇りを賭けて、スポーツによる威信を競い合う。だが、桑田さんの歌詞にあるように、「栄光に満ちた者の陰で 夢追う人がいる」のである。スポーツという究極の身体的活動において、「愛情に満ちた神の魔法も 悪戯な運命にも」めげずに立ち向かう選手たちの姿をこの曲は語り出す。さらにそんな華やかな舞台の陰で「世の中は今日この瞬間も 悲しみの声がする」のである。世界にはオリンピックどころではない人々の比率の方が遥かに多いことを忘れてはなるまい。物事を一人で「背負わないで」という慈愛に満ちた歌詞から、この「平和」の祭典であるからこそ考えるべきことを僕たち一人ひとりが考えるべきだろう。
桑田さんの長年のレコーディングスタジオ
まずは日々が何より平和で穏やかな世界へ向けて
「晴れ渡る空のように」宮崎の空のように。
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短歌と俳句は似て非なるもの
2020-01-24
「自分の眼で現実を見るということ」「やまとうたは人の心を種として」
「認識」か「抒情」か・・・
短歌に携わる身として歌を「一句」と一般の方に言われると、大変に微妙な心境になる。学生が講義などでそのように言うと、執拗に訂正するのが常だ。挙げ句の果てに昨日は、俳句(俳諧)を扱っているにも関わらず、「この歌は」と繰り返す学生がいた。短歌や俳句を「この詩は」と呼ばれるのも不本意で、「この歌」「この句」と繊細な語彙を持ちたい。短歌を「一首」と数えるのは、「首」に「申し上げる」と言う漢字としての語義(「自首」がその一例)があり「一つ心を申し上げます」というのが和歌短歌であるということができる。教員を目指す学生にはこの意味を教え、俳句の方は「一つ句切れて響き合います」と教える。俳句は「切れ字」(「や」「かな」「けり」などの語)を活かし感情を交えず、切断された二つの世界観が、十七文字の中で矛盾や対立を生じつつ響きあい鋭い「認識」の切り口を示すものである意味を込めた「一句」と認識してもらう。
「認識」という意味では、短歌も俳句も「自分の眼で現実を見る」のは同じであろう。「認識」は「発見」でもあり、新たなものの見方や感じ方を示すものである。TVのバラエティー番組で俳句が盛んに行われるのも、「写真」を提示すれば「認識・発見」を解釈し提示できるからであろう。「写メ」「インスタ」などのスマホを利用した手軽な写真が身近になった現在、その意識は「認識の文学」である俳句に通ずる。ところが短歌は、動詞による動きと助動詞・助詞の微妙な言語の連接に生じる光と陰により「人(私)の心」を高らかに抒べる。好きな相手に「恋心」を伝え、命失いし親愛なる人へ「哀悼」の意を表し、季節ごとの繊細な「発見」による「心の揺れ」を表現して1300年の歴史を持つのが「やまとうた」である。もちろん歴史が長いゆえに歌が優位である、と押し付けるわけではない。文学史的に同根から発展・派生・変容してきた和歌短歌と俳諧(俳句)において、相互の「切り口」をまさに繊細に発見できる授業を現場の先生方が示してもらいたい。という願いを込めて「(中近世)文学史」の講義を行なっている。
暗記ではなく「認識」高き文学史を
短歌が短歌たる所以を明らかに説明できること
「一首」と「一句」の違いに響く日本短詩系の歴史は奥深い。
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思いつくお喋りする落書きする
2020-01-23
「ワールドカフェ」方式「2列トーク」で情報収集
考えて話すから話して考えるへ
「思いつき」「お喋り」「落書き」などと言うと、学校の学習活動としてはむしろ禁じられることだと思う人が多いであろう。「よく考えて」「静かに」「整えて書く」などと先生に指導されそうなことである。旧来の〈教室〉では、後者を原則に授業が進められていた。少なくとも「お喋り」はまず第一に禁じられることである。しかし、最近はむしろ前者のような姿勢でこそ「思考力・判断力・表現力」などを育むことができると考えられるようになった。冒頭に記した「ワールドカフェ」方式というのは、「カフェ」で行うような、オープンで自由な会話のことで、活き活きとした意見交換や、新たな発想の誕生が期待できる趣旨の方法である。また、「2列トーク」も「1分」程度の短い時間に、相手と向き合い思いつくままに自由に対話する。決して「用意したもの」を話すわけではない。
今も日本社会の様々な場面で、「原稿読み」のような”プレゼン”ならぬ「読み上げ」が行われる。本人が伝えたいことを述べているようには、まず思えない表現力だ。本当に「創造的」であるためには縛られずに自由に話す書く必要がある。ノートや壁の「落書き」が、芸術的なほどに昇華していることは少なくない。以上のような考え方を導入して、附属中学校で研究授業が実施された。教材は『走れメロス』であり、授業の目標は「群読劇を客観的に自己評価し他者との違いに気づき、表現の仕方や脚本の構成をよりよく改善しよう。」であった。僕自身が15年以上前から取り組んでいた「群読劇」を、創って終わりではなくその改善について前述のような方法で練り上げていく構想である。「群読劇」は脚本から創造する過程そのものが「対話的」であるが、より客観的な評価を加えるために、タブレットの動画映像を利用して振り返ることができたりと僕が中学校教員の頃よりさらなる先へと進んでいる。授業を参観していて「こういう授業がしたかったのだ」という思いを抱く発見が多々あった。
図書館でも「静粛に」ではなく「自由に話す」
模造紙上の脚本にどんどんと落書きをしていく
日本の〈教室〉が旧態依然では社会が変わらない。
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誕生日の朝ー命をいただいた記念日
2020-01-22
朝5時30分生まれた産科医院あたりの路地を思い
ゼミ学生たちの”Happy Birthday”と妻のケーキと
小欄を書いている早朝5時半、母からのLINEをスマホで受信した。通常ではまだ起きていないであろう時刻であるが、それだけにこのタイミングでの誕生日を祝うメッセージには大きな意味があった。僕が産まれた時刻というのが、早朝5時30分ごろだと聞かされている。それは何より母がこの大寒前後という二十四節気で一年を通して一番寒く、しかも一日のなかで一番寒い時刻に僕を産んでくれたことにこだわりがあったことへの感慨である。まさに「その日その時」から僕の命は始まったのである。あらためて母の偉大さを噛み締めつつ、命をいただいた記念日が今年も始まったのである。
今年はちょうどゼミ時間割が組まれた曜日、ゼミを実施する演習室に入るなりゼミ生たち全員で”
Happy Birthday”を大合唱してくれお祝いの品までいただいた。まさに教師冥利に尽きる誕生日である。夕餉は妻と僕が一番気に入っている近隣の洋食屋さんへ、昨日のランチとともに二人での食事が何よりの幸せな時間。帰宅すると思いがけず妻がケーキを用意しておいてくれて、再びあれこれと話しながら、蝋燭に火を灯しさらなる幸せの歳となるように祈った。また一日を通してSNSから誕生日メッセージが届くが、特に短歌にしたためて送られて来るものに返歌をするという楽しみもあった。夜にはゼミの卒業生からもLINEが届き、近況報告を記すものや当時のゼミの様子を短歌にして贈ってくれたものもいた。誠に一日を通して、多くの人々あってこその自分の命であると思う記念日であった。
これもまた宮崎に住んでいる思いがあるからこそ
母からいただいた命を妻とともにさらなる幸せへ
そして多くの学生たちとともに平和なまずは宮崎を創ろうではないか。
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