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未来から過去は変えられる

2019-11-16
映画『マチネの終わりに』
極めようとする自らの道の苦悩
そして真に愛するとは何か・・・

1週間の仕事を終え、妻がレイトショーを観に行こうと誘った。観たいのは平野啓一郎原作の『マチネの終わりに』、以前にも一度「行こうか」と言ったが叶わずということもあり、ジムに行こうか迷っていたのをレイトショーの予定に変更した。それは何となく「今日」観ないと、「未来」から警告を受けるような、何とも言葉にできない精神作用が働いたからだ。その判断をした際の自分を、映画を観終わった際の「未来」の自分が、存分に褒めてやる「レイトショーの終わりに」であった。映画一本、短歌一首でも「今日」出逢うことがいかに大切か。「出逢う」人生と「出逢わない」人生では、日々を積み重ねた「未来」に大きな隔たりが生まれる。ゆえに与えられてどちらへも行ける「今日」には、「動いてみる」ことをぜひ選択したいと思う。その「動き」によって、「未来」から「過去」さえも人は変えることができると映画は教えてくれた。

「今日」という「未来」を宮崎で、僕が妻と幸せに暮らすことができているのを、「過去」の自分はどう見るのだろうか。学部卒の際は、研究に魅せられながらも行動的に勢い余って現場を選び中高教員となった。東京に住み続けることにも、赴任校の校風の上で生きることにも何ら疑問を感じなかった青臭い20代を過ごす。だが30代の「未来」は、研究としての「文学」から離れてしまった20代の過去を悔やんだ。大学院一般受験に挑んで合格、現職教員を続けながら研究との二足の草鞋に苦闘した。これが、僕の第一番目の未来から過去を変えた経験。そして学位取得を成し遂げ、全国に広く僕の研究・教育の価値を認めてくれる大学専任を求めた。今でもまったくわからないが、なぜ宮崎に決まったのだろうと思う。だが公募採用への応募を繰り返す中で、どこか地方での豊かな心での生活が頭をよぎっていた。これだ!宮崎では真に心から愛する妻と短歌と出逢った。「宮崎に採用が決まった」のではなく、「宮崎でなくてはならなかった」のである。

映画を観終わった後の幸福感は何だろう
人影まばらなレイトショーの雰囲気よろしく
僕は「今日」という「未来」が大好きなのである。


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