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故郷のありがたきお店

2019-08-31
いつも支えてくれて来た
いくつかの笑顔とプロ意識
ありがたき故郷のお店

「顧客」「常連」などという語彙では表現できない、人生において外せないお店が何軒かある。既に宮崎に住んで7年目だが、1200kmの距離をものともせず通いたい故郷のお店らである。それぞれに業種も違い、それぞれの歩みがあるお店であるが、いずこも温かいお気持ちで居心地がよい。あるお店の店主とは既に30年以上のお付き合いで、「親友」という関係を通り越した人生の友である。またご家族総出で賑やかに営業しているお店には、家族の理想像をいつも見せてくれている気がする。そして、静かな路地に佇む清楚で気品ある空間は、まさに人生を楽しむための仙郷のようだ。

人生には、いくつも節目や越えるべき関門があるのだろう。そんな折にいつも心の支えになって来た場所。営業という利害など超えて、身を浸したい場所。ただただ無条件に、店主の笑顔が見たい場所。今僕自身が、現在の職業で現在の境遇に至ることができたのは、明らかにこうしたお店の存在に支えられているのだ。その包容力は、僕のみならず伴侶の存在を正面から受け止めてくれる。お店のみならず、常連仲間のありがたき厚情もあり。お店に置かれた僕自身の著書を見直して、さあまた新たな著書を書かねばならぬと意欲が湧き出すのである。

二輪の薔薇の花も美しく
人生には必ず「泉」が必要である
さあ、また新しい旅が始まる。


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終わらない八月

2019-08-30
あれこれと〆切も多く
オープンキャンパスに免許状更新講習
何かと校務もあって・・・

もう既に小学校・中学校は、新学期を迎えているところも多い。9月1日が「始業式」と云うのもかなり過去の話である印象だ。授業内容や学校行事も多く、このくらい時間を確保しないと消化できないのだそうだ。詰め込み主義には問題ありとはかなり以前から指摘されているが、社会的な変革もあってか、「学校」がやるべきことも年々に肥大化しているように思う。「夏休みの宿題」もかなりの分量であるらしく、小学生・中学生の「忙しさ」も計り知れない。僕らの時代の小学生は、かなり時間的に余裕があったと回想できる。夏休みは、母方の従兄弟の家に裕に10日間ぐらいは行っていた記憶がある。その間に「背が伸びた」と自覚するぐらい成長を実感できる夏休みだった。

そんな「昭和」な時代は、世間では「教師」も夏休みが十分にあって羨ましがられるような風潮もあった。実際に長期休暇は海外旅行三昧で、新学期の最初から何時間かはその話題の雑談しかしない先生もいた。そんな極端な「教師」を礼讃するつもりはないが、現在の長期休暇は教師も時間に余裕がなさすぎる。今でも「大学教員」は休みが多くてよいと世間に思われがちであるが、それも見当違いが甚だしいことだ。8月10日頃までは定期試験にオープンキャンパス、お盆に入っても試験・レポートの評価は終わっていない。そうこうしていると教員免許状更新講習が始まる。僕の場合、今週は学内外での会議が多くあった。まったく「終わらない八月」を過ごしており、なかなか脳内が研究専心モードにならない。時代の宿命といえば、それまでなのだが。

本気で休暇を上手に取ろう
時に脳内を緩ませなくては
暦の上では八月もあと二日である。


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酸化させない身体

2019-08-29
研究室の珈琲バリスタマシン
湿気で粉が酸化する
自らの身体も活性化し続けねば

佐賀県をはじめとする北九州方面の豪雨、SNS上で友だちが自宅前の濁流の河川の動画を挙げていた。6月頃にも僕の住む宮崎を含めて、多くの地域で豪雨災害を憂えた。「地球温暖化」は思う以上に足早に僕らの現実となりつつある。しかし、北極の氷が溶けたら資源がさらに掘れる、などと経済第一主義の愚かな猛者たちが、今や世界を掌握しようとしている。僕たちの住む日本列島でも、まず施策すべきは自分たちが破壊して来た自然環境への対応ではないのか。幼児的な喧嘩に、対抗手段を講じるなどしている場合ではない。二酸化炭素に曝し続けて来た天の啓示を、僕らは謙虚に受け止めるべきだろう。

あらゆることが自然には逆らえないと思う。冒頭に記した研究室の珈琲バリスタマシンも然り、湿度による酸化はインスタント珈琲の粉だけに影響を及ぼすわけではないだろう。その珈琲を止むを得ず飲んでみたら、言葉にし難い苦さがあって身体にも「酸化」の影響がありやしないかと心配になって飲むのをやめた。今月はお盆休みを含めて、トレーニングをさぼり気味。忙しい身体は湿気に曝されて、筋肉や関節も「酸化」したような悪いコンディションになってしまう。それでも毎朝のファンクショナルトレーニングとストレッチは旅先でも欠かさず、継続の力を実感している。気圧も湿度も過去の列島とは、違う次元になって来てはいないか。僕らは自ら「個人」のコンデションも、護らねばならないようだ。

推敲で酸化した脳内も
空気を入れてまたことばに向き合わねば
人間も地球も呼吸して酸化を防ぐ活性化が必要のようだ。


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祈り続ける八月

2019-08-28
「祈り」とは何か?
ただただ願い事が叶うことを言うのか?
ことばを刻んでいるこの意味は何か?

八月は何かと「祈り」を続ける月だ。蝉時雨とともに暦をめくり、「15日」を意識して「6日」と「9日」を過ごす。自分が祈ってどうなる?何ができるというのか?だがしかし、決定的に自分の命が「繋がれて」いることを自覚するためには、欠くことのできない「祈り」なのだ。ある人は「祈り」についてこう云う、「自分が犯してしまった生き様を償い、いま生かされている自分が生きてよいのだと悟る」ことだと。生きていれば必ず、後悔も過ちもある。それゆえに「二度と繰り返さぬ」ように、いまここに「愛」を紡いでいくしかないのだ。

高校時代に考えていたことへ、強烈な声と音とことばで引き戻された。なぜ古典を学ぼうと思ったのか?ことばの響きや語感になぜ魅せられるのか?そしてなぜ抒情詩たる和歌が好きなのか?そんな原点の問いは、いつも忘れるべきではないだろう。声で伝えることの魅力とは何か?教え育てることがなぜ好きなのか?求めていた原点から幾度も軌道を外れて混迷の無為な時間も過ごし、いまこの地に立っている。それゆえに「いまここ」でしかできない、八月の祈りを続けるしかない。きっと「祈り」を続けるならば、「未来」はもちろん「過去」も変えられるのだと僕は思う。

今此処に「祈る」祈り続ける
あの日の少年はいかに命を繋ごうとしたか
八月はまだ続いていく


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鈴虫の音に驚くな秋

2019-08-27
寝床に聞こえる鈴虫の音
冷房も入れずに研究室で過ごす
むしろこれで正常なのかもしれぬ

寝床に入り電灯を消すと、外から鈴虫の鳴く音が聞こえて来た。そうたくさんいるわけではない、わずか1匹かと思うほどか細い声ながら、秋の気分を存分に感じさせた。これまでの人生を歩んで来た中で、今が一番静かな環境で就寝できていると思う。そのほぼ音がないほどの世界に響く、ささやかな生命力には心を惹きつける落ち着きがある。宮崎市でも市内中心部のマンションではなく、郊外の自然多き地域に住んでいる意味はこんなところにも見出せる。こうして早朝に小欄を書いていても、窓からは僅かな潮騒が聞こえ、幾多もの種類の早起き鳥たちの声が聞こえて来る。鳩や雀に鴉など街にもいる鳥もいるが、そうでない鳴き声を楽しめることもある。未だ聞き分けられないのが残念であるほどだ。

生きていて聴覚をどれほどに活かしているのか、と思うことがある。今年の五月発行の『現代短歌・南の会 梁』に「牧水の耳」というタイトルの評論を掲載いただいたが、牧水は旅をしつつ様々な音に作歌の取材をしていたようだ。聴覚と視覚はやがて融合し、「日の光きこゆ」といった短歌表現に至る。歩く途次では頭上で啼く鳥たちを友として、その姿に自らを重ねる。自らの身体そのものが自然の一部であると自覚し、五感をフル動員して自らが置かれている境涯を察知する。こうした身体性は、日向市東郷町坪谷という山深い風光明媚な渓谷で生まれ育ったからであろう。延岡から東京と学校を進むにつれて都会に出て行った牧水の耳は、自ずと自然が「聞こえる」環境を旅に求めた。そんな牧水の聴覚に由来する韻律豊かな短歌について、来月17日には伊藤一彦先生との対談が予定されている。

9月17日(火)牧水祭(牧水の命日)
宮崎県日向市東郷町坪谷の牧水生家前歌碑及びふるさとの家にて
午前9時30分より歌碑祭


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「一日一生」温かく身体を潤して

2019-08-26
すっかり秋の気たるや
涼しい風に虫の声が喧しい
ひとひ・ひとよ、をいかにいきるか

中学校教科書採録教材としての短歌といえば、「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生」(栗木京子さん)が生徒たちに人気が高い。「君」と「我」との関係性に様々な読みを重ねることができ、誰でも遊園地で馴染みのある「観覧車」の鮮烈ではないがゆったりとした「回れ」が「ひとひ(一日)・ひとよ(一生)」の語と連鎖反応を起こして、「一日」を無為に足掻いて過ごしてしまった後悔や、一生こそは「いまその時」の連続であることを考えさせ、中学生に刹那や人生の悲哀を擬似体験させる想像が働くからではないかと思う。観覧車が「円形」なのは、形状そのものが「時間」の可視化であり、乗車すれば「時間」そのものを強烈に顕在化させる装置として人の感覚を揺さぶる。あなたの「今日」は、どんな観覧車でどんな景色を眺めただろうか。

休日の夕間暮れは、特に切なさが増す。穏やかな休日の終わりとともに、迎える1週間の様々な行動が気になり始める。嘗て「サザエさん症候群」と指摘されたように、あの6時54分頃のエンディングテーマ曲は穏やかながら多くの人々の心に刺さり、学校や職場に行きたくない身体的な作用が起きることさえあるのだと云う。心の中で「個」の素顔から「公」の仮面を被らねばならない精神的重圧、「ほ〜ら、ほ〜ら、みんなの声がする。サザエさん、サザエさん、サザエさ〜んは、ゆかいだな。」と明るく励まされれば、何とか持ちこたえられそうだが、昨今は深刻な場合も少なくないようだ。「一生」を「一日」に圧縮して考えることもあれば、「一日」に追い込まれることもなく自らの「一生」を悠然と思い描いてもいいはずなのだ。

温泉の穏やかなお湯に肌を癒し
冷えた身体を温め直すとき
繰り返すが、白鷺の羽ばたきのように悠然と日々を歩みたい。


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白鷺の羽ばたき裕に妻を追うなり

2019-08-25
50年という歳月
それは「いま」の積み重ね
家族の会話はずむ宵の口

学外講演や会議に教員免許状更新講習と出前講義などが続いた1週間、ホッと落ち着ける土曜日となった。忙しさとそれに伴う疲れはあるが、何より大切なのは妻と会話をする時間ではないかと最近は切に思う。双方に仕事を持っていてそれぞれのストレスもあるが、お互いに会話をすることで心は解き放たれる。様々な面での思い込みなども、話すことで広い視野で考え直すことができるのだ。独りでいるときは苛立っていたことも、妻といれば穏やかな気持ちでいられる。これは何よりも、人生を歩む上での大きな歓びではないかと思う。何事も自分本位に思い込んでいては、偏った言動になり苛立ちとなる。話せる相手、この身を委ねられる伴侶があってこそ和やかに生きることができる。

田圃道を車で走ると、一羽の白鷺が飛び立った。その飛び立つ行く手には、運転で僕が見ることのできなかったもう一羽の番がいると助手席の妻が言った。運転中の景色を楽しむ深さが倍増した。妻の実家に義兄ご家族が滞在しているとあって、僕ら夫婦も夕刻から合流した。三人の甥っ子・姪っ子たちも妻の来訪を楽しみにしてくれていて、純粋な笑顔たちに出迎えられた。今年で結婚50年を迎える妻のご両親を、「50」の赤いナンバー蝋燭を立てたケーキでお祝いする。妻の義姉と姪っ子を含めた多勢で記念写真。その後は地元の料理屋さんへと出向き、鰹のたたきや鶏料理に舌鼓を打った。一口に「50年」と言っても、その重ねてきた時間は容易に想像できるものではない。だが、僕も時間を共有させてもらって思うのは、夫婦は「いま」を大切にし続けることが何より肝心なのだろう。どれほどに長い時間も、「いま」の積み重ねでしか「長く」はならない。白鷺がゆったりとした羽ばたきで番を追いかけて飛ぶような、双方にそんな関係を重ねること。妻のご両親・ご兄姉の三組の夫婦を見ていて、あらためて夫婦のよさを悟る一夜となった。

美味しくケーキを食べるひととき
宮崎でこそ出逢えた和やかなご家族
「いま」を大切に今日もまた穏やかに生きる。


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高校生は楽しく学ぼう!

2019-08-24
詩を群読する声の楽しみ
短歌を演じて解釈する身体的な表現
短歌の奥行きをみんなで探ってみよう

ここ数年間、宮崎県内のある高等学校1年生の「サマーキャンプ」に出前講義に赴いている。通常の授業では味わえないような「国語」との出逢いを提供するのが、大きなテーマである。僕自身も中高一貫校で教員をしていたので実情はわかるが、特に高等学校の学びが「大学入試」のみを目的にした大変に狭窄した視野のもとに行われてしまっていることには大きな危機感がある。この実情の波及として「論理」「文学」といった分断を掲げた新たな指導要領が提示され、先ごろ多くの文学研究関連学会が合同で意見書を提出したという状況もある。その一方でセンター試験に変わる「新テスト」の導入によって、大学現場が入試をいかに改革できるかも大きな焦点であろう。大学入試で求めらる力をつけようと高等学校の教育が動くのが必然であるならば、高大が連携してこの問題をともに考えていく必要がある。

僕が高校1年生の思考や発想を知り高大連携に身を乗り出すためにも、この「サマーキャンプ」への参加は貴重な機会である。当該校「国語」の先生とも実に有意義な学び合いが常に可能である。今回は3名のゼミ生を連れ立って、最初に詩の朗読・群読で40名の生徒たちと出逢った。ともに共感できそうな詩を声にすることで、初対面が親密に10分ほどで馴染んでくる。その後は、共通した短歌一首を挙げてその場面を想像して寸劇を創るワークショップ。様々な年代層で試行的に実践している演劇的ワークだが、高校生ならではの新たな「場面・配役」を披露した班もあり、彼らの「本気」な演技には大きな可能性を観た気がする。その後は、歌人の各二首の歌を5組番えておいて、それを「牧水短歌甲子園」のようにアピールと質問をするという擬似体験へ。「短歌の鑑賞文を書こう」といった教室での活動では見えてこない、生徒たちの自由な弁舌のやり取りはなかなか見応えがあった。中には「牧水短歌甲子園」に出場させたいように饒舌を奮う生徒も。まさにやり方次第で、高校生の可能性は無限大なのである。

ゼミ生たちも大きな学びに
出逢った高校生たちがこれからも楽しく学んで欲しい
夜は、ゼミ生たちの教員採用試験と教育実習の奮起を期待する食事会。


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教師は生き生きとあらねば

2019-08-23
「免許状更新講習」という制度
だが、教師に何が必要なのかを求めて
明らかに時間的な余裕と豊かなこころ

北欧の教育が素晴らしいという世間の声も、すっかり聞かれなくなった。2002年にOECD(経済協力開発機構)の学力調査で、日本の「読解力」が大幅に後退した。いわゆる「PISAショック」を受けて、「読解力」が常に上位に位置する北欧諸国の教育が注目され視察団などが相次いで北欧を目指した。だが果たして日本の教育は北欧から、何を学んだというのか?その後、PISA調査における「読解力」は一応は回復した。中には「V字回復」などと、手放しで喜んだ記事を出したメディアもあった。そうした中で僕は中高現場での教員を経て、大学教育学部の教員となって多くの「授業」で「日本の子どもたち」に接する機会があった。確かに「読解力」向上のための「対策」が適切に取られた成果は出ているのではないかと思える。だがしかし・・・・・

2002年から今も継続している問題として、「白紙答案」があるのではないかと思う。「自由に論述する」という設問に対して、「自由に」書けないのが日本の子どもたちなのではないか。個々人が主体的に、個としての意見を述べることを育てる環境がない。いつも周囲にいる他人の様子を見て、その流れに合ったものを「答え」ようとする。他者と「違う意見」を述べると「横並び」から外れて、「排除」されることを心配する。要するに「教室の空気」に「忖度」することが、学びとなってしまうのである。無意識に「忖度」する思考の習慣がついてしまうのは、誠に怖ろしいことのように思う。「国語」で答えることは多様であるはずなのに、「一つの答え」にこだわる習慣は、学習のみならず「入試」における客観式設問の影響も少なくないだろう。「北欧」のように真に主体的な子どもたちを育てるにはどうしたらよいか?常々思うのは、まずは「教師が生き生きと」するべきではないのか。「北欧」の教育水準が高いのは、「教師」に時間的余裕があり、社会的にも尊敬される存在であるからだ。2002年以降、日本の「教師」は、この2つを雪崩のごとく失って来てしまっているように思うのだが・・・・・。

短くなった夏休みに
「教員免許更新講習」もあり
せめて講習で自らが「生き生き」していることを自覚してもらいたく。


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あらためて歌会は主体的対話的

2019-08-22
「興味関心・自己のキャリア形成・見通しと振り返り」
「考えを比較し自己のみではできない気づき」
「学ぶものが思考・表現・判断する機会を設定する」

今年も、教員免許状更新講習の担当日となった。中高教員だった頃にはまだ免許状の有効期限になっておらず、そうこうしているうちに大学教員となった(担当者になったので自らの免許状は更新されていると見なされるらしい)ので、自らが受講した経験はない。だが文学・国語教育の研究者として単に最新の研究状況を「抽象的・概念的に説明し理屈を並べ立てる」ほど、意味のない講習を実施したくない。計6時間の講習内で「視覚的・感覚的に理屈を超えて体感的に感得」される講習を目指したい、と常に念頭に置いている。この日の題材は「短歌のこころ」として主に「教科専門」(教科内容)に関する講習であるが、その講習の授業方法自体が「体感的」であるべきだと思う。6時間を4つに分けた時間枠で、講義として僕が中心に喋るのは80分間のみ。残りは受講者に存分に短歌に対して「思考・表現」して「考えを比較」して自らの「興味関心」を高めてもらった。

受講者の事前アンケートには、「なかなか短歌に十分な授業時間が確保できない」とか「生徒の創った短歌に適切な助言や添削が施したいが歌ごころがない」といった趣旨の内容が目立った。だが特に「添削」という方法は、冒頭に記した今後の教育方法の目指す傾向に沿ったものではなく、学習者自身の生身の短歌を、指導者の思考に染めてしまう所業に他ならない。短歌は創作した者が自らで他者と考え方を比較して気づきを得てこそ、自らの歌として立つのだと思う。今回はいきなり受講者に創作を要求するのではなく、まず「牧水短歌甲子園」方式で歌人の歌を自らの歌に見立ててその批評をアピールしたり相手の歌に質問する活動を行なった。4〜5人グループの中での対話性が活かされ、受講者の批評は初めてとは思えないほど鋭い点も目立った。同じように個人戦として、やはり歌人の歌を僕が選歌しそれをもって「擬似歌会」をするという経験をしてもらった。この結果、短歌を「自由に批評する楽しさ」を多くの受講者が発見できたようである。

「教育の半分は『育』日当たりのよいベランダに鉢を並べる」
(俵万智『オレがマリオ』より)
あくまで「体感的な感得」それは短歌の強みである。


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