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海を知らず恋も知らずにー講義「日本の恋歌ー和歌短歌と歌謡曲」

2019-07-31
「男ではなくて大人の返事する君にチョコレート革命起こす」
(俵万智『チョコレート革命』より)
「大人のこころ」「子どものこころ」

学士力発展科目「日本の恋歌ー和歌短歌と歌謡曲」も15回目、千秋楽の講義となった。担当初年度にあたり、暗中模索しながら主にサザンオールスターズの楽曲歌詞に表れた恋の諸相と、1000年以上にわたり和歌短歌に表現されてきた「恋」を比較し、ことばの力を考えたり、自らの批評力を鍛え、講義での対話を通して他者に訴える文章を書けるようになることを目標とした。毎回の講義事前事後学習記録には、テキスト『あなたと読む恋の歌百首』(俵万智著・文春文庫)から1首を、前週のテーマに関連させて引用し自分なりの批評を書いてくる。それについて短い時間ながら講義内で他者と対話し、自らの考え方の傾向を知る。講義内で提供する「歌詞」について、そして「和歌短歌」についての対話的な気づきを記し、「恋歌」について様々な考え方を持つ。受講登録は120名を超えたが、毎回の記録用紙を読む作業は僕にとっても有意義な勉強となり、全てに一言ずつのコメントを付して返却を完遂できたのは担当者としての矜持となった。

「思考・想像・表現力」を鍛えるという「学士力」の要素はさることながら、「恋歌」を扱ったことで学生たちが「恋」そのものについて考える貴重な機会になったのではないかと思っている。昨今は対人関係を忌避し、他者との摩擦・抵抗を恐れ恋に踏み込めず、結果的に晩婚化や未婚率の数字が上昇しているのではないかと思われる。学問の専門教育がもちろん本道であろうが、青春時代に様々な「恋心」を文学に読んで追体験しておくことは実に重要ではないかと思うのである。冒頭に記した俵万智さんの歌は、前掲ご著書の巻末に自らの評を添えて載る一首である。人間には「大人」の要素と「子ども」の要素が混在していて、「恋」は「子ども」の要素で向き合うものだといった評に説得力がある。「子ども」は「社会」の怖さなどまったく自覚せず、夏の海のかなり高い岩場から海中に笑顔で飛び込むように、恐れを知らないことが利点である。「恋」に踏み込む際の躊躇とは下手に「大人」を意識するゆえであり、冷たく世間を過剰にさとり、いわゆるつまらない「忖度」をすることで自らの欲望を抑制しているようにも思われる。もちろん、それは若者が悪いわけだけではない。この先の見えない「争い事や不安に満ちた」社会の空気が、若者の「童心」を去勢してしまっているような気もする。講義室の右側の窓からは海が、左側の窓からは山が見える。そんな自然豊かな宮崎でこそ、若者たちに「子ども」の心を持つことの尊さを伝えられたらと思う。こうした崇高な目的に適った講義になったかは、今後の評価に委ねるとして、まずは120名の若者たちと「和歌短歌と歌謡曲」を学べたことは大変に意義深かったと思っている。

「サキサキとセロリ噛みいてあどけなく汝を愛する理由はいらず」
(佐佐木幸綱『男魂歌』より)
「白玉のフロントガラスに尾を曳きて濡れるも果てぬ恋もするかな」(中村佳文)


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「物語」を読める歌

2019-07-30
「児童らを率いて春の橋をゆくト音記号のような先生」
(大谷ゆかりさん・「心の花」徳島全国大会互選評最高得票歌)
「先生」のイメージが鮮明に浮かぶ物語

俵万智さんがイチオシの歌とTweetにも記していたが、前述の大谷さんの歌が徳島大会の全体歌会で20票を獲得して1位になった。下句「ト音記号のような」という比喩から実に鮮明なイメージを描くことができ、「春の橋」と季節感を詠んだあたりがまたウキウキした「児童ら」の行列を思わせて微笑ましい。この「先生」、歌会では「少しお腹のポッコリした」などという読みも出たが、俵さんの読みでは「頭をおだんごにしてフワッとしたスカート」という像に読んでいてなるほどと思った。さらには「橋が五線譜で子どもたちの頭が音符のようにも」とあって、イメージの展開が各自の中で無限に拡がるようである。「ト音記号」という造形が具体的な像を結び、しかも誰もが知っている記号というところが歌の肝であろう。さらに読みを深めると「児童ら」は歌を歌っているようにも思えてきて、サザエさんの最後のテーマ曲画像の家族の隊列ならぬ、「児童ら」と「先生」のほのぼのとした関係も見えてくる。

「歌に物語が読める」今回の全体歌会でも何首かの歌に、そうした評が添えられた。「春の橋をゆく」という短い時間に焦点を当てながら、「児童ら」と「先生」との前後の物語が生き生きと想像される。担当の「国文学講義1」では『伊勢物語』を半期に渡り講読してきたが、やはり「昔男」の物語が、地の文とともに様々な想像を許容する。史実とはかけ離れたところで虚構性を帯び、それによって多様な解釈を読み手が各自で描くことができる。そんな高等学校までの古文学習ではなかなか叶わない答えのない文学的体験を、学生たちには存分に読んで欲しかった。最終回となった昨日は全体討論をしたが、やはり学生たちは自由な解釈と想像ができたという点に大きな魅力を感じていたことがわかった。講義で扱った歌から1首選を班ごとに話し合わせたが、意外や「筒井つの」や「白玉の」など素朴な歌を選ぶ班が目立った。業平は周知のように「心あまりて詞足らず」と『古今集』仮名序で評されているが、「物語」の人物であるからこそ歌の奥行きに「詞書」で踏み込めることを貫之は認めていたのである。現代短歌は「詞足らず」ではなかなか理解されないが、それゆえに前掲のような鮮明な比喩を場面に響かせることが肝要と言えるのではないだろうか。

前期講義も最終週
蝉時雨を聞きながら
暑い夏にまた新たな物語を詠みたいものだ。


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題詠「橋」全体歌会ー「心の花」徳島全国大会

2019-07-29
大会を終えてバスに乗ると
吉野川を橋で渡り、鳴門海峡さらには明石海峡を
やはり瀬戸内海には「橋」がつきものである

「心の花」徳島全国大会2日目。前夜の酒と興奮が冷めやらぬ9時より、全体歌会が開始される。総歌数150首・題詠は「橋」、2人1組の評者が15首ずつ小気味好く歌評を展開していく。評の視点は様々であるが、歌のよさを拾い出し表現の拙さを指摘する両面性を、1首50秒という制限時間の中でどれほど言い得るか、その読みそのものが歌人として大変に大切な力である。もちろん個々の歌への評は一定するわけではなく、2人1組の中で「同感」な場合と対立する場合もある。さらには全体評をする佐佐木幸綱先生や伊藤一彦先生の視点と評者のそれが交錯する場合もある。その多様性を拾い出し、各自が歌への評の各自の「読み」の着地点を見つけていく。自らが捉えた素材への眼差しは「平凡」なものなのか?描写や表現がまとめ過ぎであるか強引であるか?ことばは正確であるか魅力的か?具体的なイメージを十分に描けるか?などの多様な尺度を各歌に寄せて、答えのない着地点を探る機会がこれほど多くの評者で行われる機会として誠に意義深いのだと思う。

題詠「橋」については、田中徹尾さんが次の5種類の詠み方に分類整理していたのが注目された。【A: 固有名詞の橋】【B: 場面・背景としての橋(心理的背景を含む)】【C: つなぐ存在(時間など)】【D:橋の種類】【E: その他】ということである。題詠は詠む際にいかように歌に盛り込むかを考えることから始める、その際の朧げな創作段階を遡及して整理するような「仕事」として大変に参考になった。また素材や場面とした内容について、題詠「橋」が喩として偶然にも実に有効に働いた歌もあることが指摘された。詳細な指摘は小欄では及ばないが、この歌会前半の展開について僕が原稿依頼を頂いているゆえ、近く詳細な原稿にまとめることになる。会員のみなさまには、その拙稿の会誌掲載をお待ち願いたい。歌会後に得票の上位者発表と各地歌会の紹介。僕自身は4票を獲得できたが入賞は6票以上、1位20票の秀作などを何度もイメージしながら、バスで徳島の街を後にした。あらためて何本もの現実の橋を渡って。

来年は東京五輪のため大会は見送り
再来年にまた東京での開催となる
徳島歌会で実に丁寧に運営くださった方々、ありがとうございました。


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海と歌と踊りー「心の花」徳島全国大会

2019-07-28

「天の海に雲の波立ち月の船星の林に漕ぎ隠る見ゆ」(『柿本人麻呂歌集』)
「都にて山の端に見し月なれど海より出でて海にこそ入れ」(貫之『後撰集』)
古代人は海を知らなかった。

「現代では海を知らない人はいない、だが・・・」佐佐木幸綱先生が口火を切り、伊藤一彦先生の司会、晋樹隆彦さん・俵万智さんによる座談会から「心の花」徳島全国大会が幕を開けた。「海」は生命の源、普遍性を求めた歌も多い。四人の方々のうち三人までが若山牧水の歌を引いていたのも印象的であったが、牧水もまた山間で生まれ育ったゆえに、海への憧憬が厚かったということもあろう。「君かりにかのわだつみに思はれて言ひよられなばいかにしたまふ」を伊藤先生が、「手をとりてわれらは立てり春の日のみどりの海に無限の岸に」を俵さんが、「海の猛者鯨といふはわだつみの青潮を吸ふわれは盃」を晋樹さんが引いた。また佐佐木幸綱先生は、「海底に夜ごとしづかに溶けゐつつあらむ。航空母艦も火夫も」の塚本邦雄の歌を引き、戦争の影の残る海を韻律の不協和音で描いた話題は展開した。

結社としての「心の花」の未来と題した座談会では、「人と人との繋がりが結社に入って短歌をやっている大きな意味である。」といった発言が続いた。黒岩剛仁さんの司会で、大口玲子さん、佐佐木頼綱さん、佐佐木定綱さんの四人が本音で結社の未来を語り合った。大口さんの発言にあった、「地方で短歌をやること」における意義や問題提起は現実として僕自身も当事者として様々に考えさせられた。都鄙の問題はもちろん短歌に限らないが、一極集中というこの国の現状はせめて短歌では広く深く公平にありたいものだ。そのためにも「人と人との関係」が求められる。頼綱さんの発言で「ミニコミ=小さなコミュニティで楽しむ」ことで、先生や先輩・後輩との関係の中で短歌が学べる環境が大切というのは、少子高齢化社会を見据えて大変に重要な指摘であると思う。もちろん、まずは宮崎でそんな環境を学生も含めて実践するのが僕自身の大きな責務ではないかと決意も新たにする機会であった。

懇親会では「阿波踊り」も
二次会を含めて深い人と人との繋がりが
短歌って本当に楽しいですね!!!
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遅延なども楽しもう

2019-07-27

「使用機材の到着遅れ」
行き先の空港で高速バスに接続
スリリングな時間差を楽しむ余裕

仕事を終えて金曜日のうちに、宮崎から徳島まで移動する予定。当初から、どのような路線を使うか模索していた。宮崎空港からは主要都市への航空路しかなく、地方都市同士の路線の多くは廃止されたと聞いた。空路なら福岡へ飛びそこから徳島行きにトランジットなわけだが、航空会社が僕のマイレージ会員の青いところではなく1日の便数も限られている。そこで大阪伊丹空港から高速バス路線があると知り、航空券とバスを予約しておいた。ところが昨日になって宮崎空港へ行くと搭乗便が25分遅延になっていた。台風が発生した影響もあろうか、中部国際空港からの機体が到着遅れになっていると云うのだ。まず頭をよぎったのは、伊丹空港で高速バスに接続できるや否や、バスは最終便なのである。

伊丹空港での接続時間は約1時間、それが30分以内のタイトなものになった。現実的には滑走路の混雑も相まって20分程度であった。だがここで慌てても何も始まらない、宮崎空港でカツカレーと「液体燃料」を注入し定められた時間に飛行機に乗った。機内では短歌をひたすら読む、既にあれこれ考えてもその飛行機の到着時間は動かない。食事と短歌は物事の忙しさから僕を存分に解放してくれた。伊丹空港に到着すると、また高速バス停が赤の航空会社カウンター側で、僕が到着した側から遠い。どうやら青を贔屓にする僕への皮肉であろうか、などとありもしないことを考えても仕方ないのでターミナルを反対側まで歩いてバス停に着くと、まだバス車体は到着前であった。3列シートの高速バスは、運転手さんのハンドルさばきも丁寧で実に快適だった。夜間なので淡路島の景色は見えなかったが、「淡路島通う千鳥の鳴く声に幾夜寝ざめぬ須磨の関守」と百人一首歌を頭の中で唱えつつ、無事に阿波国・徳島へと到着したのは午前様であった。

旅行のスリリングな醍醐味
慌てない仕方ない自らの好きなものに没頭する
徳島で今日から2日間「心の花」の全国大会で存分に短歌を学ぶ。


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カタルシスに至る物語

2019-07-26
「カタルシス=劇的感動」
「アリストテレスの「詩学」に用いられた語。悲劇の与える恐れや憐れみの情緒を観客が味わうことによって、日ごろ心に鬱積(うっせき)していたそれらの感情を放出させ、心を軽快にすること。浄化。」(『日本国語大辞典第二版』より)

人はなぜ劇を見たり物語を読んだりするのだろう?その大きな理解の一つが、前述した「カタルシス」にあるのは確かだろう。引用した同辞典には「精神分析」における第二項目も記してあって「抑圧されて無意識の底にとどまっているコンプレックスを外部に導き出し、その原因を明らかにすることによって、症状を消失させようとする精神療法の技術。浄化法。」ともある。演劇や映画、または小説や絵本の物語でもいい、我々はその悲劇の登場人物に感情移入することで、恐れや悲しみの情を心に浮かべる。あの背筋がゾクッと揺れるような感覚に至ったり、涙が自然に溢れ出ることで、日常生活においては耐えて吹け溜まっていた感情が表面に放出される。演劇や映画や読書を通じて、自らを抑圧することなくゾクッとしたり泣いたりすべきであろう。認知症の予防にも、こうした感情の浄化作用が大変に有効だと云う。

『国文学講義』(学部2年生配当)で『源氏物語』を講読しているが、この日が15回目前期最後の講義となった。まとめとして個々の学生に、「登場人物論」を語る活動をした。「光源氏」はあまりにも大き過ぎたのか語るものはおらず、「六条御息所」「紫の上」「女三の宮」「柏木」「花散里」「明石の上」「夕霧」「朧月夜」「桐壺帝」などが挙げられて、それぞれの学生の受け止め方がわかって大変に興味深かった。毎回の講義内の学生同士の対話を聞いていても、本来は断絶すべきではないが、男女がそれぞれの立場の意見を交わしていて面白い展開があった。どこかでこの平安朝の物語に感情移入し、自らの体験や考え方と引き比べて感情を浄化しているような様子が看て取れた。「カタルシス」に限らず「ストラッグル(葛藤)」「サスペンス(未解決・気がかり・宙吊り)」「クライマックス(葛藤・興奮・効用の飽和点)」などの「劇性」を考える術語でその心性を推し量ることができた。どの心的作用にも連れて行ってくれる『源氏』は、やはりあまりにも偉大な日本文学の精華であることも再確認する機会であった。

併せて和歌短歌の「劇性」も考えて
芝居を見ない読書をしない者に浄化作用は訪れず
虚構の文学の尊さにこそ真の実益があるのだが・・・。


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苛立ってないで笑おうよ

2019-07-25
生活の様々な場面そしてネット上
苛立ちをもった人々の何と多いことか
人を傷つけるか自らを傷つけるか・・・そんな社会に

いつからTV報道が信用できなくなっただろうか?選挙の前後は問わず、TVでも活発な政策論争が聞けた時代もあった。もちろん一人ひとりの問題であることは確かだが、異常な投票率低下や政治への無関心は、TVをはじめとするメディア環境が醸成してしまってはいないか。片やネット上では偏ったある一部の考え方のみに関して無条件の服従的な態度で接し、その路線に反する意見を汚いまでに非難し排除する風潮が見えて甚だ息苦しい。他者の話を聞けない、頭ごなしに「それは当たらない」と否定する、日常生活でもまずは「人の話は聞こうよ」が原則ではないのだろうか。こうした個々の殻に籠る生活環境が、人々を苛立たせ日常に要らぬ諍いが頻繁に勃発するようになる。みなさんの職場や家庭、通勤路や公共の場でも怒号が聞こえることが多くなっていないだろうか?

このような普通の人の普通の生活の中にある苛立ちが、時に肥大化してしまい一般的な理解に苦しむ極端な暴力的行為によって、社会にあまりにも悲しい陰を落とす事例が相次いでいる。高齢者の自動車運転における暴走なども含めて、みんなが公平公正に考えられる社会ならば予知予防できることなのではないか。苛立ちの先には攻撃か自傷か、苛立ちの吹け溜まった異常な社会の雰囲気が若い世代の希望を奪い、両極に走る社会的空気を醸成してしまっている。いそがしくせわしなく諸方面から煽り立てられる、自ずと苛立ちが個々の人々の中に造られてしまう。苛立ちの原因は何か?そこに隣人を据えて攻撃することで条理に反した個々の発露も捏造される。他者を傷つけることは、自らをも破壊する行為。穏やかに和やかに理性的に考えて生きていることが、最終的には自らに返ってくることを社会全体が忘れてしまっている

苛立ったら頭を冷やして考えよう
幼稚園でも習った「(人の話は)相手の目を見てしっかり聞きます」
まずは今日向き合う相手に笑ってみることから始めようではないか。


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虫はやはり嫌いなのか?テーマ詠「虫」宮崎大学短歌会7月歌会

2019-07-24
手のひら大の蜘蛛とか
血液を吸った蚊を打つのは
アリに同情する歌はあったが

東京で育ったせいだけではないだろうが、虫が苦手である。大学時代の同級生で北海道出身の親友がいるが、彼は僕以上に苦手で田舎町出身ながら上手がいたと低レベルの争いに勝ったような気になったこともある。だが宮崎に移住するようになって、次第に虫への免疫力がついた。自宅の中でも大型の蜘蛛や百足、ましてやヤモリまでもが登場したことがあり、何とか僕自身の居住権を主張し彼らを退去させるまでの行動が取れたからである。考えてみれば虫は自らの本能で生きるだけ、近現代の都市生活主義が人間こそがこの地球で万能であるという妄想を振り翳し、彼らを迫害して来たのが歴史的実情のように思う。ホームセンターへ行けば、春先から夏頃にかけて駆除のための製品が所狭しと並ぶ。まだ防虫に止まり、共存を模索する製品は良心的なのかもしれない。

宮崎大学短歌会の7月第2回目の歌会を開催、テーマ詠「虫」。前述のような問題意識を抱いたのは、多くの歌が虫のグロテスクさとか害虫としての人間生活への侵害行為を詠ったものであったことだ。席上でも話題になったが蛍やてんとう虫などのメルヘンなイメージを抱く虫の歌は、8首の中に見ることはできなかった。吸血する蚊を掌で打つ行為、そこで鮮明な血液の露出。ホラー映画的という評もあったが、壁を這い上がる手のひら大の蜘蛛。だいたいにして「蜘蛛」という漢字表記は他の語彙にはほとんど使用されないという限定稀少な漢字への意見なども。家の中に侵入するアリなどは、偵察する役割の連中がいて彼らにゴミ箱などを察知されると次に本体が大群で押し寄せるなどの知識も話題になった。短歌会では教育学部のみならず農学部・工学部・医学部の学生たちもいて、様々な学びの体験を踏まえた評を聞けるのも大変に面白い。開催した国語演習室の網戸には、短歌会を盗み聞きしたいのか多くの宮崎の虫たちが集まっていた。

共生のこころ
自らの傲慢な快適のために彼らを排除していいのか?
二極化分断した社会を憂え、虫たちへの親和的な心が起動する。


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暮らしそのものに短歌も書も

2019-07-23
机上に置かれた筆・硯箱
久しぶりに書いた書作品
暮らしの中に短歌も書もあり

大学時代に所属していた「書道会」が創立70周年を迎えるということで、記念書道展が来月の上旬に東京で開催される。周年記念ということは次は10年後と考えると、何とか作品が出せないものかと昨年来から検討し申込を済ませていた。だが春先から大学校務と書くべき原稿に追われ、週末の出張なども重なりなかなか制作が難航していた。運営委員会が示す作品の〆切も過ぎ、請求のメールなどもいただき、大変に申し訳ないと思いつつ、ようやく作品を完成することができた。半切などの大きな作品は無理と判断し、色紙額による小品で自詠の短歌を書した。現在もこの小欄を記すPCの机上には、筆と硯箱があるがその光景がなかなかよい。父が嘗ての中国旅行で買ってきてくれた高級な硯で墨を擦る香りは、何とも言えない癒しが得られた。

今回の一念発起は、やはり若山牧水による影響も大きい。特に晩年になってから短歌雑誌出版の資金などの収入を稼ぐために、揮毫旅行などにもよく出て自らの短歌条幅や色紙の多く遺る牧水。その温かみのある文字に魅せられ、記念館製作の複製色紙を何枚か購入していた。その雰囲気を出して僕自身が詠んだ短歌を書けたらいいなと思い、今回の作品制作と相成った訳である。短歌を詠む場合もそうであるが、まずは自らの日常生活に落とし込むことが重要であると思う。特別なことではなく、暮らしそのものに短歌や書道が存在する生活が大切だ。日々の生活の中に「観察」がある、それがいかに言葉になるか「分析」し、その場面や状況に自らの心を当てて「理解」する。創ってもまた何度か沈着させ、客観的視点で見直す。推敲を繰り返し「韻律・イメージ・意味」の均衡を検討する。概ねこんな過程を、自然と生活の流れに載せている。どうやら書作品も同じような感覚ですべきと実感した。牧水の身体的な短歌の韻律は、当然ながら文字にも表れているはず。同時に新たな研究の端緒も発見できたようである。

書に表現された呼吸
どれほど鑑賞に耐えうる作品になったか
来月1日(木)〜4日(日)東京・北千住での展覧会が楽しみである。


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一票は自らの希望の苗として

2019-07-22
選挙会場となる中学校まで徒歩10分
雷鳴の中、車ではなく傘をさして歩く
「一票」を噛み締めて自らの中で沈着させる時間

宮崎は車社会、公共交通機関の移動手段が不便ということもあるが、ほとんどが車で移動する生活習慣が根強くなる。習慣とは恐ろしいもので、歩いていける範囲でも車を使ってしまう怠慢が当たり前になってしまう。数百メートル先のスーパーやコンビニでも車で、という人々が多いように思う。参議院選挙投票日、朝から花火の音で投票を呼び掛けるのは、いづこも同じであろう。僕の自宅から指定の投票所である中学校までは、徒歩で10分とかからない。毎回の選挙で僕は、この道程を必ず歩いて行くように決めている。それは「投票」という「動作」自体は数分で終わるものだが、その重みを噛み締め心の中に沈着させるために往復計20分ほどの時間が必要だと考えているからだ。選挙期間中に考えてきた投票先を頭に描き玄関を出る、昨日などは靴を履いてから今一度確かめたい資料をスマホで確認した。雷鳴が轟き徒歩では危険か?などと思いつつ中学校までの道程をやはり傘をさして歩いたのだ。

特段「車を使ってはいけない」と主張している訳ではない。宮崎県の投票率41.79%(宮崎日日新聞発表)、全国が概ね今朝の各紙発表だと48%台で戦後2番目の低さと云うが、さらに宮崎県は7%も投票への意識が低い。今まで宮崎に住んで負の感情を抱くことはほとんどなかったが、初めてと言ってよいほどに「?」を感じた。政治への意識というよりも、所謂「てげてげ」(いい加減・ほどほどな)が怠慢に繋がっての数宇ではないかと思うゆえである。「和やかさ・穏やかさ」の裏返しと言えばそうなのかもしれないが、この点は県外からの移住者としての視点から是正を求めたいことである。さて宮崎に限らず、全国的に半数以下の人しか今回の投票をしていないというこの国の現実も大きな問題である。街の声として「投票しても変わらない」というのをよく耳にするが、それはむしろ「投票しないから変わらない」のだと思う。ある種の「無力感」のようなものをこの社会に感じている風潮、そこに端を発して「絶望感」へと人々の思いは連なってしまう。自らがこの国を創っているという思い、「一票」にはそんな深い歴史と意味の重みがあることを、社会の潮流にしていかねばなるまい。

明日を生きるための一票
希望の苗を植えて育てるために
決して無力ではない、この一票が力になるのだ。


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