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みやざきで創ろう〜言葉を大切にする教育を

2019-07-21
「教師未来セミナー2019」
100名の高校生たちが大雨にもめげず
ともに創ろう、みやざきの子どもたちの未来を!!!

台風5号が九州西部を北上する天候状況、やや開催も心配されたが「教師未来セミナー2019」の担当回が市内県立高等学校にて開催された。僕の講義時間が開会するとまずは何の前触れもなく、詩の朗読を。高校生たち自身がどう受け止めるか?をまずは各自に体験してもらった。多くの参加者が手元の資料にある詩を探し出して自ら「文字」を読む、したがって朗読している僕の声は置き去りになる。今ここで起きている現実の中で、何が一番大切なのか?それは「人」が「聲」を出していることである。「聲」という旧字体には「耳」が下に付いている、ゆえに聞き手がなくては「聲」は活かされない。その眼の前の相手を大切にする意識が、「生きた学び」というものである。この過程で「文字を読む我」と「聲を聞く我」を意識してもらい、〈教室〉における人と人との対話関係を理解する契機とする。その後は参加者で群読をして、10分間の導入ワークショップとした。教師とは、聲すなわち命に向き合う仕事なのである。

その後は俵万智さんの『サラダ記念日』や『かぜのてのひら』にある教員時代の短歌を9首挙げて、個人思考と班活動で「いいね」の歌を1首選ぶという活動。新任若手教師はいかに生徒らと向き合ったかという新鮮なこころが、的確な表現でわかりやすく歌になっている。「黒板に文字を書く手を休めればほろりと君を思う数秒」などには、その前後に「人」としてどんな物語があったかを豊かに想像し発言してくれた生徒がいた。「数学の試験監督する我の一部始終を見ている少女」からは生徒として試験を受ける立場しか考えてなかったが、先生側も色々とよく見ているんだという意見。「マシュマロのような文字書く少女らにハートと星の書き順を聞く」などは今でもリアルに想像できる生徒らと先生の親密な光景が想像できると云う。「はなむけの言葉を生徒に求められ『出会い』と書けり別れてぞゆく」などには、卒業という地点でこそ生徒らと教師の「生きた関わり」が体感できるといった趣旨の話題となった。最後には若山牧水が「みやざき」を舞台に詠んだ歌を全員で「聲」にして味わい、70分間の講義を終えた。

「ことば」への「気づき」「感じ」「思い」
「追究の問い」を持ち続ける教師へ
「みやざき」で穏やかな「ことば」の教育をみんなで創ろう!


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このくらいのことは誰でも?

2019-07-20
誤魔化すという行為に直面し
世渡りの要領だと押し通す輩
妥協なき金字塔に一点の曇りはあらず

高校時代というものは、様々な社会意識に目覚める頃であると思う。僕の経験からしても教室の中で誤魔化して評価を高くしようとする人間などに、やたらと否定的な感情を持ったことを記憶する。いわゆる先生におもねるタイプの輩、実際の実力はさて知らず「・・・は英語ができる」と先生に思い込ませれば、その通念の中で生き抜こうとする連中である。中にはこうした輩を肯定する目の曇った教員がいて「世渡りが上手い」とでもいうのか、やたらと学級の中でリーダー的存在として扱うということがあった。僕などはあらゆることを正攻法で対応し、先生にも高い理想ある生き方を言ってしまうので、堅物と見なされて「頭が硬い」と見なされていたようである。その評言を撤回することに意味を感じなかったので、僕は大学受験の結果という現実を突きつけて自らの生き方を示したように思う。

今にして思えば、イチローさんが「いつも周囲に笑われて生きてきた」と述懐するように、「変わっている」と周囲に思われても自らの信念を貫く姿勢が人生には必要ではないかと思う。誰よりも練習し、誰よりも身体の管理に気を遣い、誰も思いもしない高い理想を掲げて生きる。妥協なき信念が行動になったことで打ち立てられた金字塔を、誰が否定できようか。たぶん前述したような「要領で生きる」タイプの人間は、イチローさんのような生き方を毛嫌いしているのかもしれない。中学校まで野球をやっていた僕は、高校で初心者として器械体操を始めた。高度な次元には達しなかったが、6種目の基礎においてはどれも誤魔化しの効かない境目を体験した。中高教員になりたくて新卒で現場に出たが、10年ほどやるうちに「要領でこなす授業」に嫌気がさした。自らを誤魔化さない公正な評価をしてくれるであろう研究へと向かうために、現職のまま大学院の門を叩いた。あの高校時代に先生の評価が高かった輩の現在を知る由もないが、果たして「要領」だけで幸せな人生を送ることができているのだろうか。他者を誤魔化すなら、それ以上に自らを誤魔化し偽るのではないかと、僕は思う。

社会に立ち込める深く暗い闇
度を越した「要領」を「正当」に見せている
少なくとも僕は誤魔化しのない生き方を貫きたいと思う。


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先生の言うことの聞き方

2019-07-19
「正解を持っている」待てば楽
「唯一無二の見本」従っていれば咎められない
だがしかし、「先生も間違う」から学びは始まるのでは・・・

「国語」の授業では、教材(作品)に何か核心的に言いたいことがある、という誤った考え方が植えつけられてしまうことが多いように思う。映画館で上映が終わった後に、帰る人波の中で聞く他者の会話の中に、「ねえねえ、それでこの映画は何が言いたかったの?」などとカップルが仲睦まじく話す光景は日常茶飯事のことだ。「大衆」は映画という「作品」に「一つの主題」があると思い込んでいて、それが「あなたたちそれぞれの思考の中で創作される」ものであるとは思っていない。大概はWeb上の映画評などを読んで、他人の解釈に「正解らしき」ものでも発見して納得し、趣味は「映画鑑賞」だと履歴書には書く。だが、果たしてこうした人々が「鑑賞」という行為を行い得ているのだろうか?と疑問に思う。

教科は「国語」に限らないが、「答え」は先生が持っていて、それを「当て」て疑わずに「従う」ことが成績評価の高い「優秀な子ども」であると〈教室〉ではされる。その「答え」に違和感を覚え、自らの思考をフル回転して別な角度からものを見ると、テストや評価は下がってしまう。この〈教室〉での学習習慣が、入試を始めとする人生の関門でも同様な思考が求められるゆえ、その定着度は高くなり、日常生活の思考にまで反映してしまうように思われる。その証拠にバラエティ番組では、「正解は!」と絶叫する場面が繰り返され、「先生」らしき物知り顔な輩が登場し「(君たちは知らないだろうが)私は知っている」ような態度で知識を開陳すると、会場では「エッ〜!!!」などと驚きの発見かのような声が垂れ流される。その安易で軽薄な「納得」が偏った矮小なものの見方であるとは思わない構造が造り出される。この創造や独創とはかけ離れた思考が、この国の社会に蔓延している。

映画にも人生にも「終わりなき追究の問い」がある
同調するよりも疑問を持つ学び手が〈教室〉では評価されなければなるまい
異論なき一つの虚飾な「正解」ほど、脆弱な砂上の楼閣であることは歴史が明らかにしている。


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笑われても諦めない

2019-07-18
「同調圧力」が学びを頽廃させる
考えられる人たちを諦めさせる空気感
〈教室〉の音読もリーディーングも・・・

小学校低学年の〈教室〉を参観すると、純粋に眼の前の学びに向き合う子どもたちの視線に出会うことができる。他者の目線を気にすることもなく、いわゆる社会的体裁や同調圧力の空気など意識しない無垢な眼が逞しいとさえ思う。だが中学年や高学年、ましてや中学校・高等学校と上がるにつれて、「同調圧力」に支配された偏向した〈教室〉となってしまうことが多い。思考としてもある一つの「正解」が核心的に用意されていると考えてしまい、多様で異質な意見を持つという本来は学びの基本的な方向性とは逆行した空気感が蔓延してしまうのだ。この「答えは唯一無二の正解のみ」という偏った学びの環境が、日本社会で起こる多くの事象に表面化しているようにも思う。大学1年生の講義などでは、まずはこの「正解主義」の頭から解放することを根気強く実行する必要がある。

国語授業における「音読」の問題を長年に渡って考えて来たが、前述したような問題の影響を受けやすい学習活動である。文学教材の場面や登場人物の心情などを含めた精緻な解釈に根ざした音声表現をしようとすると、その深い学びに依拠した「音読」の方が「出る杭」のような存在になってしまう。何事も考えずこれ以上ないほどに気怠さ・やる気のなさを前面に漂わせた頽廃的な「音読」に終始すれば、みんなが考えなくてもよいので「楽」できるという「同調圧力」を造ってしまうのだ。その空気に支配されるとやがて、少しは解釈を反映した「音読」をすべきと思っている学習者も突出して自らの考え方を表明することを諦めてしまう。本来は批評的に高度なテキスト解釈に至るはずの学習が、まったく”のっぺらぼう”な思考なき盲信に至ってしまう。どうやらこれは外国語学習のリーディングなどでも同じ傾向があり、帰国子女など母国語並みの発音ができる学習者が敢えて日本語訛りを虚飾して外国語を読み上げる。批判なく空気感に従っていれば、その場は凌げる。どうやらプレゼンや外国語学習を苦手とする日本人の傾向は、こんな相互頽廃的な空気感によって醸成されているのかもしれない。

個々の意見を持つことの大切さ
人生や恋愛も「正解」を求めて生きていけるのか?
批評的な高度で緻密な思考を排除する社会は怖ろしい未来を造る。


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海を畏れ海を敬う

2019-07-17
「今日までに私がついた嘘なんてどうでもいいよというような海」
(俵万智『サラダ記念日』より)
実像も幻影もみな海に抱きしめられて

生命の源は海、とよく云われる。なぜか海を見ると心が洗われて、人間世界の中での些細な出来事がなんでもないかのような雄大な気持ちになる。だがその一方で、海は人間ではいかにしても対応できないほど容赦ない力で襲いかかって来ることもある。寄せては返す波の動きは、人間の感情そのものの揺れのような気もする。近現代の人間社会は自然たる海に抗い、それまでにない人為的で偽装的な動きを大量に排出して来てしまった。この過誤が、もしかしたら海を怒らせてしまっているのかもしれない。例えば先日の「海の日」に、海への畏敬の気持ちを持つことができただろうか?暦上の虚飾のために、「海」が利用されているような思いさえ湧いて来る。博多祇園山笠などの祭りが、常に7月15日で幕を下ろすのとは格段の差があるように思うのだ。海の幸への感謝を失った人間の愚かさは、様々な反動となって人自らに苦難となって返って来るのだろう。だが、冒頭に記した俵万智さんの歌のように、人間関係上の葛藤をすべて洗い流してくれるような計り知れぬ逞しさを見せてくれることもある。「結句」の「海」に焦点化していく実にわかりやすい言葉により、深い普遍性を湛えた名歌であると言ってよいだろう。

担当講義「日本の恋歌ー和歌短歌と歌謡曲」も、残すところあと3回となった。この日は「恋と幻影」というテーマで、サザンの名曲「TSUNAMI」について短歌と対比しながら様々な「問い」を考えた。「TSUNAMI」は3.11以来、サザンが公のライブ等で演奏したことのない、いわば封印されている曲である。この日も講義の素材として活用すべきか否か迷ったが、敢えてこの普遍的な名曲で自らの人間存在について多くの学生に考えてもらいたかった。「人は誰も愛求めて、闇に彷徨う運命」「泣き出しそうな空眺めて、波に漂うカモメ」などのフレーズが、人が向き合う「恋と愛」の狭間にある葛藤を抉り出すかのように訴える。「運命(さだめ)」「カモメ」の脚韻の響きも見事。これはまさに若山牧水の国民的名歌「白鳥は哀しからずや・・・」に応じたような内容で、「恋の彷徨」の中で空や海にただよふ「白鳥」の姿に己を見る普遍性を考えさせられる。「悲しみに耐えるのは何故?」「好きなのに泣いたのは何故?」と「TSUNAMI」の歌詞は一つの正解など求めず「追究の問い」を放つことで、海の存在そのもののように普遍的で偉大な曲に仕上がっている。20世紀最後の「日本レコード大賞受賞曲」として、当時この世に産まれた学生たちに伝えるべきものが多く含まれる。あらためて「海」を崇めないと、という思いを新たにするのだ。

自ずと「ように」「ような」が多くなった本日の文章
比喩の精度こそが短歌の生命力でもある
「恋」とは「生きる」=「命」に連なる所業なのである。


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博多祇園山笠「追い山」午前4時59分

2019-07-16
「時計見せてくれますか!」
「はい、どうぞ!」
「よっしゃ!59分 山が来るぞ!!!」

「沿道に4時に着けば、通りに面した最前列に陣取れる」と、博多が初任地である友人から助言をもらっていた。午前3時過ぎに起床、起き抜けでそのまま博多の街へと僕は繰り出した。街には似たような計画の人々が同じく博多駅から祇園方面へと進むにつれて、多く見られるようになった。僕が目指すのは、同じく友人の助言で山笠が出走を開始する櫛田神社から通りに出て走り出しの要所である。トイレの利用が大行列になっているコンビニで珈琲を買い込み、規制線のロープが張ってある沿道最前線に陣取った。僕の前にはある「流」の水掛け人が大きなポリバケツに水を湛えて、小バケツを手に控えていた。何度か沿道の僕ら見物客に小バケツで水を掛ける動作をし和ませていたが、出走開始時間が近づき僕に「時計を見せてくれ」と声を掛けてきた。すかさず手元のスマホ画面を見せると、ちょうど「4時58分」の最終桁が「9分」に変わる刹那を彼は見つめた。それが冒頭に記した僕と彼との会話である。

山車は「流」ごとに7連やって来る。「流」を示す先陣の幟が走り来て、中高生ぐらいの少年たちが立て板に書画きされたものを前面に示してその後を走る。その後を老いも若きもが褌に法被姿で尻も露わに走り来る。中には祖父と孫かとも思える二人が手を繋ぎ、未だオムツが取れないような幼児までもがオムツの上からふんどしの一本紐を通して歩いている。尻を露出するという「非日常」こそが、公共の沿道をすっかり「祭り」の空間へと変化させる。歩き走るごとに動く尻の大臀筋、連なる大腿部の筋肉の動き。かなり高齢のお爺さんまでもが、ゆっくりと確実に歩む姿もあった。その光景を見ていて、僕はなぜか理由なき涙が流れてしまった。博多の街という人口密度にしての所業であろうか、激烈な少子高齢化の進むこの国で確実に三世代以上の「尻」が継承されている生命感。これぞ社会を形作る「命」の象徴的な姿なのであろう。「祭り」には「オイサッ!オイサッ!」という掛け声よろしく性的な情動を駆り立てる種の保存という意義が、文化人類学的に含まれている。まったくと言っていいほどに「あてにならない」政治発言とは裏腹に、博多の「命の継承」がこの「祭り」に溢れ出ていた。命が繋がることへの限りない喜び、僕の涙は今思えばこういう理由があったのかもしれない。

全国の「祭り」を見てみたい衝動に駆られた
すっかり夜が明けた街で一休みして
僕は博多で「継承」の業務のためスーツに身を固めた。


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博多一口餃子の夜

2019-07-15

餃子に関しては深いこだわりが
博多に来れば一口餃子
仕事前夜の栄養補給に

ここのところ博多に来る機会が多く、大変深い愛着を覚えるようになって来た。戦国時代の戦略家黒田如水の軍師としての「戦わずして勝つ」方策や、大陸との交渉窓口であるという歴史的地理的条件にも大変に興味がある。この地には、関東にも関西にもない野趣な根深い日本文化の源流が見えるような気がするのだ。政治的な中心地が偶々、東へ東へと移動したがために、菅原道真の例にあるように、太宰府が流謫の地になったりもしたが、国際的文化との交流拠点としては間違いなく日本の最前線といってもよい。

食べ物で何が好きか?と問われたら迷うことなく「餃子」と答える。博多名物は紛れもなく「一口餃子」である。訪ねるたびに知人などにも聞いたりして、様々な店を試すこともあって博多駅から祇園周辺のお店を知ることになった。お店によって味は様々であるが、なかなか人気店も多く入店が困難な店もある。その上に、この日は日曜日で休業という店が続いた不運に見舞われた。だが、何事も最後まで諦めてはならない。スマホで検索するとなかなかのお店が新たに発見できて、満足な宵の口となった。

そして早々に寝床に就く
暁から博多祇園山笠の「追い山」見物に行くためである
その後、本日は出張業務へと向かうところ。



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書作品にあらためて挑む

2019-07-14
所属していたサークルの70周年
記念展に勢いで申し込んでみたが
やはり筆をいまもう一度

大学時代に「書道会」というサークルに所属していた。入学直後に体操・ソフトボール・応援団などの体育会を含めてあれこれサークルを探していた際に、教師になるなら板書の文字が綺麗であった方がよいと実利に傾いて入会した。大学では学問をすると決めていたことも、高校まで部活で運動していた僕を芸術系に導いた動機でもあった。いざ入会してみると、様々な学部の様々な背景を持った先輩たちがいて、誠に青春の大きな刺激となった。何事も入れ込みやすい性格ゆえ、最終的には幹事長(部長)や東京学生連盟の記念展覧会の委員長まで経験することになった。その経験が大きな社会勉強になったのは言うまでもない。今もお付き合いのある先輩後輩たちからは、大きな刺激をもらい続けている。

冒頭に記したがその「書道会」の70周年記念展が、今月下旬から東京は北千住で開催される。昨年来、実行委員会から懇切丁寧な案内をいただいており、出品申込〆切である昨年末になんとか作品を書こうとWebで申込を済ませていた。だが日々の研究・教育や大学での役職もあって、なかなか計画的には作品を書く余裕を失い、これは不可能かと諦めかけていた。最近になって実行委員会の後輩諸氏からメールをいただき、作品題や釈文(書体によっては読みにくいので、作品に書かれた文字を明らかにする文)を求められた。現在、ある雑誌への投稿論文の〆切も近く、このまま断念しようかと思っていたが、後輩のメールにやはり奮起せねばとメールへ情報を返信した。投稿論文では「短歌における音声言語」に関連したことを書いている中で、「文字芸術」を制作するという行為との相関が、自分でも楽しくなってきたことも奮起した大きな要因だ。書く内容は自詠の短歌、若山牧水が揮毫したような雰囲気の文字で小品の制作構想を練った。かくして、経験できることはしておくという人生の信念も通すことができそうである。

文字と音声との文化的な奥行き
筆で記すか声に出すか
自らの身体を使いできる限りの表現に挑む。


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蝶か?蛾か?温暖化による北上の最前線

2019-07-13
農学部の学生に聞いて正体が
「蛾」でイヌマキを枯らす害虫と図鑑に
益虫か?害虫か?と人間の勝手な・・・

自宅のある住宅街付近に、今年はやたらと見知らぬ蝶が乱舞していた。先月来の長雨を越えて少しは、見かける数が少なくなって聊かは安堵していたところであった。いったいあの「蝶」は何という名前で、どんな種類のものなのだろう?自らWeb検索しても、なかなか「名前」には辿り着けていなかった。先日の短歌会で「蝶」を詠んだ歌について僕が語ると、農学部の学生が異様な響きの名前を口走った。歌評とは齟齬しそうであったので、その場では書き留めることもなく過ごしてしまった。だが、彼の口走ったその異様な音がどうしても知りたくなって、LINEで問い合わせてみた。すると「キオビエダシャク」という名であると、図鑑の該当ページの写真を含めて返信をくれた。先入観でこれは中南米あたりに由来する外来種ではないかと思っていたが、どうやら「黄帯枝尺」と漢字表記があるらしい。名前も「ラテン語」などではなく、「日本語」なのであったことにまた驚かされた。

名前が判明したのであらためてWeb検索してみると、宮崎県のホームページなどにも過去からの発生状況などが記されていた。どうやら僕がまだ宮崎に住んでいない2012年以前に、鹿児島県から大量発生しイヌマキ(一つ葉の生垣などにする草木)などを枯らす被害がだいぶ出たらしい。宮崎県でも南部から拡大し、次第にその棲息北限が上がっていると云うのだ。どうやら東南アジアから南西諸島に拡がり、温暖化の影響で九州南部まで棲息域を拡げたようだ。だが寒い冬の影響などで、恒常的に棲息することは不可能だったらしく、しばらくは”なりを潜め”ていたのだと云う。自宅の剪定をお願いしている植木屋さんも、確か「一度は根絶やしにした」といった趣旨のことを言っていた。どうやら僕は、「地球温暖化の最前線」をこの宮崎で体感したらしい。それにしても近現代の人間の傲慢で生じた温暖化、日本列島の南端からまた被害域が拡がる。果たして「キオビエダシャク」を悪者にして「殲滅」すれば済む問題なのかと、この地球で豊かに生きたい人間としての責任を痛感するのだ。

地球の中で何が起こっているのか?
その最前線という意識を九州でこそ
コンクリートで捏造した清潔らしさに覆われた都会では決してわからないこと。


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細胞と筋肉と脳の活動

2019-07-12
細胞を活き活きとさせたい
筋肉を衰えさせてはいけない
脳の活動にも筋トレとストレッチが必要

文章などを書き続けていると、飽和状態というかなかなか上手く進まなくなることがある。無酸素状態で走っているかのようで、脳内に空気を送り込まないと改善しないような状況だ。潔く文章を書くのをやめて、大学構内を歩き回ってみたり、気の合う同僚と雑談をしたりすると、酸素が吸えるのと同時に、細胞や筋肉が動くことで新たな発想となり前向きに進めることがある。何事も淀んでしまえば濁り来て、新鮮な空気が必要になる。大まかに書いたが、同様の作用が身体の隅々において細胞や筋肉の各所で生じているのではないかと思う。現代は明らかに、「脳」のみに偏って生きる身体になりやすいのだと思う。その傾向は小中高校の学習でもそうで、もちろん「実技科目」はさにあらぬ部分はありながらも、「頭でっかち」に自覚的ではない傾向が否めないと思われる。

筋トレをすれば、身体の各所に酸素が行き届くような感覚がある。たぶん細胞も刺激を受けて、負荷のかかった筋肉を修復しようとして栄養を求める。その無意識な作用にも脳が関与していて、普段は使用しない部分が動き始める。誠に人間の生理上のことは素人であるゆえ、「人文」的で恣意的な憶測であるが、少なくとも身体を動かす行動をしないと精神まで淀むのは、こうした仕組みが作用するのではないか。歩けば脚の筋肉に負荷がかかり、そこへ栄養を送り込むために血流が促進される。循環器系の内臓が活き活きと活躍するには、やはり「第二の心臓」と呼ばれる脹脛が動かないと話にならない。足が止まれば思考が停滞する、牧水などの明治の歌人を見ていると明らかで、単に「旅が好きだった」わけではなく歩くことで短歌脳を活性化していたのであろう。筋トレをした後の、歩いた後の、あの微妙な気怠さこそが細胞の活性化の兆候なのではないか。

ストレッチもまた重要
負荷と弛緩と多様な刺激を
「食べてすぐ寝ると牛になる」言い得て妙である。


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