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「お蔭さま」ふっと思う時と所

2019-05-31
「潜在していた蔭の可能性」
「ご縁という形で向こうからやってくる」
「コトが醸し出す作物」

自然体で立つことは、思う以上に難しい。あるトレーニングメソッドを、パーソナルでトレーナーの方に指導いただき数ヶ月が経過した。まずトレーニングの開始時には、足腰の関節や筋肉の硬さを確認してくれる。自分では力を入れていないつもりでも、身体は自ずと力んでしまっていることを指摘される。左右の足は同じ長さか?否、「左右対称」という概念そのものが近代的な幻想で、心臓に代表されるように左右のどちらかに偏って「非対称」であるのが人間の身体である。立ち仕事が長かったりする場合、股関節が回し過ぎたネジのごとく奥に入り込み過ぎてしまうのだと云う。そうした小さな蓄積が身体を歪ませて、各部の痛みとなって顕在化する。このようなトレーニング体験をした折しも、内田樹氏と池上六朗氏の対談本『身体の言い分』を読んだ。身体のみならず、精神的にも無理なことをせず「自然体」でいれば「ご縁(チャンス)は向こうからやってくる」と云うのだ。

僕自身が「宮崎になぜいるのだろう?」と考えても、その理由など論理的に説明できるものではあるまい。だがこの「ご縁」は僕に、「若山牧水」と出会い直させ、佐佐木幸綱と再会し伊藤一彦に邂逅することで、研究や作歌の上で「潜在していた蔭の可能性」に気づかせてくれた。国立大学法人に所属する以上、特に地方都市の場合「地域貢献」が重要な任務である。だが「『人』の『為』に『善』いこと」というのは、これらの漢字を並べていけばある二字熟語になるのだと前述した対談本で池上は喝破する。むしろ「自分がやりたいこと」をできればこそ、「ご縁」ある「蔭の可能性」が引き出せ人の為にもなるということだ。航海上の船の目的地は「Destination」と言われる、いわば「Destiny(運命)」に由来する語彙を使用する。自然たる海を相手の航海は、決して「人為」でどうにかなるわけではあるまい。近現代人は「死」を避けて考える傾向が強くなったが、「死んだ時」をイメージすれば「想像力の射程」が柔軟になり、他者へも寛容になれるのだと云う。生き方などは、「コトが醸し出す作物によって事後的に知らされる」のだと武道家でありフランス哲学者である内田氏との対談は、常に自然体でスッキリ読了できる好著である。

「ご縁」を感知して損なわないこと
確かに無自覚に宮崎への道は開かれた
今ここに妻を始め多くの人と生きていることに感謝。


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「内に外に」人に向き合いてこそ人として

2019-05-30
「内に外に見殺しの罪もつ者が芽吹く林を堂堂と行く」
(伊藤一彦『微笑の空』より)
一人ひとりに向き合える社会として

学部4年生の応用実習が始まり、県内市内の公立小学校・中学校にゼミ生たちがお世話になっている。2週間の実習期間は学校行事などによって前後し、早い学校では研究授業が始まった。3年生の基礎実習で附属小学校・中学校で学んだことを、応用して自己の課題を解決するとともに、教員採用試験に向けての「現場経験」としても大切であり、何より学生自身の一生の中で「教師」として生きる意志を固める機会でもあると思っている。研究授業を参観してよく考えるのは、技術的に適切な指導方法に則って授業を進めていること以上に、児童・生徒たちとの関係性が結べているかどうかという点に注視することだ。「授業」は決して「集団」を相手に「教え込む」ものではなく、個々の思考をいかに動かしその個別な変容に対応するかではないかと思う。僕自身の実習や初任時の経験からしても、どうしても「集団」を「塊」として語り掛けならぬ「放言」のごとき言葉を浴びせているやるせなさが、まずは気にすべき点ではないかと思う。

冒頭の伊藤一彦先生の歌には、教育者として人間として忘れるべきではない自己と他者の関係性の核心を批判を込めて訴える迫力がある。「内に外に」では自己の内部でも外部とでも「見て見ぬ振り」をするがごとき誤魔化しを、誰もが犯しがちであることを考えさせられる。「見殺しの罪」は鮮烈でドキりさせられる表現であるが、学校現場で「クラス」などに向き合った際にいつも意識すべき教師の自己批判的な意味合いを持つと思う。「見殺し」ならまだしも、「授業」を「独り舞台」にすることで、「教師」は無意識の自己顕示を見境なく浴びせている危惧がある。学びは児童・生徒のものであるのは自明でありながら、野球の守備練習でノッカーが主役であるかのような状況に類似した「授業」が、実習生ならずとも少なからず存在する。児童・生徒は純粋な「芽吹く林」であろう。「堂堂と」に表現された無自覚への批判、教育ならずとも人として考えておきたい心の境地である。掲出歌の前には後述する歌もある。

「相談者(クライアント)の前にをりつつその姿見えぬが極致カウンセラーは」
子どたち一人ひとり、そして国民一人ひとり
みんな一人ひとりが「生きる」とは何かを、もっと考えるような社会でありたい。


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「あまりにも『いい子』の」何が凶行に至らしめるのか?

2019-05-29
「あまりにも『いい子』の君は手首切る過剰期待はすでに虐待」
(伊藤一彦『微笑の空』より)
凶行と自傷とを過剰に煽る分断社会

朝の連ドラ直後のニュース速報、あまりの痛ましさに言葉を失った。小学校へ通学時の児童が、次々と襲われて尊い命までもが失われた。ご冥福を心よりお祈りしたい。許し難き「蛮行」、警備を万全に行っていたとする学校関係者の心痛は、その会見の言葉の端々に表れていた。メディアは「通学時の児童をいかに護ればよいか?」というテーマを掲げ、「専門家」なる者たちを動員し即応的な「対策」を報じようとするが、その先の見えない過剰な「対策社会」そのものが大きな問題なのではないだろうか。多くの事象において「対処療法」のみに偏向すれば、「病巣」を放置しむしろ傷口を拡げる結果になりはしないだろうか。とはいえこうした凶行の「病巣」は何か?1997年以来20年以上の月日が経過したが、僕たちの暮らす社会の「闇」をさらに社会情勢が煽り立てるような形相を顕にする。昨日の同じニュース枠で報じられた「軍事」方面への過剰な偏向は、僕ら庶民の身近にある「暴力性」と無関係ではないと思えてくるのだ。

紛れもなく、「いい子」が溢れ返る世の中になった。「お受験」も「クレーム」も「SNS」も、多くの社会現象が「いい子」を「過剰期待」するゆえのものではないか。「学校」という装置は常に「いい子」を期待し、一つの答えたる「いい子」像を目指させて横並びの同調圧力を生じさせる。児童生徒は「ペルソナ(仮面)」を被り、その表面的な「キャラ化」した生き方を強いられ続ける。「過剰期待」に応えなくともいいと悟った者はいいが、重い「ペルソナ」を被り続けた者は、いつか息切れするか蓄積された憤懣を異常な言動で解放しようとする。体裁や体面を重んじるが、社会の中では人間的に繋がろうとはしない「いい子」が無自覚に氾濫する。長年に渡り学校カウンセラーという要職に従事していた伊藤一彦先生の冒頭の歌は、この20年以上にわたる社会が抱える「闇」の要因について、核心を捉えるものであると思う。「過剰期待」された「いい子」が限界を超えれば自傷に及び、それを強いた社会そのものが「虐待」性を持ち得ているのではと、結句の「すでに」に強い怒りの口調を感じざるを得ない。97年当時、まだ21世紀という理想を描く社会が「夢」であったはずだ。だが、これほどに「闇」を暗澹たるものにしてしまった政治・社会を個々の僕たちが背負い考えていく責任を今一度、考えるべきではないか。「自傷」と「殺傷」は裏返しの心理である。お断りしておくが、今回の事件がここで述べた「いい子」と直結する問題だと小欄は主張するわけではない。社会に根深くなってしまった97年当時から言い続けられている「闇」の過剰さを憂えているのである。

僕たち「教育」に携わる者に何ができるのか?
ことばの力を信じている国文学にも何かできることがあるのではないか?
「いい子」の過剰な外交を見せつけられた後だけに、である。


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「今泣くべきは」生きていれば辛いこともあるよ

2019-05-28
「バスの中に泣き叫ぶ赤子もつと泣け今泣くべきは汝のみならず」
(伊藤一彦『微笑の空』より)
泣くべき時に泣いておくこと・・・

宮崎のどこが好きなのだろう?在住7年目にして、最近は深くそんな自問自答をしている。表面的物理的な「好き」ではなく、この地に宿っている「こころ」を知るには、やはり短歌の読みを深めるのが近道であると思う。こんな意図もあって、宮崎が全国に誇るべき歌人・伊藤一彦先生の短歌をあらためて読み進めている。ただ読むだけでは表層にのみ触れるようなので、毎日一首を選び、日々の僕自身の生活と結びつけて小欄に記している。本当に受け取るには自らの「命」を「キャンバス」にし表出することで初めて、愛誦するという域に至るものと信じる。伊藤先生の宮崎でこそ得られた歌境にこそ、この地の豊かな可能性が満載されているのである。余所者である僕が、本当に「宮崎」で生きるための不可避な道ではないかと思う。

本日の冒頭の一首にも、様々に考えさせられた。「バスの中に泣き叫ぶ赤子」は、どこにでもある光景であるが、多くの客たちは「早く泣き止め」と言わんばかりに迷惑顔をするのが常であろう。「赤子」の母親も周囲に対して悪いと思い、叱ったりすれば尚更「泣き叫ぶ」状態になるのは、多くの人が体験する光景ではないだろうか。その「赤子」に「もつと泣け」と、この歌は呼びかける。下句ではバスに乗車して泣き声を聞いている人すべてに、いやこの社会に生きている人々の全員に「今泣くべきは汝のみならず」と核心を突く。「赤子」は体裁も構わず泣くが、多くの「大人」たちは泣きたくとも泣くのをこらえ、自らの精神を歪めてはいないのだろうかと考えさせられる。今年度から始めた講義「日本の恋歌」の講義学習記録で、多くの学生の知性・感性に触れているが、「辛いのを避けるために恋に踏み出せない」という趣旨のコメントに出会うことが多い。「赤子」ならぬ「学生」時代には、単位よりも何よりも「恋に泣く」経験の一つこそが重要な「人生の必修単位」のようにも思うが、いかがであろうか。

悩むより進んで泣く
辛さを分かち合える家族や友人がいる
優しく寛容な社会の希望が宮崎には確実にあるのだ。


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「姿小さし」田圃の中の山羊たちよ

2019-05-27
「朝日射す樹のいただきに啼く鵙の姿小さし火の声出し」
(伊藤一彦『微笑の空』より)
動物たちが生きられる里で・・・

近所の公共温泉へ行く道すがら、田圃に囲まれた草地に番いの山羊が飼育されている。しばらく前のことだが、夜間に温泉へと向かっていると僕の車のライトに照らされた白い影が、急に奈良公園の鹿に煎餅を献上する際のように頭を大きく下げたのに驚いた。街灯もない農道ゆえ、その白い影が山羊だが何だかわからず、少々オカルトチックな気分に肝を冷やしその場を通り過ぎた。その後、明るいうちに妻とともにその場所を通過すると、やはり山羊が繋がれて小屋も用意され、二頭が草を食んでいた。車の通りも少ないので、暫く車窓から山羊を観察していると、雄の顔立ちが妙に厳つくようで、その鮮烈な印象が頭から離れなくなった。「山羊」が持つ一般的なイメージは穏やか極まりないものだが外敵から身を護る遺伝子もあろうか、やや戦闘的な恐さである。それ以来、敢えてその農道を通り山羊はどうしているかと観察する日々が続いている。

動物の存在感は様々だ。昨晩は公共温泉の受付レジに、身は小さけれども脚が極めて長い蜘蛛がいた。あの胴でいかにしてその脚を操るのかと、不思議なほど不均衡な身体であった。家にも以前に「脚高蜘蛛」と言うらしき大きな奴さんが現れて、恐怖に慄いたこともあった。他にも家守(ヤモリ)や百足(ムカデ)に出会うこともある。自然の中で生きるとはこういうことで、彼らもそれぞれに生きるため身を護るために、自らの特徴を最大限にアピールして生きているのである。冒頭の伊藤一彦先生の歌では、「鵙(もず)」のことを「姿小さし」とは言いながら、鮮烈な啼き声を「火の声」と表現している。誰しも「あの声」は印象が深く、表現したいと思う一つであろうがなかなか難しい。「声」という聴覚的な印象を誰しもが納得する描写をすることが、歌人の腕の見せ所であろう。「姿小さし火の声出し」は、「姿」と「出」の「が」と「だ」の濁音の響きを、「し」が脚韻のように受け止め、その中で「火の声」というパワーワードが「鵙」の声を想起させるように鮮烈な印象に導いてくれる。もちろん上句の「朝日射す樹のいただきに」は「サ行音」と「イ段音」の効果で、爽やかな樹に朝日という舞台装置として「鵙」の「火の声」を演出している。

あの山羊は朝日を浴びていかにしておるや
「里山」とまではいかぬが自然のある里に暮らす
動物たちが生きられる正常な空間で生きていたいものだ。


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「まつさらの一日一日を」時に気づかぬ力みも

2019-05-26
「まつさらの一日一日を生きてゐる鳥の尾づかい時に激しも」
(伊藤一彦『微笑の空』より)
意識せぬ力みにご用心

全国的に五月としては、記録的な暑さに見舞われた。10連休以後、初めてのゆっくりした休日であったため、当初はそれほど難儀ではないと思っていた。午後になって所用もあって、青島方面に出向いた。リゾートホテルでの用件を終え、親友の経営するマンゴー専門店へと足を伸ばした。奇しくも5月25日は「マンゴーの日」であるらしく、多くの観光客が店先から絶えることなく繁盛していた。こうしてしばらく外を歩き回ったせいか、帰宅して相撲中継を横目に疲れが一気に噴出したようになってしまった。もしや軽い熱中症ではと思うような具合で、夕食に栄養価の高い食事を摂ってようやく回復した。地球温暖化に僕らの身体は、そう簡単に慣れる訳ではなさそうである。

朝は鳥の啼き声で目覚める生活を送っているが、窓からその姿を見るのも楽しい。向かいの家の低木に止まる番いの二羽はお馴染みとなり、時に小欄を書いていると軒先に足音をさせる雀たちもいる。爽快に滑空してきて樹木の枝に止まるには、かなりの技術と修練が必要ではないかと思うことがある。両翼を広げて速度を落とし「尾づかい」を巧みに操り、身体の角度を微妙に調整して最適な一瞬に枝を足で掴む。その「着枝」を達成した瞬間を見るのが、とても好きである。冒頭の伊藤一彦先生の歌では、「鳥の尾づかい」の語が特に心に響く。「づかい」は「筆使い」等で使用されるように、人間の比較的高度で微細な「技術」を表現する語彙であろう。「・・・の使い手」と言えば、巧みに道具なり身体技なりを駆使できる者のことだ。鳥は、ただ呑気に大空を飛んでいるように見えるが、先述した枝に止まるだけの動作でもかなりの負担が身体にかかっているのではないか。我々人間も「まつさらの一日一日を生きてゐる」のだが、知らぬ間に負荷がかかっていることもある。鳥の姿を見て「我がふり直せ」、と言うことかもしれない。

自然に生きることの尊大で微細なちから
ただ今日を生きるために不可欠なちから
「時に激しも」に表れた生命の尊大な力


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「来たりて気づく」親への思いいつも

2019-05-25
「象あらぬ動物園の寂しさに新しく象来たりて気づく」
(伊藤一彦『微笑の空』より)
ゐて当たり前か、否、ただここにゐることの尊大

食卓というものは単に栄養補給の場ではなく、語らいの場であるべきと思う。他者を食事に誘うというのは、どのような相手であっても「話をしよう」と同義であろう。昨年あたりのことであったか、近隣の小学校で「読み語り」のワークショップを行い、同行した学生たちに「ご飯を食べて行こう」と誘った。近隣で僕が行きたいと思う店は焼鳥屋しかなく、その店へ4、5人で入店した。学生たちは僕の言葉を額面通り捉えて、注文の段になって「ご飯ですね?」と確認してきた。僕は躊躇なく「ビール!」と豪語した。食卓は「語らい」の場であり、語らいには「酒」がつきものである。「呑まないで理屈を言う奴は猿の顔に見えてくる」といった趣旨の大伴旅人の歌が思い出される。食卓の語らいは、自ずと長時間に及ぶ。ゆっくり食べて消化器官にも優しく、精神的にも解放されるという利点だらけの和やかな食卓が好きだ。

妻と両親とともに、すき焼き鍋を囲んだ。牛肉や野菜の美味しい宮崎では、良質な材料にも恵まれている。地元産のワインも夫婦で開けつつ、アルコールが入らずとも同等かそれ以上に語り尽くす母の底力を見るようであった。「特別」でなくとも、「日常」の一幕が和やかであることの幸せを存分に感じることができた。だが妻はもとより、両親もそこにいて当然の存在ではあるまい。今この宮崎で食卓を囲めるまでに歩んだ道を、存分に感じ取ることが必要であろう。母の話を聞いていて、僕の存在そのものも際どい偶然から生じた奇跡であることを考えさせられた。冒頭の伊藤一彦先生の歌は、「動物園の象」の存在への人間たちの思い込みに気づかされる一首である。「象」がいなければ寂しいはずであろうが、「新しく象来たりて気づく」とその寂しさに無頓着である意識を突く。「象」の存在感は格別であろうに、何か変化が生じなければ「日常」の無意識の底に沈んでしまう。「象」を直接の比喩にとは思わないが、「新しく」はできようもない「両親」の存在感にも類する意識があるように思えるのだが。

今夜の食卓を貴重なものとして
心を語り尽くしてこそ明日が見えてくる
暑さも増したが好きなものに手を出す、すき焼きの感じが対話にも比喩される。


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言霊と学生との対話

2019-05-24
「言霊を信じてをらねばカウンセリング成り立たざるとわれ言ひ過ぎつ」
(伊藤一彦『微笑の空』より)
学生との対話にあるもの

今ここに大学教員として仕事をしているにあたり、あるべき姿として尊敬すべき像を抱くのは自らの数人の恩師たちのことである。学問は視野と教養深く、比較文学・文化の視点でと主張された恩師。和歌一首の読み方に徹底的にこだわる厳しさとともに、酒宴での和やかな人間的な語らいを教えてくれた恩師。文学研究こそが最高の教材研究であると、教育と文学の結びつきへと導いてくれた恩師。思い返せばいずれの恩師も、その「ことば」に不思議な説得力があった。ラジオ講座も担当されていた恩師の巧みな弁舌の調子。『万葉集』を「まんにょうしゅう」と発音し、その和歌を朗々と教室で朗詠していた声の響き。穏やかな口調ながら自らの主張になると決して妥協を許さない芯の太い声質。いずれもその声を体感するだけで、素材として語る文学そのものにも魅了されたような体験であった。

今現在、自らが大学教員として学生たちに向き合っている。果たして偉大な恩師たちのようにできているや否や、自問自答してみる。質の高い「ことば」を提供し、十分に学生たちを啓発しているか?文学や国語教育を「面白い」と思えるよう導いているか?など研究室に帰るといつも自らに問いかける。和歌研究などしているとやはり「ことば」の精度や波及力について、考えることも常である。「言霊」という考え方が概して古代的であると思われがちであるが、考えてみれば「ことば」こそが、人間が生きる存在そのものではないのか。冒頭の伊藤一彦先生の一首は、学校カウンセラーとして県内の教育に貢献されたご経験の中から生み出された実感に基づく歌であろう。「われ言ひ過ぎつ」と結句で否定的に意識的完了の助動詞「つ」を使用して着地させているが、これがむしろ逆説的に「ことば」への厚い信頼を感じさせる。カウンセリングでなくとも人生の黎明期である学生たちに向き合うことは、尊厳へ働きかけることに他ならない。その橋渡しになるのが「ことば」である。「霊」とは、「いのち」「いつくしみ」「さいわい」「ふしぎな」の意味もある漢字で、「よい。すぐれている。」という意味もあり「令」にも通ずる。「言葉」が「命」に向き合い「慈しみ」を持って「幸い」へと導く「不思議」で「優れた」力こそが「言霊」なのである。

命が表出する言葉
学生たちの人生に関わる仕事
恩師たちの顔をまた思い浮かべ文化を継承していくのである。


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勝敗はつけるべきか?ー令和老若歌合へ向けて

2019-05-22
県歌人協会の企画
宮崎大学短歌会も参加しての歌合
老若男女の交流の場として

来月6月30日(日)に、県歌人協会の主催で「令和老若歌合」という企画が開催される。協会の方々と宮崎大学短歌会のメンバーが混在してチームを構成して短歌を競い合うというものである。宮崎県内では短歌関係の行事が盛んではあるが、参加者の平均年齢が高い。少しでも若い人との交流機会を持ち、今後も永く継続するようにしたいものである。もっとも高齢化は、何も「短歌」を嗜む人のみの問題ではあるまい。このように分野ごとに世代間交流を、積極的に仕掛ける必要があるように思う。「令和」を機として、ぜひ危機感を持ってこのような交流を前向きに行いたい。こんなことも考えて、企画では「歌合とは?」という題で講演もすることになった。自らが世代的にも仕事的にも、交流を促す使命を負っていることを自覚しつつ。

この日は宮崎大学短歌会の歌会であったが、県歌人協会の方々に来訪していただき、本学附属図書館で打ち合わせ会議を持った。その中で今回の「歌合」で、勝敗はつけるべきか否か?という議論になった。もとより短歌は、「勝ち」「負け」と二項対立で割り切れるものなのだろうか。「(現代版)歌合」にも様々な形式がある。「大学短歌バトル」(角川主催)のように、「剣道」の競技方式に似た形で対戦する一首ごとに勝敗をつける形式。この場合は2手先勝すれば、勝敗は決してしまい大将戦に虚しさも伴う。宮崎で開催される「牧水短歌甲子園」(日向市主催)では、3人それぞれが歌のアピールと質問を行い、すべてを終えた時点で勝敗を決する。短歌の出来栄えはもちろんであるが、アピールや質問の巧みさなど総合的なチーム力が問われ、個々に勝敗の責が負うことも少ない。やはり「勝敗をつけるか否か」という問いでは結論には至らず、「勝敗もつけるが一対一では抗わない」という融合策が選択された。これぞ日向方式と呼ぶにふさわしい企画内容となった。

今一度、根本的に歌合を考えてみる
対抗ではなく対話の場として
企画へ向けて宮崎大学短歌会の新たな地域交流である。


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「雨しぶき降る」宮崎の夜

2019-05-21
「妻とゐて妻恋ふるこころをぐらしや雨しぶき降るみなづきの夜」
(伊藤一彦『火の橘』より)
早くも「みなづきの夜」のごとし

先週末から宮崎県は、大雨に見舞われた。日南方面は特に降水量も多く、「日南海岸ロードパーク」と呼ばれる国道220号線も鵜戸神宮の前後あたりで通行止めが相次いだり、JR日南線も運転見合わせが続いていた。日南方面へ車で向かうと、いつも「宮浦」あたりで山側の崖が崩れた痕跡が気になる。海岸沿いに崖が迫った一本道は、逃げ場もなく寸断されれば暫くの間は通行不可能となる難所でもある。夏場の台風をはじめ、宮崎の雨は容赦なくわれわれ人間に浴びせかけられる。「安全」が当然であるわけではなく、自然と向き合って生きることの過酷さと安寧の双方の入り混じった思いとなる。それだけに自らを起点とする人間存在の矮小さ・脆弱さの自覚と孤独なさびしさを存分に感じることになる。こうした心の作用こそが、宮崎に住む人々の穏やかさ・優しさ・愛情深さの大きな要因ではないかとも思う。

こんな夫婦関係でありたい、冒頭の伊藤一彦先生の歌はしみじみとそう思わせる一首である。三句目「をぐらしや」の解釈はなかなか難しい。辞書によれば「《「を」は接頭語。少しの意》うす暗い。ほの暗い。」(『全文全訳古語辞典』)とあり、『源氏物語』の「山の方をぐらう、何のあやめも見えぬに」(「宿木」)を用例として引く。「妻恋ふるこころ」のことを「をぐらし」というのは決して負の意味ではなく、いつまでもやまない不思議な恋心と解せばよいだろうか。「雨しぶき降るみなづきの夜」という制御ができないながら底知れぬ力を供給されるような自然のうちに置かれる夫婦の姿。明確で数値的な「答え」だけが重視されてきた現代の世相の中で、夫婦の恋心という簡単には見通せない、二人だけが探せる愛情この上ない機微を見事に描いた、愛誦すべき歌であるように思う。

こんな夜には「妻とゐて」
雨音に何を思うや
自然を聞き愛すべき人の心を聴く


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