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水をさすな「みやざき国際ストリート音楽祭」

2019-04-30
残念ながら雨のプログラムへ
路上の植栽棚から転げ落ちるな
あらゆる事態を想定しておく大切さ

「みやざき国際ストリート音楽祭」数年前から毎年この時季の楽しみにしている行事である。宮崎市中心街を車両通行止めにして、点在するステージで様々なミュージシャンたちが豊かに音楽を奏でる。県や市ぐるみで「文化」を大切にするという姿勢が見えて、県民市民として誠にありがたい思いを持っていた。残念ながら今年は終日の雨の予報、早々に「雨天プログラム」に切り替わり音楽祭が開催された。街にあるジムでトレーニングをする前後を利用して、雨天用ステージに足を運んだ。今年のプログラムでどうしても観たかったのは、その名も”QUEENESS”というトリビュートバンドである。映画「ボヘミアンラプソディ」で一躍脚光を浴びた伝説バンド”QUEEN”を風貌ともどもカバーした人気バンドであるらしい。楽器演奏を始め、フレディの衣装さながら英語でのMCもよろしく太ったボーカルの声と白のタンクトップが強烈なインパクトで迫ってきた。

ステージも佳境に入り、植栽棚の近くで観ていた僕は次第に気になることがあった。棚の上に立った一人の男が、拍手のみならずステップまで踏みノリノリに動きが過剰になり始めた。そう思っていると急に、僕ともう一人の方が観ている間のスペースに後ろ向きに倒れこんで来たのである。どうやら植栽に足を踏み入れ、土で足元を取られて転倒してきたらしい。両側にいた僕ともう一人の方で、何とか男を左右から支え直接に路上へ転倒することは回避できた。だが、もし僕らが左右から支えなかったら、後頭部を痛打するか腰を強打するかの大怪我に見舞われていてもおかしくなかった。しかし、男は僕らがいなければなどと微塵も思わないのか、またすぐさま植栽棚の上に戻り変わらぬ行為を続けた。見れば僕の傘が極端に婉曲し、どうやらそのスチールのたわみが作用して男を支える力になったことがわかった。もう一人の方が僕の傘を見て、その男と同行していた男に告げたが、どうも僕は男たちと会話する気分にはなれなかった。本来なら傘を弁償してもらうのが、あるべきことかもしれない。”QUEENESS”熱もすっかり冷めてしまった僕は、かろうじてさせる歪んだ傘を開き、会場を後にしたのである。

いつも「最悪の事態」を想定しておくべき
公共社会のあり方がいま危ういのではないか
芸術を観るなら最低限の理性と感性は持っていたい。


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卒業後に進化(真価)が見える

2019-04-29
全員が教師となって
現場で奮闘する近況報告
卒業後も付き合える人生の友として

小中高の教員が日常においては誠に忙しく、働き方改革が求められているというニュースをよく耳にするようになった。どこかで「教育に関わる聖職ゆえに」という建前で、「時間にこだわる問題ではない」という発想がこの国に根付いているのであろう。もちろん、働き方改革は教職に限ったことではないが、極度な「クレーム社会」のあり方にも抗い「教師」という存在が社会的にもさらに尊敬されるべきと思う。北欧諸国が教育先進国であることからは、まず「教師」に余裕があり児童生徒からも保護者からも尊敬されることが肝要だ、ということを教えてくれる。同時に昨今は定年退職者層の多さによる採用人数の大幅な増員という傾向があり、20代の即戦力教員を養成することが大学学部の使命として重要視されてきている。

特別な10連休ということもあり、ここ4年間に卒業したゼミ生たちで集まれる者たちの会に呼ばれた。全員が小中高いずれかの教師であり、近況報告を聞くと各現場で奮闘している様子が窺える。初任3年目までというのは何事も必死であったと、自らの経験を振り返って思う。その中でも外聞や体裁が気になったりと、悩みは尽きない時期である。だが「教師」であること、「学校」という場を嫌だと思ったことは、僕自身は一度もない。それはひとえに、職場の同僚や大学時代の友人らとの交友に支えられた面が大きい。今まさに初任3年目までのゼミ卒業生たちが集い、同じように学生時代からの交友から元気を貰う姿が見られて誠に嬉しい限りである。「教育」の「真価」は、まさしく卒業してから現れるものだ。同時に現場で揉まれて「進化」した卒業生たちに、逞しさを覚える幸せな時間であった。

「ゼミ」とは「苗床」という語源から
すくすくと「実るほど首を垂るる」卒業生
宮崎県内に心ある教師を送り出すために。


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連休ですがどこか・・・

2019-04-28
「10連休はどこに行きますか?」
会う人会う人そのように聞くのだが
それなら自分だけの「旅の始まり」としよう

嘗て経験のない暦の上での10連休に入った。職場でも買物や公共温泉でも、行くところ行くところで「どこに行きますか?」と問われることが多い。だが何処も人の集まるところは混雑と喧騒があるだけで、何より休まるのは自宅のある宮崎であると心得ている。今まで読めていなかった歌集・歌書を始め、その他の本の世界を存分に読むための格好の機会である。もとより短歌の大きな要素である「想像力(イメージ)」について、最近は教育においても日常生活でも大切な要素であると考えて、その実益的な作用を言語化するよう心掛けている。こうした意味では既に10連休初日から、自らの「想像世界」へと旅に出た気分である。

角川『短歌』5月号には「三年目の飛躍」という特集が組まれている。僕自身も作歌を始めて、概ね3年を超えた。瞬間風速的に何首かは結社誌でも「今月の15首」に選ばれたことはあるが、なかなか作風や文体も落ち着かず、最近は特に自らの歌の拙さに愕然とすることが多くなった。前述の『短歌』誌上の特集記事によれば、こうした状況も「三年目」の特徴のようである。そこから飛躍に転じるには、やはり多くの歌集を「読む」しかないと複数の記事が教えてくれた。だが「ただ読む」だけでいいのかと思う。そこで歌会で鑑賞を発表するかのように、他者にその歌の批評を伝えられるように読むことを心掛け始めた。すると際立って歌の芯の上に立って読めるような感覚になり、その魅力が深く語れるようになる。このあたりが「旅に出た」と書いた連休初日の収穫である。

そして実際に他者に伝える
実は名曲なども他者に伝える意識から出来てきている
「平成」から「令和」へ、僕の旅の始まりである。


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平成仕事納め

2019-04-27
平成最後の講義は「国文学史」
誘い涙の陽が・・・
「令和」で逢いましょう!!!

10連休の入り口が見えた金曜日、まさに「平成最後」の仕事の日であった。朝一番のゼミでは、4年生の卒業論文題目提出前の最終対話、卒論概要との整合性をもってかつ題目としてふさわしい文言となっているか、各自1分30秒のプレゼンを行って順次全員で対話を行った。「題」は究極の「要約」である。その20字以内ほどの文言に題材・方向性・方法などが的確に配されている必要がある。その文言に含まれる語彙は、口語的であったり安易なものであることは避ける。以上のような確認をゼミ生ともども行った。まずは4年生も題目提出ができる状態になった。

午後は「国文学史1」講義。上中古文学を扱っているために、奇しくも『万葉集』第1期を扱う回で、巻1巻頭の雄略御製から舒明御製の国見歌、さらには額田王の歌を中心に教材とした。3〜4人の班に分かれ資料の頭注を使用しながら、配当した歌を紹介できるように読み取らせていく。各班からの発表へと進み、それぞれの歌をまずは音読してみる。長歌が多いゆえに五七調の韻律のことに言及し、通り一辺倒な七五調の音読にならないよう注意。中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)兄弟と額田王の恋愛物語にはやはり興味を覚える学生も多く、元号典拠からさらに敷衍して『万葉集』の魅力を知り得る機会となったようだ。

かくして平成最後の出勤日も夕刻になった。連休中の対応などの件で、役割をともにする先生や事務方と連絡先の確認など。なかには「西暦2000年問題」を回想しつつ新元号になってデータが失われていたらどうしようなどと、時代の狭間に僕たちがいることを実感できる話題も。「連休中はどう過ごしますか」などと談笑しながら、和やかな平成仕事納めの時が過ぎた。

今も明らかな記憶にある「平成」の始まり
僕たちはあと四日、「平成」で得たものをどう整理しようか
野菜十分なエスニックの夕餉、のち公共温泉で身体を癒す。


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言語文化への感覚と想像力と

2019-04-26
梅は香る匂う?
桜が散るのを喩えると?
菊の花としてのイメージは?

教職大学院オムニバス担当講義で、古典分野の教材・内容開発を主旨とするものがある。前半の担当回では教材としてまとまって扱われる「万葉・古今・新古今」についての学びを深めている。前回は新元号「令和」の典拠となった大伴旅人邸での梅花宴について扱い、なぜ漢文序がついているのか?その漢文の性質はどのようなものか?などの問題意識を喚起し、古代において漢籍との交流にこそ、文化形成の基盤があったことなどを学びとした。今回はその延長で「梅花」が歌に詠まれる傾向について、そして「万葉」から「古今」へといかに変遷するかを主旨とする対話を促した。「万葉集」では「梅」が詠まれた歌は約100首、「桜」が40首ほどの配分だが、平安朝になり「古今集」となるとその数は「桜」が圧倒する。「梅」に関してはほとんどが「匂う」香りを詠む歌となる。

「梅」は香るものか?という「感覚」そのものが、現代の若者にはあまりないように思えた。「桜」が喩えられるものは「雪」であるが、なかなか即座に思い浮かぶ見立てではないようだ。かろうじて遠山の金さんの江戸時代劇のことは、知っていたようだ。「菊」は皇室の御紋の印象が強く日本らしい花と思い込んでいるが、中国から渡来した外来の花である。「梅」は「白梅」と「紅梅」でどちらがすぐにイメージされるか?という問いも、受講者において差があって大変興味深かった。古典の場合、なかなか児童生徒らの「感覚」で理解させようとするのには無理がある。ましてや言語文化に表現された「景」を補助教材として「写真」などで提示したら、果たして理解の促進になるのだろうか?図らずも新元号典拠の反響で、「万葉集」ブームが巻き起こっている。教師であれば「梅」「桜」「菊」などの文化的属性を、適切に知り得ておいていただきたいと思う。

和歌の光景を想像する力
描写から読める花の属性
「日本特有」が「伝統的な言語文化」にあらず。


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授業ができる歓び

2019-04-25
学部附属学校園
現場実践最前線
教科教育授業中

新年度も附属学校園との共同研究が始まった。月1回の会合初日であったが、学部にも小学校・中学校にも新任の先生方が加わり新鮮なスタートとなった。地域の教育を支える教育学部である以上、現場においての先導的試作的な実践や課題解決に対応・研究・助言できる姿勢が常に必要である。ともすると大学学部は研究機関であることから「現場」の意識を忘れがちであるが、何よりそこに学び手たる児童生徒がいて、ともに豊かに学力や感性を学ぶ場の醸成を意識せねばならぬ。附属の先生方も公開研究会に代表されるように、より豊かな実践を目指して日々研究・努力をされている。地域の公立学校はもちろん、九州全域や全国へ向けて「宮附」から何を発信できるかを求めて日々の授業に臨まれている。

このような環境の中で、研究者としての現場実践にいかに向き合うかという課題に僕たちは直面している。共同研究では、小学校・中学校・大学のそれぞれから1名ずつ年に1回は「研究授業」をすることになっている。僕自身も在職6年間で3回の授業を中学校で2回、小学校で1回実践した。重要なのは教育学部の教員自らが、現場に臨み学習指導案を作成でき授業が「できる」ことである。教師を目指す学生たちを導くために、この自明と思えるが現実に為されていない実践を叶えることには大きな意義がある。幸い学部にはこうした実践に前向きな新任の先生方が、昨年度と今年度で2名加わり、早速「授業がしたいです」と10月の研究授業に名乗りを上げてくれた。研究そのものも閉じた視点ではできようもないが、自らの実践に言い訳なしという姿勢でこそ教師志望の学生を育てることが可能となるだろう。

僕らは生涯一教師
授業ができて「なんぼ」
それを無上の歓びと思いたいものである。


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題詠「成」怖い歌ー宮崎大学短歌会平成最後の歌会

2019-04-24
「育成ゲーム」が複数
時代の終わりと始まり
読み方によって怖い歌にもなる・・・

実は僕たちは、歴史的な1ヶ月を生きている。天皇陛下のご生前退位に伴う新元号の事前発表から新天皇即位までという、元号が変わることを予告された時代の「終末」を生きている訳である。メディアは事あるごとに「平成最後」を枕詞のごとく使用し、GWが10連休という点でも新学期の始まり直後としては類稀な休日を控えた特別の中にある。今週の講義を終えると曜日によっては5月中旬までないものもある。連休明けは火曜日であるが曜日調整のために「月曜授業日」と所属大学の学年暦は設定されている。こんな状況の中、今年度初にして平成最後の宮崎大学短歌会歌会が開催された。新入生も加えて、新たな時代を感じさせる歌会となった。

題詠は「成」、まさに「平成」からの題である。印象深かったのは「育成ゲーム」といった内容を詠んだものが2首あったこと。僕自身は「ゲーム」について疎いのだが、学生たちの間ではその内容に想像が豊かに及ぶような批評が聞けた。さながら彼らの生活の中には、「ゲーム」という「物語」が生成しているようだ。また「時代の変遷」を詠んだ歌も目立った。表面的には「希望の未来」を願う歌に見えるが、よく読むと「終末思想」や「平和だった平成の後は?」を想像させる面も読めて来て、実は「怖い歌」なのではないかという指摘も僕を含めて複数聞かれた。「元号」で大きく時代の内実が変化する訳ではなかろうが、やはり「末法思想」「2000年問題」等々、時代の節目には変化が生じると考えるのが人間の常道なのか。

「平成」から「令和」へ
短歌は変わらず詠い続ける
宮崎大学短歌会も明日へと歩む


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待つための待つでは・・・

2019-04-23
宅配便の配達指定時間
洗濯機の仕上がり時間
お風呂をお湯はり時間

宅配便の配達員の方々のご苦労は、街で見かけても頭の下がる思いがする。迅速に丁寧に大量の荷物を指定時間を考慮して、順次配達していくのは体力も精神力も並大抵ではないであろう。それでも届けていただく玄関先では、笑顔で対応してくれる優しさを忘れない。こんなことを考えると、なるべく二度手間などを軽減すべきと思う。最近は設定をすればLINEでも配達予定や不在通知が来るようにできて、小まめに配達時間を指定できるようになった。双方のためにもこうしたシステムの導入によって、配達員の方々の配送計画が上手く構成できればそれに越したことはない。それにしても2時間という時間帯で配達時間を指定するゆえ、その範囲をどのように過ごすかによって受け止め方が違うように思う。昨今は極端なクレーム社会となってしまったが、その一要因に「待つこと」ができない人々の増大があるのではと自戒を込めて思う。

指定した時間帯に5分ほど遅れて帰宅した。まずはそこにも自己責任があろう。その後、食事にも出るに出られなくなり「待つための待つ」時間がしばらく続いた。配達員の方は他の配達計画やこちらへの配慮(帰宅が遅いのでは)もあってか、2時間の最後の15分あたりに荷物を届けてくれた。その際に「最初、少し早く来てしまいまして」と告げた。やはり僕が約束に「5分遅れた」ことが「待つ」原因になっていたのだ。それにしても「待つために待つ」という状況を、自ら作り出すべきではないとつくづく思う。例えば、いまこうして小欄の文章を記しているうちに、洗濯機が終了を告げた。お風呂のお湯はりは手動ですると(太陽光温水器から入れるゆえ)、他のことをやっていると溢れることがある。「待つ」時間を有効に活かせば、「待つは待つでなくなる」のだ。「待てない」のではなく、自ら「待たない」ように生活する。これほど宅配を便利に依存する社会を構成した、僕ら一人ひとりの責務でもあろう。

「待てない」自己を省みて
時間を穏やかに生きる
2時間で本を読み切れる充実


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単純化と恣意的な言葉

2019-04-22
「すごい」「しっかり」「感動した」
そしてまた自分しか定義のわからない語句
伝える「言語」に対する知性・感性の未熟

学生の言語生活に日常から接していると、職業柄その傾向で気になることが多い。最近は講義レビューや発言で「すごい」「しっかり」「感動した」の〈安易三役揃い踏み〉に出くわすことが大変多くなった。気に入ったことは「すごい」、先方を立てて自分がやるべきと思っていることは「しっかり」、賞讃すべきと思うものは「感動した」で文章やコメントを構成する。今「学生」と書いたが、これはスポーツ選手や政治家まで幅広い社会構成員の傾向と残念ながら言わざるを得ない。言葉が定型化するというのは思考の硬直化でもあり、印鑑が未だ全盛であるこの国の再生産文化に関係しているのかもしれない。コメントする際は、判で押したように前述の安易三役語句で対応すれば済む社会なってしまった。

僕たちはイチローさんなどの「超一流アスリート」が、前述の「安易」ではないことを明らかに知っている。自らの考え方が細やかで構造的であり、基礎基本からの積み上げがあるように重層的な生活態度がある。したがって語彙選択も、複雑かつわかりやすい。一方で社会を見回すと当人だけがわかっている特定の語彙で、他人に説明を施して「伝えた気」になっている輩が出現する傾向も最近は察知している。比喩のようで比喩として機能しない語彙、業界用語にしては恣意的な語彙、を平然と使用し相手がわかったと思い込んでいる。社会の安易さが「わかりやすさ」を求めているゆえ、そこに迎合しつつ当人の思い込みだけで第三者と対応する連中である。繰り返すが、「一流」は複雑かつわかりやすいのである。当人だけが納得する特異な語彙表現に自己陶酔していては、コミュニケーションは始まらない。

いずれも「安易」な思考に起因する
中身が何であれ、話の「フレーム」の取り方による
社会に出る前の学生たちに注意したい「言語あり得ない感覚」である。


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1日1万歩の日常トレーニンング

2019-04-20
「達成目標1万歩」
大学の仕事や車の利用では・・・
最後にやはりジムへ向かう

宮崎県は通勤時間が日本一短い県である、というデータを見たことがある。計測方法などはさて知らず、自分を含めて身近な状況を見回すと宜なりと思う。概ね平均が17分程度だと言うのだが、「短い」というより通勤環境が「楽だ」という方が適切かもしれない。公共交通機関が密でないゆえ、それほどのラッシュもないだろうし、車が渋滞すると言っても限られた時間に限られた場所でのみでの問題である。この両者についての状況は、東京のそれを知っている身からすると誠に「楽チン」であるのだ。特に僕のように大学キャンパスと一体化した「学園都市」(住所に「学園」を冠している)なる造成地に住んでいると、さながら大学の中に住んでいるみたいなものだ。徒歩10分約1Kmの通勤には全く負担がなく、季節の樹々の様子を見ながら快適なウォーキングとなる。

とはいえこの環境で1日1万歩という健康目標を達成しようとすると、むしろ意識した苦労が必要になる。片道約2500歩ほど往復で5000歩、講義やその他で大学内を歩いて2000歩から2500歩程度、総計7500歩ほどの数字がスマホの歩数計アプリに表示される。本学には車で通勤される方も多いが(僕も激しい雨の時や荷物の重い時など)、そうなるとせいぜい1日2500歩程度しか歩かないことになる。健康長寿を考える上で、これは憂えるべき問題と思う。スマホアプリが推奨する目標値1日10000歩を目指すのであれば、大学にいる間に郵便局まで行くとか昼食にいったんは帰宅するなどの配慮する必要がある。僕があと心がけているのは、大学内でエレベータを使用しないこと。研究室は4階であり、事務方への用件の際や印刷室へいく際もすべて階段である。これはなかなか脚の筋肉に刺激的である。この日はそれでも10000歩に足りず、最後にはジムに行ってトレッドミルで約2500歩を補足した。

歩ける身体が脳や身体を活性化する
若さと活力を保つためにも
日常にどれほどトレーニングを組み込むかが重要だ。


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