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花は、菜の花、さくら

2019-03-31
人ごみも埃もなし
広大な地に一面の菜の花
遠景に山をいただき桜が咲く

「花見」と言えば「桜」に相場は決まっているが、「菜の花」との取り合わせが楽しめる豊かな春の景色を初めて見た。西都原古墳群、日本最大級の古墳群で3世紀〜7世紀前半の築造と推定されている国の特別史跡である。宮崎に赴任した年に県立西都原考古博物館を訪れたが、入場無料ながら内容の充実度に驚かされた。それ以来、いつかは春先に訪れようと思っていた。そのわけは、一面の菜の花と桜の競演が見られる名所として有名でもあるからだ。東京に桜の名所は多いが、菜の花など他の花との取り合わせが楽しめる場所などはほとんどない。公園とか並木道とかに桜が並んで咲き誇るのが一般的で、雑踏の中で埃にまみれてという印象も拭えない。

宮崎のTVニュースなどでも喧伝しているゆえ、さぞ人出も多く駐車場は混雑し雑踏の中を埃にまみれる「東京の花見」式を予想しいた僕は、大きな世界観の変革を余儀なくされた。駐車場は広く広大な丘陵地帯であり、その面積が半端なく広いゆえ雑踏となることもなく、綺麗な空気の中で人々がゆったりと花見に興じている。露店が軒を並べる場所はあるものの、埃にまみれていることはない。7年目となる春にして初めて、宮崎式の穏やかな花見に出逢えた感覚である。あたりは菜の花の芳香が強く、その黄色の色彩にまずは圧倒される。桜は七分咲き、菜の花との濃淡でより一層儚い花の印象も強く感じられる。そして何より遠景の山並みが美しい、この丘陵地帯で古代にはどんな人々が古墳を作り上げたのだろう。

菜の花の春
「花見は桜と誰決めにけむ」
黄昏以降の冷え込みもまた春先の特徴でもある


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半年単位と年度末

2019-03-30
時の流れを意識する
「年度」という仕事の単位
桜が感じさせる春の思い

人の世とは誠に様々な時間単位を作り出し、その枠組みの中で動いているものと思う。「学校」であれば授業時間枠があって、その時間単位を基準として仕事を進める。明治になって新しい「学校制度」ができた際には、まず「排便」の時間が決められていることを教える必要があったのだと聞いたことがある。現代の我々は意識することもなく行動していることが、実は人工的に作られた「時間」なのだと考えることもできる。古代、人間はもっと自由であったのだろう。だがむしろ、制約がないサバイバルにおいてあまりに独りよがりでは自分自身の命の保障もなかったのかもしれない。時間枠という近代的な装置によって、むしろ人は我儘を覚えたとも言えないだろうか。

年度内の最終(業務)日であった。研究室で書棚の整理などをしていると、退職されるある先生が清楚なネクタイ姿でご挨拶に来られた。何度か同じ委員会でお世話になったことがあり、その穏やかな物腰は深く尊敬できる方だと思っていた。その思い通り、実に丁重にご挨拶をいただき、こちらが恐縮してしまうほどであった。日常の思考というのは、こうした「際」の場面で余すことなく表れるものかと感じ入った。翻り自らも、日常の所作を大切にすべきかと顧みた。テレビ番組(連ドラ)などがそうであるが、年度を半分づつ更新されるものもある。10月から就いた役職も半年が経過した。まずは折り返しを迎えて、早いような色々あったような。新たな体験は、自らの生き方の更新でもある。

半年を振り返り焼肉で栄養補給
書棚整理もかないある種の達成感も
学部前の並木道の桜を眺めるのも7回目となる。


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片付け整理へ向かいたき

2019-03-29
年度末の仕事あれこれ
卒業式以後もデスクワークがあり
動きながら整理できるように・・・

例年は卒業式を終えると、年度内の書類や講義関係の保存資料などを整理して新年度準備を始める。だが今年はいくつもの積み残し作業があって、なかなか整理に入れていない。だがようやく先が見えてきたので、この日はシュレッダーにかけるべき書類の選別に至った。もとよりこうした書類を溜め込まない仕事術を身につけるべきかと最近は思う。最初から紙書類は選別し、保存したいものはスキャナーにかけ、多くはその時々で研究室に残さないことが肝要のようだ。既に最新型のスキャナーを購入してあるので、新年度からそんなスタイルを心がけたいと思っている。

「デジタル化」とはいえ、未だ「紙」資料は少なくない。教授会資料は3〜4年前ぐらいからタブレットで閲覧するようになり、情報検索すれば後に確認できるようになった。だがすべての会議がそうであるわけではなく、特に様々な委員会に出席すると膨大な紙が手元に残ることも少なくない。年度末年度始めで様々な品目の「値上げ」が世間では囁かれているが、「紙」の値段や品不足も深刻であるようだ。ならば尚更、なるべく「紙」を使わない資源意識が必要にもなろう。ファイルはデジタルで、となれば検索も手早くなり仕事の効率も上がる。ここはまず自らが「デジタル化」に進んでみようかと思う。

いったいシュレッダーのゴミ量はいかほど
限られたスペースにはなるべく価値ある書籍を置きたい
もう新年度が眼の前に控えている。


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身体すべて自分の力で

2019-03-28
「膝を伸ばして反動をつけて」
否、「膝は曲げて自らの筋力で伸ばす」
身体はすべて自らの力で活かすことができる

身体によいこと、とは誰しもが思いながら、その通りにならないことも多い。だが「生活習慣病」という概念が一般化したように、自らの行動そのものが身体を蝕んでしまっているという考え方を意識してすべきと思うことがある。足腰に痛みがあれば、必ずその原因としてその部位以外の箇所が硬直しているということだ。往々にして人は、こうした痛みや病を他の環境や他の人のせいにしがちであるように思う。原因のほとんどは自らの行動のあり方に左右されている、とせめて考えられるようでありたい。年齢を重ねれば重ねるほど、こうした弱い部分が自覚されてくる。その際に、対処療法ではなく合理的に改善する方法を採るか採らぬかは「健康長寿」を目指す上で大きな問題であるように思う。

先月から始めた新たなトレーニング、あるスポーツ用品メーカーの名を冠した「ファンクショナル・トレーニング」というものだ。「腹圧」を意識した深い呼吸をしながら、関節やインナーマッスルの可動域を拡げ、身体の「コア」部分を中心に鍛えていくプログラムである。従来から世間にはびこる方法として、腹筋であれば反動をつけるようにして寝た状態から上体を繰り返し起こすというものがある。それは考えただけで腰への負担が大き過ぎ、その割に腹筋そのものは鍛えられていない。また柔軟性を高めようとする運動でも、膝を伸ばして反動をつけて曲げるという手合いの方法をとりがちだが、まったく逆であって伸ばす箇所を意識してゆっくりした呼吸をしながら自らの筋肉で伸ばしていくという概念が一番伸びるようである。個人トレーニングを月に3回ほど受けているが、トレーナーさんは「地味ですが」と常々云う。人によっては運動効果を実感できない人もいるとか。自らの神経を繊細にして、痛みや弱いところに目を背けず地道に「コア」を鍛えるという趣旨のこのトレーニングが、まさに「思想」としてもありがたい出逢いであると思っている。

自らの身体のことを自らは知らない
誤った方法では逆効果の場合も
あくまで環境や人のせいにはしないことである。


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巣ごもり卵を崩す破るー宮崎大学短歌会送別会

2019-03-27
題詠「巣」
巣立ちの季節
「巣ごもり卵」に「巣に籠る」などなど

大学卒業式も終わり、この時期に卒業生は新たな職場への準備に追われている。教員になる者は、赴任地での生活へ向けて(発表から)ほぼ半月ぐらいの間に、家や引越などの赴任準備で慌ただしい日々のようである。とりわけ昨今の「引越難民」という語が聞かれるように、業者の予約の困難さや高騰した価格のことを聞くと、新任前から困難に直面しているようで何らかの対策が待たれるようにも思う。そんな中、宮崎大学短歌会では少しでも癒しの時間をということもあり、卒業・修了生の送別会を学生たちが催した。短歌会卒業生が昨年から逐次教員に就職しているが、この丹念な繰り返しが「短歌県みやざき」の層を厚くする原動力となるであろう。「宮崎の先生(に限らず社会人)はよく短歌を詠みますね」という評判が立つべく、10年構想で挑みたいと思う。

僕自身は会議で結局は参加できなかったが、送別会前には「追い出し歌会」が開催された。この日にちなんで題詠は「巣」、「巣立つ」「蜂の巣」「アリの巣」などが詠み込まれた歌が詠草に並んだが、中でも「巣ごもり卵」というのが二首あって目を引いた。周知のようにこれは料理名で、「細く切った野菜に鶏卵をくずさないように割り入れ、加熱した料理。鳥の巣に卵がある様に見立てたもの。」(デジタル大辞泉による)である。その「鳥の巣」を食する際には、どうしても崩さなければならず、その無常とも無情とも思える心情を詠んだ歌には興味が惹かれた。もちろん「卵」のままでは成長できず、「巣籠もり」から歩み出してこそ明日が見える。料理はその生きる上での成長を象徴的に味わい体験できる装置と化すわけで、「見立て」と料理の味わう場面が心情の機微を具象すべく機能するわけだ。料理名そのものに比喩性があるのは、短歌との相性もよかったということになろうか。

教師の卵を温める巣
短歌が好きな雛よ育てよ
「崩す」「破る」より新しい明日が始まるのが人生である。


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梨大根ー宮崎ひなた食べる通信

2019-03-26
生産者の育てる苦労と歩み
作物そのものの豊かな美味しさ
「食べる」を通して繋がる「ひなた人情」

俵万智さんが宮崎日日新聞・連載「海のあお通信」で「梨大根」について書いていただいた。「いただいた」と小欄に記すのは言うまでもない、「宮崎ひなた食べる通信」の編集長である僕の親友である長友さんからの勧めで、これはきっとさぞ美味しい代物が届くに違いないと確信し、グルメ通の万智さんに僕がお勧めした経緯がある。以前から万智さんは宮崎県内の様々な野菜などについて、生産者を訪ねたりこのコラムの話題とされていた。もちろん僕自身も創刊号の「梨大根」を食べてみたが、その糖度や味わいは格別なものがあった。もっと様々な料理を試みればよかったと、今回のコラムを読んで、聊か惜しい気持ちにさえなった。

「梨大根」の生産者である美々津町の黒木栄次さん、ご実家が千切り大根農家であるが親と農法のことなどで対立し、上京して建設現場などで働いていた。しかし、東日本大震災を埼玉で被災し帰郷、あらためて大根作りを始める。農薬・化学肥料を使用しない耕作には困難が伴うが「安心して喜んで食べてもらえる千切りを作りたい」という一念で生産を続ける。その後、2018年3月の新燃岳噴火の降灰により価格が急落、千切りを作らず大根のまま出荷したり、畑を幼稚園・保育園に開放したりすると、子どもたちが「梨の味がする」とその美味に反応した。どうやら幼い子どもたちの舌こそが、実に素直で正直だという逸話としても微笑ましい。生産現場で生産者に触れ合える、そのことで食べる側も豊かな感性で大根を味わい、そして生産者の黒木さんも孤独にならず前向きな生産に取り組めるようになった。「宮崎ひなた食べる通信」には、こうした「梨大根」ができるまでの「物語」が写真とともに掲載されていて、「食べる」そのものを深く考えさせられる。畑で大根を持った黒木さんの写真にこそ、土地と野菜と人をつなぐ優しい眼差しを見ることができる。

「農作物は安ければいい、
 高いからいいというのではない。
 どのように育てられたかだと思う。」(黒木栄次)


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平成・イチロー 時代の去る怖さ

2019-03-25
「元号」のみならず
「一時代」の去来を感じさせるイチロー選手
「変化」する怖さ・・・・・

慌ただしさの中に1月から3月半ばまではあまり意識して来なかったが、「改元」だけではなく実質的に「一時代」が去って行くのを身に覚えて感じ始めた。それはまず、イチロー選手の日米プロ在籍期間が今年を含めると(1992年平成4年〜)28年目になることで、一層あらわに年表上で僕の脳裏に意識されたことにもよる。この年数は僕にとって、中高教員から出発し現職のまま大学院に進学し苦難の末に学位を得て、大学専任教員となるまでのストーリーが語れる年表でもあるからだ。平成元年には勤務校が夏の甲子園で優勝を果たした、高校野球を司る渦中に身を置いていた僕は、あれこれと精神的な彷徨を繰り返し現在の道を選択した。2000年代平成も半ばに差し掛かる頃から渡米を何度も経験し、イチローをはじめとしてMLBを生で頻繁に体験できる期間があった。それから約15年間、時代は大きく動いてしまった。

イチロー選手が引退会見で述べた中で気になることは「本来は頭を使わないとできない野球という競技が、今は頭を使わずにできるようになってしまった。」という趣旨である。データ解析技術の格段の進化によって、選手個人が「考える」よりもチームの与えるデータ通りに働くスペックだけが選手に求められている時代と僕は解釈した。投球でも確率論で解析され、安打に関しては「フライボール革命」というフライを打つスイングが推奨されている。ゴロで内野の間を抜く安打を真骨頂とするイチロー選手のスタイルそのものが、流行から相反してしてしまったとも言えるだろう。僕たちがイチローにこれほどに魅せられる理由の一つは、人間的な成長や進化にひたむきにこだわった姿なのではないか。会見でも「人として」という語句を何度か使用し、「僕、変なこと言ってます?」と記者に問い返す場面が目立った。会見の生の場に僕がいたわけではないが、たぶん記者の対話が事務的・機械的にイチロー選手には見えたのではないだろうか。

データや機械に無自覚に支配される
否、人として「今日」をどう生きるか
怖がっていては時代を超えて行けないが、誤った道であるならば修正せねばなるまい。


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卒業式に思い抱くことーあくがれて行く

2019-03-24
この日にどう学生たちと向き合えるか
そして過去のすべての卒業生を思い出したく
人生は「あくがれ」の連続である

卒業式に学生たちとどう向き合うか?「教師」にとってここにすべてが集約されているように毎年思う。計算したことはないが、今まで果たして何人の卒業生を送り出したであろうか?初任校の卒業生などは、もうかなりの年齢になっているはずだ。人として在学時にどう生徒や学生たちとの関係を作るか。その個々への繊細で緻密な思いやりを、いかに彼らが受け止めてくれるか。もちろん若い頃は、そんな意識もなくただただその場勝負で生徒らと向き合っていたように思い返される。まさに卒業式とは教師冥利に尽きる場なのであるが、それはただ待っていたのでは訪れない深さがあるように思う。この思いを教員養成のゼミとして、学生たちの次代に引き継ぐべくまた「今日」があるのだ。

卒業生を送り出して、夜は日向の焼酎「あくがれを愛する会」に出席。社長をはじめ多くの方が挨拶で「イチロー」の引退と偉業を讃えるスピーチをなさった。思いがけず最後の挨拶などをする機会に恵まれたが、やはり「イチロー」も「あくがれ」の人だったのだといった趣旨を述べた。実は小欄の最初の頁(2009年9月25日付)は、「イチロー」が9年連続200安打を達成した年であった。その記述に「確かな1歩の積み重ねでしか、遠くへは行けない」とある。「確かな1歩」とは、まさに「今」の自分から小さく確かに「1歩だけあくがれ」ることである。「今日」という24時間にどんな「1歩」を記すか。確かに緻密に丁寧に自分らしく、たぶん「イチロー」のすべてはこれであろう。まさに「あくがれ」の野球人・アスリートであったわけである。

研究・教育もまた同じである
眼の前の人にそして自分にどう向き合うか
名前とともに「あくがれ」と刻印したペンをゼミの卒業生に贈った。


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この如月の望月のころーイチロー引退の夜

2019-03-22
「願わくは花の下にて春死なむ
 この如月の望月のころ」(西行法師)
「死んでもいいと思うのは、こういう日のこと」(イチロー)

「実際には死にませんよ」と言いながら、イチローが会見で述べた「死んでもいい」には心底ゾクッとした。かの歴史に名を刻む歌人である西行が、冒頭に記した著名な歌を詠み、その通りにこの世での所業を終えたことはあまりにも有名だ。この夜は「旧暦二月十五日」であり、東京では桜が開花したと云う。東京ドームで開催されたMLB公式開幕戦にて、イチローは選手として終止符を打った。約1年間のシアトル・マリーナーズでの選手と会長補佐としての特別な過ごし方に、イチロー自身も忘れられない深い感慨を抱き、この夜を迎えたようであった。まさに現代の西行のような芸術的とも言える引退のあり方だ。

会見での語録を今朝の小欄のみで語り尽くすことは難しいゆえまたの日に譲るとするが、頭に浮かぶ感慨のみをここに記しておきたい。アリゾナでのキャンプで、ネット近くにいる日本人女性ファンから「イチローさん好き」と言われて、「朝から告白されてもね」と答える茶目っ気。僕自身はキャンプ地やシアトル・セーフコフィールドで、「フェイクイチロー」と地元ファンに称され、深くファンらと交流機会が持てたこと。(どうやらその当時の髪型とサングラスで「フェイク」に見えるらしい)イチローの車が駐車場から出て行くところで、そのファンらに押されて着ているレプリカユニフォームの背番号を向けられ本人に示したこと。セーフコフィールドの右翼後方の席から、タッチアップの走者をレーザービームで刺した守備を生で観られたこと。そしてあのロスでのWBC決勝の優勝の空気にスタンドで浸れたこと。僕にとってがすべてが、人生の大きな思い出である。

こうした生活ルーティンそのものが
イチローさんへの尊敬から発するものでもある
ありがとうイチローさん!野球の「研究者」として僕らの仲間として活躍して欲しい!


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歩く・声出す・温もりて活きる

2019-03-20
1日何歩歩いているか?
短歌などを声に出して読んでいるか?
そして入浴で身体を温めているか?

来月刊行される短歌雑誌に、若山牧水についての評論を寄稿させていただいた。そこで言及したことを、少々「予告」しておきたいと思う。牧水が調子よく短歌を創る時には、それなりの条件があるようだ。「旅の歌人」と言われる牧水はかなりの距離を自らの足で歩き、その中で素材を狩り取り自らの歌に仕立てて行く。「仕立てて行く」は作為的で聊か語弊があるかもしれない、歩いて周囲の自然と親和的関係を結ぶと、その自然の一部として短歌の韻律の上に言葉が紡ぎ出されると言えばよいか。時に歩きながら独り言のように声を出し、その心の向くところを制御したり火をつけたりしている。さらにはかなりの風呂好きであったようで、温泉場に到着するとすぐに風呂を求める。身体が温まればまた、短歌を整理したり推敲したりする。こんな旅の様子がその紀行文から知られる。

先週、地元紙に掲載されていた地域啓発型の歩数アプリをスマホに入れた。宮崎弁「さるこう(SALKO)」という名のアプリで、「歩こう」の意味である。大学との往復を徒歩にしたりとなるべく生活の中で歩くように心がけるようになった。出張の折は東京での公共交通機関での移動で、かなりの歩数を稼ぐことができた。だが宮崎では車を使用することも多く、むしろ意識しないとなかなか歩数は伸びない。講義でも始まればまだ、授業中にじっとはしていないたちなのでそれなりの歩数になる。大学も会議などばかりで学生もおらず事務的な会話に終始し、なかなか豊かな対話が持てない時期である。こちらもある書物に啓発されて、毎日10首づつ『百人一首』を音読するようにしている。もちろん一日の疲れを取るには近くの温泉に行くのだが、身体を温めながらの独り言が短歌にはよい作用をもたらすように思う。昨晩は露天風呂のある温泉で、月の眺めと潮騒をBGMに、脳内が大変活性化された時が訪れた。

身体作用と脳内作用
連動して人は生きている
この生命を活かすには、歩く・声出す・温もるを忘れてはなるまい。


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