fc2ブログ

旅の歌ー小島さん母娘の県民大学講座

2018-09-30
「苦しくも降り来る雨か三輪の崎佐野の渡りに家もあらなくに」
(『万葉集』長忌寸意吉麻呂)
「うしろ姿」旅への思い

現在、小欄を記している家の外は台風24号の接近に伴い、激しい風雨が家を殴りつけるかのようである。雨戸を打つ雨風の音とともに、換気口に逆流した空気がその蓋をバタバタとさせている。台風による交通の混乱で危ぶまれたが、小島ゆかりさん・なおさんの母娘歌人をお迎えしての県民大学が開催された。ここ数年は恒例となった小島さんらをお迎えしての短歌トーク、今年のテーマは「旅の歌」であった。進行役はもちろん伊藤一彦先生、三者が挙げた『万葉』から現代短歌までについて、様々な「旅」の捉え方が見えて大変興味深かった。

冒頭に挙げたのは小島ゆかりさんが挙げた万葉歌、「苦しくも降り来る雨か」で句切れ、「三輪の崎」と「佐野の渡り」をサ行音で接続し字余りの結句へ。こんな韻律構造から楽しいばかりではない古代の旅情や「家(家族などを含めた意味での)」を考えさせられ、現代の我々にも響く歌である。また小島なおさんが挙げた現代短歌「着陸の刹那におもふ  生きものがはじめて死んで四十億年」(坂井修一『青眼白眼』)も飛行機での旅の危険な必然を生きものの進化を引き合いに詠う名歌である。また伊藤一彦先生は西行の「年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけり佐夜の中山」を挙げ、「命なりけり」の部分が「命ありけり」では駄目で、深く「命とは何か?」という問いを考えさせられるという弁。『源氏物語』や茂吉の歌にも「命なりけり」が見えると、小島ゆかりさんのご指摘も光った。

終了後は台風のために
すぐさまお二人の「うしろ姿」が
宮崎はいま「苦しくも降り来る雨か」である。


関連記事
スポンサーサイト



tag :

1000試合登板という「仕事」

2018-09-29
ドラゴンズの岩瀬仁紀投手(43)
史上初のプロ野球1000試合登板
プロ20年で成し得てきた「仕事」

大きいことは小さな積み重ねから、小さいことは大きな懐を持つこと、そんなことを考えさせられた。冒頭に記した、中日ドラゴンズ・岩瀬投手の史上初の快挙。華々しい記録というよりも、地道に重ねることこそが人生に意味を与えることを教えてくれる。特に抑え投手(クローザー)というのは、大変辛い役回りである。チームが勝っている状況を守りきって当たり前、逆転を許すものならファンから反逆者的な扱いさえされるほど過酷な「仕事」であると思う。その艱難辛苦を20年にわたって継続しての「1000試合登板」というのは、格別な意味があるように思う。

スポーツニュースでドラゴンズの元監督である落合博満さんが、岩瀬投手について語っていた。「なぜ辛い登板機会を繰り返し乗り越えてここまでの快挙を達成できたのか?」という質問に、「仕事だからでしょ」と落合節。「抑え投手」の位置に据えたのも落合さんだが、開幕前に足を骨折した経験が岩瀬投手を強くしたのだと云う。「ここで生きていくんだ」という確固たる決意が岩瀬投手にはあるとも落合さん。何事もこの「真実の本気」になることは難しいように思う。同時に「抑え投手」として不甲斐ない状況であった岩瀬投手を見守り続けた落合監督の「仕事」にも賞賛を送るべきだろう。首脳陣もファンも、
ダメな選手をすぐに見切るチームもあるだけに。

あなたの「仕事」はなんですか?
「そこで生きていく」と「本気」でしょうか?
岩瀬投手の輝くべき「仕事」に、日本プロ野球が失いかけているものが見える。


関連記事
tag :

「おく(奥)」にこそある未来

2018-09-28
「未来は山のあなたにあるのではなく、
 〈いま ここ〉を掘り進んだ奥にあるという感覚。」
(『万葉集の〈われ〉』佐佐木幸綱より・角川選書2007)

牧水にも触発されあらためて『万葉集』を読んでいると、気になる歌語に多く出逢う。「おく(奥)」もその一つで、冒頭の佐佐木幸綱先生の評論の一節を思い返した。現代語の「未来」を表わす語として、古代では「おく」がある。幸綱先生も同書で述べているが、『万葉集』では万葉仮名の表記を含めて、物事の本質を考えさせられる歌語が多いことには興味が惹かれる。現代では「未来」のことを「先の先」と前ばかり向くような感覚があるが、「今の現実と無関係に未来はない」(同書の記述より)という必然を考えさせられる語彙である。

〈いま ここ〉を受け入れられない限り、「未来」が明るくなることもないだろう。「いま」の「現実」に眼を瞑るならば、虚偽の「未来」が待つばかりである。よくテレビ番組などで、怪我をしてしまったスポーツ選手の復帰までのドキュメントが構成されることがある。リハビリに励むその姿は、まさに〈いま〉を受け入れたからに他ならない。人間はどう足掻いても、〈いま ここ〉の宿命を変えることができない。それならば存分に「おく」にねじ込んで、「現実」を受け入れていくべきではない。若かりし頃は、往々にして「山のあなた」を目指す場合もある。牧水もそうだった、だがしかし叶わない恋の「おく」にこそ牧水の名歌が生まれ、自らを支えてくれた妻・喜志子との出逢いがあったのだ。

逃れられない〈いま ここ〉
逃げずに向き合う勇気と力
「おく」へと掘り進む力を持ちたい。


関連記事
tag :

楽しく音読すればそれもよし

2018-09-27
小学校低学年
音読好きな子どもたち
まずは楽しくあれこれ言わずとも

附属学校との共同研究、この日は小学校で研究授業が実施された。テーマ(めあて)は、教材文に繰り返し出てくる文を「声と動き」で表現するというもの。登場人物の発話を、場面状況を捉えて適切に声と動きにするわけである。小学校も低学年の子どもたちというものは、声に出して表現することが大好きである。未だ音声言語で育ってきた過程の習性が抜け切れておらず、高学年や中学生などよりむしろ豊かに声を出すことができる。この日の授業でも2年生の子どもたちは、教材文を楽しむように元気に声を出してその場面を再現しようとしていた。まずは「楽しむ」ことに、僕自身も大賛成である。

低学年は同時に学習習慣・態度を身につける時期でもあるゆえ、「静かに聞く」ということを〈教室〉空間では求めている場合も多い。その結果、自由で豊かなはずの「表現」を抑制してしまうこともある。この均衡というのは指導する教師として難しいところであるが、「楽しむ」ことを貫くためにはそれなりの「勇気」も必要となる。授業内の「発表」や「表現」によく「型」を作り、その通りに当て嵌めてことば流し込むという実践もよく目にする。だがどうしてもその光景は、「作られた(作為的・虚偽的)」なことばとして響いてしまう。先日の九州国語教育学会でも、「発表者の方を教室内の全員が身体を向けて注目する」といった態度が「嘘くさい」と評する研究発表があった。誠に同感でありつつ、意義のある「演じる」表現を創る〈教室〉にこそ豊かな感性が育つとも思った。

リアルな作為・虚偽がありつつ
虚構の中での「演じる」を抑制する矛盾
大仰にいえば、日本社会の悪弊がこんなところにも顔を覗かせているのである。


関連記事
tag :

下支えする力

2018-09-26
身体を支える筋力
一首の歌の背景にある膨大な力
一歩下がった力・見えない力

人間の身体が直立していることの方が、不思議なのかもしれない。寝た時の怠惰に浸るような開放感とか、四つん這いになった時の不思議な身体感覚というものが、そんな動物的進化の遺伝子を一部自覚させているであろう。トレーニングや年齢に伴う身体の変化に興味を覚えて、こんなことを考えるようになった。トレーニングすればキツく感じる腹筋背筋という表裏こそが、「コア(核心)」部分として人間を支える。割れているかどうかという見た目の問題以上に、このコアの力には気を遣いたいと思う。表層に見えないもの、まさにそこに核心があるというように。

俵万智さん『牧水の恋』(文藝春秋刊)を読んで、あらためて短歌の背景にある「氷山の海中部分」のような面を探ることに興味を覚えた。だが同時に名歌は、その背景を知り得なくとも自立することができる。万智さんのトークとして「牧水はやはり歌がいい」というのが印象的であったが、短歌とはそういう「核心」のある文藝ということであろう。近々お会いできる歌人・小島ゆかりさんのご著書を読み返していると、こんな一文に目が止まった。「具体の力を借り、観念に流されないで、巧く詠えるところをぐっと我慢して一歩下がった作品。言いたいことを言い切らないで一点の謎を残した作品。」(『短歌入門 今日よりは明日』本阿弥書店2002)をよい短歌とすると云う。これぞまた「下支え」の論理ではないだろうか。

雲の取れた空に見事な十六夜月
青島から日南方面を見ると海面が美しく明るい
人間には見えない世界が海中にあり、僕らはそれに支えられている。


関連記事
tag :

雨雲かかる仲秋の名月

2018-09-25
あの望月から月齢が巡った
雨雲で見えざる名月なれど
思いを寄せて浜で見上げる

先月の26日であったろうか、実に美しい満月を宮崎港で見ることができた。観念的には意識していたが、月齢とともに時間の経過や奥行きが知られるものだと改めて認識した。月齢は巡りこの日は「仲秋の名月」だが、空は雨雲に覆われており月が顔を覗かせることはなかった。だが単なる「雨の休日」として過ごすよりも「名月が見られなかった」と思って過ごすのとでは、大きな違いがあるように思われる。何より前月の望月があまりにも印象的であったこともあるが、月齢が進行する間の出来事を反芻しつつ〈いま〉〈ここ〉が意識できることに意義を覚えたのである。

2日間の研究学会の疲れを取らなければならない、こうした意義を持った休日のあり方が大切であることも悟った。予定に追われずただ思いのままに、心身を休める時間。自分の「生身」がそれほど強靭であるということは思い込みに過ぎず、「休める」ことも大切な仕事の内である。「休める」ことの仕上げは、当然ながら温泉である。この日は加入する共済が提供する利用券の期限も近づいたため、いつもとは違うリゾートホテルの温泉に行ってみた。連休最終日ながら外国人観光客も多く、なかなかの賑わいであった。いつもとは違う泉質の温泉に浸りながら、思いは海上の天空に向けられる。海沿いにガラス張りな温泉であるゆえ、名月が見えたらなさぞ素晴らしかったであろう。だがしかし、人間は思い通りになることばかりではないと、雲隠れした十五夜が語っているような気がした。

空気はすっかり秋
梨に葡萄などが美味しくなった
あの夏の日からの距離を月齢で計る情緒


関連記事
tag :

手作り朝食のごとく

2018-09-24
ビジネスホテルの朝食
お決まりか手作りか・・・
地方にある微細で大きな葛藤

第9回九州国語教育学会2日目。10時開始の発表を前に恒例にて早めに起床。会場となる大学から一番近いビジネスホテルを宿としたが、ベッドの硬さなど聊か普段とは違う睡眠を経る。予約プランで「朝食なし」としていたので、近隣でどこかを探そうと試みた。だが僕の勤務校もそうであるが、地方国立大学のキャンパス近くで気の利いた食事のできる店を探すのは至難の技である。スマホのマップ上に出て来たのは、「m」印の赤い看板のファーストフードであった。若い頃から”あの店舗”の脂の匂いに弱く、もう以前入店したのがいつかの記憶もないほど使っていない。半ば「仕方ない」と決意してホテルのロービまで降りると、併設の朝食会場となるカフェが目についた。フロントの方に「コーヒーだけでも飲めますか?」と尋ねると、「はい、言ってみてください」という返事。やはり「m」の看板に行き着くことはなかった。

入店すると「朝食付きプラン」の方々が食事券を出して食べている。とりあえず「珈琲飲めますか?」とカウンターのご婦人に言って着席。しばらくは珈琲を待ち・飲みつつスマホにキーボードを接続し小欄を記していた。他のお客さんがいなくなると、カウンターのご婦人が「涼しくなりましたね」と声を掛けてくれた。これを契機にあれこれこの街のことなどお得意の世間話に花が咲いた。なぜここに大学キャンパスがあるのか、どんな経緯を経てこのホテル併設カフェを経営しているのか、など次第に話は具体的なことに。僕自身も研究学会で赴いていることや、研究分野のことまで話すようになった。すると「うちは手作りの朝食を出してます」とご婦人が云った。「m」の看板に入店して極力脂のないものを食べようと模索していた僕には「灯台下暗し」、こんなにもいただきたい朝食がすぐそばにあったというわけであった。

秋刀魚に野菜のお浸しとサラダ
判で押したような朝食ばかりのビジネスホテルでこんな家庭料理
まさに地方でこそすべき仕事のあり方ではないだろうか。


関連記事
tag :

第9回九州国語教育学会

2018-09-23
院生も小中高大学教員も
家庭的な中で研究発表
九州から国語教育を考える

第9回となる「九州国語教育学会」に参加した。3年前に鹿児島大学で開催された際に初参加してから、なかなか足を運ぶ機会に恵まれなかった。今回は昨年来指導担当となっている教職大学院生が研究発表にエントリーしたということもあり、当初から予定して参加することにしていた。3年前も指導の院生が研究発表の機会を得て、それを契機に自信をつけ今や出身地の教員として活躍しているという経緯もある。院生時代に内輪ではない研究学会で発表を経験することは、実に大切なことだと経験的に思う。ひとえに「研究発表」と言っても、様々な方法があることを自覚するためにも。

この学会の特長は、懇親会で多くの方々が語ったように「家庭的」であることだ。院生が自らの希望をもったテーマを忌憚なく発表することができる。たとえ未熟であっても20分間の中で、自分が取り組んだテーマを語り尽くす。その後の質疑応答も、参加者はみな前向きで建設的な意見を述べてくれる。院生の際にこうした温かさに触れることで、その後の現場での実践や研究に対しての姿勢が変わってしまうと僕は思う。こうした意味で僕自身が院生の課題研究を担当する際は、必ずこの学会で発表をしてもらうようにしている。また、勤務校の同僚として新たに迎えた先生にも、今回は学会に参加していただいた。先生の出身校の年代を前後する研究者も多くいらしており、新任の先生の新たな活躍のステージとしても期待したい。

殻に籠らず
自らを開く機会を
家庭的な地方学会こそ大切にせねばならない。


関連記事
tag :

〈いま〉〈ここ〉を去り続ける時間の連続

2018-09-22
「自分のうしろ姿が、
 いつでも見えてるように
 生き度い。」(若山牧水『樹木とその葉』所収「空想と願望」より)

牧水の故郷・宮崎県日向市にある「あくがれ蒸留所」、その焼酎「あくがれ」を愛する会が宮崎市内で開催され出席をした。先週は牧水祭にあたり没後90年企画の一連として日向市で開催されたが、あらためて宮崎市内で愛好家のみなさんが顔を揃える機会となった。冒頭に伊藤一彦先生の牧水講話、牧水祭のことや俵万智さんの新著のことなど牧水最新情報満載のお話であった。講話の中では僕の名前も取り上げていただき、今回上演された「牧水オペラ」の「牧水役」の歌手が僕の教え子であることも披露いただき、ありがたい限りであった。会は楽しく進行し参加者はまさに焼酎によって「あくがれて行く」わけで、〈いま〉〈ここ〉の世界から異世界を語り合える時間となった。

さて、冒頭に引いたのは牧水が創った短歌ではなく詩である。『現代短歌10月号』が「牧水考」の特集を組み、牧水賞受賞歌人などが寄稿している。そのうちの小島ゆかりさんの原稿に、この詩が取り上げられており大変興味が惹かれた。「牧水の青春の旅は、やむなき『あくがれ』の旅だった。」とその一節にあり、「『自分のうしろ姿が見えてる』とは、〈いま〉という時間、〈ここ〉という場所を去りゆく自分が見えている、ということだ。」という解釈に共感できる。元来が「あく(在処)」「かる(離る)」という古語由来の語彙であり、伊藤先生が常に指摘して来たように牧水の基本的なあり方である。旅はもちろん、物理的に〈いま〉〈ここ〉を去ること。「異性」もまた、〈いま〉〈ここ〉の自分から新たしき〈自分〉になること。そして「酒」もまた、〈いま〉〈ここ〉から夢見心地にしてくれる「あくがれ」に他ならない。小島さんの原稿を反芻しつつ、「旅」「恋」「酒」によって「自分のうしろ姿」が見られるよう努めたいものだ、と感じる宵の口であった。

「〈いま〉〈ここ〉を去り続ける時間の連続なのだ」(小島さん)
人生そのものが「あくがれ」にあり
また宮崎で新たな人の輪に「あくがれて行く」


関連記事
tag :

目に見えない筋肉と柔軟性

2018-09-21
腹筋・背筋などインナーマッスル
太腿の裏側など下支えの筋肉
人間同士も支え支えられて・・・

「筋トレをしている」などと言うと、まず誰もがイメージするのは逞しい大胸筋であろうか。あのボディビルダーがお腹の前で腕を組み、胸筋を自ら動かすパフォーマンスの影響が大きいように思う。確かに大胸筋は上半身で大きく目立つ筋肉ではあるが、その裏側の肩甲骨周りにも重要な筋肉があることを忘れてはならない。肩凝りを解消したい場合、この肩甲骨の筋肉と柔軟性の確保が不可欠であるように思う。表もあるが裏もある、人は往々にして「表」だけにこだわり、外見を装うことばかりを考えがちである。さらに言うならば、表面化していない所謂「インナーマッスル」の鍛錬が大変に重要であることに、最近は気付かされた。

脚ならば、大腿筋と表裏の関係にある「ハムストリングス」が重要。もちろん腹筋と背筋の関係も同様である。さらにはこの身体各部を支える様々な「インナーマッスル」が、それぞれ下支えしてくれることで人間の身体は維持されている。折しも、友人とサザンのことについて話す機会があった。桑田さんが2010年に病が発覚し療養する際も、原さんの僕らファンからは見えない内助の功があったのは想像に難くない。音楽の上でも原さんのピアノや歌(コーラスを含めた)の実力があっての「サザン」である。一バンドが長年活動を続けるには、特に人間関係で問題が生じがちであるが、この支え合う夫婦関係があってこそサザンは40周年を迎えることができたのではないだろうか。もちろん「力」だけでは駄目で、随所の筋肉を活かす柔軟性が大切であるのは言うまでもない。

しなやかさとやわらかさ
意識できないところを自覚できること
自己内でいつも筋肉が対話しているということであろう。


関連記事
tag :
<< topページへこのページの先頭へ >> 次のページへ >>