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質問ならずとも話して気づくこと

2018-07-25
「質問はないよね」
されどあれこれ話してくれた「先生」
あの対話があってこそ今がある・・・

高校生の頃は、まったく学校では可愛くない生徒であったと自ら思う。部活動はしているが成績はやれば上位、だが高校2年生ぐらいからほとんど「学校」での学習を見切って自ら学びを創っていたような記憶ばかりなのである。ラジオ講座や東京という地の利を生かして予備校の講習会へ。よく部活主義の生徒が放課後の運動に全てを賭けているのに負けず劣らず、「学校」が終わってからが学びの宝庫であった。もっとも時間を無駄にするのも癪に触るので、独壇場で喋っている先生の授業では、独りで本を読み続けていたのも常態化していた。そんな中でラジオ講座のある著名な英語講師の先生の語り口や内容に、いたく感激し始めた。世の中にこんなにも上手に英語を教えられる「先生」がいるんだと、自らの教師志望を倍増するかのような存在に憧れ始めた。となると、次の行動としてはどうなるか?その「先生」にどうしても逢って直接に指導を受けたくなったのである。

高校3年生となった春休み、高浜虚子の「春風や闘志いだきて丘にたつ」の一句に奮い立ち、予備校の講習会で憧れの英語の「先生」に出逢った。後光が指すかのようなその「先生」の初回の講義に感激して、僕は恐れ多くも講師室に「先生」を訪ねた。確か当日のテキスト内での具体的な質問などは、なかったように記憶する。だがラジオ講座の内容と講習の内容と、これからどんな勉強を重ねたら、「先生」の母校たる大学に入学できるか?などととりとめもない質問をぶつけてしまった。だが、「先生」というのは偉大な方こそ謙虚で親しみやすいのだろう。僕の答えようもないような質問にも真摯に向き合っていただけたのである。この体験は、僕にとって大きかった。以後、年間を通して「先生」の講習を受講した僕は、講習後には必ず「先生」の元へと「話し」に立ち寄る習慣がついた。英語のことはもとより、日本語の翻訳事情やら比較文学のことやら、あれこれと「先生」と駅までの道すがらまで話し続けた。「先生」は決して僕を疎まず、常に「学問」の大切さを切々と説いてくれた。講習そのものはもちろん大きな効用があったが、僕にとってはこの「先生」との対話こそが、それ以後今に至る大きな礎となったのである。

「凄い」と思った「先生」と対話すること
自らの稚拙な思考を「話す」ことで昇華させてくれる
ふと「先生」のことを書き記したが、ちょうどご命日にあたることに驚いた。


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