小学校での苦痛は変わらず
2018-07-19
「違う」「できない」「しない」同調圧力から抜けられない「空気」
生理現象までこらえる異常な集団主義が・・・
早生まれである僕は、幼稚園から小学校低学年まで至って集団行動が苦手な子どもだった。幼稚園で列を作って歩めば一人だけ意志にあらず逆へ進もうとする。トイレに行きたくなっても何らかの活動中は先生に言い出せず、幼稚園から帰る際に一人だけ制服でないズボン(その場合専用のパッチワーク付の特異な茶色をしたズボンを幼稚園が貸してくれた)を履いていることも頻繁であったと記憶する。小学校へ上がると給食の好き嫌いも多く、残したおかずをスプーンに1杯「これだけ」と無理矢理に口に入れられて、呑み込めずに家まで口内におかずが残存していたという記憶もある。2年生になっても、「掛け算九九をこれほど覚えられない子どもは見たことがない」といった趣旨のことを担任の先生に言わしめるほどの子どもであった。まったく「学校」は苦痛の場所であり、「我」などという自我も誇りもないような生き方をしていたように振り返ることができる。
現在「中等国語教育研究」という担当科目で学生たちの模擬授業を行なっているが、その教材に「逃げることはほんとうにひきょうか」(なだいなだ)をという中学校2年生教材を入れた。「学校」を始めとする社会で「逃げる」ことを「ひきょう」とする見方があるが、それは如何なものかと疑義を呈し苦痛ならば「逃げる」という選択肢があることをむしろ前向きに考えよ、という趣旨の文章である。まさしく日本人は「学校」にいる時から、「逃げる」ことができない同調圧力の中で生育してしまい、大人になっても「逃げることのできない」人々が多いのが現状ではないだろうか。僕自身の経験から言えば、小学校の中学年ぐらいになって、学級で勢力の強い連中に対して意識か無意識か「道化」を演ずるようになった。当時大流行していた「ザ・ドリフターズ」のネタをいざという時にガキ大将の前で敢行する。すると奴らは単純だから大いに喜び、僕をマスコットのように扱い出した。ある意味で巧妙な「逃げる」方策で自己を防御したのだ。その後、学級替えもあって小学校後半からは、足が速くなることと比例して学級委員にもなれるような存在に変容することができたのだ。ゆえに「ドリフ」は僕の恩人でもあり、「逃げる」ことは「ひきょう」であるはずもなく、修辞(レトリック)と演技(パフォーマンス)ではないかと思うようになった。いずれにしても自分の意志をどのような形でも訴えることは、生きる上で大切なことだ。
校外授業で「疲れた」と幾度も訴えた児童
「学校」は「逃げる」選択肢にもっともっと寛容であるべきでは
熱中症で亡くなった愛知の児童のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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