「もう1回よんで」知るにあらず体験にして
2018-07-05
絵本を読み語りした後の子ども既に知ったのに「もう1回」とはこれいかに?
「理解」したのではなく「体験」をしたゆえに
来週、大学近隣の小学校から「絵本読み語り講座」の講師として、お母様方からお招きをいただいた。「家庭教育講座」というPTA活動の一環であるらしく、夜の時間帯に実施される。どんな内容が求められるかと考え、いくつか参考文献を繰り始めた。中でも興味深かったのは「絵本セラピー」の実践である。絵本は子どものみならず、大人にも有効で社会で荒んだ心を癒してくれる効果があるという立場の考え方である。よくこうした「読み語り講座」に赴くと質問に、「絵本は何才ぐらいまで読めばよいのでしょう?」と問い掛けられることが多い。一般に「絵本」とは幼少の子どもが対象と思われているが、むしろ大人に読んだり読み合ったりすることも大変意味があるのだ。
「絵本の読み語り」に接することは、「知る(理解)」のではなく「体験」することだという考え方には共感した。学校の国語授業の多くが「知る(理解)」を一様に強制的に求めるがゆえに、学習者の意欲が失せる。僕自身が実践し研究してきた「朗読」「群読」の活動は、まさに「体験」するがゆえに大学生でも深く興じるのであろう。「国語」学習は「論理的思考」などという一見気の利いていそうな文言を標榜し、「もう2度と(読みたくない)」不毛な読書への意欲を喚起してしまっている。「絵本読み語り」の際に、子どもが「もう1回」と言うと、大人は「いま読んだでしょ」とご都合主義の返答しかしない。場合によると「昨日読んだ」「この前読んだ」とさらに童心の真意から遠ざかっていく。「絵本」は「説明」にあらず「体験」であるゆえ、夢のある素敵な音楽を何度も人が聴くのと同じなのである。
短歌も「説明」ではダメな理由がまた分かった
「読み聞かせ」の語感が持つ「理解させる」という強制
せめてまず「読み語り」講座と銘打ってここから講演を始めようと思う。
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