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古典の授業づくり再考

2018-06-30
中学校の古典教材授業
「現代の私たちの姿」で紹介する伝え合う活動
自らが主体的にどんな立ち位置であるかを対話的に捕捉すること

本学附属中学校にて公開授業研究会が開催された。日頃から共同研究を行なっている国語科の先生方が授業を公開し、その後に教科ごとの分科会にて事後検討会を実施する内容である。例年、僕自身は最後の「指導助言」にて全体の講評をさせていただいており、小欄に差し障りのない範囲でその覚書を記しておきたい。本年度は中学校2年生の古典教材『徒然草』における授業公開であった。抑も「古典」の授業とはどうあるべきなのだろうか?授業者の先生が反省を述べた際に開口一番、「古典の授業をご覧になりたかった先生方も多い中で、このような(生徒たちのプレゼン形式の)授業で申し訳ありません。」と語った。この弁がまさに、現況までの「古典教育」の典型的な悪弊ではないかと思われる。「古語の意味や文法知識をもって現代語訳をする」という教師自身の「古典」に対する授業の経験則が、「古典」授業のあり方を頑なに制約しているのではないかと思われる。「古典」読解を基礎に据えた「プレゼン」は、「外国人に日本文化の特徴を伝える」ことや、「文学を生きることにどう活用するか」という命題を具体的に叶える課題解決学習であろう。

本公開研究会のテーマでもある新指導要領で示された「主体的・対話的」とはどういうことか?学習者のみならず指導者も、教材そのものにも「主体的」な発動が求められ、相互に対話的な関係性を結ぶことでしか、そこに協働する者の「主体」は見えてこない。「自らの考え方の傾向」「教材との関係性」「指導者のよみと学習者個々のよみの相互の位置関係」などを相対的に捉えて、「自分自身」そのものを「もう一人の他者(自分)」として見つめる視点を持つ必要がある。本公開授業における古典を題材とした「プレゼン」」には、こうした「主体は対話関係なくして立ち上がらない」ことの課題を如実に語り出してくれた。プレゼンそのものに対して「5つの観点」から相互批判する活動は、英国の「リテラチャー・サークル」の活動にも類似する。「具体的に細かな指摘」をするためには、個々の学習者が精密に教材を読み込んでいる必要がある。またタブレット撮影した動画を自らも視聴し、その「自分」を他者視点から批評できるか否かが、大変重要な問題であろう。まさに「自分自身で修正できる力」こそが、今後の国語力としていかに重要であるかということである。

修正点を「3か条」に示し具体的なプレゼン改善へ向けて
「現代語訳」を活用して古典を学び理解のみならず表現すること
客観的な自己相対化の中にこそ、初めて「古典」が立ち上がるものである。


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学生に資するもの教育に資するもの

2018-06-29
講義内容と方法は常に振り返り
学生にとって意義深いもでありたい
「国語・国文学」の生きる道・・・

中高教員経験が長いゆえに、大学の担当講義においても常に自らの授業の振り返りへ意識が行ってしまう。学生たちにとって意義あるものとなっているのか?学生たちが現場教員になった際に、資するものとなっているのか?何より純粋に学生の興味関心を喚起しているのか?等々、常に自身の講義を客観視していたいと思う。宮崎大学に赴任してのこの5年間も、常にこうした意識を持ち授業改善を模索して来た毎日であった。特に「国語教育」担当として「授業法」を中心に担当しているわけであるから、自らの講義の「授業法」そのものが画期的で最新の方法論で展開したいという気持ちも大きかった。幸い学生授業評価では、学生の期待に応じた内容を展開できていたと自負できる。

今年度から「国文学」関係講義も担当することになった。自らの本道である研究分野を講義として展開できるのは、先日の放送大学が実に充実していたように嬉しいものである。だがやはり経験としては、約10年ほど前の非常勤講師として「国文学」を担当したものへと遡るわけで聊か心許ない。前任の先生の講義内容を引き継ぐ形で内容を設定したが、最近は果たしてそれでよかったのかと疑問に思うことも多い。それは前任の先生の専門分野である物語文学については、如何にしてもそれを超えることはできないからである。もちろん「文学史」などは、和歌を中心に展開することで描くことのできる上中古文学ゆえに、納得した内容が展開できている。それは『伊勢物語』を扱う講義も同じである。要するに何事も意志のない「二番煎じ」は、活気づいたものにはならないのである。果たして教員となる学生たちに資するものとなっているか?自分の研究の価値を踏まえて、今一度検証し直そうかと思う。

「教育学部」における「国文学」の意義
「文学部」で自らが受けた経験則のみではいけない
改めようと思ったらすぐに改めるのが学生のためである。


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喩えようのない懐かしさー桑田佳祐さんの「しゃがれ声」

2018-06-28
いつか聴いたような懐かしさ
歌詞内容が個人の経験の中に立ち上がり
あのしゃがれ声もどこかで聴いたような・・・

サザンオールスターズ40年ライブの興奮冷めやらぬ朝。ライブ後にはサザンファンとしてともに歩んで来た、同世代の一番の親友からメッセージが来た。そこには「いとしのエリーで泣きました」と記されてあり、僕自身も同次元で「泣いた」ことを返信した。事実、このライブで名曲「いとしのエリー」はあっさり前半のセットリストに入っており、イントロが流れた瞬間は「もう?」という感情に支配された。だがそれには理由があって、ライブ進行上まだ十分に余裕があるうちに、桑田さんがこの曲を熱唱するためだとすぐにわかった。もちろん、ライブ冒頭にデビュー当時の曲が並べられたという理由もあろう。だが「サビ」の部分のバラードながらの渾身の力を込めた歌い方は、明らかに桑田さんのこの曲への思い入れが溢れており、ファンとして感涙せずにはいられなかったのである。

一夜明けたこの日の講義は1限から、まだ興奮が身体内で鼓動を打っている。開口一番、「ややしゃがれ声で聞き苦しいのをご勘弁」と愛嬌を学生たちに述べた。中高教員時代から授業でいくら喋っても、喉に支障を来たすことはない。実際に一般的に見たら、「しゃがれ声」とは言えない程なのである。くり返すが、あくまでこれは「愛嬌」である。その理由として、「しゃがれ声」は桑田さんのトレードマークでもある。そんな声こそが人の心に浸透する”ビブラート”を持っているという逆説的な魅力を、学生たちに伝えてみたかったからだ。昨年、ある雑誌で「桑田佳祐特集」が組まれた際の記事にあったが、声紋判定をするとあの微妙な「しゃがれ具合」こそが桑田さんの個性であるという趣旨の分析があった。その声は、どこか郷愁を感じさせ江ノ島の古びた「おでん屋」のような懐かしを感じさせる。桑田さんの中には、声のみならず歌い方・作曲するメロディー・歌詞とともに、多くの人が懐かしさを覚える要素が多様に満載されているように思う。

話に徹底的に注目させるには
「喉(声)がおかしい」と冒頭に述べるという方法
詩歌の文学性に限りなく同次元のサザン・桑田佳祐の楽曲が大好きだ!



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いとしのサザンオールスターズ40周年ーライブビューイング

2018-06-27
人生そのものを語り出す楽曲
多彩な旋律と知性と皮肉に満ちた歌詞
今までもこれからも愛しのサザンオールスターズ

6月25日でデビュー40周年を迎えたサザンオールスターズ。ひとえに40年間常にJPOPの音楽シーンのトップを走り続けてきたバンドとして、あまりにも偉大である。同時に僕自身が当事者であるが、ファンの人生そのものに寄り添い、恋愛も故郷も海も社会生活も様々な面での現在・過去・未来を浮き彫りにし、再燃させ、予見する存在なのである。今回は40周年の記念ライブとしての位置付けが強く、会場は東京のNHKホールで過去の紅白での出場の様子や敢えて社会的な風刺さえも含み込むようなライブであった。会場の収容人数は約「3800人」、恐れながら僕自身もチケット抽選にエントリーして所謂ひとり”弾丸ツアー”を催行しようと思っていたが、あえなくはずれ。だが、今回は全国の映画館で総動員7万人というライブビューイングが開催された。メンバーのドラマー・松田弘さんの故郷・宮崎にしてサザン40周年をともに祝うことができたのだ。

ファンとしてはライブごとに「1曲目は何か?」と予想することに精神のたまらない悦楽を覚えるのだが、今回は「茅ヶ崎に背を向けて」というファーストアルバム「熱い胸さわぎ」に入っている、比較的コアなファン好みの曲。「本当に今までありがとね」という曲の歌い出しで、もう「やられた」となり、桑田さんお得意の替え歌詞が炸裂し40周年においてバンドと7万人以上のファンを数分間で一体化させてしまった。その後「女呼んでブギ」が続き、さらには「汚れた台所(キッチン)」この曲を画面の歌詞とライブの桑田さんの声で味わい直した時、96年のアルバム「Young Love」に収載されている曲ながら、恐ろしいほどに現在の世相を映し出す皮肉が込められており、あらためてサザンの曲は歌詞カードを使用し時代を超えて再読する必要を感じさせてくれた。さらにはもちろん「いとしのエリー」も、その時、時空を超えた「いとし」の感情に支配され感涙とともに、生きている幸せさえが心の奥に巣食った。まだまだ書き尽くすことはできないが、今日はここらあたりで。

歌詞の言葉の奥深き鮮烈さ
サザンとともに人生が歩めて本当によかった!
そしてまたこの後どこまでも、サザンはいとしきサザンであり続けて欲しいものだ。


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高揚のおさまるのちにご用心

2018-06-26
休日なしも疲労なし
と思いきや講義ののちに
されど知性ある対処法を・・・

85分講義を4コマ連続×2日間をやり遂げた翌朝、それほどの疲労も感じずに調子はよかった。夏季休暇中に実施される「教員免許更新講習」もほぼ同様の容量で、体力的にも感覚的にも手慣れたものであるという自負はある。とりわけ今回の内容は「国文学」で、しかも自らの好きな和歌・短歌を縦横無尽に教材とした内容であったゆえ、精神的な充実度が極めて高かったといえるであろう。ところがこの月曜日の午後、担当科目の「国文学講義」で『伊勢物語』の講読を終えて研究室に戻ると、言葉にならない疲労感に襲われた。『伊勢』の内容が「第六十九段・狩の使」であったこともあり、自分自身が入れ込むことも一因であったろう。まさに疲労とは、後から追いかけるようにやって来るものだと実感をした。

こういう折には、いかに回復させるか?何も意識しないよりも、対処できる知性を持ちたいと日頃から思う。まずは栄養補給として豚肉を食するのが効果的であると、この数年でわかった。馴染みの洋食屋さんで、「ポークステーキ」を惜しげもなくいただく。不思議と食べている最中から力が蘇って来る感覚があるのは、動物的な本能の覚醒かと思うこともある。その後は恒例、近所の公共温泉へ、通常の水道水では考えられない疲労回復効果がある。とりわけ源泉掛け流しの32度ほどの「ぬるま湯」に15分以上浸かっていると、疲労感は次第に飛んでいく。馴染みの方々とW杯について聞いたような放談に興ずれば、自ずから笑顔になって来るものだ。自分の身体というものは、自分で管理・制御できる範囲がある。「生活習慣病」という名称はそれを如実に物語る。「病は気から」ではなく、「病は生活から」と自身を深く洞察できる知性を持ちたい。

そして10時過ぎには就寝
成長ホルモンの一番分泌される時間帯
何事も効果的なのは「気持ち」ではなく「理性」である。


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牧水から古典和歌への旅ー放送大学対面講義(2)

2018-06-25
素性・業平から万葉集へ
牧水がこだわった万葉の音読
そして和歌・短歌の社会的価値とは・・・

放送大学対面講義2日目。梅雨ながら晴れわたる日向の街、起床してすぐに牧水生家のある東郷町方面の山並みを眺む。やや雲がかかりつつ明るい光がきらめき、牧水先生の息吹が伝わってくるような感慨に耽る。ホテルの窓から流れ込む新鮮な空気、自然そのものに同化している自らを発見し、けふもまた講義準備を整える。昨日に引き続き、『古今集』前後からはじめさらに『万葉集』へとつづく旅。その道すがら、和歌・短歌とはいかに人間社会と関わって来たかを考えていく。素性の歌によめる「女装」の詠法、業平には物語主人公としての演技・演出があってこそ勅撰集に収載される歌となる構造をみる。『古今集』仮名序にある「天地(あめつち)を動かし」「目に見えぬ鬼神をあはれと思はせ」「男女の仲をも和らげ」る歌の効用は、現在の社会にも生きているはずである。

牧水の近現代短歌史における位置付けや古典和歌の表現・効用を講じたのち、午後の一番には「和歌・短歌の社会的価値」について講義内レポートを書いてもらった。人文学軽視の波を中央が起こしている矛盾した社会で、果たして豊かな国家と言えるのであろうか?平安朝和歌の世界観は、21世紀に生きる我々にも大きな警鐘を突きつける。その後は『万葉集』の代表歌を抄出した資料に基づき、歌を音読しながら解説をつけて進める。長歌を中心に響く五七調の韻律、受講者の方々もかなり馴染んできた。万葉の力強さには、歌に前向きに接する意欲が湧いてくる。牧水が万葉の音読をしていたことは、資料の上で明らかである。自らの破調歌に嫌気がさした際には、この万葉の歌を上手く音読さえできなかったとさえ書き記している。また歌ができない時の対処法として、「散歩」「音読」「風呂」を挙げたのちに、最後に「酒」を挙げているあたりの意地らしさに、牧水の純情が見えると受講者とともに感得する時間を共有し講義はお開きとなった。

最後には受講者からの拍手もいただき
教師冥利につきる2日間に
「学ぶ」ことの尊さをあらためて感じる時間となった。


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牧水から古典和歌への旅ー放送大学対面講義(1)

2018-06-24
五七調の力動性
「あくがれ」の思想
近現代短歌に声の文化と古典性を展開した牧水

この週末の休日を利用し、放送大学宮崎学習センター対面講義の非常勤講師。題して「若山牧水から古典和歌への旅」とし、85分を2日間で8コマ担当する。初日は、(1)牧水短歌の力動性、(2)近現代短歌史における牧水、(3)「あくがれて行く」古典和歌へー西行・和泉式部、(4)『古今和歌集』の表現方法ー素性・業平ーという4時間構成とした。やや激しい雨で、交通状況も心配されたが、受講生の方々は熱心に教室まで通ってこられた。宮崎県内の方のみならず、九州各地及び遠い方は三重県からなど、講義テーマを求めて遥々来ていただいたことには頭が下がる思いである。年齢や規定通りの学歴を問わず、「学ぶ」という意欲を持つということが、人としていかに大切かにあらためて気づかされる。

講義冒頭では、牧水の「白鳥は哀しからずや」「けふもまた心の鉦を」「幾山河越えさり行かば」の三首において、どの歌が一番好きか挙手で投票をしてみた。偏ることなく三首それぞんれの好みがあって、さすがに牧水の代表作三首である。お昼まで講義をしたのちに、好きな理由もレポートしてもらったが、それぞれに自分の思いを起ち上げて読むコメントは若い学生にはない人生の深みが感じられた。また「白鳥」の歌などは、多くの方が中高時代に教科書で読んでいるわけだが、その経験をあらためていま再読する意義が大きいということを感じさせた。中高時代の学習というのは、あくまで人生の「種蒔き」であって、その時点ですべてを「わからせよう」というのは教師の傲慢であることを考えさせられる。それにしても好きな短歌・和歌を素材にして語る講義はあっという間である。受講者ともども「心の鉦」の響き渡る時間が貴重であった。

夜は日向市の親友夫妻と会食
馴染みのお店で「へべすうどん」
牧水の生誕地で講義が担当できる幸せ


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「答え」のみの表層的思考はいかに?

2018-06-23
「説明」ではなく単発な「答え」
さらには具体的な理由を添えて提供する思考
人に伝わる内容にするために・・・・・

担当の「国文学史1」にて、『土佐日記』冒頭の一文を高校生にわかりやすく説明する、という命題を設け、個人思考から班別で話し合った後に発表するという内容を実施した。発表の観点は3つで、(1)文法(2)解釈(3)文学史的位置付である。(1)文法の説明をすべての班が終えたところで、「やはり」という気づきを僕自身はもった。それは「なり」という助動詞の意味だけを「答え」のように提示する発表がすべて班から行われたのである。「なぜ、前者が伝聞で後者が断定であるか?」というまさに一番説明したい要素がすっぽりと抜けてしまっている。「答え」だけが核心的に存在し、それがわかれば理由などどうでもよい、というような社会的風潮が彼らの思考に被さっているのを僕は実感した。

何より高等学校での学習そのものが、「答え」のみを導く「センター試験対策」に陥っていないだろうか?僕自身が高校教員時代から聊かは感じていた懸念が、今や高校生全般に蔓延しているのだろうか。またゼミ生の記す研究課題を400字程度でまとめた文章なども、実に単発的で語彙の内実に具体がなく、空虚に物事の関連性の薄い文章であることも大いに気になる。断片的な知識のみが意義を知らされず詰め込まれているようで、その思考を「大学教育」が変革させなければならないと常に思う。否、その「大学教育」でさえも、知識の切り売りに終始する場合も少なからず散見されると、この国の「先生」と名乗る人々の学力観やいかにという思いに至る。少なくとも短歌で目を引くものは、内実や具体、物語や想像、比喩の構造など、表面的ではないよみを求めるものである。「思考」は「言葉」に司られる、とはまさにこういうことであろう。

表層的な学習のあり方
質にこだわってどう意識をもつか
知性ある学びをあらゆる方面で喚起しなければなるまい。


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「椅子」の表現するものー宮崎大学短歌会6月歌会(その2)

2018-06-22
家族の存在感
恋人との語らいの場
どんな場にどんな椅子があるかによって

宮崎大学短歌会の今月2度目の月例歌会を開催。題詠は、家具類から発想して選び「椅子」であった。出詠歌をよむとあらためて「椅子」の様々な意味が顕ちあらわれ、家具の中でも人にとって重要なものであることが実感できた。家庭の中での「椅子」を考えても、いつもそこに座っている家族がいて、その光景が家族内で定番化し脳裏に焼き付いていることはよくあることだ。そうなれば「椅子」を見ただけで家族の顔が思い出される心が醸成され、自ずと「思い出」として印象深いものとなる。家屋の中でも決まった位置に決まった家族が座る椅子、それはまさに「魂」そのものが鎮座しているかのような”生きた家具”となる。

ひとえに「椅子」といっても、様々なタイプがあることを再認識した。「長椅子」「回転イス」「トムソン椅子」等々、また電車内・学校内・公園・公道等々、置かれている場所によっても、様々な表情を見せてくれる。さらには「社長の椅子」などと「(社会的)ポスト」を表現する場合もあり、人生の中においてどの種の「椅子」に座るかと問えば「職業」や「生き方」を表象する場合もある。僕自身はある時期から、徹底して椅子にこだわるようになった。現職教員として働きながら研究を再開し博士後期課程に進んだ頃であろうか。「椅子」の座り心地が、研究の進捗具合を左右しているように思えるようになった。その時はきっと、「研究」という「生き方」に本気になった時だったのであろう。

日々の命を預けている「椅子」
自分の身体が刻み込まれるほどの愛着が欲しい
短歌の「素材」として誠に深いものがあった。


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今年もまた痛き雨の季節が

2018-06-21
降りしきる雨・雨・雨
寝床に雨音が届くこの頃
ワイパーで視界をかき分け進む車よ

梅雨入りしてからしばらくは雨と晴れ間が交互に来たりして、今年は楽かと思っていた。だがやはり梅雨前線が停滞する状況となり、1週間の予報にすべて傘マークが並ぶ。南国の雨は時に強く降りしきり、車から出て建物まで歩くわずかな時間にも服を激しく濡らしてしまうほどである。自宅や大学は高台に立地しているのだが、それでもなお道路がかなりの水を冠することもあり注意が必要となる。そんな夏季の意識を覚醒させた激しき雨音、何ものかによって押し出されはみ出したかのように人間に自己主張をしているかのようだ。

雨そのものもさることながら、この湿度との闘いがまた難儀である。W杯日韓大会の折には多くの出場国の選手が湿度対策をとったというが、我々にとって当たり前の湿度は身体にも大きな影響を及ぼす。僕自身の感覚からすると、通常の乾季よりも明らかに筋肉が硬直しやすい。筋トレなどをした後には、相当時間のストレッチが必要となる。今年は思いついてフィットネスローラーを購入、脚や背中の筋肉を対象に凹凸のついたローラーの表面を転がし筋肉をほぐす代物だ。ツボに嵌るとかなりの痛みを覚えつつ、身体をほぐす作用に助けられている。

動植物たちは夏に向けて動きも盛ん
自宅駐車場には蛙の姿もみられた
こうした意識を持つのも、心身が自然そのものになりたいという欲望なのか。

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