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冷静・慎重は謙虚なこころから

2018-02-28
冷静に物事に対応すること
慎重に大局・小局を見極めること
いずれも自らが謙虚であらねばならない

幼少の頃から比較的、冷静で慎重な性格であると人から言われることが多かった。中学校で野球部だった際は、今でも大親友の主将が何事も先導して前進するタイプだったので、副主将としてその「手綱を締める」役回りであると担任の先生から評されていたのを思い出す。教員になった初任校でも、周囲の同僚からは生徒対応などで「なぜいつも冷静でいられるのか?」と言われることもしばしばであった。生徒たちに向き合う際は、感情的になることが一番いけないことだという信条があったゆえかもしれない。だが、冷静と慎重ばかりでは人生は前に進めないこともある。それを悟りはじめた頃には、信念を芯に据えつつ無謀にも研究者の道をひた走った時期もあった。

冷静・慎重はどんなこころが生み出しているのか?などと考えた。それまさしく、”謙虚さ”に他ならない。研究を重ねるにも、「謙虚」でなければ物事は見えて来ない。研究者となって大学専任教員となったからこそ、「謙虚でありたい」とも常々思っている。だが知らず知らずのうちに、むしろ自らの信念を強く持てば持つほど、”謙虚さ”を無自覚に失う危うさがあるようにも思う。自らの主張・主義を持たなければ研究もままならないが、あまりに自らのそれに溺れていることが見えないときがある。そんな際の「冷静・慎重なつもり」が、誠に危うい方向に物事を運ぶことがある。そこでこそ、あらためて「謙虚」を強く噛み締めねばなるまい。

天は地はすべてお見通しである
「謙虚さ」とは何か?と問い正してくる
さらに冷静に慎重に前に進むためにも・・・


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身体が欲する声を聞くために

2018-02-27
身体が欲している栄養は?
それを知るために必要な空腹
「節食」と「摂食」の微妙な関係を読む

五輪に関する報道を観ていて、ジャンプの葛西紀明選手が徹底した身体トレーニングを施し年齢の壁を乗り越えようとしているのを知った。その際に例として挙げられた他の競技選手として、イチロー選手や三浦カズ選手などがあった。考えてみれば、いずれも僕自身が尊敬しているスポーツ選手であった。避けがたい加齢による衰えも、方法次第で抗することができるのだ。この類のいずれの選手の特徴も下半身を鍛え抜くことと、食事への配慮であるように受け止められた。下半身の鍛錬によって活動性を落とさず基礎代謝も高く保ち、その結果全身の体脂肪率も一桁台を維持している。ひと頃、これを見習って「一桁台」を目指してみたが、10%までが限界で1桁台を記録するのは困難であることを実感した。

葛西選手の話題に戻ると、1週間に1度は「小さな断食」を行なっていると云う。前述の体脂肪率の話題でもそうだが、あくまでアスリートが「プロ」として敢行することであるから鵜呑みにするのは危険であるのは承知の上、一理あるとも思った。胃腸を空にして本当に身体が栄養を欲しているかの声を聞くことが大切であると、最近思ったゆえである。「3食を規則正しく」が健康の常道のように喧伝されることも多いが、果たして「3食」の歴史はどれほど妥当なのかと疑うこともある。食後の止むにやまぬ眠さを調整するのも仕事の効率を考えると重要な問題である。そのような意味で、僕も集中して仕事がしたい折は昼食を抜くことがある。その状態で夕方になると身体が栄養を欲している声が聞こえてくる。知人で半期に1度ぐらいの小さな断食を敢行している方がいるが、「断食」とはいっても「野菜果物ジュース」は飲むのだそうだ。胃腸にも時折の休息が必要であるというのは道理のように思うが、いかがであろうか。

欲するから食す
原始からの基本原理ではないのか
「満腹」そのものが「近現代的概念」であることを、もう少し調べてみたくもなった。


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「人は正しさに説得されない」ー底まで行った人に

2018-02-26
石牟礼道子さんの追悼番組にて
高橋源一郎さんの弁から
短歌でも学校でも生きる上でも・・・

石牟礼道子さんの訃報に様々な思いを抱いていたが、小欄でなかなか取り上げることができないでいた。ちょうど宮崎に赴任する前の夏のこと、福岡空港から三池・長崎・天草・水俣・吉野ヶ里・大宰府といったツアーを懇意にする大学教授らと周遊した。なかでも水俣では「水俣病センター相思社」に宿泊し、市内の各所を訪問しまさに現場を体験した思いであった。それ以前に同行した教授の企画で、石牟礼道子さんの『苦海浄土』の朗読などを聞く機会もあり、作品として自分なりに受け止めてもいた。その文体で描かれた世界観とともに、水俣での現実を見聞するフィールドワークが巧妙に重なり、ある種数奇な文学体験をした経験となった。この時の九州ツアーによって、僕自身は「九州の神」と相思相愛になったようにも思っている。

休日業務の出勤前、TVでは石牟礼道子さんの追悼番組を放映していた。彼女の作品を日本から唯一「世界文学」に選定した池澤夏樹さんや、高橋源一郎さんがコメントを寄せていた。その中で高橋さんが次のような趣旨のことを語った。「人は正しさに説得されない。底まで行った人に説得される。」と云う、実に的を射た文学評である。これは短歌を創っていてもまったく同じことに気づかされる。詳細に意味を詰め込みすぎて「(正しく)説明」した短歌は、まったく説得力がない。なかなか凡人は「底まで行く」ことはできないが、そこに文学の機微があろう。また学校の国語の授業で扱う「説明文」は、正直言ってつまらない。「論理的思考」などという欺瞞で覆い隠しその学習内容が増量される傾向にあるが、それで学習者は決して「論理的」にはなれない。また石牟礼さんの文学からは「音」によって説得されるという音楽家や翻訳家の弁も、番組では紹介されていた。文体のもつ「音」、これまた短歌と共通する要素だ。人の中に「落ちる」ためには「意味」よりも「音」の要素が大切なのである。

「正しさ」だけを振り翳す学校
「音読」も「作文」も「読解」も「正しく」なければならない
ゆえに「国語」には説得されないということを、石牟礼文学は教えてくれるのである。


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ジムの仲間たちと語り合い

2018-02-25
スタジオプログラムに参加の仲間たち
久しぶりに懇親会を開いてくれた
身体を鍛える仲間たちとの四方山話

トレーニングを日常化してから、既に10年ほどが経過した。大学時代の後半にジムに入ったのが最初であるが、その後は初任校に立派なマシンジムやプールがあったので仕事を終えると生徒の使用後の施設で汗を流すこともあった。30代で大学院生と現職教員の二足の草鞋を履いた際には、さすがにトレーニングをする習慣が絶えたが、その際はやはり激しい肩凝りなどに見舞われた記憶がある。「現在の生活習慣が10年後の身体を決める」という信念を持つようになって、まさに「今」があるということになる。宮崎に来てからも、大変充実したトレーニング環境に身を置いているように思う。自家用車で片道25分ほどは要するが、あまり混雑もしておらず会員の方々も穏やかな人たちが多い。

決まった時間の決まったスタジオプログラムにいつも入っている人たちがいて、次第に仲間意識が湧いてくる。入会当初から友人となった方が音頭をとって、この日は懇親会が催された。7名ほどの少人数ではあったが、それだけに楽しい時間になった。鍋料理を囲んで様々な職種の人たちが、自由奔放に語り合う。トレーニングや健康への意識が高いという意味で、共通項も多く発見できる。とりわけ宮崎では、ランニング・トレイル・トライアスロンなどに挑む人たちも多く、自然の環境と自らの身体を親和させるような感覚でトレーニングに励んでいる人が多いように思われる。かといって自分がランニングなどをするかというと、別問題だと決め込んでいるが、あくまで個人の趣旨に沿ったトレーニングをすることも大切である。

山登りや温泉の案も
身体を鍛えようという意志ある仲間
宮崎生活5年間の成果はこんなところにもあったのだ。


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五輪で常に抱く巷間・メディアへの違和感

2018-02-24
メダル「ラッシュ」「量産」「獲得数」
「圧巻」「一つになる」「身体を張る」
純粋にその競技の機微を楽しんでいてはいけないかのような・・・

冬季五輪も大詰めを迎えているが、諸々の忙しさに任せて取り立ててTV観戦することもなく、ニュース映像でダイジェスト的に見る程度である。ちょうど夏季北京五輪のときだったか、期間中に研究のため米国に滞在していたが、巷間もTV報道も大々的には五輪を扱っておらず、MLBなどの結果が優先されるあり方に自らの「五輪観」が揺さぶられた覚えがある。X’masのLosに滞在した折は、あまりの街の静かさにやはり同じような感覚に至ったこともあった。多くの人々は自宅で家族とともに閑かに聖夜を過ごすのである。それにひき比べ我が国では、何かと「国民的」という語彙を好み、個人個人の趣向を抜きにスポーツイベントなどで舞い上がる。また2月14日・3月14日・10月31日・12月24日に連なる「総動員」的な動きというのには、以前からかなりな違和感を覚えていた。もちろん「一個人」として、参入しなければよいだけなのであるが。その違和感が、こうした五輪報道を観ている際に必ず頭を擡げてくるのである。冒頭に記したような様々なアナウンス語彙そのものにも、ついつい違和感ばかりを覚えてしまう。

羽生結弦さんの演技をニュース映像で観た際に、牧水の「白鳥は・・・」の歌と重なった。(コスチュームも「白」に「青」が一部施されていた)先日の対談でも一部語ったことだが、怪我を克服してしなやかにのびやかに舞う姿は、まさに「染まずただよふ」であった。怪我後にあまり公に姿を現さなかったことは、前述したメディアの喧騒から逃れるためかもしれない。その姿勢も「染まずただよふ」だと思うのだ。選手とて自分なりに納得した競技をするためには、世間から「あくがれる」必要があることを物語っているように思う。メディアの理性なき喧伝で前評判による重圧から、本来の競技ができなかった選手も多いように思われる。「メダル」などという「結果」よりも、その競技がいかに美しいか、いかに相反する身体機能を発揮しているか、諸条件に適合していかに自分なりに競技に臨んでいるか、そんな機微を観戦者として自分の経験を立ち上げて楽しみたいと思っている。カーリングなどを観ると、その神経戦の微妙さが論文や評論における論の攻め方・守り方と類似した感覚になったりして、個人的に大変興味が湧いてくる。ハーフタイムに「もぐもぐタイム」などとメディアが喧伝する果物を食する選手たちを観て、脳をかなり消耗しているのではと仲間のような意識になってきたりもする。論文など作成時に味わう果物やチョコは脳への栄養補給として格別である。こんな自分を立ち上げた観戦があってもいいはずだ。

「叫ぶ」ことなく何がどのように「凄い」かを語れ
他国選手の健闘ぶりを讃える姿勢よあれ
むしろ「昭和」の方が長けていた世界観をどうしたらよいのだろうか?


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授業の演じ手は誰であるか?

2018-02-23
「教師が創る」授業
舞台を観せ学習者は鑑賞者なのか
学習者そのものが演じ手となる授業を考える・・・

凡そこの30年間において、「授業」「講義」に関する概念は大きく変化した。僕自身が初任者教員であった頃も、ともかく50分間(中高)の「授業」を舞台で演じ手として教師が主役で展開することを疑いもしなかった。それだけに様々な演出・舞台装置(仕掛け)・演じ分けなども考慮して、「授業創り」に勤しんでいた記憶がある。たぶん同僚の他教科の授業を覗いてもそれは同様で、「教師主導の一斉教授法」がほとんどであった。こうした意味では座学ではない芸術・体育や家庭においては実技中心の授業であり、生徒たちにとっても息抜きになっていたようにも思う。座学の教員からすると体育などは、「ゲーム(ある競技の)」をやらせるばかりで教師が演じることも少なく、準備が不要で楽な印象を受けたものだ。だが実技科目であっても、意識が高い教員であれば、むしろ様々に演出を施して学習者主体の授業を構成していたようにも思う。

喩えて述べるならば、さながらTVを観るかのような感覚で「授業」が展開される。ほとんど教員が喋っていて、学習者は「静かに聞く」ことが義務付けられている。中学校以上であれば「専科生」であるゆえ、同学年で複数学級の科目を担当していれば同じ授業を複数回実践するわけで、それを「再放送」と呼んでいる安易な教員も同僚にいた。だが僕自身は「同じ授業」であっても学級によって違ってしまうと思っていたので、その教員を「安易」と考えていたのであろう。板書の内容なども学習者の発言によって変化するので学級ごとに違うこともあり、「再放送」に慣らされた学習者からは学級ごとの板書を統一して欲しいと抗議を受けたこともある。そうでないと学習者は試験で不安であったのだろう。だがしかし、それで左右される試験問題を所詮僕は作成していなかった。古典の現代語訳や英文の日本語訳などを、「授業(で教えた)通り」に寸分も違わず書かないと「正解」にしない教員の存在などを担任学級の生徒を通じて知り、「再放送」を要求する生徒も無理はないと悟ったこともあった。だがその頃から思っていた僕の意識が、間違っていなかったことがようやく最近、一般的な通念になったということだろう。

演じ手は学習者である
教員は演出を施し気付きを支援する
今尚「一人芝居」を「再放送」している教員もいないわけではないのだが・・・


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身体は10年前に支えられている

2018-02-22
身体づくりのジムの時間
丹念に続けるということ
10年前に支えられ10年後の自らのために・・・

「現在の生活習慣」が10年後に大きく反映する、という話を聞いたことがある。「習慣」とは恐ろしいもので、知らぬうちに自らの身体を蝕みもしたり、しなやかに保つこともする。ちょうど10年前頃には、サプリメントを始めたり食生活に気をつけたり休肝日は必ず設けることを意識的に始めた。そしてジムへと習慣的に通うことも継続してきた。時折、研究や実務で時間がないとジムへ行く時間が無駄ではないかなどと考えることもあるが、週に3回ほどのトレーニングは励行している。もちろん脳の活性化という意味でもトレーニングは有効で、ここのところヨガなど身体を柔軟に保つ種目を必ず週に1回は取り入れるようにもした。柔軟性を失うことは、10年後において大変怖いことになりそうだと実感するゆえである。

10年前の自分と今ではあまり変わりないようにも思うが、たぶん横並びで比較すればあれこれと変化があるのだろう。また10年後の自分を予見することも難しいが、でき得るならば今と変わらないことを願わないではない。人間ドッグでの血液検査の数値なども、直近数ヶ月ぐらいの生活習慣が反映しているようで自らを見直す材料となる。30代で荒れた食生活をした際には、中性脂肪値が高くなったが、その後の心がけ次第で今は高値になることもない。もしあの頃、改善へと生活習慣を見直していなかったならば、今頃は大変なことになっていたかもしれない。人生では、節目で「契機」だと自覚したら行動を変えて行くことが求められる。身体組成年齢が29歳であったのも、これまで10年間の明らかな成果である。

ローマは1日にしてならず
日々の習慣を定点で見直す眼を持つ
10年前と10年後の自分のためにも


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地域の図書を集めます

2018-02-21
そこにしかない品揃え
そんなお店に魅力を覚えるように
図書館も「グローカル」なコーナを新設

附属図書館運営委員となって、この3月で丸3年となる。この間、「ラーニングコモンズ」の新設や使用方法、「学生サポーター」の新設や活動、そして図書館の配架を含めたレイアウトの再考などに関わってきた。単に図書を利用して「静かに勉強する場所」から、「話し合い動き合い創造する場所」への転換がいま、大学図書館には求められている。そうした意味で先進の施設運営をしている大学へ赴いたり、国立大学図書館協会のシンポジウムなどにも出張させてもらってきた。館長や副館長とともに動いてきた甲斐もあってだいぶそのような改革も形になってきたが、いま少し具体的に現実にできることがあるのではないかと思っているところであった。

そんな折、図書館事務職員の方々からのお声掛けで、1階に「地域の図書」コーナーを新設し併せて留学生向きの図書をまとめて展示し、カフェスタイルで閲覧できる空間を創る提案がなされた。その場にどのような図書を置くべきかという点で、僕と歴史を専門とする先生とが相談にのることになった。「地域学」というと未だ学問分野では馴染みが薄いが、「地方創生」や「地域の活性化」などの号令に伴って、最近勃興してきた分野・用語である。本学にも「地域資源創生学部」ができて2年目となるが、地方国立大学が担う大きな使命の一つとも言えるであろう。新分野というのは多様な捉え方が可能なので、「地域学」というカテゴリーに囚われるよりも、「みやざき」そのものをコンセプトにして、柔軟に図書を揃える方がよいのではないかという方向に話は進んだ。

もちろんまずは「短歌県」として「牧水」関連図書
そして2020年国民文化祭へ向けて「神話と食」
歴史・産業・自然などと図書を通じて新たな発想が生まれる空間にすべく。


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大学で学ぶ意味をもう一度

2018-02-20
講座専攻卒業論文発表会
4年間での学びとは何か?
私情に流れず客観的立場から冷静な批評ができること

学部国語教育講座の卒論発表会を開催。4年生たちが自らの卒論の内容を、ポスターセッション方式で発表した。研究室によって様々な個性はあるが、基本的な問題意識として「ことばとは?」「文学とは?」という視点から様々な方法で思考が展開している。昨今、諸大学では「卒論」そのものが無くしたり、簡易なものにしてしまっている向きを聞くこともあるが、やはり大学での学びをここでまとめる意義は計り知れないと思っている。会の最後に所属教員として総評が求められたが、在学生を含めて「大学で学ぶ意味は何か?」と問うてみた。資格なり小手先の技術や話術を身につける狭量な意識で学ぶ場所ではないことを、まずは念頭に置いてもらいたいという願いを込めての訴えである。

「感動」「共感」「嫌悪」「憎悪」人は生きていれば様々に正負の感情を抱く。それをそのまま「感動した」「共感した」と言うのはあまりにも短絡的だ。また客観的度量が必要な折に、「嫌悪」「憎悪」の感情に左右された言動しかできなければ、組織や社会に歪みを生じさせる元凶となる。「批評」という立場は、なかなか高校までの教育で育むことは難しい。センター試験を始めとする大学入試を考えた時、「批評的思考」をすればむしろ混乱する可能性があるからだろう。また「教育」そのものも「素直」「従順」をよしとして、「疑問視」する言動を封鎖する傾向も否めない。だが大学生は、ましてや社会人としての教師は違う。児童・生徒を常に客観的に向き合う責務がある。その社会的「批評」の上に、「普遍性とは何か?」という問いもある。「白鳥は哀しからずや・・・」あなたは児童・生徒の前で批評的にわかるように語れるのか?ということである。

個々を尊重するとはいかなることか?
言語でも文学でも社会的営為にしても、向こう側に人がいるということ
その分け隔てから逃れられない宿命を、冷静にわきまえているかどうかということである。


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若者たちよ!いざ牧水を語ろうー牧水没後90年企画

2018-02-19
県立図書館・大学附属図書館・牧水研究会 共催
若山牧水記念文学館 後援
牧水没後90年企画

今年は牧水没後90年にあたる。昨年暮れの牧水研究会で、「若者たちが牧水をどう読むか聞きたい」という発案があり、会長の伊藤一彦先生が県立図書館名誉館長であることと、僕が大学附属図書館運営委員であることから、三者の地域連携企画をしようということになりこの日を迎えた。プログラムは冒頭に伊藤一彦先生と僕の30分の対談から。今年の角川短歌新年号の「75人歌人競詠」に与えられた「世界で一番有名な歌」という題を契機に牧水歌の普遍性について語り合った。牧水の著名な「白鳥は哀しからずや・・・」の歌は芥川龍之介の『羅生門』とともに高校の全教科書に掲載されている「有名な歌」と伊藤先生が角川に記したコメント。この『角川短歌』には他にも4人の歌人の方々が、「白鳥」の歌を取り上げているのも特筆すべきことであろう。いずれも近現代短歌として牧水歌が新たなる普遍性・愛誦性を抱え込んでいるという点が、その理由ということになろう。先日、牧水賞を受賞された三枝浩樹さんも「精神と純潔、孤独と宥和を未分化のまま抱え込んでいる」と「白鳥」の歌の普遍性に言及している。また牧水歌が人の発する声を元に創られているゆえの愛誦性という点も大きく、文字依存の狭量な視野に陥っている現代の我々に「力動性」を持って警鐘を鳴らす普遍性がある点も評価できる。人生を語るのびやかさ・しなやかさという抒情の構造と関連させ、牧水歌の韻律性という点は今年没後90年を契機に新たに焦点を当てるべき論点であろう。

さてここからが重要で、宮崎大学の学生たち4名を交えての「いざ牧水を語ろう」となった。「牧水と私」という自己紹介に始まり、「牧水と恋」「牧水と故郷」「牧水と色彩」「牧水と作歌」というテーマに沿い約70分の語り合いが続いた。これらのテーマは僕のゼミの学生3名が卒論として扱ったものでもあり、そこに宮崎大学短歌会の学生1名を加えた4名ということである。一つ目のテーマである「牧水の恋」はやはり熱いものがあり、小枝子との情熱的な恋をしていた時の牧水と登壇した学生たちが近い年齢という点も面白い要素となった。この恋に関連した牧水歌には「かなし」「さびし」が含まれる場合が多く、その外在化によって人を突き動かす「何か」を一般化し「自然と人間」との関連を再考させられるのが牧水の歌であるという点が、語り合いの中から浮き彫りになってきた。会場には『文學界』で「牧水の恋」を連載している俵万智さんも市民として参加いただいていたので、急遽サプライズでコメントをいただくことに。「いざ唇を君」や「ああ接吻」という牧水の歌の学生たちの新鮮な読み方に共鳴して、牧水の本質を照らすコメントが重ねられた。また牧水が青春時代を過ごした延岡や、生まれ育った坪谷を詠んだ牧水歌のあり方では、絶ち難く「母」への慕情が関連していること。また色彩に関しては「青」という色の牧水歌における構造・機能のこと。さらには学生たちが作歌する際に、「意味」「感覚」重視となっている現況に対して「韻律」や「歌ことば」の面でも大変有効な示唆を与えてくれるのが牧水歌であることなどが語り合われた。その上で「人間と自然」の親和・融和という大きなテーマを含み込んだ歌が、宮崎の若者たちから生まれることを願い語る会は閉じられた。

第2部は「読書県を目指すための読書活動」
この内容に関しては後日あらためて個々に記したい
「若者たちよ!いざ懇親の宴へ」伊藤一彦先生・俵万智さんを囲み和やかな時が流れた。


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