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第5回マスターズ短歌甲子園開催

2017-12-18

熟練した大人の短歌
質問意見で豊かな読みが深まる
フィールドアナウンサーの難しさも体験して

若山牧水の生誕地・宮崎県は日向市で毎夏、高校生による「牧水短歌甲子園」が開催されている。それと同様の「大人版」大会が「マスターズ短歌甲子園」である。今回の開催は数えること5回目となり、年々参加チームも増えつつあり8チーム応募あってそこから4チームが選ばれて昨日の本戦に出場した。顧問を務める宮崎大学短歌会も今回は初参加であったが予選を通過して、この日の大会に臨んだ。また例年「フィールドアナウンサー」(甲子園ゆえに)と呼ばれる進行役を務めている方が所用で参加できないため、その代役としてその大役を僕がやらせていただくことになった。講義や朗読などで弁舌は好きではあるが、短歌を中心に展開するスリリングな対話の進行にあまり最近は感じたことのない緊張感を覚えた。

審査員の方々とともに壇上の席に着き幕が上がった。マイクで喋ることには慣れているものの、どうも講義とは勝手が違う。審査員の方々を紹介しルール・進行の説明を一通り行う。時間の制約もあるので、なるべく迅速にという打ち合わせでの確認がありその点には大変気を遣った。いざ1回戦の対戦となるが、各短歌の内容を進行役の「頭」から離れて心の中で受け止める作用が生じる。すると現在は何が進行しているのか一瞬見失うという状況となってしまい、最初の1番バッターの後攻チームの際に手順を飛ばして先に進行させてしまった。短歌を読む「頭」と、進行を司る「頭」は、どうやら使うところが違うようだ。幸い審判の方から小声で指摘をいただき、その場は手順通りに戻ることができた。その後は、「頭」の切り替えをすることができるようになり、客観性を保つとはどういうことかという実践的な体験となった。

宮崎大学短歌会は準優勝
優勝チームは2連覇の快挙
来年は没後90年、牧水先生はどんな思いでこの大会を天から眺めているだろうか。


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人文系研究学会の未来

2017-12-18
和歌文学会・説話文学会・仏教文学会
三学会の合同例会という試み
会場は資料が不足するほどの盛況にて・・・

もう20年近く前になるだろうか、人文学研究者の大学教員としての就職先が極端に少なくなり始めた。それは主に短大に多く設置されていた国文学科・英文学科が改組され「コミュニケーション」やら「グローバル」やらの名を冠して、社会からの要請という詭弁的言いがかりから実学志向になる傾向を帯びてきたからである。折しも中高一貫校の現職教員だった僕はその頃、やはり研究者を目指したいという野望が再燃し、学部時代の指導教授にこの件で相談の電話をした。すると電話口でやや指導教授はやや怒ったような口調で「そんなに簡単に大学教員になれると思っているのか!そんな時代ではない、何のために今から大学院へ行くんだ」と叱責されたのを鮮明に覚えている。だがそれは指導教授特有の励ましの言葉ではないかと僕は都合のよいように解釈し、大変な逆の中を前だけを見て歩み始めたのだった。

その道はやはり「国文学」のみでは歯が立たず、「国語教育」という現職教員としての経験が最大限に活かせる分野でも業績を重ねることで、飛行機の着陸が追い風では不可能なように逆風の中を「宮崎大学」という空港に着陸することができたわけである。その間、会員となっている研究学会は研究者の食い扶持が狭まることに比例して、未来へ向けて本気で運営を考えなければならない時代となっている。今回の3学会合同例会の試みは、こんな20年間を背景として未来へ人文学研究を持続するヒントを多く孕んでいたように思われた。例会では事前に出欠確認もしていないゆえ用意された資料は部数が不足し、会場は3人がけ座席に3人が座るほど満員御礼な盛況であった。会場には多分野の研究者が集まっており、質問などにおいても新たな視座が見えてきて交流の大切さが身にしみて感じられた。特にこうした古典系人文学の未来を、どのように見据えていったらよいのだろう。社会が偏向していると批判ばかりしても、明るい未来にはなるまい。

教育の視座から人文学の呼吸を活性化させる
そしてまた、短歌実作との連携で「生きる」ための歌を考えていく
僕にしかできない仕事は何か?20年を経てあらたな模索を始めているのだと悟る。


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