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隙間なきのち意味ある宴

2017-12-21
講義に会議が隙間なく
宵には忘年会がつづく
今やこうした機会は個人の選択の自由・・・

朝一番から全学のとある委員会会議、自らが興味ある分野ゆえ学内外の環境整備に寄与したいという気持ちがあるので、会議への出席も負担感は少ない。その後2限は通常の講義、講義を終えた足で学部販売所で弁当を買い込み、僅かな時間でドライカレーを掻き込む。昼休みは専攻講座会議があり、その流れで3限目の講義は図書館ラーニングコモンズ。1年生の教科専門科目であるが、『百人一首』を教材に和歌表現の豊かさに遊ぶような内容。学生たちが興味を持って古典和歌を対話し発表する姿に接し、担当者として気が和む時間となる。

講義終了後もすぐに会議へ。人は1日のうち何通り「頭」の使い方をしているのだろうか?会議終了後はいくつかの個人的な案件でメールや電話。ついつい電話の口調が荒くなっている自分に気付く。平常心を保つのは難しいなどとよく云われるが、動的な1日の中ではなおさらそれを痛感する。その後は学部の忘年会へ。一昨年の改組を機に学部互助会がなくなってしまい、参加も「任意」という傾向が強まった。せめて1年に1度ぐらいは学部教員や職員が席をともにする「意味」はあると思うのだが、時代はどうもそのような慣習を過去のものとしてしまったようだ。個人的にその「意味」を蘇生させるべく、少人数ながら自由で豊かな会話を何人もの先生方と交わすことができた。

どうも小欄の文体も荒れている
心身と相談して自らを立て直そう
しばらく運動もしていない・・・


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ゼミ納めー討論力は1日にしてならず

2017-12-20
卒論の最終発表
そして納会へと
語るちから聴くちから

年内ゼミの最終回は、4年生の卒論最終発表。発表者も他の者も忌憚のない意見を出し合える雰囲気がある。「他者の発表に意見を言わないのは、聴いてないに等しく失礼にあたる。」という姿勢を前提としている。昨今の若い者は、こうした討論を「怖い」といって忌避する者が多いと云うが、まずはこのリアルな対面の討論でこそ、人間的なコミュニケーション能力を養う根本があるように思われる。

ゼミ後の夜は納会へ。ここでもまた今年1年を振り返りながら、さらに様々な話題を忌憚なくやり取りする。現職教員をやっている卒業生2名も駆けつけてくれて、話題もまた豊富である。今年のゼミは和歌文学会の開催を中心に実に多忙を極めた。その渦中で4年生は教員採用試験を乗り切り、自分なりに将来への道を拓いた。前向きにいかに自分と向き合うか、そんな意志を起動させる仲間こそがゼミの仲間ではないだろうか。夢ある将来へ向けて、様々な発想を語り合う宵の口であった。

討論力は日常の姿勢から
多様に語り合う環境を創ること
コミニケーションそしてノミニケーション。


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海に日は照る そのちからもて

2017-12-19
日向市から宮崎市へ
実に素晴らしい海の光景を観る
そして疲労回復には、ポークステーキと地元温泉へ

東京での和歌文学会例会・忘年会から引き続き、宮崎県日向市での「マスターズ短歌甲子園」の週末が終わった。この間あれこれとメールや電話でご連絡をいただいた方々もいらしたが、なかなか落ち着いて返信等もできず、すっかり失礼をしてしまっている。数日間の疲労もあり、この日は日向市でややゆっくりし、美味しい朝食をいただいて態勢を整え直した。小欄の更新も日曜日に関しては珍しく怠り、羽田空港と機内で原稿は書き上げていたが、通信環境が整った場所で管理画面から記事をアップするのを忘れてしまっていた。ほぼ365日上げない日はないので、余裕のなさを自覚する結果となった。それゆえに、日向市にて2日分を連続でアップした。

午後の講義へ向けて、日向市から宮崎市へ向けて東九州自動車道をひた走る。そこからは、朝陽がきらめくほど美しい日向灘の表情を観ることができる。水平線のまろび、天のちから、そして我が地上でこちょこちょと時に追われ、網の目の中で藻搔いている魚のようにも思えてくる。網の目を破り大きな海で自由に泳ぐがごとく、牧水先生よろしくもっと自然との親和を胸に悠然と構えていればよいなどと、この宮崎の景色からいつも教えられる。午後2コマの講義、教室に入ると不思議と疲労は忘れる。まさに自分の泳ぐべき場所だと、心身が自然に反応する感覚だ。それだけに講義後には、極端な疲労感に再び襲われた。ジムへ行こうと思いきや、「勇気を持って」断念。馴染みの洋食屋さんでまずはポークステーキで栄養補給、まだこの代物が食べられるのなら余力はあるのだろう。その後は近所の公共温泉へ。やや塩分を含んだ独特な泉質が、再び「海の恵み」として心身に力を与えてくれる。帰宅後、すぐさま就寝。何よりも睡眠がこうした状態を回復させる。静寂極まる環境がもたらす安眠も、宮崎の自然がくれる大きなちからでもある。

平常心に戻ろう
心身を落ち着いて見つめ直し
今年もあと2週間となった。


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第5回マスターズ短歌甲子園開催

2017-12-18

熟練した大人の短歌
質問意見で豊かな読みが深まる
フィールドアナウンサーの難しさも体験して

若山牧水の生誕地・宮崎県は日向市で毎夏、高校生による「牧水短歌甲子園」が開催されている。それと同様の「大人版」大会が「マスターズ短歌甲子園」である。今回の開催は数えること5回目となり、年々参加チームも増えつつあり8チーム応募あってそこから4チームが選ばれて昨日の本戦に出場した。顧問を務める宮崎大学短歌会も今回は初参加であったが予選を通過して、この日の大会に臨んだ。また例年「フィールドアナウンサー」(甲子園ゆえに)と呼ばれる進行役を務めている方が所用で参加できないため、その代役としてその大役を僕がやらせていただくことになった。講義や朗読などで弁舌は好きではあるが、短歌を中心に展開するスリリングな対話の進行にあまり最近は感じたことのない緊張感を覚えた。

審査員の方々とともに壇上の席に着き幕が上がった。マイクで喋ることには慣れているものの、どうも講義とは勝手が違う。審査員の方々を紹介しルール・進行の説明を一通り行う。時間の制約もあるので、なるべく迅速にという打ち合わせでの確認がありその点には大変気を遣った。いざ1回戦の対戦となるが、各短歌の内容を進行役の「頭」から離れて心の中で受け止める作用が生じる。すると現在は何が進行しているのか一瞬見失うという状況となってしまい、最初の1番バッターの後攻チームの際に手順を飛ばして先に進行させてしまった。短歌を読む「頭」と、進行を司る「頭」は、どうやら使うところが違うようだ。幸い審判の方から小声で指摘をいただき、その場は手順通りに戻ることができた。その後は、「頭」の切り替えをすることができるようになり、客観性を保つとはどういうことかという実践的な体験となった。

宮崎大学短歌会は準優勝
優勝チームは2連覇の快挙
来年は没後90年、牧水先生はどんな思いでこの大会を天から眺めているだろうか。


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人文系研究学会の未来

2017-12-18
和歌文学会・説話文学会・仏教文学会
三学会の合同例会という試み
会場は資料が不足するほどの盛況にて・・・

もう20年近く前になるだろうか、人文学研究者の大学教員としての就職先が極端に少なくなり始めた。それは主に短大に多く設置されていた国文学科・英文学科が改組され「コミュニケーション」やら「グローバル」やらの名を冠して、社会からの要請という詭弁的言いがかりから実学志向になる傾向を帯びてきたからである。折しも中高一貫校の現職教員だった僕はその頃、やはり研究者を目指したいという野望が再燃し、学部時代の指導教授にこの件で相談の電話をした。すると電話口でやや指導教授はやや怒ったような口調で「そんなに簡単に大学教員になれると思っているのか!そんな時代ではない、何のために今から大学院へ行くんだ」と叱責されたのを鮮明に覚えている。だがそれは指導教授特有の励ましの言葉ではないかと僕は都合のよいように解釈し、大変な逆の中を前だけを見て歩み始めたのだった。

その道はやはり「国文学」のみでは歯が立たず、「国語教育」という現職教員としての経験が最大限に活かせる分野でも業績を重ねることで、飛行機の着陸が追い風では不可能なように逆風の中を「宮崎大学」という空港に着陸することができたわけである。その間、会員となっている研究学会は研究者の食い扶持が狭まることに比例して、未来へ向けて本気で運営を考えなければならない時代となっている。今回の3学会合同例会の試みは、こんな20年間を背景として未来へ人文学研究を持続するヒントを多く孕んでいたように思われた。例会では事前に出欠確認もしていないゆえ用意された資料は部数が不足し、会場は3人がけ座席に3人が座るほど満員御礼な盛況であった。会場には多分野の研究者が集まっており、質問などにおいても新たな視座が見えてきて交流の大切さが身にしみて感じられた。特にこうした古典系人文学の未来を、どのように見据えていったらよいのだろう。社会が偏向していると批判ばかりしても、明るい未来にはなるまい。

教育の視座から人文学の呼吸を活性化させる
そしてまた、短歌実作との連携で「生きる」ための歌を考えていく
僕にしかできない仕事は何か?20年を経てあらたな模索を始めているのだと悟る。


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慌てるなかれゆっくりとあれ

2017-12-16
定時運航常識社会
車内に詰め込まれるように見知らぬ人と衣服を密着させ
慌てるなかれゆっりとあれ

上京のため宮崎空港の待合室にいると、なんともこの空港が素朴で使いやすい空港だとあらためてしみじみと感じられた。東西に主要滑走路が1本通り、10数本の到着ゲートがそれに沿ってあり、離着陸の際にはゲートからそれほどの距離もなく短時間で移動できる。奇しくも空港の大画面テレビでは「空港管制」を題材にしたドラマを映し出していたが、羽田空港の航空機の量というのは、“ドラマ”化するほど「異常」なのかと皮肉に感じられた。それにしても日本の航空会社ほど「定時運航」に執着するのも世界で珍しいように思われる。それは会社の方針というより社会の要請を受けたもので、電車・バスなどの公共交通機関を含めて「定時」を遵守する国民性に起因するものだろう。欧米を含めてアジアや中南米で経験した「公共」の時間は、いい意味で「ゆったり」としていた。

そんなことを考えつつ搭乗便は15分ほど遅れて羽田空港に着いた。機内ではその遅れに対して謝る内容が繰り返しアナウンスされる。東京の街に出るとちょうど帰宅ラッシュにぶつかり、おまけに浜松町から京浜東北線が何らかの事情で遅延しており山手線一本が頼りという状況。やや大きな荷物を携えている僕ながら強引に車内に押し込まれ、見知らぬ男のコートの繊維素材に接触体感する羽目になった。あまりに久しぶりのこの満員電車の感覚、やや眩暈を覚えるほどの嫌悪感を覚えた。その後、用件を済ませてから懇意にするバーに行くと、親友が扉を開けて入店してきた。そこからはこの「慌てる」ごとき時間意識の話題になった。和歌も古代・中世にはゆっくり時間をかけて朗詠されていた。一句ずつの意味を噛み締めて、次の句には何が来るかと予想してことばを自らの中に落として行く。現代において和歌・短歌を読むと多くが七五調で急いで三句目まで読んでしまい、一首全体を咀嚼する滞空時間が失われている。せめて牧水が得意とする五七調で読むと、少しは古代の時間意識に近づけるような気がするがいかがであろうか。

あらゆる分野において「性急」ばかりの世の中で
まさに「そんなに急いでどこへ行く」ではないか
「日向時間」の素朴な温かい心地よさが好きだ。


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どうしやうどこにもなくて

2017-12-15
「抱きたいと思へる女性がどうしやうどこにもなくて 裕子さん おい」
(永田和宏さん・角川『短歌」12月号より)
独り言ちすなわち天との交信

「歌」とは「訴え」を語源とする説があるが、誠に現代にもそれを深く感じさせる永田和宏さんの最新作に惹きつけられた。永田さんの妻・(河野)裕子さんは歌人としても著名であるが、癌を患い2010年に天へと旅立った。その闘病の境涯を裕子さんも多くの歌に詠み共感を得たが、和宏さんの夫としての苦悩を表現する作品にもいつも心を打たれるものがある。短歌が結びつけた縁としてこのご夫婦の「愛」はいまも「歌」となって、我々の現前にリアルに”生きて”いるように思われる。ことばの力とは、こうして悲痛な現実を再現し他者のこころに響き、避けがたき境涯たる過去を未来へと引き継ぐ効力を秘めている。「生きることすなわち歌うこと」「歌うことすなわち愛すること」「愛することすなわち生きること」和宏さん・裕子さんの歌からは、いつもそんなことを深く考えさせられる。

僕の研究での専門分野である平安朝初の勅撰集(天皇の命によって国家事業として編纂される歌集)『古今和歌集』仮名序冒頭には、「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。」と歌の抒情性が高らかに宣言されている。この日本初ともいえる歌論の主張は、現代でも生きており「短歌」の根本的なあり方を考える際によく引用される。仮名序はさらに”歌の効用”として「力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女(おとこおんな)の仲をも和らげ、猛きもののふの心をも慰むるは歌なり。」と記されている。この中の「鬼神」とは現代語とは趣旨が違い「霊魂を神として祀ったもの」といった意味である。「霊魂感」というのはもちろん平安朝と近代以降の現代では大きく変化をしたが、この仮名序を読むとあらためて「霊魂」の存在そのものが「ことば」なのではないかと僕なりの解釈をしてみたりもする。避けようのない代え難い過去も、「ことば」によってリアルに再現できて、この世に生き続けさせることができるのである。

物体は破壊されれば瓦礫となる、人間も寿命を全うすれば骨となる
ただ「ことば」だけは、いつまでも朽ちることなくこの世に存在し続ける
そんな崇高さをもって短歌を詠みたいものである。


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読みは反転するゆえをかし

2017-12-14
「正解」ではなく「読みの交流」
様々な捉え方の中で自らの傾向を知る
ある表現は反転すればまた自らが炙り出される

1年生の教科専門科目「国語」は、初等教員免許取得の科目であり多くの受講生が履修している。他教科は2年次の配当であるが、この「国語」のみ1年次に配当されている。それはやはり「国語」という教科が、あらゆる教科の言語活動による学習の基盤になっているゆえであろう。約100名近くの受講者を半分に分け、後半のクラスも2回目の講義となった。この日は各班ごとに牧水の「けふもまた心の鉦を・・・」の歌を「音読」してもらったが、その頽廃的な発声が現状の「国語」という教科の高校までの教育のあり方を象徴しているように思われた。特に高校ではあまり目的も示されずに、ただただ初読の際などに「音読」を施すので、その意義も不明確のまま声にならない声のような、不毛な時間が作り出される。「表現」とはかけ離れた「読み」のどん底を”聞く”ような思いである。

さて「正解はない」という思考で批評的に物事を捉えることが、まさに大学でアカデミックに学ぶ上で身につける力ではないかと思う。この日も「白鳥は哀しからずや・・・」の歌に関して、「白鳥は何羽?何処にいるのか?」という問いを班内で話し合う読みの交流を行った。個々に様々な捉え方が許されるが、それを擦り合わせて班の意見として発表する過程に、重要な思考過程があると考えたい。各班からは「哀しからずや」の表現から読み取る「孤独」なイメージから、「白鳥は一羽」という見解が多く出される。そうかと思えば「染まずただよふ」から、「力強さ」を読み取る班もあって「ただよふ」が単に流されているわけではないというイメージも提供された。教育現場では「短所は長所になる」という視点が、とても大切であると現職時代を顧みて痛感する。「短所」を反転して解釈すれば、必ずそれは「長所」と捉えることができる。”そこ”で本人を激励することが肝要だ。だが「長所は短所にもなる」のも確かである。表現は360度の分裂展開が可能であろうから、心を種に表現した短歌には必ず反転した意味が読み取れる。せめてそんな思考で大学での学びを進めて欲しいと願う。

「音読」と同様に荒んだ「読み」や「表現」も
学校での「国語」は何を目指しているのだろう?
やはり教育とは社会を考えることでもある。


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批評し主張するちから

2017-12-13
「事物の善悪・是非・美醜などを評価し論じること。
 長所・短所などを指摘して価値を決めること。」
(『日本国語大辞典第二版』見出し「批評」より)

卒論作成もいよいよ最終段階の時季となった。大学学部の提出締切は1月末日と決められているが、ゼミでは新年成人式連休明けに「仮提出」をするという慣例で、ここ数年間の指導をしてきている。最終提出後の「口述試問」において、基本的な次元で改めて欲しいことや十分な批評性がなく「論文」として問題がある場合などがあっては修正ができないために、敢えて正式な提出期限に3週間ほどの余裕を残し、先に僕の方で査読する方式を採用している訳である。主張やそれを表現する「論文」においては、やはり誰が読んでも理解のできる「普遍性」も必要になろう。ゼミ内で内輪の議論をしていると、個々の研究内容は概ね検討はつくので、ついつい馴れ合いから文章表現を「内向き」に叙述しがちである。「普遍性」の原点はせめて、これから同学部にやってくる顔も知らない多くの後輩たちにも役立つよう、何らかの主張を客観的に伝えようとする意識が求められる。

1・2年生の学生たちを見ていると、まだ高校までの丸暗記的学習習慣が抜けないと痛感することがある。先日も講義でスクリーンに映し出した「要点」を漏れなくノートに丸写しすることに”だけ”頭が向いている光景を目の当たりにした。その「要点」は講義までに読んでくるべき課題図書に詳述してある内容と違いなく、その理論を腑に落ちる段階まで引き上げる「思考の昇華」を講義内で課題を与えてまさに「思考」すべく頭を使うべきなのだ。映し出された「要点」について、まさに批評的にその価値づけをするように講義は仕組んである。何の疑いもなくただ与えられたものを内容も精査せずに写し取るいう「作業的歯車的思考」では、これからの時代は通用しない。何より「自分の頭で考える」(判断し価値づけする)ことが求められるということだろう。その点、昨晩も行われた宮崎大学短歌会の活発な議論は実にこのような頭の使い方が身につく機会である。その根本と延長上に短歌の「対話性」があるのと同時に、「牧水短歌甲子園」で展開する「批評性」が大きく作用しているように思われる。

「主張」をするための「判断と価値づけ」
疑問点を質問しないというのは相手方に失礼な行為である。
「批評性」を遠ざけようとする世相に抗う気概を学びてこそ生きる力となる。


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冷えて固まる身体を解け

2017-12-12
蓄積した疲労
その上に足下から冷える身体
頭寒足熱を心がけてストレッチを怠らず

南国宮崎とはいえ最近は、「寒いですね」とか「冷えますね」という挨拶を交わすことが多くなった。朝晩はもとより日中でも風が吹いたりすれば、陽光を遮るように寒さを覚える。何よりデスクワークをしている際の、足下などは大変冷えるものである。衣服によってそれなりに対策は講じ、日頃から筋肉を落とさず代謝量を下げないことを心がけてはいるものの、その程度を超えた冷え方が押し寄せる。その上ここ数ヶ月の疲労が身体内に蓄積されているのではないかと、自覚する瞬間も少なくない。冷えた身体は筋肉が硬直して、関節の可動域を狭める。それを無理に動かそうとすると、自然に反し身体は悲鳴を上げる。

師走となって夜に予定が入ることも多く、ジムに行く回数も減っている。やはりストレッチと筋肉を動かすことが、何よりもこの気温への対策であるように思う。何事もそうであるが、「対処療法」では根本的な解決を見ない。基本的な「生活」の芯において、解決を試みたいものである。この日はジムに行って、まずはサウナに入り汗が出るまで身体を温めた。その火照った状態でストレッチルームに籠り小1時間に及び、身体各所を伸ばして見た。腰回り・大腿筋・脹脛そして肩甲骨周りの筋肉各所が、思っている以上に硬直している。もちろんストレッチは、ゆっくりゆっくり動きをつけずに、各所の声を聞くように進める。ストレッチは単なる準備運動にあらず。温浴と組み合わせて、日々実行したいものである。

身体のみならず頭も硬直してやいないか
自らの身体を細部まで見つめる繊細さが欲しい
心身ともに可動域を拡げて生きていたいものである。


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