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あくまで現代に読む古典

2017-07-21
「温故知新」再考
「伝統的な言語文化」という文言の罠
「現代」を生きる我々が何を読むか・・・

大学生にアンケートを取ると、概ね「古典は好きではなかった」という回答が多い。たぶんそれはここ20年〜30年か、それ以上変わらない「定番不人気」であるように思われる。「古典教育をどうしたらよいか?」という命題も、様々に議論されながらもなかなか明るい未来が見えないままになっているわけである。とりわけ現行指導要領から加わった「伝統的な言語文化」という「一事項」に関しては、「古典重視」の方針が明らかに打ち出されたのであるが、小学校から古典教材を扱うようになったという革新が見られた程度で、その授業のあり方や享受のあり方を改善する方向性が明確になったわけではない。抑も「伝統的な・・・」という文言が使用されることで、古典には「核心」となる「権威」が含まれていて、それを再び甦らせるといった動きだけが見え隠れして、真に現代人として「古典をどのように読んだらよいか?」という意識が希薄なのが問題だと思われる。

「昔」は崇高で「現代」は頽廃したのか?だとすれば、我々はその「頽廃」たる文明を享受して、少なくとも「便利」だなどと「甘えて」いるのであろうか?考えやすいので数世代の歴史の中でこれを考えるならば、祖父祖母・父母の世代が「戦争」を経験し苦労したから「崇高」で、その苦労を知らない僕ら「戦争を知らない子どもたち」は「頽廃」したのだろうか?こうした懐古主義に走ればむしろ「戦争」という体験が「貴重」だとも考えられてしまい、無闇に「戦前回帰」をするような悪質な考え方を助長しかねない。もちろん「戦争」の経験を語り継ぐことを、否定する気は毛頭ない。語り継ぐにはどのような考え方を採るかを、精査すべきだと思うのである。「今」を生きる我々は、宿命的に「今現在」しか生きられない。だとすれば、受け継いだことばを想像力豊かに「現代」における「意味」を創り出すしかないのではないか。中高の「古典学習」を考えた時、まずは指導者自身がその「現代的意味」を持てるか否かが、重要ではないのかと痛感するのである。

「現在」の歌創りにも生きる
「古今和歌集仮名序」の抒情論と効用論
和漢・和洋との相対化の中で育てられた「やまとことば」とは何かを考えたい。
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