強い心は静かで素直である
2017-07-04
「欲求・満足・不満」「生命の力を押し伸べて行かうとする自らなる欲求」
「歌を知るは人生を知ること」(牧水『短歌作法』から)
原稿や研究会での講演に必要があって若山牧水『短歌作法』(大正11年)を読み直している。そこには、短歌創作への心得として参考になる記事とともに、牧水自身の歌論として再考すべき点が多いと考えている。冒頭に記したのはその一部抜粋であるが、「欲求・満足・不満」をもととして、「唯だその人はその人としての歌を詠み得たら充分ではないか」などと力を抜いて素朴に歌に向かうことが述べられている。また「生命の力を押し伸べて行かうとする自らなる欲求」として「歓喜」とともに対照的な「苦しさ」「寂しさ」をも、「心を開いて」捉えて歌にするのがよろしい、といった趣旨が語られる。まさに「歌を知ることは人生を知ること」なのだという一文も見える。
先週末の公開講座で扱った第一歌集『海の声』には、若き日の牧水の「力動性」を読める歌が多く、その「調べ」からすると前向きな歌が目立つ印象がある。だがその内容は「歓喜」よりもむしろ「苦しさ」「寂しさ」をもとにした歌が遥かに多いことに気づく。現在『文學界』に連載中の俵万智さん「牧水の恋」に描かれているように、それは小枝子との叶わぬ恋に由来する心を歌にしているからである。人の「欲求」は自ずと「満足」にも「不満」にも大きく振幅し、むしろ表現したい「欲求」は、後者によって駆り立てられることの方が多いようだ。やまとうた1300年の歴史を顧みても、「恋の歓喜」よりは「恋の苦闘」を多く素材にしていることは一目瞭然である。だが、そのような「苦しさ」「寂しさ」に接した際でも、牧水曰く「強い心は静かで素直である。」という構えがあればこそ、状況を受容し歌として表現することができるのであろう。牧水の「力動性」というのは、晩年に著した『短歌作法』にも、このような形で表出していると考えたい。
「われ歌を歌へりけふも故わかぬ悲しみどもにうち追れつつ」
「海哀し山またかなし酔い痴れし恋のひとみにあめつちもなし」
「わが胸ゆ海の心にわが胸に海のこころゆあはれ糸鳴る」
(『海の声』より)
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