悪戦苦闘の「不作」の後に
2017-06-30
「焦り」「諦め」「力み」本当の自分でないような硬直
「自分を飾ろうとしていない率直な歌」を
角川『短歌』7月号の特集は「短歌再入門」として、「つまづきのポイント7」について総論を含め8名の歌人の方々が寄稿している。特集を締め括る「つまづきポイント7」は、我が宮崎の伊藤一彦さんで、「体力が続かない」という「つまづき」に対して「心の中に宝物がある」という内容が記されている。「体力とは気力」とした上で、「焦り」「諦め」の気持ちがある人こそが意欲的なのだと、「現実の自分に否定的」になることを反転して捉えるべきと教えられる。そしてまた伊藤さんほどの著名な歌人でも、「できない」「できない」と「悪戦苦闘」しており、締切日前は「薄氷を踏む思い」であると心情を吐露している。さらに後半では宮崎で行われている「高齢者短歌」を何首か紹介し、「自分の心の力みに気付かされ、もっと楽に歌に向かえばいいのだ」という気持ちの大切さが説かれている。
生活の様々な場面でも、「焦り」「諦め」「力み」によって平常心を失うことこそが大敵であることに気付くことが多い。例えば、車の運転でもこの三要素によって、大切な車を傷付けてしまったという経験をお持ちの方もいらっしゃるのではないだろうか。また野球の打撃を考えても、この三要素が伴っているうちは、試合で安打を放つことなどできない。まさに「楽に」「率直」にただ球だけに向かって素振り通りのスイングをする結果が、知らぬ間に安打を放ち一塁ベース上に立っているというのが、少年野球で初安打を放った際の感覚である。力んで硬直して一本の硬い棒のようになることが実は一番脆弱で、存分な力を発揮できないといった趣旨のことは、『老子』でも説かれていることである。今年も早半分が過ぎ去ろうとしている。7月となり研究室のゼミ生たちは、いよいよ教員採用試験本番を迎える。この時期に及びやはり、「焦り」「諦め」「力み」が大敵であると心して、「飾ろうとせず楽に率直に」臨んでもらいたいと願っている。
梅雨空とともに「悪戦苦闘」
「自分の作風が少しながら変化」する予兆
人生楽しまなくていかにあらむ、と高齢者の短歌からあらためて教えられるのである。
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あらためて「句切れ」を考える
2017-06-29
「君待つと吾が恋おれば我がやどのすだれ動かし
秋の風吹く」(額田王の歌から)
冒頭に著名な額田王の歌を、敢えて三行書きで記した。通常、和歌・短歌は一行で書き切ることができるので、それを読む(特に音読)際には読者の裁量に任されてしまうことが多い。一行の和歌・短歌を読む際に「裁量」がいるのかと思う向きもあろうが、そこが大きな問題だと思っている。『新古今』あたりから確立する七五調の三句切れによる韻律の旺盛、連歌・連句から発句へと到り俳諧そして俳句となって「五・七・五」の独立性が高まったこともあってか、現代の人々がもつ韻律の感覚はほとんどが「七五調」である。『百人一首』カルタの読み札も、上の句・下の句で間を置いて読むのが通例であろう。もちろん、明治時代の『新体詩抄』が「七五調」を前面に押し出して近代詩を確立しようとした意図の影響も大きい。このような様々な要因が考えられる中で、交通標語などの日常的な言葉の韻律としても「七五調」が「常識」になってしまっているように思われる。
例えば牧水の著名な「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」の歌などを、様々な機会に音読していただくと、ほとんどの方が「空の青」まで読んででいったん間を置く。だが意味をよく考えてみれば、「哀しからずや」の「や」が文法的に詠嘆になるゆえ、二句目で間を入れることによって「空の青海のあを」を連続的に読みその対照性が生きてくる。さらには「染まずただよふ」が独立性を持つことで、実に重厚な結句として一首全体を受け止める読み方となるのである。『万葉集』においては、長歌・旋頭歌などの歌体との発生起源にも関連し、その相対性の中で「五七調」の韻律が重用される歌が多い。もとより「なぜ五音・七音なのか?」という点についても国語学的に多くの論調があるが、奇数音であることによって各句の中が”均等割”ができないことが大きな要因だと考えられている。その上で五音・七音を比較すると、五音は「三拍」の拍節、七音は「四拍」の拍節であることが大きく作用している。字数はともに奇数で均等割ができないが、「拍節」に関しては「奇数(拍節)」と「偶数(拍節)」が組み合わされているあたりに、やまとうた1300年の歴史の連綿性を見るのである。
「句切れ」そのものがわからない範疇にある
歌の音読そのものがやや閉鎖的な環境に置かれ続けてきた
歌の「音読」そのものの意義をあらためて考えるべきであろう。
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盤を反対から見ること
2017-06-28
藤井四段14歳の29連勝対局の休憩の一場面に
物事の見方について考える
公式戦29連勝の歴代新記録を樹立した最年少棋士藤井四段の活躍がめざましい。こうなると将棋などは年齢ではないのかと、様々な思いが駆け巡る。どのような生育過程で、どのように思考力や想像力を育んできたのか。たぶんそれほど「特別」ではない習慣の積み重ねによって、あの境地に到ったのではと「教育」を考える身としては思いたくなる。将棋のことには明るくないが、その先見性とか戦略性は、小手先の技術や工夫などではきっと養えないと思うからである。些細な「見る」の積み重ねが、どの道にも求められるのではないかと勝手な予想をしている。
TVでその様子が報じられていて目にしたのだが、対局の休憩時に藤井四段は相手側から盤を見ることがあると云う。これは先ごろ引退した加藤一二三名人の「必殺技」でもあると聞く。素人目に見れば「反対側から盤を見たところで何も変わらない」と思うかもしれないが、あれほどの境地に達すると何か違う風景が見えるということだろう。この単純にして素朴な「見る」行為こそが、大きな意味を持つことは、様々な分野でも同じであるようにも思う。著名な文学教材を反対側に立って見て読むということから、新たな視点を見つけ出す興奮に酔い痴れたいと思うのである。
ゼミであらためて読む「ごんぎつね」
定番教材ほど固着した読みになりがち
反対から、いや三百六十度から見ようとする柔軟な思考を持ちたいものである。
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温かく温めて夏も
2017-06-27
「あんた、なに氷を入れてるん?夏でもお湯で飲むとよ」
珈琲もまた同じ、そして公共温泉のことなど
中高現職教員の頃、部活動顧問として夏場の試合などに行くと、夕刻が近づくにつれて水分を補給しない先生がいた。冗談混じりで「思惑があるので」と言っていたが、試合後の懇親会でビールを美味しく飲むためだとすぐにわかった。確かに丸1日屋外で試合をして、顧問教員は審判なども務めてかなりの汗を流し、その後のビールが「美味い」のは確かだ。その流れに乗じて僕も「真似」をしていた20代の頃の思い出がある。だが、今考えてみると酷暑の中「適切な水分補給をしない」ということが「自殺行為」に等しいことと思えて背筋が凍る思いである。水分が奪われた身体内の血液は確実に”ドロドロ”と化し、しかもそこへ冷え切ったアルコールを流し込んでも、決して水分補給にはならず、さらに水分を奪っていく可能性がある。だいたいにして急激な温度変化を身体内にもたらすのは、確実に危険であると思われる。
宮崎に来た当初、街の呑み屋のカウンターで隣に座っていた老人から冒頭のように教わった。東京で焼酎を飲む際には「ロック」か「水割り」を通例としていたが、「夏でもお湯」ということばの響きにも妙な「温かみ」を覚えた。実際に宮崎の芋焼酎は、お湯で呑むのが何より美味しいことに感激し、その後は「夏でもお湯」を実践している。もう一つ呑み屋での面白いと思う会話は、「お湯で呑むと楽」という類のことばだ。”深読み”をすれば「自ら進んで金を払って行なっている酒を呑むことが苦行で、せめて”楽”な道を選択する」と偏屈な解釈をしてしまうことがある。”酒呑み”としては確かに「お湯は楽」だという感覚は納得しつつである。「お湯割」の影響は珈琲にも及び、最近は「夏でもホット」が原則になった。さらには自宅至近に公共温泉があるため、時間さえあれば行くようになった。概ね行く時間が一定して来たので、最近は常連さんたちから声を掛けられるようになった。その裸同士の会話の温かさ。やはり心身は温かく温めて、などと湯煙の中で痛感するのである。
「あたたかさ」とは何か?
闇雲に身体を冷やす行為の愚かさを知る
こころもからだも温かく温めて夏も・・・
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「サラダ記念日30年ーそして宮崎へ」トーク開催
2017-06-26
「日向夏ドレッシングのような明るさにトマトを濡らすはつ夏の雨」(俵万智賞受賞作・宮崎市・小寺豊子さん)
「畑から曲がったキュウリ連れ帰りサラダ作れば真っ直ぐ美味し」
(一般の部特選受賞・宮崎市・川平陽子さん)
「他人の恋見つつ正午の食堂でオクラサラダをねばつかせおり」
(学生の部・特選受賞・久永草太さん)
今年は、売上280万部のベストセラー歌集『サラダ記念日』が出版されて30年となる。このタイミングで俵万智さんが居住する宮崎に、自分もいることの縁をあらためて感慨深く思う1日となった。宮崎日日新聞社主催で標題のようなトークショーが開催された。新聞社ビル最上階にあるホールは約250人の熱心な短歌愛好家で埋め尽くされたが、聞くところによると入場券は新聞掲載から30分ほどで締切ったらしく、俵万智さんの人気は根強い。また冒頭に記した「俵万智賞」や「特選」に代表されるように、総計971首(一般581首・学生390首)の短歌応募があり、選者となった俵万智さんによれば、そのレベルも高く新鮮であったということだ。日常生活で「あっ」と思ったことを思いっ放しにせず言葉を探す、という「生き方」ができるというのは、短歌をやっている大きな意味であると万智さんの云う。そんな中で宮崎大学短歌会でともに歌を学ぶ久永草太さんが「特選」を受賞したことは、一同の大きな喜びであった。
トークでは宮崎の短歌を長年支えてきた伊藤一彦さんも加え、『サラダ記念日』出版前に伊藤さんが原稿段階で歌集を読んでいたこと、「なぜ本屋に小説ばかりが並び歌集が少ないのか?」という疑問を「自分の本」で改善できた喜びなどから語られ始めた。出版当時、万智さんは高校教員であり「月曜日から土曜まで(教員としての勤務)は平常心で過ごせた」が、「笑っていいとも」「徹子の部屋」などの番組出演や多くの取材を受ける時代の寵児であったことがあらためて紹介された。万智さんの歌は「連作の妙」にあると伊藤さん、短歌愛好者のみならず一般の人々にも受けたのは、「読んでよくわかる、自分が嘗て思っていたことのようで、実は奥深い」からだと云う。まさに「1300年の歌の歴史の最先端」として「定型を守り、文語と口語を自然に織り交ぜた現代語」であると歌壇での評価も高く、「啄木・牧水・寺山修司・俵万智」と明治以降の短歌史に位置づけられる存在であると云う評価は興味深い。その評価観点の一つとして「意味よりもリズム」は、誰でもわかる平易な表現の秘訣でもあり、僕としても諸々と考えてみたい視点である。また万智さんは「今を生きる歌人」であり、住んでいる場所に肯定的なものを見出すと伊藤さん。多くの人々は「辛い過去と不安な未来」に怯えるが、「今を大事に」から宮崎の良さも万智さんに教えられると云う。最後に今回の短歌募集に見られたように潜在的ポテンシャルが高い方々が多い宮崎を、ぜひみなさんの力で「短歌県」としていけるように歌を作り続けたいと、万智さんの抱負が語られて2時間の表彰・トークがお開きとなった。
「原作・脚色・主演・演出=俵万智、の一人芝居」
「生きることがうたうことだから。うたうことが生きることだから。」
歌集「あとがき」が語られると、胸の奥に熱いものを感じたのは僕だけではあるまい。
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森を見ていた午後
2017-06-25
こんな閑静な所に店が?ありました自然素材を活かした料理の
時間を忘れて森を見ていた午後
休日の休日たる意味は何か?果たして真の意味で休日を過ごしているか?自らを顧みてそんなことを考えた。時に、今まで行ったこともない空間に行って見たくなる衝動に駆られる。その地域を知らないわけではなかったが、あの路地を曲がって細道に侵入し、対向車と待ち合わせないとすれ違えないところを抜けて至った場所。賢治の『注文の多い料理店』が典型なように、確か小学校の時にそんな博物館に辿り着くと「反転」的自己発見をする物語を読んだことがある。自らの主観や欲求が酷く傲慢なものだと自覚され、真逆の方向から見つめ直しその危機を悟る物語。それは、決して人には教えたくない場所として、こころの再生場所として位置付けられる。
かなり昔になるが、ユーミンの「海を見ていた午後」という曲がある。横浜は山手のレストランから本牧埠頭を見ているという場面を歌ったものだ。そんな特別で高級な生活観がもてはやされた時代もあったが、現代の特に地方には「古民家再生」のカフェがよく似合う。何の変哲も無い古民家に手作りの看板、庭は綺麗に整備されているがまったくの自然の中に置かれている空間。田舎の親戚の家に行ったかのごとく玄関から靴を脱いで上がり、偶然に空いていた窓際の席に座ることができた。野菜を中心に自然素材を活かしたランチの料理と、その雰囲気のマッチングが心憎い。客はなぜかほとんどが女性、回転のよい街中のカフェとはまったく違う余裕が感じられる。その後はやはり「海」も見たくなって宮崎港へ。フェリーを眺めながら「雨の埠頭を見ていた午後」へ早変わり。こうした地理的条件も宮崎ならではである。
心身の回復に空間の効用
身体に優しい料理が嬉しい
雷鳴とともに雨は強まるが、心は穏やかな土曜日であった。
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命あらむ限り伝え合う力
2017-06-24
「笑顔・勇気・愛情・ブレない自分、相手のことを思いやる『愛』」
(市川海老蔵さんの会見のことばから)
小林麻央さんの訃報に接し、心からお悔やみ申し上げるとともに、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。34歳、病気の公表とともに自らブログに闘病の日常を綴り、多くの人々を勇気付け笑顔と思いやりと愛情の大切さを伝え続けた麻央さんであった。アナウンサーという「仕事」とは別次元で、彼女は自らの「生」そのものを家族をはじめとする周囲の人はもとより、多くの人々に向けて「ことば」にした。その「ことば」は、これからも多くの人々とともに生き続けるに違いない。あらためて「生」とは「命」とは、「ことば」にして伝え合うべきものであることを、教えてもらった。ありのままの「現在の自分」を、受け止めてくれるのが家族である。それを世では「愛」と呼ぶのであろうが、その正体は「ことば」に他ならない。「生きる」ということは、せめて「家族」の中で、隠し立てのない素顔の「ことば」を伝え合うことなのだと、麻央さんが語っているかのように、僕には感じられた。
それを体現するかのような夫・海老蔵さんの会見。この会見そのものが、この日も2公演の舞台を変わりなくこなした合間に設定されている。その海老蔵さんを支えているのは麻央さんの「ことば」たる「意志」なのであろう。「(公演を予定通り行うことが)妻が一番喜びますから」といった趣旨のことも海老蔵さんは述べたと云う。それは彼自身が麻央さんを讃えた「ブレない自分」を、自身も約束として信念として貫いたということでもあろう。「舞台」という総合的な「表現」を行う役者としてまさにプロの矜持、深い悲しみは「表現」に影響するのではと素人には思えてしまう。海老蔵さんは「役者」としての平常心と日常をそのままにこなしたが、それは単なる精神力の問題だけではないだろう。冒頭に掲げたような麻央さんの「愛」があったからこその所業ではないかと思う。そして会見で2人のお子様の様子も語られたが、幼いながらにありのままを受け止めているように感じられた。こうした家族個々の伝え合う力を、麻央さんはその中心となって支えていたのであろう。
「生きる」とは「ことば」にすること
「思いやり」とは「ことば」である
あなたは、身近に支えられる「ことば」がありますか。
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「明日あらば明日」を梅雨に思いて
2017-06-23
「雨荒く降り来し夜更け酔ひ果てて寝(いね)んとす友よ明日あらば明日」(佐佐木幸綱『直立せよ一行の詩』1972より)
「私たちはあまりに多くの問いを持ちすぎている。」と前書きにあり。
運動経験があればすぐにわかることだが、肩肘張った硬直した身体では決してよい動きはできない。打席に入って構えがガチガチに固まれば、球も見えずバットに当たりはしない。倒立は固まっているように見えるが、実は肩の柔軟性によってしなやかに身体が支えられてこそ成立する。「直立せよ一行の詩」という歌集名が、学生時代から好きであった。特に佐佐木幸綱先生の「男歌」たる「直立」への憧れから、むしろ古典和歌の淵源に遡る研究へ眼が向いて行ったのかもしれない。研究とは「問い」を発することである。ある意味で肩肘張って硬直した身体が求められて、順序立てて反論を排し筋道立てて探って行くしかない。それならば短歌を詠むことはどうか?あらためて幸綱先生の歌を読んでみて、その「直立」は決して「硬直」ではないことが”少し”わかった。
「本当は一つか二つの〈なぜ〉で人間は生きられるのかもしれない。」と冒頭の前書きは続く。さらに前に置かれた文として「酒には、〈なぜ〉がないのがよい。」とある。「嘆きの顔」をしていれば、自ずと身体は「一本の棒」のごとく硬直する。打席で思うような結果が出ないと、守備についても精彩を欠き、負の事象は連鎖して「堕落」を招く。野球におけるこのような流れは、プロの一流選手でもあることで、幼少の頃の後楽園球場で当時の「王選手」が打撃練習で思うように本塁打が打てない姿も観たことがある。ちょうど2ヶ月前の4月22日夜、幸綱先生と御次男・定綱さん、そして伊藤一彦先生と四人で兵庫は伊丹の銘酒を深夜まで酌み交わした。まさにその時の僕の身体に〈なぜ〉はなかった。そんな時間的遡及そのものにも、もちろん〈なぜ〉はなくてよい。「直立せよ」への浅はかな理解を自然に超えて行く過程に、意図せず存在する自らの身体を見るのみである。
「無数の〈もし〉の中の一つに選ばれし嘆きの顔ぞ鏡を外れよ」
「機嫌の悪い今日は一本の棒として過さんにああ息の純白」
「言ってみろ君の堕落の質を深さを五月雨の日に誰に問うべき」
「魂極る内に打ち合う石礫六月に入り激しと告げ来」
「あかねさす昼から夜へ飲み通す紫陽花の花咲く昨日今日」
「わいせつの林のみどり色の風さやさやさやに人ぞ恋しき」
(佐佐木幸綱『直立せよ一行の詩』1972より)
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タブレットによる学習者発信教材提示装置の可能性
授業は教室はどう変わっていくのか?
1970年代の学校の教室と現在では何が違うのであろうか?一斉授業形式の机配列など表面上は特段何も変わっていないともいえるが、最近は少なくとも「教材提示装置」などの類は多くの教室に備えられたように思われる。70年代当時にもやはりテレビはあったが、扉付きの箱のような中に格納されていて、NHKの「道徳」番組などを視聴するとか、特別な折しか起動することはなかった。時折、誰かが悪戯して民放チャンネルに”回し”たりすると、教室は特別な空気感に包まれたものであった。そのテレビの用途は、現代では確実に変化したといってよい。「教材提示装置」が接続されるだけで、「実物」を全員に拡大して見せることができるようになり、教科書そのものから学習者のノートの一部、様々なサンプルなどを投影して授業を進めることができる。
さらにはタブレット端末の普及によって、大きな「提示装置」はなくとも同様かそれ以上の機能を展開できるようになった。保存しておいた写真の提示のみならず、教室その場で様々なサンプルを撮影して即座に提示することができる。もちろん動画再生も簡単に実行でき、教室の局所を”生中継”することもできるようになった。この日は、附属学校園との共同研究において、タブレット端末を授業支援システムに接続し、双方向性のある情報送受信をワークショップ形式で体験することができた。各タブレットに書き込まれた情報は「親機」に一括表示されて前面に投影され、特定な二例などを比較提示することもできる。次から次へと書き込む情報は即時更新され、思考の流れがどう変化していくかを指導者はもとより相互に見える化することができる。班別活動をした際に他班は何をどう書き込んでいるかを前面のテレビ画面を見れば把握することができる。もちろん各班が机上で撮影した写真も提示することができて、過程をリアルに実況中継することも可能だ。各班がホワイトボードを使用することと比較して、機能の違いをどう活用するかは、やはり「授業戦略」次第ということになろうか。残念ながらICTの導入に関しては、宮崎県は全国でも後進であると言わざるを得ない状況のようだ。
もう既に多くの子どもたちが家庭でタブレットを扱っている
そしてまた指導者もスマホは生活の一部となっている
教室の外見以上に指導者・学習者の「生活」が大きく変化しているということだろう。
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「なにとなく君に待たるる心地して」宮崎大学短歌会「自由題」
2017-06-21
「なにとなく君に待たるる心地して出でし花野の夕月夜かな」(与謝野晶子)
いつかどこかで読んだことのある・・・
ある街やある駅の景色を見ると、「いつか此処に来たことがある」と直感的に思うことはないだろうか。また夢の中で「また此処に来た」と思える場所を見ることはないだろうか。これは「文学」上の「此処」の場合でも同様で、体験的に「読んだことがある」に出会うことがある。文学理論的な物言いをするならば、我々は「内面の共同体」の上で「文学」を享受しているということになる。そのなんともいえない思い出すような郷愁とか、過去の貴重な経験の反芻によって、人は人生を一本の糸のごとく紡いでいるのかもしれない。このような経験的な「読書」という行為も「国語」が学習者に提供する大きな役割に違いない。とりわけ短歌の場合は、この「読んだことがある」という感覚が起動することで、こころに訴えかける歌に出逢うことが多い。
メールやSNSが全盛の時代にあって、「なにとなく君に待たるる心地して」という感覚そのものが失いかけたものなのかもしれない。だが似たような感情を抱いてメールやメッセージをすると、相手からもほぼ同時に送信されて来たという経験はないだろうか。それはあくまで偶然なのか?それとも”テレパシー”でも通じているのであろうか?そのタイミングが頻繁に一致すればするほど、相性のよさを実感したりするものである。「待つー待たれる」という関係性が「性急さ」へと変質した現代の事情については、哲学者・鷲田清一の著名な評論がある。そのような現代にあってもやはり、「なにとなく」の「心地」を実感することにはある種の深い情趣を覚える。現代社会の性急で高速化した時間軸の中にあって、穏やかにその一点を摘み取るような短歌に出逢うと、実にホッと安心した心境になるのは僕だけではあるまい。
学生たちの歌から感じられた
晶子・牧水らの歌の一節
短歌に出逢うことで「待つ」感覚さえも回復することができるのである。
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