並立する和と漢の声
2017-05-28
「漢詩(からうた)、声をあげていひけり。
和歌(やまとうた)主も客人も、こと人もいひあへりけり。」
(『土佐日記』承平四年十二月二十六日 より)
中古文学会春季大会にて、初日シンポジウム「平安文学における〈漢〉の受容ーその日本化の様相ー」を拝聴した。以前からその御著書に啓発され、SNSでもやりとりをしたことがあった東大教授の齋藤希史氏による「〈漢〉の声ー吟詠される詩文」は、誠に刺激的なパネル報告であった。冒頭に示した『土佐日記』の記述に見られるように、十世紀の日本では「漢詩が吟詠」されていることがわかる。もとより中国でも「学問」と「隠逸」における諸場面で「吟詠」されていたことが資料により提示される。文字が存在するのみならず、それを「よむ人」が存在すれば「声(音)」がともに並び立つということになる。日本ではさらに「訓読」という方法が開発されることでその吟詠と、仏教などにおいては「(中国音)直読」が並立し、まさに「和漢の声」による詩文の「よみ」が存在していたことを考えるべきではないかということである。
齋藤氏は、「漢字を真ん中に置いて、字音と訓読という左右を楽しむ」といった享受の方法があったのではないかと提示し、特に『千里集』(句題和歌)が「意味」と同時に「音」としての転換であったという見方を示したことは、様々に検討する余地はありながらも、新知見として深く考えさせられた。「偸閑何處共尋春」の句題に対して「しづかなるときをもとめていづこにか花のありかをともにたずねむ」(『千里集』春三)や「落尽閑花不見人」に対して「あとたえてしづけき山にさく花のちりはつるまでみる人もなし」(『千里集』春十一)などは従来、「漢詩句」の「和歌による翻案」という見方で済まされていたが、そこに「声(音)」の並立があったとすれば、「字音」かあるいは「訓読」という「漢」の「声」と、「やまとことば」による「和」の「声」を並立させ対峙させることを意識するという、時代の要請による作品であると捉えることができる。「音」は「文字」と違って、特に古代であれば保存することが不可能なわけで、となると必ずこうした並立の場が必要になる。宮廷儀礼を始め「和漢の声」が並立する場を想定すべきであり、そうした場で「和漢」相互の「声」が意識され享受されることで、「字音」「訓読」「和文」が相互に刺激し合い、あらたな日本語の文体を成長させたともいえるだろう。また、江戸中期以降明治時代の漢詩文享受の状況が、近代日本語の形成に大きく関与したことは既に齋藤氏の御著書『漢文脈と近代日本』(NHKブックス2007)で示されている。その延長上に和語の使用率の高い若山牧水の短歌などを置いたとき、この時代なりの「和漢の声」の交錯があって、明治のあらたな時代の短歌の生成についても、こうした観点から考えてみるべきだという視点を個人的にはもった。もちろん平安朝と明治とはまったく同列には扱えないことは自明であるが、「漢」が重視されたことから生成される「和」という意味で、両時代を相対化してに考えることが有効であることに気付かせてもらった。
「声」を失った時代から考える
「和漢」の「声」の並立による日本化
懇親会での会話を含め齋藤氏から多くを学んだ一日であった。
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