わがほどのちひさきもののかなしみのー牧水の孤独
2017-03-31
「わがほどのちひさきもののかなしみの消えむともせず天地にあり」(若山牧水『独り歌へる』より)
「天地(あめつち)」とは「根源的な宇宙の母胎」
次年度後期よりWeb上で受講できる(登録した学生のみログイン)配信講義「みやざきCOC+」を担当する。本学の基礎教育科目として、また宮崎県の他大学の学生たちも受講でき、「地(知)の拠点づくり」を意図した企画である。その配信講義製作のための、PCソフトの扱い方の説明を受けた。音声・文字・動画を駆使して、通常の大学講義のように1コマ90分を構成する。以前に地元宮崎放送のラジオ番組に出演したこともあるので、試験的に吹き込んだ音声に対して、担当者の方も概ねOKを出してくれて、今後の製作が楽しみになった。もちろん内容は「短歌県みやざき」に関するものである。前半5コマは、若山牧水の短歌と宮崎との関連についての内容。こうした意味でも、牧水の歌をテーマ別に読み選歌しておく必要性がある。小欄を活用して、その覚書を記しておこうと思う。
冒頭の掲出歌は、根源的な人の「かなしみ」を詠ったもの。伊藤一彦氏『あくがれゆく牧水 青春と故郷の歌』(鉱脈社2001)に指摘されているが、菱川善夫によればこの「天地(あめつち)」の語は「根源的な宇宙の母胎」を表すのだという。その前提として牧水生家のある地域の風習として、生まれるといったんは路傍に捨てられたという体験から「捨子意識(孤児意識)」があり、それが著名な「白鳥は哀しからずや・・・」の歌などに反映されているという菱川の考え方が紹介されている。牧水のような体験を経ずとも、人はみな「孤独」な存在である。哲学的な物言いでは、「独りで生まれ一人で逝く」宿命があると云う。それゆえに「生」を受けている間にこそ、「他者との愛情」にこだわり実感して存在していくものであろう。牧水青春の歌には恋した小枝子への熱い愛情が詠われるものも多いが、それはまさに「孤独」の裏返しといえよう。人は「独り」で生まれて、初めて「母の愛情」に触れる。自らを育む「母胎」への意識。「孤独」ゆえに歌を詠むのだとすれば、その根源に「母」に対するテーマが必ず存在しているともいえよう。我々は例外なく「愛情」を求めるのは、そういうことかもしれない。
両親の結婚記念日ゆえ母へ電話
僕自身の「根源」が起動した大切な日付
「生きる」とは「愛する」ことを実感しながら
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自分の時計は持っているか
2017-03-30
他者の時計では時間は無為に過ぎていくだが、自分の時計を持てば満足な経過を
時間に支配されるか時間を我が物にするか
ある知人のFBに冒頭のようなことが記されていた。毎度、ご本人はご多忙にもかかわらず、たいそうな読書家で常に多分野の書籍を読んでいる。現在は城山三郎『よみがえる力は どこに』であり、その中から「時間」について一部の引用があった。「自分だけの時計を持て」誠に至言であり、即座に意識したいものだと思いここに覚書としておく。時間を意識できない、意識しない時がある。「時間」に追われていると前向きな意味で時間を意識できず、ふと我に返れば「こんなに時間が経過していた」と気づき、次なる焦燥感に駆られるような状況となる。だが行なっていることに集中するあまり、時間を意識しないでいると、我に返った時に穏やかな気持ちでいられる。「自分だけの時計」が起動しているというのは、後者のような状況であろう。
ジムでヨガのレッスンを受けていると、誠に「そこだけの時間」に居るような気持ちになる。というよりは、「其処」にある時間さえも忘れているといった方が適切かもしれない。薄暗い中、レッスンの最初に行なう軽い瞑想で、明らかに「人為的時間」が消去され、気づいた時には60分が終了しているといった感覚である。その間の呼吸への意識をはじめとして、自らを内観し身体を動かすことで、心の在処を落ち着かせるような所業である。生活の中でも、このヨガ終了時と同じような感覚に至ることがある。朝のルーティンをこなしている間は、ほぼ物理的な時計を見ずとも「今の時刻」が身体的に分かる。「時計」というものが刻むのはあくまで「物理」であり、実質的な「時間」というものは、心のうちにあるものだ。自らが「生きている」ゆえに、これだけ「時計の針」が進んだというだけである。
現代人の時間意識
有限かつ無限な不可逆的存在
短歌は「時間の錘(おもり)」だと、永田紅という歌人が云った。
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整理と引き継ぎの思考
2017-03-29
研究室の今年度分の整理を進める学内の仕事も次年度への引き継ぎが
研究・執筆・創作もこうした思考が必須かと
春休みながら年度最終週は、重点的に研究室の整理を進めている。本年度のレポートや授業レビュー、様々なファイルにある記録の整理・保管をして、次年度の講義に支障のない環境を整備する。不要な書類はシュレッダーに破棄し、引き出しや保管庫を整えていく。それでも昨今は、教授会をはじめとして資料のペーパーレス化が進み、だいぶ資源の無駄使いは少なくなったように思う。このような行動をしていると、この1年間を振り返る思いが湧き上がってくることがある。特に学生たちが講義の最後に肉筆で書いた担当者へのメッセージなどを読み返すと、自らがやってきたことが報われた思いとなり、奥へ仕舞い込まずに見返せる位置に保管したりもする。「印字」ではなく、肉筆の「文字」の意義を再考するひと時でもある。などという感慨に浸ると整理は滞るのであるが。
学生時代に読むべき書籍のベストセラーに、外山滋比古『思考の整理学』(ちくま文庫)がある。複眼的視点で物事を捉えて知的生活を勧め、思考をいかに整理し表現するかを説いた好著である。学生諸君でこの書物を知らない者は、急いで人の知らぬ間に読了し、「当然知っています」という顔をして欲しいほど、基本中の基本の書籍である。書名に示される通り、内容は「整理学」である。研究をはじめ執筆・創作となどの知的活動は、「整理」することでもある。「文章」は「思考」を表現したものであり、それが他者に伝わらなければ意味を持たない。「伝わるか」「伝わらないか」を自ら判断できる客観的な視点が求められる。また、研究・執筆・創作いずれも、「運動」と同じように絶え間なく「続ける」ことが上達の秘訣でもある。この1年半ほど「短歌」を創り始めて、誠にそれを実感している。そしてまた、「短歌」という表現に自らの「心」を収斂させるのもまた、「思考の整理」と「言語表現」を擦り合わせる所業に他ならないだろう。
デスク周辺はほぼ終了
本日は棚の整理を予定している
進めるごとに「知的生産意欲」が倍増するように感じている。
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われ春風に身をなして
2017-03-28
「願はくはわれ春風に身をなして憂ある人の門をとはばや」(佐々木信綱の歌から)
短歌によって憂をはらすということ
ゼミの卒業生に、毎年一冊の本を贈っている。例年は谷川俊太郎さんの詩集を贈っていたが、今年は伊藤一彦先生の『短歌のこころ 実作と鑑賞』(鉱脈社2004)とした。表紙がハードカバーであることが選択の条件でもあり、めくった厚紙の余白頁に「祝御卒業」とともに格言と署名を記している。教員となるゼミ生たちが何年経っても、ゼミでの学びを忘れずにいて欲しいと願うゆえである。伊藤先生の当該書籍「第二部 短歌を読むー鑑賞へのいざない」冒頭に、書名とされた「短歌のこころ」の項目がある。「私たちは、なぜ歌を詠むのか。」という自問自答で始まり、「ともあれ、作歌を持続してみること」の重要性が述べられている。作歌の「意味は?」「自分の才能は?」と考えているよりも、まずは「歌を創り続けること」そのものに大きな意義があるということであろう。考えれば考えるほど、人は物事に躊躇しがちであるが、「まずはやってみなければわからない」のが人生である。「やろうかどうしようか」と迷ったら、明らかに「やる」選択が人生を豊かにするはずである。
小欄冒頭に記した信綱の歌は前掲頁に引用されたもので、「春風に身をなして」を自らの願いとして、「憂ある人の門」を訪ねて、作歌を「熱心にすすめた」ということである。同頁には信綱の「歌のこころ」が引用されているので、小欄でも覚書として紹介しておこう。「歌は美の宗教である。歌によって、人のこころは清められ、高められ、深められ、又、やはらげられ、慰められ、はげまされ、歌をとほして、人は永久の生命にかよふことが出来る」とある。まさに信綱のこうした歌から、我々は「永久の生命」を感得することができるのである。「憂をはらす」のみならず、「清められ、高められ、深められ」とあるのは、昨日小欄に記した横綱稀勢の里の姿勢にも通ずる。ただ「相撲」をすればよいのではなく、自らを「清められ」る姿をファンの前に示してくれたからである。生きていれば必ず憂がないわけはない、だがしかし「歌」として「ことば」にすることで、僕たちは「現在も過去も未来も」変えることができるのである。卒業生たちにもぜひ、こころ豊かな教員生活を送ってもらいたいと、僕も「春風に身をなして」願うのである。
今年はなかなか暖かくならない
卒業生たちも新天地へ準備を進めていることだろう
「こころ」は「春風」ながら、「身体」は研究室の資料整理に徹した1日。
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横綱稀勢の里の優勝に思う
2017-03-27
横綱稀勢の里優勝昇進時の「精進」を有言実行
物事は総合的に見てから判断せねばなるまい
昨日小欄に書いた記事を、聊か訂正しなければなるまい。大相撲春場所千秋楽で、重い左肩の負傷を抱えながらも、横綱稀勢の里は大関照ノ富士に勝ち優勝決定戦に持ち込み、そこでも堂々の相撲で2番連続で勝ち優勝を決めた。前日14日目に負傷を押しての相撲は、あまりにも力なく状態は厳しいと誰の目にも映ったはずだ。だが、この日は痛みさえも感じさせない相撲を見せたが、さすがに優勝賜杯を抱く時には、顔を顰める場面もあった。「怪我を押して」には賛否があろうが、これぞ横綱昇進時に稀勢の里が一言素朴に述べた「精進」の体現ということだろう。「精進」とは元来は仏教語で、『日本国語大辞典第二版』によれば(1)ひたすら仏道修行にはげむこと。(2)「転じて、一定期間、言語・行為・飲食を制限し、身を清めて不浄を避けること。」(4)「一生懸命努力すること。」(5)「品行をよくすること。」(一部記述を割愛)などとある。この日の稀勢の里の水を受け塩で清める姿には、まさに相撲とは何ぞやを考えさせる迫力があった。
それにしても「勝てる」という予想は、誰もがしなかったであろう。むしろ対戦相手の照ノ富士の表情にこそ、大きな油断が生じていたように思われる。物事は最後まで、その結果はわからない。あらためて、総合的に見てから判断する必要性を学んだ気がした。怪我を押してが、周囲からの強要や「空気」によって為された訳ではなく、あくまで自身との対話と矜持をもっての決断であったゆえの結果であろう。欧米ではこうした場合に、まったく合理的な判断がされるかといえば、そればかりではない。1988年ワールドシリーズ初戦のドジャース対アスレチックスの一戦は、9回裏アスレチックスが4対3でリードして守護神の登板。走者1塁の場面でリーグチャンピオンシリーズで足を負傷したカーク・ギブソンをドジャースの名将・ラソーダ監督は代打で起用した。1球2球目の空振りスイングを見るに、軸足の痛みが激しそうで、誰もが打てる望みは薄いと感じたことだろう。だがギブソンはファールで粘り続けるうちにタイミングが合いだし、フルカウントまで粘った後に逆転サヨナラ本塁打を右翼席に放った。そのスイングは、ほぼ左打者の右側壁一枚(つまり右手・右足のみで打つような変則スイング)で持って行ったという印象であった。ギブソンは足を引きずりながらダイヤモンドを一周し、歓喜のチームメイトが出迎える本塁を踏んだ。結果的にこのワールドシリーズは、ドジャースが制することのなるが、ギブソンの打席はこの1打席のみであった。プロ意識の打撃と「精進」の一差し、可能性を信じて諦めないということは、自らを十分に客観視できてこその所業であろう。
短絡的な判断こそ愚かなことはない
焦らず「いま」の自分を見極めていくこと
稀勢の里の優勝が多くの人々に勇気を与えたことは言うまでもない。
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休まないことと勇気ある撤退
2017-03-26
横綱稀勢の里左肩の状態は本人しかわからないとか
休場せず取り組みをする姿勢やいかに
個人的には、基本姿勢として「休む」のが嫌いなたちである。中高一貫校在学時には、「6ヵ年皆勤賞」なるものをいただいたほどである。現職教員となってからもほとんど「病欠」した記憶はない。だがそれはあくまで、「無理」をして成し得た訳ではない。「学校に行きたい」という気持ちに突き動かされて、病気もしないから結果的にそうなったのだと思っている。社会人となってからは、むしろ信念をもって生きる上で「必要」だと思った際には、「仕事」よりも自らの「心」に従うこともあった。その柔軟な見極めというのも、とても大切であると実感している。こうした個人的な考え方もあって、大相撲春場所で横綱稀勢の里が、左肩の負傷を押して出場したことには、ある種の深い思いを抱いた。少なくとも前日の取り組みで負傷した際には、かなりの怪我だと誰もが思った状態であっただろう。だが、本人は怪我の状態などへのコメントは控えて、この日も「出場する」ということを親方も認めたのだと云う。ニュースでも放送局によっては冒頭あたりでこの事態を報じ、ファンが稀勢の里の状態を案じながらも期待するコメントを寄せていた。
両親が自宅に滞在している時以外は、あまり大相撲中継を観ないのであるが、この日は4時半頃からテレビの前に陣取った。土俵入りに関しては、まず問題なく同じ表情でこなしている稀勢の里関。自ずとファンの期待も高まり結びの一番を迎える。懸賞は17本が土俵上を巡り、映像の関係で数え切れなかったが2巡目もあったので、その倍の数ほどの懸賞があったのだろう。稀勢の里への期待の高さが、この数に表れていた。いざ取り組みとなり稀勢の里の開始までの動作や表情は、普段と何ら変わらない。まさに”ポーカーフェイス”、喜怒哀楽や痒い痛いは表面に出さないのが、稀勢の里の信念であり美徳とされている点であろう。そして横綱・鶴竜との取り組みが開始されると、ほぼ数秒かで稀勢の里は力を入れることなく土俵外に押し出されてしまった。もちろん、負傷した左側をかばうようにである。ファンの期待は、溜息に変わる間もなかった印象であった。
さて、稀勢の里関を批判する気は毛頭ないことをお断りしつつ、聊か思ったことを記しておきたい。素人ながら「肩・胸」は、相撲にとって誠に重要な身体箇所だろうと思う。今回の「強行出場」は、医師の診断の埒外で本人が決断したことであろう。懸念されるのは「筋断裂」などであろう症状が、今後の関取生命に致命的な打撃に至らないかということである。新横綱の場所であるゆえの責任もあるだろうが、今後を長い目で見た際の責任もあるはずだ。その後、ある放送局のニュースを観ていると、ファンの方が「神風が吹くのを願っていた」とコメントしていた。満身創痍の状況で撤退ではなく抗戦し、あらぬ「奇跡」があるだろうと願う精神構造が危うい、ということを我々は痛いほど知っている筈である。野球などでも同じであるが、肩が痛い素振りを見せずに考え難い球数を投げ抜くことや、デッドボールに当たった際も痛い素振りを見せないことが、果たして選手として妥当な姿勢なのかと疑うこと多い。むしろ「痛いものは痛い」と言える勇気ある撤退こそが、個人を追い込まない社会のあるべき構えではないのか。この国の隠蔽体質は、こんな点にも関連しているのではないかとさえ思うのである。いずれにしてもスポーツならまだ、「尊い」と言えるのであるが。
残業問題、教員の部活指導など休日の扱いについても
休まず仕事に身を投じることを美徳とする体質に起因している
稀勢の里関が大横綱として、長く活躍し続けることを願うばかりである。
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卒業するゼミ生へー豊かな人間性をもった教員たれ
2017-03-25
卒業証書授与式にあたりゼミ第3期生5名を送り出した
毎年のように思う自らの指導の定点観測日
宮崎大学・大学院の卒業証書・学位記・修了証書授与式が、シーガイアコンベンションセンターで挙行された。今年度は教務担当ということもあって、受付の仕事があり早朝より会場へと出向いた。次第に卒業生たちが受付台の前にやって来る。専攻の学生のみならず、講義科目で担当した学生たちが華やかな衣装に身を包み、人生の大きな節目の日を迎えたのだという感慨が込み上げて来る。その顔・顔を見ていると、講義の発表でこんなことを発言したとか、こんな作品を朗読発表していたとか、個々の記憶が穏やかに蘇る。一講義担当者として、どれほどに個々の学生たちの「記憶」として「学力」として、何かが遺っているかというのは、実はとても重要ではないかと思う。小中高校とは違って遥かに多くの担当者の講義を受ける大学であるからこそ、その内容がどれほどに学生のこころに浸透しているかは、「授業アンケート」などの形式以上に講義内容の意義を表すのではないかと思うゆえである。またそれは講義内でどれほど多くの対話があって、担当者として受講者と関わった度合に左右される。聊かそんなことを考えながら、受付で式次第などを卒業生たちに手渡した。
宮崎県内小学校2名・中学校1名、大分県中学校1名、兵庫県小学校1名という内訳で、ゼミ生5名のすべてが4月から教員として現場の教壇に立つ。ゼミとあれば卒論指導が中心であるが、それと同等に様々な「体験」を提供し、現場の教壇に立つ際の「糧」を提供したいと強く思っている。更には大学生として社会人として巣立つにあたり、人間的にどれほどに成長するかという点もゼミ指導の役割ではないかと思われる。よって研究室内での活動のみならず、短歌関係のイベント・芸術家派遣活動・公開講座補助などへの参加を通して、多くの分野の人々と出逢う機会を多く持つようにしている。人は出逢いの数だけ、人生が豊かになるはずである。たとえ当初は「違和感」を覚えたとしても、それが刺激となって人間としての厚みとなって来る。仲間内というのは、分かり合えて助け合う人々として有効であるが、内輪のみに安住していると、知らぬ間に頽廃への馴れ合いが生じてしまう。「可愛い子には旅をさせろ」の諺通りに、異質なものと出逢う経験を学生時代にすることが実に重要だと思うのである。「授業」の技術に長けるのみならず、何より人として信頼される教員となって欲しい。「豊かな人間性をもった教員」それがゼミで学ぶ主眼であり、僕自身の信念でもある。
1週間後は「先生」となるゼミ生
彼らからは、僕自身の現場経験が豊富な点を称えてくれる言葉も
このくにに豊かな人間性を諦めないためにも、一人一人の教員を育てる決意もあらたに。
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「詩的現実」なら美しいのだが
2017-03-24
「昨夜(よべ)ふかく酒に乱れて帰りこしわれに喚(わめ)きし妻は何者」(宮柊二『晩夏』より)
「のんで帰った時の俺の気持ち」即ち「詩的現実」であると宮は謂う
冒頭のような宮柊二の短歌があり、実際に妻に問うと「喚いたことなんてないじゃありませんか」と言うのに対して宮は「詩的現実」であると答えたという逸話を、伊藤一彦氏の『短歌のこころ』(鉱脈社2004)に教わった。宮の妻の述懐に拠れば、酒に酔って帰宅する際に夫は「悪いな」という気持ちを抱き、それがやがて「おっかないな」になり「仏頂面」で帰宅するのだと云うことが紹介されている。短歌というのは、特に近現代短歌は、必然的に「われ」を創作主体とし、その「現実」=「日常生活」を題材にしているゆえに、「詠んだ」内容を事実として考えがちである。実際に毎月の歌会でも、とりわけその後の懇親会の場で、何処で詠んだのか?とか、相聞歌の内実などが問われることも多い。
毎月の歌の投稿があるゆえに、最低でも月に8首は歌を創り批評の場に提出している。この「創り続ける」ことは、どこか身体鍛錬にも似て、継続することに意味があると実感を持つようになった。それらの歌の推敲をしていると、自ずと「詩的現実」が起動し始めることも感じるようになってきた。もちろん題材は「日常生活」の中に取材しているのだが、その「現実」としての「過去」を、より美化したことばとして紡ぎ出す行為をしているのである。まさに「詩的」に「あそぶ」といった感覚となり、その最中の思考は実に面白い。などと短歌を楽しみながら、巷間のニュースを目にすると、まったく何が「現実」なのかわからない混線した状況が窺い知れる。まさに「政的現実」というものでもありそうな、感覚の差異をもってした「証言」と「否定」の応酬合戦である。「美しさ」を彼方に忘却してしまった人間の弁舌は、誠に空疎な限りである。
こころの豊かさを拡げる短歌
今月の「詩的現実」も投函した
ことばは、本来美しいものだと信じる人でありたい。
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4度目のWBCに寄せてー「野球」は社会を映しているか
2017-03-23
WBC準決勝敗退再び「世界一奪還」などという標語が空しい
今の日本野球に求めたいことなど・・・
2013年WBC前回大会に続き、日本代表は準決勝で敗退した。しかも、06年大会で「世紀の誤審」を契機に敗退したが、失点率で生き残ったあの因縁ある「米国代表」が相手である。09年大会では同じく準決勝で快勝して韓国との決勝に進み、”あの”イチローの決勝打に結びついた。イチローといえば、今やMLBの選手の中でも殿堂入り確実で尊敬される存在である。振り返れば06年大会でもイチローは対米国戦初回に先頭打者HRを放ち、「日本代表」チームや我々ファンに「米国代表」とも対等に渡り合えるという勇気を与えてくれた存在であった。隙のない走塁、俊敏かつ堅実・強肩な守備、そして緻密な精度を満たした打撃、そのすべての要素において、「日本野球」が求めるべき理想像なのである。そしてもちろんMLBの経験を存分にチームメートに還元し、「米国」などへの劣等意識の払拭や、ライバル「韓国」と闘う姿勢を鼓舞する役割を担った。それゆえに当時の日本代表の選手たちからは、尊敬し慕われるリーダー役であったことは間違いない。この2大会連続優勝は、采配や好運という要素以上に、イチローという存在を日本球界が生み出していたことが大きかったのだと、今にして回顧するのである。今回前回の2大会で準決勝敗退が続いているのは、決して偶然ではないと思わざるを得ない状況だと思われる。
プロがプロたる所以、プロ中のプロであるか?一打一球における勝負の重み。そんな緊迫感を久しく「日本野球」では、観られなくなっているような気がする。往年の巨人対中日10.8決戦、日本シリーズやシーズン中にしても、「伝説化」するような名勝負が随所で繰り広げられていた。もしかすると稿者の思い込みで、日本野球をあまり観ていないからかもしれない。だが、こうした国際大会の際に観る「日本代表」のあり方にあまり心が踊らないのは、結果と比例して何か決定的なものが欠如しているからではないかと思わざるを得ない。勝負の結果に、「仕方ない」というのは簡単である。この日も、何人かの友人とやりとりしてこの言葉を目にし耳にした。だが敢えて緻密に昨日の準決勝を観たとき、日本の誇る投手陣が好投した中で、日本野球においての守備では名手であろう選手らの失策は、甚だ痛恨なものを感じた。なぜなら、その失策の動きそのものが、室内ドーム球場の人工芝に慣れ切った身体の為せる技だと思ったからである。箱庭の中では天候条件にも左右されず、受身でも安定して打球が守備者まで届く。だが雨と天然芝という可変的な自然環境では、自ら打球を捕球する能動的な動きが求められると思うのである。そして初回大会から11年の月日が経過するにも関わらず、ボールの違いへの適応如何を喧伝するメディア。(さらには芸能人レポーターの野球への無知。)この「過保護」な環境の延長線上に、ファンの発する「仕方ない」があるような気がしてならない。音楽を奏して一斉な掛け声をかける応援も、一つの楽しみ方であるが、やはり「野球」そのものを、どれだけ緻密に観るかというファンの次元が、その国の野球レベルを左右するような気がする。MLB現地球場でかなりの数の試合を観てきた経験からいえば、ファンは応援するチームの選手に「仕方ない」とは決して言わない。納得しないプレーには、野次やブーイングが乱れ飛ぶのを目の当たりにした。その妥協・迎合しない真に応援するファンの姿勢があってこそ、日常の試合に緊迫感が生まれる。考えてみれば、畏敬すべき自然を感じない箱庭での様々生活や教育、「仕方ない」と政治にも社会にも向けられる諦めの視線。嘗てON時代の野球が「昭和」の「気分」を映していたのと同様に、「日本代表」の姿は現状の社会を映し出しているのかもしれない。
ついつい長くなってしまった
野球ファンとして、では何をするかを考えたい。
日本代表が国内で、天然芝の屋外で実施した強化試合は宮崎だけだったと中継が伝えていた。
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年齢なんか「ただの数字じゃないか」
2017-03-22
“Just a number”「年齢を考えたこともないし、歳をとるとも思っていない。」
(城山三郎『よみがえる力は、どこに』から、リチャード・バックとの会話より)
知人がFBへの投稿で、冒頭のような城山三郎の講演録の一部を引用していた。城山が「かもめのジョナサン」の著者であるリチャード・バックに会った際の会話であると云う。確かに人は、「ただの数字」に過ぎない「年齢」に囚われてしまいがちである。だが「年齢」とは、生まれてからの「時間」を「ただの数宇」に置き換えて示しているに過ぎず、その人の本質を表しているわけではない。今まさにこうして小欄の文書を綴っているのは、その内容に意味があるのであり、「書いている」時間がどれだけ経過しているかを、概ね問題としない。翻り、お読みの方々においても、その内容に入り込めば入り込むほど、「読むため」の時間経過を問題としない筈である。「充実した時間」というのは、むしろその「時間」そのものに対して「無意識」になった時に他ならない。「この年齢」だから「こうである」のではなく、「我を忘れて生きている」ならば、「ただの数字」であると言い切れるのであろう。「時間」を意識するゆえに、空疎なことしかできない時ほど、つまらないと感じることはない。読書でも表現活動でも、これは同じである。
6日間に及ぶ在京を終えて宮崎に帰った。丸四年という宮崎での「時間」を意識する場合もあれば、あの時と変わらぬ希望が胸にあることにも気づかされた。毎年、宮崎を訪れてくれる落語家さん、宮崎に至る直近の混迷した道程を支えてくれたお店の方々、中学校時代の恩師と同級生、大学院研究室の先輩後輩、そして生まれてから常に見守って来てくれた両親、こうした人々とあらためて語り合うことは、「時間」を遡求することではなく、「今」を見定めるためのように思えて来る。記憶も思い出もまさに「今此処」にあるのであって、「年齢」という「数字」の中に閉じ込められているわけではない。会いたい人と会う時の「時間」などは、言うまでもなく「無意識」の領域である。昨今はスマホの普及によって、その都度の「事実」を写真として記録しやすくなったが、肝心なのは「静止画」なのではなく、「こころの動き」ではないかとも思う。それゆえに小欄のように日々の思いを綴る必要もあるのだと再確認する。最終日は冷たい雨の降る東京。秋10月に宮崎で開催する学会の打ち合わせを、事務局担当の先生と行う。美味しいランチを伴ってのそれは、誠に充実した内容で秋への希望が倍増した。「食べながら」の行為が、まさに「時間」という「数字」を消して、満たされていく階梯を登るがごとく話し合えたゆえであろう。
宮崎に帰ると偶然に親友と出会う
「ただいま」とともにまた「今」を生きる
「時計の針」という「装置」に囚われず、「今」踏みしめている地点を歩くのである。
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