ことばによって創られる時間

2017-02-28
過去も未来も現在も
ことばによって創られる
「時間の錘(おもり)」をつけるために

歌人・永田紅が「時間の錘」ということを言い出したと云う。こうしている「現在」も「時間」は絶えず流れ去り「現在」は順次「過去」になっていっている。どんなに足掻いても、その「流れ」は決して止めることはできない。こうした文章も「現在」が創り出す「過去」であり、その過程においては常に「未来」が志向されているともいえよう。その止めようのない「時間」に「錘」をつけるのが「短歌」だと云うこと。そして「短歌」が「人生」を映し出すというのは、「現在」の「私」を形成しているはずの「過去」を、ことばによって切り取り保存することで、「未来」においてももう一度認識することを可能にするからだ。もとより「現在・過去・未来」などという「時間」があるのではなく、それを形成する「ことば」があるのだ、と言っても過言ではない理論さえある。

「現在」は決して断ち切れることなく「過去」に根ざし、そして「未来」そのものとして現前に示されていく。となれば「現在・過去・未来」は個々に作用し存在するのではなく、一体化した得体の知れない「時間」という概念だともいえるであろう。その「現在・過去・未来」が妙に一体感を持って思考の中で融け合う時間がある。それは僕にとって「泳いでいる時」である。水中での感覚そのものが「非現実的」でもあり、簡易に「重力」からも解放される。最初の10分ほどはまだ「現在」を引きずっているのだが、次第に身体がプールの水に馴染み始めると、ことばにできない「幸福感」を覚え出す。すると思考の舞台上で、様々な「現在・過去・未来」が演じ手となって躍動し始めて、それを自然と「ことば」で切り取りたくなってくる。その間、身体は常に自由形(クロール)の動きを続けている。あるい意味で、その身体性が「現在」に「錘」をつけて、勝手に先に進まないように引き止めるべく足掻いているのかもしれない。そんな作用に身を浸しながら、昨晩も45分間という「現在」を水中で過ごし一首の短歌ができた。

「ことば」そのものが「過去」
しかし「過去」は確実に「未来」を創る
「現在」の己を捕捉するために大切なこと。
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魂一つここに生きゐて汝が声を聴くー短歌と声ふたたび

2017-02-27
「夜半の海汝(な)はよく知るや魂一つここに生きゐて汝が声を聴く」
(若山牧水『海の声』より)
短歌と声についてふたたび

昨日に引き続き、牧水若き日の恋の歌。歌というのは面白いもので、以前に読んだ時にはそれほど心に留めない歌でも、再読した際の状況や時節によって、深く心の底に共鳴するものである。若き日の恋というのは誰しも苦い思い出もありながらも、忘れ難い経験として心のアルバムの1ページを飾っているのではないだろうか。でき得るならば「あの日」に戻って恋に乗じてみたならば、「その時」よりは上手く振る舞えるかもしれないなどと、戯れた思いまでもが起動するものである。思い返すに学部時代に学生合宿の送迎車内で、佐佐木幸綱先生から「失恋でもすれば歌が詠めるよ」と個別に声をかけていただいたあまりにも贅沢な経験がありながら、歌を詠むのが「ここ最近」になってしまったことに聊かの後悔を持ちながらも、「恋」は年齢に関係ないなどということも考えたりする。

『短歌往来3月号』(ながらみ書房)に掲載いただいた評論の反響が聴かれるようになった。「歌が口から離れて視覚情報偏重になってしまったことを再認識した。」といった趣旨の感想を聴く。「自作歌の読み上げが上手いか否かで、『調べの良さは七難隠す』といった批評が歌会でなされる。」などもあるが、「調べ」が「難」を「隠す」のではなく、「調べ」そのものが「短歌」の重要な骨組みであると考えたい。また「朗誦」の「誦」の文字は「踊」にも通じるので、「歌は声でするダンスで、「踊る」ようにはつらつと声にするのが歌なのでは。」といった感想もあった。漢字の偏と旁との類同性に着目した意見であるが、漢字表記に注目できるようになったのも「文字表記」を「読む」文化が奥深く日常に根付いていることを感じさせる。「声の文化」の眞相というのは、こうした「現代」の抱え込む日常性の埒外にあるのだと思う。こんなことを考えると、あらためて牧水の歌が心に深く沁み入るのである。「汝が声を聴く」のは「魂一つここに生きゐて」いる「我」ということ。眼前には「夜半の海」が虚像か実像か、波の音を伴い一面に広がっている。「海の声」も聴きながら「汝が声」を聴く牧水のやるせない恋心がたまらなくいい。やはり「恋」というのは、お互いの「生きゐて」いる「魂」を向き合わせて、その表出たる生の「声」を聴き合うことなのだと、つくづく感じ入るのである。

「文字」に「魂」はあるか
やはり生の「声」ほど「魂」が感じられるものはない
牧水の歌は、明治以降の近代における「病弊」をも炙り出してくれるのである。
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海そのままに日は行かずー牧水と小枝子

2017-02-26
「ああ接吻(くちづけ)海そのままに日は行かず鳥翔(ま)ひながら死(う)せ果てよいま」
(若山牧水『海の声』より)
牧水若き日の恋歌

先週、延岡の城山公園にほど近い内藤記念館で開催されている特別展「牧水の生涯」を観た。多くの書簡・色紙・歌幅などで牧水の肉筆を読み、あらためてその歌の声が胸のうちに蘇るような思いになった。延岡は牧水の第二の故郷ともいえる地で、11歳で東郷町から延岡尋常高等小学校に入学するために出てきて19歳で延岡中学校を卒業し早稲田大学へ進学するまでの8年間を過ごしている。「なつかしき城山の鐘鳴りいでぬをさなかりし日聞きしごとくに」の歌は有名で、その後の牧水が延岡に帰った際に、この8年間で染み付いた街の風土を懐かしむ歌である。その城山公園の鐘撞堂まで登り、今も延岡の街に時を告げる「午後3時」の鐘を間近に聞き牧水の郷愁に寄り添ってみた。さて展示の筆跡を追うのも楽しかったが、かなり印象的に胸に迫ってきたのが、牧水が若き日に恋した園田小枝子さんの写真であった。以前にも牧水記念館や書籍で眼にしたことはあったが、妻となった喜志子さんの写真などと並べられている小枝子さんの肖像には、強烈な妖艶さを感じてしまったのだ。

冒頭に掲げた一首は、牧水が小枝子さんとともに千葉県根本海岸に滞在した際のもの。永田和宏著『人生の節目で読んでほしい短歌』(NHK出版新書2015)にも「恋の時間」に採られている。初句字余り「ああ接吻」の衝撃的な詠み始め、この二人の絶頂の時間だけがこの世界を支配しており、「日」も「そのまま」に止まり、「鳥」も翔びながら「死せ果てよ」といい、まさに二人の「いま」だけが永遠たれと詠むのである。牧水歌の主題として「自然」は重要だが、それをすべて超越して小枝子さんとの「いま」の「接吻」だけが光り輝く歌に仕上がっている。ある意味で、牧水でなければ詠めない歌ともいえるが、第一歌集にこうした情熱的な恋愛を題材にした歌があるのも貴重である。前述した永田氏も著書の中で述べるが、「若い人たちが短歌を知り、興味を持って、そんな時期だけの〈時間〉を大切に詠ってほしいものだと思わずにはいられません。」と述べている。そう、熱い恋愛感情は「若き日」にしか詠めないのである。などと考えて、あらためて小枝子さんの肖像写真を見て、どうやらその写真に「恋」をしてしまいそうな感覚になった。されば、牧水の歌を「人」の観点から読み直してみようなどと考え始めている。

今しかない〈時間〉
それを歌にしてことばとして刻み付けておくこと
〈時間〉はことばの力で止めることができるのだ、と知った。
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求めるものは正解と効率化だけか

2017-02-25
「その批判は当たらない」
だから、なぜどのように「当たらない」のかが「議論」
個々の意見が違うからこそ、対話して擦り合わせて生み出すということ

「生き方に正解はない。」といった趣旨のことを、講義で折あるごとに説いている。大学生になっても「最後に先生の言う正解」があるのではないかという姿勢で、自らの頭で考えようとしない傾向が学生たちに覗き見えるからだ。高等学校で大学入試対策の授業に明け暮れ、センター試験のような客観式問題であれば、いずれかの選択肢が「正解」となるので、そうした思考態度になっているように思われる。「用意されたもの」から「選ぶ」ことと、「白い紙の上」に「自らの思考を描く」のとでは、その過程に大きな違いがあるだろう。例えば、レポートなどでも、題材たる小説・詩歌などを提供して、「自ら」を起ち上げて「問い」を創り、そこから「思考」を展開する方式を採ると、「どのように書けばよいでしょうか?」といった質問に来る学生がいる。やはり彼らは「選択肢」が欲しいのである。だがしかし、その「正解」があるはずの「選択肢」が極端に偏っていたらどうするのだろうか?「本意」ではないけれども、「枠内」からやむを得ず選択するという行為は、誠に危うい思考を助長してはいないだろうか。

国会など仮にも「議論」の場でありながら、「その批判は当たらない」といった答弁が甚だ気になっている。特に理由を述べるのではなく「あなたの考える範疇でわたしは考えない」といっているようなもので、「自らの考える選択肢の枠内」でしか物事は考えませんと言うのに等しい。元来、「議論」する必要があるのは「個々の意見がみんな違う」ことから、多様な角度で複眼的に物事を解決に導くためなのではないだろうか。「議論」にも何らかの「正解」があって、その一点に向かって効率化を図って進められるべきものと考えられているとすれば、それは「茶番」に過ぎない。「スピード感」「迅速」「効率化」という語彙も、やはりこの「茶番」の促進に機能を発揮する。「選択肢以外は議論の対象にならない」という排他的な発想が、「創造」にはほど遠いのは明らかであろう。たぶんこうした「選択肢の枠内」という思考が蔓延している状況を、我々市民が見逃してきてしまったことが、例えば「豊洲市場」の問題などとして露出してきているようにも思う。その「茶番」が「茶番」で上塗りされないよう、僕たちは注意深く自らの頭で考える必要があるのではないだろうか。

「間違って」こそ初めて見える道がある
「寄り道」をしてこそ一生一度の光景に出逢えるかもしれない
「生きるということ いま生きているということ」
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「音読」は自他に向けて放つ

2017-02-24
音読は誰に向かって為されるか?
他者に伝えるとともに己に聴かせている
自らに語りかける声を聴いて連繋思考が起動する

芸術家派遣事業最終日。もう慣れ親しんだ道すがら日向市まで快適な運転。親しみを覚えてきた小学校1年生の子どもたちの顔と声。この日は、僕がまずは1コマの授業、その後は『スイミー』を教材にした担任の先生の授業が実践され、その後に授業研究会が持たれた。この日のテーマは、「対象に語りかける」こと。山村暮鳥「雲」を教材にするが、やはり「文字」は使用しない。その大きな理由は、詩を「読んで欲しくはない」からである。詩は語りの声の訴えであることを自覚し、自他の声を聴くことを意識化する必要がある。この自他への「聴く」意識がないと、いくら「音読」をしても「文字」を「音」にしただけで、「意味」いわば「思考」が起動しない。考えなくとも単純な「音読」は、できてしまうことが問題である。最初にお互いに「おはよう」の挨拶をして、その声を聴き合う。そしてまた、その「おはよう」を「こわく」「かなしく」「すばらしく」「にじ色」「あか色」など、様々な表情を声に与えることで、この日の準備運動とした。その後は、窓から空の雲に向けて「おーい 雲よ」と呼びかけて動作や表情も使うように指示する。純粋無垢な1年生たちの声が、日向のやや曇った大空に向けて気持ちよく放たれた。

後半は、俵万智さんの歌「うちの子は甘えんぼうでぐうたらで先生なんとかしてくださいよ」を使用し、4人1組で活動。一人が「お母さん役」二人が「子ども役」あと1人が「先生役」となって、この短歌の場面を再現する。「お母さん」の言葉を聴いて「子どもたち」は、「甘えんぼう」や「ぐうたら」を動作化して表現する。下の句になると「お母さん」が、先生に手を合わせて懇願するような動作をしながら声で訴える。中にはその後の「先生」の言葉を創作し「返歌」(さすがに1年生なので五・七・五・七・七にはなっていなかったが)する児童も現れた。短歌の場面再現とその言葉が対象に投げかけられていることを体感するワークショップである。班別に練習していると、次第に手拍子をとる児童たちが現れて、短歌に韻律があることを理屈ではなく体感しているようだ。このあたりはやはり「文字」ではなく、「音(声)」でこの3日間で実践してきた成果が現れたと自己評価できる。最後に「たんか」にこれから親しんでくださいと訴え、「わかやま ぼくすい」の名を出すと、さすがは日向市の小学校児童だ、保育園の遠足で牧水公園に行ったことがある子どもたちも多勢いて、誠に嬉しい気持ちになった。

かくして3日間のワークショップが終了
担任の先生の授業後の研究会でも「音読」について活発な議論が
そのあたりについては、またあらためて。
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小学校での古典授業を考える

2017-02-23
小学校6年生を対象に
『徒然草』の授業を参観
附属小中学校共同研究にて

毎月1回実施している附属校との共同研究の年度最終回。今回は、中学校教員が小学校6年生を対象に古典教材『徒然草』を使用する乗り入れ授業であった。中学校への興味・関心を高め、教員がその雰囲気を聊か伝えるという目的もある。3名の担当教員が、6年生3クラスで同じ指導案による授業を展開する。学習目標は「昔の人が書いた作品の内容をもとに、言葉の意味やリズムを考えながら、すらすら読めるようになろう。」というもの。教材としては『徒然草』第百九段「高名の木登り」が使用された。現行指導要領から小学校教科書にも古典教材が掲載されることになったが、出版社によってはこの百九段を載せている教科書もある。場面が一箇所でわかりやすく「教訓的」な内容を含むあたりが、「小学生向け」にされている理由ということになろう。

小学校に、いわば”前倒し”された古典教育をどうするかという課題は、実に重要であると考えられる。中高の国語学習で「嫌悪感」を抱く学習内容の上位に位置するのが「古典」である。担当する大学講義の学生たちにアンケートを実施すると、その結果は判然としている。それゆえに小学校でいかに楽しみ親しみを覚えるかが重要であり、「古典を好きに」なる要素を提供しておく必要があるのではないかと思われる。この日の授業では、現代語訳を使用し音読においてその意味を対照させながら、言葉の切れ目や文体の特徴を感覚的に掴んで音読に活かしていく流れの学習活動が展開した。前述した「学習目標」に示された「リズム」という語彙も、聊か曲者である。「正しく」音読に導く過程には、やはり小学生なら「難しい」と感じてしまうことも少なくない。果たして「正しく」と「すらすら」は同じか違うか?仮名遣いや単語のつながりなどにおいて、あくまで感覚的に親しませるという点で、実は小学校古典の授業は難しい。まあ聊か「難しい」「わからない」と思った点に、好奇心の芽生えを見出すのが、学習の課題発見であるとも考えられようか。

「主体的な学び」にするためには
英語もまさに「前倒し」で教科化される
「古典嫌い」の思いが伸長しただけなら、小学校で学ぶ意義を失う。
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遊んでこそ気持ちがわかる

2017-02-22
相手の気持ちを受け止めるには
表情と身振りそして音を聞くこと
そしていかに遊ぶかを大切に・・・

昨日に続き芸術家派遣事業の2日目。日向市に向かう道すがらの高速道路で、急に視界が開け海が眼前に広がる橋がある。雲間から指す朝陽が海面に反射して美しく輝いており、まさに名の如く「ひゅうが(ひむか)」を実感できる瞬間である。この日は、宮崎は都城を拠点とする「劇団こふく」主宰の永山智行さんをアーティストとしてお迎えし、演劇的身体ワークショップを実践した。冒頭で永山さんが「PLAY」と大きく板書すると、子どもたちも1字ずつアルファベット読みを始める。そして一言「演劇」という意味のこのことばには「あそび」という意味もあるんだよと、「今日はみんなであそぼう」と小ホールで活動が開始された。円になって跳んで左右へ、向き合った相手と「イエィ!」、黙ったままホール一杯に図形を作り最後には漢字の「川」ができた。歩き回ってなるべく多くの人と熱い握手、次は出会った人の踵など指定された場所に触れて止まる。

こうしてアップが終わると、二人一組で相手のゆっくりした動きを「鏡」のように真似る、もちろん表情も独創的なものを創る。次にやはり二人組で車役と運転手役になり、肩を叩くと走りもう一度叩くと止まる、左右に操縦しないと壁などにぶつかってしまう。次第に車役が目を閉じて行うと難易度が上がる。さらに二人組ならではの合言葉を創り、目をつぶってバラバラにされた中からパートナー捜しをする。その後はしばらく、ある組の創った「かめかめ」ということばしか使用してはならず、その「かめかめ星人」の日曜日を相手に演じて見せ、見た側はどんな1日だったかをことば(日本語)で説明する。ここで前半終了となった。

後半の開始は、「お母さん役」と「子ども役」になって「かって。」「だめ。」をおとなしくから次第に激しく演ずることから。ことばには「はなしことば」と「かきことば」があることも紹介され、気持ちが大きくなると身体が付いてくることを実感する。「はなしことば」では「どんな音を出してどんな動きをしているか」が大切だと説かれる。再び二人組が向かい合い「ありがとう」のことばを交わすのだが、「音の大小」「高低」「間(ま)」をつけて言い合う。その後は「やわらかい」「かたい」「泥のような」「風のような」「黒い」「白い」「紫色の」などの「ありがとう」のことばが交わされる。「音が変わると相手に伝わることが変わるよ」と永山さん。それは次第に「ありがとう」ということばでは言えないそれ以上の気持ちを伝えることにつながると云う。何を言うかではなく、どのように言うかが大切であるとうこと。最後に、たにかわしゅんたろうさんの「わたし」の詩を五人一組となり、他者の気持ちになって表現する発表をして、全90分のプログラムが終了した。

小学校1年生の子どもたちの身体は解放され
〈教室〉にいるとは思えない豊かな表情
「教師も昔はあそんでいましたよね」永山さんが別れ際に僕に告げた。
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小学校1年生の笑顔と出会う

2017-02-21
小中一貫校へ芸術体験授業へ
文字を使用しない国語授業に挑戦
「筆箱は使いません」と担任の先生の指示で始まる

この3年間ほど関わっている芸術家派遣事業で、日向市の小中一貫校を訪れた。今回は3日間のプログラムであるが、初日と最終日は僕が「授業者」として小学校1年生に「音読・朗読」の授業を実践する計画である。初日は「たにかわしゅんたろう」さんの詩を、いかに「文字」に依存しないで音読し暗誦するかといったテーマの内容を設定した。教室に出向くと、人懐こい元気な笑顔が僕を出迎えてくれた。この出会いの瞬間こそ、まさにコニュニケーションの始まり始まり。「おはようございます」と元気に言葉を交わして、黒板の前で準備を始める。こうした休み時間には、まずは一人ひとりに挨拶をする気持ちが重要だ。人見知りもしない笑顔が、僕に興味を持った視線を向けてくれている。まずなるべく個々の子どもたちの目を見て、「おはよう」の言葉を返していく。

最初は「おならうた」絵本の読み語りから。「いもくって ぷ ・・・・」という調子の繰り返しであるが、次第に子どもたちから笑いがこぼれる。その後、黒板にまずは「文字表記」を一通り貼るのだが、「ぷ」「ぼ」「す」といった「おなら」の擬音語部分を一旦は貼るが、「それは文字ではないよね」と言って剥がしていく。そのカードが紙と印刷された「文字」であることを強調する。そこで「パンパン、パー」と手拍子2拍に手を広げる体操を、この「詩」のリズムを体感させる。その後は「みんなの感じるおならの音」を再現すべく「いもくって」を全員で音読した後に一人ずつ声を出してオリジナルな擬音語を発声していく。これで机間巡視をしながら、全員と必ず1度は目を合わせて交流する。2つ目の詩は「かっぱ」(ことばあそびうた)。「かっぱ」のぬいぐるみを見せ、「ラッパ」の玩具を見せ、「なっぱ」の実物を見せる。すると子どもたちは、その言葉の共通点に気づき始める。さらに「現物」を見せながら詩を音読していく。なかなか舌が回らない様子ではあったが、次第に「ことばあそび」の楽しさを味わえるようになる。最後は「わかんない」という子ども向けの詩。「みかん」「やかん」「じかん」をやはり実物(「じかん」は時計を指す)を見せながら言葉の共通点を見つけていく。袋の中に隠したものは何か?と質問を投げかけると「缶」とその押韻に子どもたちは気づいている様子だ。そして僕と交互に1行ずつ詩を音読して、見事に一つの詩を朗読し終えた。ここに「わかんない」の詩を紹介しておこう。

「わかんない
 たにかわしゅんたろう

 わかんないけど
 みかんがあるさ
 ひとつおたべよ
 めがさめる

 わかんないけど
 やかんがあるさ
 ばんちゃいっぱい
 ひとやすみ

 わかないけど
 じかんがあるさ
 いそがばまわれ
 またあした」

授業終了後も何人かの子どもたちが近くまで来て、「こんなことばにもきづいた」とその例を伝えに来てくれた。まさに「授業者」として至福の時間である。本日は、演出家の方による演劇的ワークショップが予定されている。
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更新(アップデート)を怠らず

2017-02-20
PCに表示されるアップデート情報
セキュリティ上も重要で不可欠な行為
自らの更新も怠ることなく

PCやスマホを使用していると、自動で更新(アップデート)情報が示され何度も要求してくることがある。時に煩わしく感じ、急いで作業している折などに手をつけると、余計な時間を取られて迷惑してしまうこともある。よって時間に余裕がある際に、怠りなく実行しておくと、やはり更新後は様々な改善が実感できて安定感が増すように思われる。特に新たなセキュリティ問題に対応してくれる場合も多く、PCやスマホを護るという意味でも重要なことだろう。物事は日々更新され、新たなる状況に対応する必要があるものだ。

人間はいつも変わらぬ、というのも幻想に過ぎない。我々の身体細胞は、日々更新されている。昨日の自分と今日の自分では、同じように思えて実は違う。「同じように思いたい」心があって「更新された」ことを考えないようにしているのかもしれない。だが「日々変化する」ものであると思った方が、楽になることも多い。むしろ「更新」するために睡眠がある、とさえ感じることもある。PCならぬ人間の心も、「更新」すればセキュリティ上でも有効な対応ができるようになるものだ。一昨日、僕の書いた原稿が短歌雑誌に掲載され、その内容に関して伊藤一彦先生から「嬉しい内容であった」とお喜びのお電話をいただいた。そのお言葉によって、僕自身もまた「新たな自分」になったと自覚できた。新たな分野における原稿執筆で、僕自身が更新(アップデート)したのだ。

「この今日のうちにすでに明日はひそんでいる」
(谷川俊太郎「明日」より)
今日もまた、更新を怠らずに生きようと思う。
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心のふるさとへいつでも

2017-02-19
赴任して丸四年が間近
入学した学生が卒業する
研究室の追い出しコンパの感慨深し

この3月の卒業生で三代目となる研究室の追い出しコンパが催された。言い換えれば、僕の赴任と同時に入学した学生たちが卒業することになる。僕自身が右も左もわからずに、国語教育講座の学生たちの前で自己紹介したあの頃が既に懐かしい。その当時の記憶を掘り返しながら、追いコンの席上で様々に話していると、学生たちはその表情一つとっても実に成長したものだと感心してくる。3年生から研究室所属となるが、最初に僕が施しているのは自己アピールのスピーチ。教育実習でも採用試験でも、「自己」を印象付けるスピーチは大きな意味を持つと考えて、1分半のスピーチを撮影したり録音したりして、本人たちに自己を客観視したレポートを課す。そこで己を知ろうとしてから2年ほど。メッセージ色紙に卒業生がそんなことも記入していて、あらためて僕自身の指導法を顧みつつ、「成長」という感慨に耽る。

この4年間で、研究室での発表討議方法もだいぶ変わった。全体で1名が発表する形式から、全体を三分割した小グループで複数人が複数回発表し、学年を超えて忌憚のない意見が対話的に出し合える雰囲気作りを心掛けた。ゼミでは全員が学び手であり、指導教授の意見だけを聞く場では決してないと考えるゆえである。学生からいただいた色紙には、「学生の立場を考えて」という趣旨の感謝の言葉に表れていたように思う。また、歌人・俳優・音楽家・落語家など諸方面の方々との「人の縁」への謝辞もあり、あらためて「人と出逢いの場を創る」ことの意義も確認できた。概ね18歳から22歳という時期には、何より人としての成長も重要な課題だと自らを顧みて痛感する。それゆえに、単に卒論に向けた研究指導のみならず、多様な体験をする機会を提供することが実に大切であると思う。特に「教師」を目指すならば尚更、「社会性」の視点を持った「経験」が不可欠であると考えている。さて追いコンの終末にあたり、卒業する学生たちから「また帰ってきます」といった趣旨の言葉が聞かれた。これぞまさしく「教師冥利に尽きる」以外の言葉は見当たらなかった。

ゼミ(ドイツ語由来)の語源はラテン語の「苗床」
現場ですくすくと実り育って欲しい
そしてこの研究室がいつでも、心のふるさととして温かくありたい。
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