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今日を 今日を生きる

2016-12-31
普通に与えられる今日を
どれほど健康で何事もなく生きられるか
かけがえのない大切な「今日」として生きること

忘れもしない8月9日(火)朝、僕は研究室で9時から開始される教員免許更新講習の準備をしていた。ひと通り準備を整えてスマホをチェックすると、音楽仲間からメールが届いていた。それは仲間の一人が急な病に倒れたという内容で、その文面を読むと喩えようのない涙が溢れ出し、しばし放心状態となった。30分後には教室に出向き更新講習を開始せねばならないが、たいていのトラブルや緊張感には対応できる僕であるが、さすがに講習ができるかどうか?といった疑念までが頭をかすめた。メールをくれた仲間もまだ十分に状態を把握している様子ではなく、漠然とした内容に余計な心配が掻き立てられた。この仲間たちとは長年にわたり音楽活動をともにしてきて、今年の3月にも8年ぶりのライブを実施できてさらなる可能性を発見したところであった。それだけに夏の日のショックは計り知れないものであった。

幸いに1ヶ月後の9月上旬、彼は1ヶ月の治療を経てリハビリ病院に転院し、面会ができるまでに回復した。仲間たちとともに病床に出向き、いつもの調子で聊か冗談交じりの会話を1時間以上楽しむことができた。後に本人の弁によると、これで病床に伏していた際の頭の中が刷新され、回復に向かって効果的であったと医師にも言われたと聞いた。気の置けない親友たちとの会話は、生きることの大きな糧なのであると悟った。そしてこの年の瀬も押し迫った1日、彼を囲んで全員のメンバーが「快気祝い」として集合できた。後遺症もほとんどなく、新年から職場に復帰すると云う。一時は仲間内で命の危険さえ考えなければならなかったことを思うと、「奇跡の年末」といっても過言ではない。それはもちろん本人が不屈の精神で回復に向けて努力したことが、何より重要であったのは間違いない。そんな仲間たちと楽しく過ごして、あらためてこの与えられた自己の「生命」の大切さを痛感した。年末年始となると高まる時間意識の中で、「今日」を何事もなく「生きる」ことがどんなに大切かを思い知ったのだった。それにしても親友の回復に、来年へ向けて素敵な光明を見た思いがした。

「今日を最後だと思い」(スティーブ・ジョブズ)
そしてまた「今日を生まれたばかりだと思い」(茂木健一郎)
僕たちは「今日を」そして「今日しか」生きられないのである。

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しびれわたりしはらわたに

2016-12-30
酒の毒しびれわたりしはらわたに
あなここちよや沁む秋の風
(『牧水酒のうた』より)

牧水終焉の地・沼津の「牧水会」発行の文庫『牧水酒のうた』には、「酒」が詠まれたうた367首と随想などが収められていて面白い。昨日から休暇を決め込んだのだが、どうしても短歌からは離れらず、常に携帯する岩波文庫『若山牧水歌集』とこの文庫を一冊鞄に放り込んだ。移動中の機内で読んでいると、冒頭に記した歌が気になって手帳に書き留めた。「酒」を「毒」と宣言しつつも、「しびれわたりて」という酔い心地の表現、そして「あなここちよや」の部分に深い酒への愛情が詠み込まれている。また「沁む秋の風」の結句にさりげない季節感が表出しているのがよい。

僕が20代の青い頃に訪ねたことがある、老舗のイタリアン料理店を訪れた。店構えはだいぶ変わってしまったが、魚介類の豊富な「地中海鍋」に灯される「青い炎」はそのままで、当時との時間的距離を実感できた。重厚なコンクリート造りであった2階建の店は、天井までガラス張りのオープンカフェ風な店構えに変身していた。もちろん辛口の白ワインとともに、伊勢海老ばりの巨大海老丸ごと一匹パスタなども堪能し、まさに「しびれわたりて」のちに「あなここちよや」な宵の口になった。食を楽しむのは誠に重要、そこには思い切って躊躇なく。それが人生にあらたな「意味」を与えてくれる。

「毒」ならぬ「妙味」
さらに購入した赤ワインも納得の味
師走の風はなぜか暖かい
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仕事・掃除・ジム納め

2016-12-29
原稿を集中して書き
要所を定めての掃除
そしてジムで筋トレ納め

朝トイレに入って、「ああ、年の瀬だ!」と実感した。商家で育ったせいか「暮れ」になると独特の空気感を覚え、時間を刻んで動きたくなる習性がある。まず午前中は、年明け締切の原稿を集中して書こうと研究室へ。先日ふとTV番組で耳に挟んだのだが、「古代ローマ」の人々は午前中だけ仕事をして午後は「温泉浴」で社交に勤しんでいたと云う。あらためて「午前中」の大切さを悟る。馴染みのうどん屋で昼食をとり帰宅して掃除へ。普段はほとんど手付かずの玄関と家の外回り、さらには浴室・トイレの換気扇の掃除に絞って取り組んだ。それも室内の多くの場所は、普段から清掃を心掛けているので、「年末」だから「特別」とはならないことに納得する時間にもなった。(欲を言えば、庭側の窓拭きがしたかったのだが)

その後は、馴染みの産直市場へ行き玄関飾りや野菜類の調達。各所で「佳いお年を」と声を掛け合うのも年の瀬ならでは。帰宅して玄関飾りと鏡餅を飾りつける。その後はまた馴染みの洋食屋さんで夕食はコロッケ。いつもながら店主ご夫妻の穏やかさには心が救われる思いである。特段、何らかの話題を語り合うわけではないが、この店の安堵感はピカ一である。そして夜はジムへ。さすがに「仕事納め」後であるせいか、カーナビの道路標示に渋滞箇所が目立つ。そこで通常通らない道路を選択したのが間違いだった。一本道で車はなかなか進まず、15分ほどのロス。だがどんな選択をしても「最後まで諦めてはいけない」と思い直し、ジムへ向かうと事前ストレッチの時間も十分取れて、筋トレプログラムに参加する。すると全身の調子が高揚したように調子が良くなった。やはり身体は活性化が何よりである。今年のジムは通算110回、月平均9.16回。ここ数年間で一番少ない回数となったが、トレーニングの方針や質を問うことで効果は減少しないように工夫することも肝要だと思っている。

かくして年の瀬の諸々「納め」
珍しく1日の時系列で文章を綴った
明日からしばし充電の休暇となる
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自作の善し悪し尤も弁へ難き事なり

2016-12-28
「自分の歌」を「自分で読む」のは難しい
藤原清輔『袋草紙』の名言に学ぶ
となると日常の様々な出来事も自分の事は・・・

年の瀬も迫り、どうしてもこの1年を回顧する心情が起ち上る。「あっという間」だと思うのは簡単だが、それぞれに苦労した事や楽しかった事、悩んだ事や救われた事などなどを一つ一つ思い返せば、やはり今年も1日1日の貴重な時間を重ねて来たと自覚できる。さらに精緻に回顧するならば、小欄を今一度今年の初めから読み返せばいいのだが、なかなかそれほどの時間も用意されていない。時折、下欄にまとめて掲出されたテーマごとの題から、「あの時はどんな思考であったか?」と回顧すると、思わぬヒントが得られることもある。これ一つをとってみても、「自分の事」を十分に「自分ではわかっていない」ことが、ようやく自覚される。それゆえに常々、親友ご夫妻のお店に出向き、何とはなしに日常を語り「自分」を「他者」の鏡に映すようにしている。しかも大学や僕の関係する分野とは違った世界で生きている親友ご夫妻のことばには、意外な金言が含まれていることがある。この日も「1年間よく来てくれました」と、気持ちのよい「食べ納め」をする宵の口であった。

さて本日の題としたのは清輔の名言で、「自作(和歌)」の「(出来映えの)善し悪し」は「尤も弁へ難き」ものであると云う。やはり歌を創れば「自作」はよかれと思って創るゆえに、可愛く思えるのは必然である。だがそれを「歌会」に出詠し多くの方々の「読み」に接すると、十分に趣旨が伝わらないとか、表現が適切ではなかったなどという反省が多々もたらされる。すると「もっと自分の歌を読んでおけばよかった」という気持ちになるので、「自分の歌を読むのは難しい」ということにもなる。「難しい」というよりも、可愛がり過ぎて欠点を見ようとしないという方が適切かもしれない。まさに自分の歌に対しては「親バカ」な状態にあるのではないかと思うことがしばしばだ。同時に他者の歌に対しても思い込みを排しどれほどに深く「読めているか」を、常に考える必要があるだろう。このような意味では、「1日1首」を創って手帳に記しておけば、「あの日あの頃の自分」をもっと的確に顧みることができるかもしれない。先日、歌人の伊藤一彦先生と飲んで話していると、年間に500首ぐらいは創ると云う話を伺った。そして「創れば創るほど歌は上手くなる」とも。「その日」にはわからなかった「善し悪し」も、手帳で寝かせておけば、後になってようやく「読める」ようになるかもしれない。

「生きむとする本然の欲求・生命のよろこび・いのちの嘆き」
「人生を、自己自身のいのちを知るは、
 即ち歌を知ることであると云ふも過言ではないからである。」(牧水『短歌作法』より)
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短歌県みやざきと読解力

2016-12-27
「五七五七七という封筒に心を詰めて短歌は手紙」
(俵万智「海のあお通信」宮崎日日新聞2016年12月26日付より)
「読解力とは、言葉を通して他人のこころを理解し解釈する力」(同紙「現論」より)

毎月地元紙での俵万智さんの連載が楽しみである。短歌一首が掲げられ、地元宮崎に対する愛情あふれた内容がそこには記されている。僕自身がそうであったが、「みやざき」という土地は住んでみると不思議な魅力にとり憑かれるかのように、こころから愛好したくなるのである。移住後の万智さんの連載には、そんなこころが存分に表現されている。今回の連載の内容は、先日小欄にも記した「ねんりんフェスタ」の歌への思いと、伊藤一彦さん・坪内稔典さんらとの談話の中で、「みやざき」は「短歌県宣言を!」と盛り上がったといった内容が記されている。僕自身も従来からそんなことを考えていたので、著名な歌人の方々と大学や行政が一体となって、そんな「文化事業」が様々に展開する”真に豊かな”土地を目指したいという思いが現実的になった気がした。そこには従来から「みやざき」に根付く「人柄の良さ」も、重要な要素だと考えたい。「他者のこころを理解する」ことが、社会を淀みなく順調に活性化させる基盤であると考えるゆえである。

同紙の「現論」欄に京都大学名誉教授・佐伯啓思氏が「若者の読解力低下・文化の質大きく変容」を寄稿していた。先頃公表された2015年PISA(OECD経済協力開発機構)学力調査で、日本の高校1年生の「読解力」が前回の4位から8位に後退したのを受けて、「文学の国」フランスは19位・イギリスは22位といった数字を挙げつつ「この種の順位に神経をとがらす必要はない」とする見解を述べている。確かに「経済」を基準とする団体による調査という点からも、”真に豊か”であることとは視点がズレているのではないかと、特に「短歌」などをやっている身からすると思うこともしばしばだ。だが佐伯氏は、昨今のIT環境上の「端的であけすけ単語の組み合わせ」により「読解力」の無効・無用が進行していることに警鐘を鳴らす。例えば小欄ほどのどちからといえば「短い」文章でも「読みづらい」とされ、1行2行程度の散発的で安易な表現のブログなどが横行し、ましてやTwitterやLINEの表現は「好き・嫌い」などと「あけすけ」なのである。「解釈する力」が重要であることの意味を佐伯氏は、冒頭に記した「読解力とは」で端的に述べるとともに、「表現力」にも表裏一体で関係しており、「人間の社会性の基礎であり、文化の基礎」であると述べている。「分厚い書物」からなにかをえようとすると、「解釈」があり「自己と他者の対話」があり「対話によって他人のこころの内に入り込む」コミュニケーションを育むことになると云う。「大事な一冊の本」「一人の大事な人」との「会話」を楽しみ(時には苦しみ)そこから「おのれを見出す」という「他者理解」が低減してしまっている社会こそに佐伯氏は危機感を表明しているのである。この読解力に関する論調に対する改善策として、日常的に「短歌を嗜む」ことが、どれほどに有効かに社会全体が気づいてこそ、”真の豊かさ”に向かえるのではないだろうか。

知事周辺も短歌に理解のある、まず「みやざき」から始めよ
「表現」と「解釈」には「社会性」があるのだ
高齢者が短歌を詠み・読むことに、この国の将来がかかっているとさえ思うのである。
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10周年「牧水研究会」開催・会員募集中

2016-12-26
年1回開催・研究会と総会
今年で10周年・雑誌は20号
会員および雑誌購入・募集中です

短歌関係で歌人の名を冠した研究会は、「牧水研究会」と「信綱研究会」の二つのみであると聞いた。今年はこの二つの研究会双方に、縁あって入会することになった。牧水に関しては以前から好きな歌人であったが、宮崎に赴任・移住してから本研究会会長でもある伊藤一彦先生との交流を通してさらに深くその歌を読むようになった。そして光栄なことに、記念すべき会誌の第20号の巻頭に「牧水の朗誦性と明治という近代」と題する評論を掲載していただいた。そこで近代化が急速に進行する「明治」という時代を再考するとともに、佐々木弘綱や上田万年などの言説に触れることで、近現代短歌が如何に古典和歌と連接しかつ断絶しているかに対して、深い興味を抱くに至った。「国語」という「教科」のあり方を考えるにも、この「時代」や「短歌」の変遷を知ることが不可欠であるという視座を得た。誠に様々な意味で「若山牧水」という存在は、様々な解釈を呼び様々な視座を提供してくれるという意味で、味わい深い愛すべき歌人である。

前述のような経緯があって僕は最近、講義はもとより何らかの場で挨拶する際などには、必ず牧水の歌を紹介するようにしている。学生たちや宮崎県の教職員の方々にも、まだ十分に郷土の歌人・牧水が浸透していないと感じるからである。学部3年生が教育実習を終えた際の附属小学校での挨拶で「眼を上げよもの思ふなかれ秋ぞ立ついざみずからを新しくせよ」を紹介すると、何人かの学生たちから「いい歌ですね」という反響があった。その場で抱く学生たちの感慨に響く歌を選んで提供すると、牧水の言葉は実に大きな反響を呼ぶのである。昨日の研究会・総会で、会員の勧誘・拡大の方策として、さらに気軽に誰もが参加しやすい例会などを開催したらよいという意見が数多く提出された。それならばと僕はまず、小欄も活用しより多くの方にこの研究会の活動を紹介しようと思いに至った。小欄を更新すればTwitterにも連動して掲載されることにもなる。さらには次年度の公開講座「朗読で味わいを深める日本文学」では複数回にわたり「牧水」を扱ってみようと考えている。地域の方々に地域の文学的遺産を、わかりやすく伝える。まさにこれは、地方国立大学が担うべき使命であろう。教育学部は教員養成を考えるのみならず、地域の教育を考えるには生涯学習の視点から、地域の文化活動全般を視野に入れるべきであろう。こうした意味からも、大学と「牧水研究会」と連携した活動を前向きに進めたいと考えている。

例会やシンポジウムの予定は小欄でも広報する
そして興味ある方は、ぜひ会員となっていただきたい。
20号までのバックナンバーも好評頒布中、みんなで牧水を学びましょう!
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手作り料理と「実践=研究」

2016-12-25
出来合の料理を買わず
手作り料理を作る意味とは?
「実践=研究への発想の課題」
(言語文化教育研究所・ルビュ言語文化教育メルマガ・主宰・細川英雄氏巻頭言より)

大学院時代に興味があって受講した「日本語教育」のオムニバス講義で、細川英雄氏と出逢った。正直なところ受講している当時は、その「言語文化」への考え方に対して僕自身の中で腑に落ちないことが多く、その後も深い親交を持っていたわけではなかった。それが数年前に国語教育系の研究学会で再会した後、メルマガの登録をご本人から勧められ手元の大学アドレスに定期的に届くようになった。巻頭言にある細川氏の考え方を必ず読むようにしていると、現在僕が考えていることと共通項が多く、大変参考になる内容なのである。メルマガ最新号の巻頭言は冒頭に記したような内容があり、まさしく日常性を伴った例示があり深く考えさせられた。

特に「実践=研究」という立場の主張は、現況の大学教育を考える上で貴重な提言である。その例示の趣旨を聊か書き記すと、「だれかと一緒においしいものを食べたいと思って材料をそろえ、調理をし、食卓を飾る」ことは「生活の中の実践」であり、そこで「おいしいものを楽しくたべるにはどうしたらいいか」を考えるのが、「生活の中の実践であり、同時に研究でもある、と云うのである。その上で、「ただおなかを満たすために、インスタント食品をむさぼる」ことには「創造的な何かをしようとする視点がない」と云い、「そういう食を続けていると、さびしい人になる。」とされている。最終的に「有害添加物だらけのインスタント食品を機械的に与え続けるような実践はできるだけ回避したい」として、「なぜその食事をとるのか、そこにどんな意味があるのかといったことを、ふと立ち止まって考える時と場が必要だ。」と文章は締め括られている。

このメルマガを読んだせいではないが、クリスマスイブにあたり、外食ではなく自宅で「手作り料理」にこだわろうという思いが強かった。材料を自分の目で見極め、できるだけ地産地消で宮崎県産を選択し、調理にも化学調味料など食品添加物を使用しないようにして、何とか料理を仕上げようと「創造的な何か」を模索した。スーパーに行くと様々な新鮮食材が目に入る一方で、出来合いの加工食品や、チキンのパーティーバーレルなどと称した料理も所狭しと並べられていた。さすがにこの日は、多くの家族連れが買物をしているが、こうした加工食品ばかりが籠に詰め込まれた子供連れを見ると聊か寂しい気持ちになった。それは、親が料理を創るという実践を通して、子どもたちの健康はもとより、コミュニケーションなどの「意味」を考えないでいいのか、という研究者としての意固地が心に蔓延してしまったからである。そのように思われた家族にとっては「余計なお世話」なのであろうが、ある意味でこの便利過ぎる「社会」のあり方に、聊かの不安を覚えるのは僕だけではあるまい。他人はどうあれ、僕自身は自宅で「手作り料理」を何とか「創造」するに至った。その意味は、ここに記せないほどに大きいものが自分の中で腑に落ちた感覚があった。大企業の論理だけがまかり通り、有害とわかっていても食品添加物でかりそめの「おいしさ」を偽装したものに対する、自らの立ち位置を示すことができたからであろう。

「実践=研究」において言い訳なく
自らの「生命」を繋ぐための「いただきます」
その共通点をクリスマスイブに実感する、こころの穏やかさがいい。
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「手書き」が生き残る意味

2016-12-24
年賀状の宛名は?
手書きそれともプリントアウト
文字を刻むことの意味を考える

毎年のこと、早くやろうやろうと思いつつこの時期になってしまう年賀状書き。裏面は今年一番気に入った写真を組み込み、パソコンで作成するようにしている。それでも尚、必ずや手書きで先方に対して個別のメッセージを書き入れるようにしている。そして宛名となれば、必ず筆ペンか万年筆で手書きをすると決めている。ただでさえ忙しい年の瀬に、年初め締切の原稿も抱えていながら、これだけは譲れないという思いがある。今年平成28年新年にいただいた年賀状の中に、裏面が「白紙」というものがあった。特に先方に問い合わせたりもしなかったが、プリンターを利用した上での「誤り」(2枚重ねで印刷され1枚が白紙となる)だと理解するようにした。それでも文学研究者の性(さが)であるか、「白紙」が何らかの「記号」ではないかと疑い、何らかの主張があるのではと「解釈」してしまい、気分が晴れない事態でもあった。メッセージも書かず宛名もプリントしてしまえば時間の節約にはなるが、これほど相手に対して失礼ことはない。むしろ年賀状をいただかない方がましだ、とさえ思ってしまう。この一件から、あらためて「手書き」をすべきという決意を新たにした。(という効用だけはこの1枚にあったか。)

学部時代に近世文学の先生が「君たちは先行論文をコピーするだけだから、十分な理解ができていない」といった趣旨のことを講義で滑稽に語っていたことが印象的だった。「僕らの時代は図書館で資料を借りて、すべて手書きで写したんだ。だから内容の良し悪しも奥深い点までよくわかった」と云うのである。「黙読」のみならず「音読」することを勧めている僕としては、やはり類似した意味で「文字を書く」ことも疎かにすべきではないと、最近思うようになった。所属する結社の短歌誌『心の花』への毎月の投歌は、専用の原稿用紙を使用して「手書き」が原則になっている。そのためか原稿用紙に清書する前に、作った歌をノートにあらためて「手書き」して推敲する習慣がついてきた。特に歌の場合は、使用語彙の表記や構成上の入れ替えなどを推敲することが大変重要であると思うようになったゆえである。その影響もあって、今年は夏頃から「手書き礼状セット」を常備するようになった。内容物は〈はがき・切手・万年筆・筆ペン・歌稿用紙・封筒〉である。出張の際なども携帯しており、「お礼」が述べたい方に出会ったりすると即日に礼状を「手書き」する。もちろん出張先で歌の締切間際になることもあり、早朝のカフェで歌稿を書いて投函したこともある。とはいえ、論文などを「手書き」する気には毛頭なれないのであるが、やはり「短歌は手紙」という俵万智さんの宮崎での「第一声」を尊重し、せめて「はがき」は「手書き」でありたいと思う年の瀬である。

小欄を見ればわかるが
パソコンでは文章がやたら冗長にもなる
「手書き」「はがき」「短歌」の関係性を考えてみるのも面白いと、またネタを見つけている。
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餃子入っちょらん

2016-12-23
中華料理店のお姉さん「780円ね〜」
「あれ!餃子入っています?」
「入っちょらん!」

口頭表現上の形態模写癖があると、かねてから自覚していた。学校や職場など身近に尊敬できる人がいると、その人の喋り方や身体表現上の特徴を「模写」してしまう癖である。大学受験講習でお世話になった全国的に著名な英語の先生の講義の名調子は、僕の講義の随所に「語り口」として保存されている。大学学部の指導教授の演習における『万葉集』の朗々たる読みぶりは、やはり歌を講義で音読した際には、自ずと発揮されてしまう。中国詩歌を専門とする尊敬する先生は、講義の時間が足りなくなってくると「時間の関係がありますから」が口癖であったが、そのフレーズを僕も拝借する際、いつもその先生の口調になってしまう。自身の「尊敬」の歴史が、日常の「口語表現」に保存されているのは、人生の年輪を自覚する上でもよいと感じている。そして今、僕は東京を離れ宮崎に住み、まもなく4年が経過しようとしている。自身が方言の影響をどれほど受けているかを客観視してみたいという気持ちになる場面があった。

冒頭に記した中華料理店での会計時の会話。比較的馴染みの店であり、僕が毎回ほとんど「五目焼きそば(半チャーハン)セット」を注文するものだから、店のお姉さんはこの日も会計時にその値段のみを僕に告げた。「ね〜」の部分には宮崎特有のイントネーションがある。この日は好きな餃子も注文していたので、僕は自らお姉さんに問い掛けた。すると「入っちょらん」という返答が大変柔和な響きに聞こえたので、思わず「入っちょらんね〜」と僕も呼応した。ことばというのは、反応であり適応でもある。その小さな会話がとても気に入ってしまった。宮崎弁での「・・・しちょる」という動詞に続く言い回しが、誠に穏やかに優しく響くと感じられる。同様に宮崎方言の「よだき」などは、若者言葉の「ウザい」に共通する語感だが、遥かに可愛らしく柔和に相手に伝わるので、僕も使用頻度の高い語彙である。この語は古語で『源氏物語』にも「大がかりだ」「ものうい」といった意味での用例が見られるのも心強い。その後、ショッピングモールへ買い物に行くと、家庭用宅配水タンクのキャンペーンをしている若い女性に声を掛けられた。試飲をして諸々話していると、彼女は「どこから来たんですか?」と僕に問い掛けた。その上で「標準語を久しぶりに聞いた〜」と言うのである。やはり僕はまだ標準語なんだ、と聊か複雑な心境になり、「急いじょるから」と心の中で呟くに止めたのだった。

東京から移住して15年以上の親友は
宮崎弁以上に宮崎弁だとその奥様は云う
評価観点に「人柄の優しさ」がある県として、方言の穏やかな響きがいい。
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教科専門と教科教育の融合とは

2016-12-22
教員養成学部の新たな方向性
文科省からの提言がなされ
専門分野と教育分野の融合とあるが・・・

ここ数年来、大学における「人文科学」の軽視や再編統合といった話題が尽きることはない。心理学や社会学ならまだしも、「文学・語学」関係者は特に危機感を持って対応せざるを得ない実情である。教員養成系はどうかといえば、やはり再編統合といった渦中にあって新たな方向性が模索されつつあるようだ。既に地方国立大学では教職大学院が設置されて、修士課程ではなく専門職学位課程になり修論はなく課題研究を課し、実習実践が中心で学校現場におけるリーダー養成や教員再研修、高度な教科教育技術を習得した人材の輩出を目指すようになってきている。こうした流れは、文学部出身で文学研究を基盤とした教科教育を中心とする課程で学んできた僕としては、大変違和感を覚えることが少なくない。僕の大学院での恩師は常に「文学研究こそ最上の教材研究である」と訴えて、『更級日記』研究の第一人者でありながら教科書編集や国語教育への提言を常になさり、院生への指導をされていたからである。

文科省から教科専門と教科教育の融合を図る、といった方向性が提言されている。「融合」となれば相互に軽重があるべきではないだろう。前述した「文学研究こそ最上の教材研究」という姿勢を教員養成に導入すべきである考えてよい筈だ。だがしかし、どちらかといえば文学研究の意義を見出そうとはせず、技術的な指導法に偏りがちであることが大きな問題であるように思われる。もちろん「教材を教える」時代は過去のものであり、「教材で身につく力」を養うというあり方には賛同できる。「文学」を追究することで「身につく力」とは、自らの日常性を起ち上げて虚構の中に現実以上の真実を発見する思考力・想像力。そして文学を深く享受して自らがことばを媒介として創作的に表現する力。その創作を声に出したり文字にして書き付けたりして他者に伝わるように熟考して表現する力。文学を「聞く・読む」のみならず、それを起動源として「話す・書く」具体的な活動を行い、「総合的なリテラシー」とするということ。こうした方向性をもつためにも研究者は実践者であるべきで、創作者との交流のみならず自らが様々な分野の表現者を目指す必要があるのかもしれない。

明治の学者は創作者であった人も多い
本気で「国語」を「尊重」する教育とはなんだろう?
社会の風を読みながらも自らすべき仕事を見定めている。
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