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29(にく)の日に焼肉へ

2016-11-30
語呂合わせの「・・の日」
毎日が何だかんだの記念日と
朝のカーナビ女性が告げおる

地方在住となってから、カーナビと毎朝付き合う生活となった。朝一番でエンジンを始動すると必ず女性の声で、「今日は・・・の日です。」と運転者に告げてくる。一般的に知られた「日」もあれば、まったく知らなかった「日」もあり、また新たなる発見の「日」もあって興味深い。短歌をやっている者としては、「7月6日」が「サラダ記念日」と告げられた時の喜びはかなり大きかった。同時にどんな「1日」でも「大切に何かを思いやる」ことが尊いことに思いを致した。僕がこの向こう7年間使用し続けている手帳は、「毎日が記念日」という立場から「1日1頁」と贅沢にスペースを取り、自由に様々なことが「描ける」ような構成になっている。各頁の下欄には、何らかの言葉が記されているのだが、同時に毎日「自分の言葉」を記すことも可能だ。予定表と日記と覚書と創作ノートを兼用したような内容となり、僕にとっては今や無くてはならない存在である。小欄のネタも多くは、その手帳を見て発想することが多い。

さて29日で「肉の日」であるが、どうやらこれは畜産業が盛んな宮崎県が発祥の地であると、地元紙の記事に教わった。地元のJA系生協では、県産の肉が2割3割引きで手にはいるセールが開催されており、宮崎牛にブランドポークや鶏肉などがお手頃に入手できる。この日はちょうどゼミの日でもあって、何人かの学生たちと大学近所の焼肉店へと出向いた。2400円で90分食べ放題コースは、学生が来店した際の特別コースで1杯目のみ注文すればアルコール類の持ち込みも可能だ。その上で肉の質も決して悪いものではなく、チェーン系の焼肉店にはない満足が得られる。ゼミの時間内にも様々な対話と議論があるのだが、やはり昔からゼミ後の酒の席での談笑から学ぶことは多い。「文学」そのものがある意味での「遊び」であるならば、その学びに酒は不可欠であろう。どうも僕自身が学部時代の指導教授の流儀を、さながら引き継いで実行している体である。となれば特に「歌(和歌・短歌)」を考えるにあたり、さらに酒は不可欠ということにもなる。どうやら「肉」から「酒」に話題は転換してしまった。「酒の日」はあっただろうか?

毎日が「記念日」という発想
1日1日を大切に生きるということ
ゼミ生との4年間(実質ゼミに入って2年間)を大切にするためにも。
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立ち止まることもいい

2016-11-29
「前向き」ばかりが評価されがちだが
後ろを振り返ることで見えて来るものもある
「前を走る」己を見つめてみること

23日に発売され即座に手に入れて以来、桑田佳祐さんのニューシングル「君への手紙」にベタ惚れである。自家用車の中、家のミニコンでと聴く回数は増えるばかり。聞けば聞くほど味が出てくるのがまた、桑田さんの曲の特長でもある。そんな折、初任校の教え子がFacebook上に、その「君への手紙」の一節に感激して歌詞の一部を投稿していた。すぐに返信コメントを書いて、彼とは久しぶりに幾つかの会話をやりとりをすることができた。彼は高校生の頃、サッカー部で頑張りながら常に学級委員長を務めてくれて、学級の纏まりに配慮してくれた人間味豊かな人物である。卒業後も様々な苦労もあったろうが、今でもサッカー関係の仕事に従事し立派に活躍している。人生も年輪を刻むと、このようなフレーズに共感するのかと、彼の感激度からあらためて教えてもらった気がする。

「悔やむことも人生さ
 立ち止まることもいい
 振り向けば道がある」(桑田佳祐「君への手紙」より)

「学校」という空間では、常に「前向き」であることが教え込まれるように思う。規律正しく背筋を伸ばして、前向きに行動しているのをよしとする。個々人が個々の生き方を模索することが許される筈であるが、今現在でも「集団」に対して一律な「訓示」が為され、校内の行動そのものが「集団行動」に則って行われる場合が多い。子どもたちは、私語をせず目立たず横並びの規律の中に埋没する。集団全体の中での質問や対話などの思考を活性化させる活動については、子どもたちが自主規制してしまうのか、ほとんど「去勢」された如き状態となる。そのような旧態依然な状況をよしとする風潮が、今再び社会に蔓延している。この国の政治に対する関心やコメント力・発表能力を鑑みるに、こうした「規制集団埋没」による悪弊が影響を及ぼしてはいないかと思うこともしばしばだ。

悔やんで立ち止まってもいいのである
猪突猛進の言動はあまりにも惨めなことも
「振り向けば道がある」でもいいのだ。
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望みを捨てぬ者だけに

2016-11-28
困難な状況に陥った時にどう考えるか
「望みを捨てぬ者だけに道は拓ける」
家康の策士ぶりと追い込まれる幸村

11月も末となり季節柄、大河ドラマが大詰めを迎えている。大坂冬の陣以後、大坂城に砲弾が打ち込まれると、豊臣方が和睦に傾く。その結果、大坂城の濠を埋めて出城である「真田丸」の取り壊しが決定される。この争乱の原因が大坂城内の真田幸村を始めとする浪人衆の振舞いのせいだとして、双方の女性同士の和睦交渉の結果である。ドラマの演出もあるのだが、そこには家康の陰謀が仕組まれている。「勝つためにここへ来た」と豪語していた幸村であるが、さすがに戦う術を失い、弱気になり諦めかける。そこへ後藤又兵衛らの浪人衆が決起して幸村に「策を案じろ」と迫る。果たして「義」とは何か?幸村の父・安房守昌幸も死ぬまで「親方様」武田勝頼への「忠義」を思い続け、そのためには「何でもする」という信念を貫いた男として描かれる。「何でもする」となると「裏切り者」などという評判も立つものだが、人の生き様というのは一面では判断できないものであるという思いを致す。

世間というものは往々にして、他人の一面のみで評判を立ててあれこれと噂を流布させるものである。その根拠のない噂に左右されていては、物事の大局は見えてこない。現代においても生育段階から様々な「場」に所属して、我々は生きている。「家庭」「学校」「職場」などの中で、果たして「義理人情」とは何であるか?とふと考えてみたりもする。家族への情愛に厚いか?学校では信頼できる友人はいたか?職場では何のためと意識して仕事に従事しているか?僕がこれまでの人生を歩んだ上で、こんなことを自問自答してみる。すると常に「まず自分を磨き続けて高めること」こそが、現代的に「義」を貫くことではないかと思えてくる。それは決して自己中心的な思考ではないと自負する。期待をかけて育ててくれた両親には、志望大学合格や就職に博士号取得で報いたのではないかと思う。学校では野球部など部活動の際に深く思ったが、まずは自分の力量を上げることが友人の信頼に繋がった。そして職場でも、どれほどに深く教材研究・授業研究に励めるかという点が、所属する「学校」への「義」ではないだろうか。「個人」が尊重される権利が確立している現代社会においては、「望みをもって自分を磨き続ける」ことが結果的に他者への貢献にもなることが前提であると、忘れ得ぬことが肝要だ。

真田側から見た徳川家康像
片桐且元などの「忠臣」を陥れる
あらためて「個」が尊重されるべき世に生きていることを、僕たちは確認すべきである。
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ビブリオバトル九州Dブロック予選会(宮崎大学)

2016-11-27
今年はホスト校として本学図書館にて
知的書評合戦として8名が参加
鹿児島・宮崎の大学生たちの競演

勤務校の附属図書館にて、標題の大会が開催された。昨年来、附属図書館運営委員となったこともあり図書館活動の推進にも従事している。今年は様々な他の行事と重なってしまい、2度に渡る学内予選の参観やゼミからの出場者を出すことができなかったのことが悔やまれる。昨年はゼミの4年生が参加し見事に大学代表となり、鹿児島大学まで応援のゼミ生とともに乗り込んだことが懐かしく思い出される。「ビブリオバトル」とは冒頭にも記したように、「知的書評合戦」である。出場者が自分で選んだ本に関して3分間のプレゼンテーションを行い、その後2分間のディスカッション(質疑応答)を行い、会場に参加している方々に本の魅力を伝えるというもの。審査員は会場にいるすべての人で、最終的に「どの本が一番読みたくなったか」を基準に投票し得票数の多い出場者が勝者となる。プレゼンの内容や知人・友人であるかといった贔屓目ではなく、あくまで「どの本を読みたいか」を基準とするのが肝要である。

今回の大会で取り上げられた本は以下の通りである。
1、甲賀忍法帖(山田風太郎)
2、変身(東野圭吾)
3、少女は卒業しない(朝井リョウ)
4、ちいちゃな王様
5、歌うクジラ(村上龍)
6、てい先生(ゆくえ高那)
7、四畳半神大系(森見登美彦)
8、脳の右側で描け(ベティ・エドワーズ)

僕自身が投票したのは、5番目の『歌うクジラ』である。発表者は冒頭に「僕は今日、皆さんに警鐘を鳴らしたいと思います。」と始まり、該当書がフィクションとして描く「現代社会の行方」がどれほどに壮絶かが紹介される。人間の徹底的な階層化と政府の管理下に置かれる社会。身の回りのものは「共通化」され、日本語の大きな特徴である「敬語の喪失」などが起きる。プレゼンを聞いているうちに、どうやらこれは「フィクション」ではないような気にさせられる。僕は発表者に質問をした。「この本が書かれてから11年ということですが、既に起きている危機的状況は何であると思いますか?」と。すると「自動運転」など機械による「行動管理」のような現象はその兆候であるという答えをいただいた。スーパーのレジの「セルフ化」なども進むが、こうして「機械」が「人間の仕事」を既に奪い始めている。あと20年〜30年もすれば、失われる職業はかなりの量と職種に及ぶということ。囲碁や将棋の名人が人工知能と対決することが試されているが、時に「名人の敗戦」の報に触れると、まさに人間の知力とは何かと考えさせられてしまう。そんな壮絶で暗黒な社会を助長するかのような政治・経済の動きに、僕たちは果たして無頓着でいいのだろうか?『歌うクジラ』ぜひ読んでみよう。

優勝本は『脳の右側で描け」に決定。
「描画」という人間の豊かな脳のあり方に注目が集まる
大学生の「知的」を支援するイベントとして今後も注目したいと思う。
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群読表現を現場に運ぶ

2016-11-26
国語科授業研究の一環
詩の群読創り
発表する学生たちを近隣の小学校へ

担当科目「国語科授業研究II」は、3年生9月に附属校での実習を終えた「国語」専攻の学生を中心とした受講者による講義である。(毎年、数名の他専攻受講者がいる)4年次に控える公立校実習に向けて自らの「授業」をより現場に即したものとして、児童生徒との対応力や授業づくりの精密さを身につけるべきものと僕はシラバスで位置付けている。学習指導案を作成しそれに沿った「授業をする」ことは、既に附属校という現場で経験しているゆえ、授業内での教師の「音読する力」や児童生徒との「コミュニケーション力」を養うということである。大学の講義となるとどうしても机上の理論に終始しがちであるが、前述した目的を達成するためにはやはり現場で直接に児童生徒に触れ合う機会が必要である。そこで昨年度から交流のある大学近隣の小学校の「現場」を、なるべく学生たちに「体験」させるようにしている。

以前に恩師である歌人の佐佐木幸綱先生が、「現代短歌は運動不足である」といった趣旨の発言をされたと聞いた。短歌創作において「机上」で為されることが多く、創作者の生の脈動が感じられないとった批評ということになろう。考えるに「活動型授業」という観点からすると、小中高大学を比較すると、「大学教員」が一番「運動不足」な授業をしていることにはなるまいか。次第に状況は変わりつつあるが、固定された階段教室の机椅子に学生を固定し、ただただ持論を淡々と一方的に喋るだけという形式から、なかなか脱することが難しい。理工系で実験中心ならば状況は違うのだろうが、このあたりにも人文系が誤解されてしまう要因があるのではないかと思わざるを得ない。そこで「運動不足」解消のためにも、僕は授業内で表現活動を重視し、さらには学生を「本気」にさせるために、現場に引っ張り出して子どもたちと出逢わせる機会を設けている。この日も学生たちの創った「読み語り」や「群読」を、小学生の前で表現してもらった。その「体験」から、学生たちは「教師」という仕事とその力量を直接に見つめることになる。

何事も「運動不足」では成長しない
机上で頭だけで考えず「動きながら考える」こと
「教師」という仕事の何たるかを知るためにも。
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「君への手紙」届きました

2016-11-25
「空を眺め佇む
 羽のない鳥がいる
 水のない川を行く
 櫓のない船を漕ぐ」(桑田佳祐「君への手紙」歌詞より)

11月23日桑田さんのニューシングルがリリースされた。以前より予約注文しておいたので、早速この日にその代物は僕の手元に届いた。封書状のパッケージで表面に手書き文字で「君への手紙 桑田佳祐」とプリントされている。冷静に考えれば「宛名」欄に差出人の名前が書いてあるのはおかしなことだが、切手や消印まで施されたその現実感あるパッケージには、心の琴線が高鳴った。まさに桑田さんが詞に曲に込めてメッセージをくれたわけであり、「手紙」とは元来こうした期待感を持って開封するものなのだといった感慨である。電子メール全盛の世の中にあって、やはりこの「手書き書簡」(この場合は「手書き」プリントではあるが)の趣というのを見直させられる好機である。実際にこれもプリントながら桑田さん自筆の「手紙」が、横書き便箋にして3枚分、歌詞カードとともに封入されている。その内容もさることながら、文字の個性と温かさを鑑みるに、桑田さんがまさに歌詞としての「詩」を紡ぎ出す存在であることが感じられる。

その自筆の「手紙」に込められた「曲への思い」「近況」、そして来年への「公約」を読むに、文体の丁寧さとともに、時折「くすぐり」や「悪戯」の入る粋な内容に、またまた心の共鳴が激しくなるのである。その内容については、やはりこの「手紙」を貰った人でなければ「読めない」ということにして、ここでは詳らかにするのは控えよう。たとえそれが企画者の「商魂」であったとしても、少なくとも桑田さんがこうして1ファンを「読み手」「聞き手」として意識して曲作りをしている感性を、素直に信奉したいと思うゆえである。僕の人生そのものが、桑田さんの曲とともに歩んできたという思いがある。高校生の頃からそうであったが、その歌詞に読める「詩心」と曲に聞き取れる「郷愁」のような感覚は、多彩な曲となって僕の人生の随所で、その峠道を越える際に大きな励ましとなって来た。高校生頃にTV番組で桑田さんが例によって「馬鹿やって」歌っている姿が映し出されると、僕の父親などは「何なんだこいつ!何言ってっかわからねぇ」などと言って批判していたものだが、今回のシングルの2曲目に収められた「悪戯されて」に関してはぜひとも僕の親”世代”の人たちにも聞いて欲しい。「昭和歌謡」を原点とした桑田佳祐の音楽が、存分に発揮された作品に仕上がっている。

「悔やむことも人生さ
 立ち止まることもいい
 振り向けば道がある」

「いとし Brother,sisiter,mother,&father
時計の針を止めて
  サヨナラと出逢いの繰り返し」(桑田佳祐「君への手紙」歌詞より)
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書く漢語・話す和語

2016-11-24
書き言葉に適した語彙
話し言葉に適した語彙
やまとことばの持つ音韻性等々・・・

小欄の記事はあくまで「書き言葉」を前提としており、その内容をいちいち話す機会が多いわけではない。だが時折、書き記した内容を講義の「マクラ」に使用したり、むしろ逆に講義で展開した内容を小欄に記すことがある。その相互変換の際には、頭の中で自然にそれぞれに適した語彙を使用するようにしていると自覚している。最近の講義では特に、話す内容の要点をプレゼンソフトにまとめてスクリーンにプロジェクターで投影しているので、ある意味では「話し言葉」を「書き言葉」で補っているともいえるかもしれない。勤務先の学生は概ね誠実なもので、僕の「話し言葉」よりもスクリーンに映し出される「書き言葉」を、一字一句書写している者も多い。そのためか「話し言葉」の流れと速度でスクリーンの頁を先に送ったりすることもあるが、学期末の「授業アンケート」には必ずといっていいほど、「スクリーンの送りが早くて書き取れなかった」という”苦情”が含まれている。授業担当者としての僕としては、その時間は「書き写す」時間なのではなく、あくまで「話を理解する」時間なのであり、「聞き取った」内容をノートできる速度で講義を進行させているという意識なのであるが。

先述した事例ひとつにしても、現代に生きる者たちは「書き言葉」に偏重している。概ね講演会などでの聴衆の様子を観ていても、多くの人が手元の資料に意識は釘付けとなり、講演者の「話し」の機微を汲み取ろうという姿勢があまり感じられないことも少なくない。学会発表などでも「発表原稿」を読み上げる形式が多く、単に「語尾」を「話し言葉」に置き換えて「喋って」いる程度で、「音声」としての「書き言葉」が会場に流れるだけという状態が一般的かもしれない。大量の情報をその場で伝えようとするならば、やはり「漢語」の持つ情報含有量を頼りにして、「書き言葉」資料を中心に説明するのが効率的な方法といえるのであろう。アナウンスなどの不特定多数の聴衆を対象とした弁舌はむしろ逆で、同音語の多い「漢語」の使用を制限して「和語」を入れ込むことで聞き手にわかりやすく伝えるという配慮をするのだと云う。概ね「書く漢語」に「話す和語」という対象的な図式が成り立っていることになるが、これも日本語の長い歴史を考えると必然なことだと思われる。問題なのは、その「漢語和語混合率」に自覚的であるかどうかということではないだろうか。明治以降、新たな造語を含めた漢語使用が盛んに行われる中で、「短歌」においては「和語」の使用意識が保存されることに期待する、といった趣旨のことを上田万年(明治期の国語学者・「国語」の教科制定に尽力)が晩年に述べている。「短歌」そのものももちろん「書き言葉」化が進む中で、「表記」の問題にも繊細な知見を示したのは「短歌」であった、という点に関して何らかの機会に論じてみたいと考えている。

意図的に「漢語」率を高くする講義
聞き手たる学生の意識覚醒のために試みることもあり
「やまとうた」の名にし追ふゆゑんをおぼゆるべき
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「物語」はひとつじゃない

2016-11-23
自己の思いで描く「物語」
だが現実は必ずしもその通りにはならず
多くの「物語」があるとこに気付けるか否か・・・

地元紙・宮崎日日新聞(11月21日付)「客論」欄に、地域の「劇団こふく」代表・永山智行氏が標題のような内容で寄稿されていた。生きる上での「物語」はひとつじゃない。ある意味で自明のことであるが、昨今の社会情勢を鑑みるに、「生きる物語」を「一つ」に思い込んでしまう人が多いのは否めない。「物語」を「一つ」に決めてしまえば、その枠から脱することができなくなり、袋小路に追い込まれた結果、悲惨な道しか選択できない人の例が社会で後を絶たない。「学校」も「会社」も、そして「恋愛」も「結婚」も、大海の中のたった「ひとつの物語」に過ぎない。苦悩も挫折も紆余曲折もあるはずだが、決してその「物語」を最終頁まで完結”させねばならない”わけではあるまい。この広い世界には、計り知れない「物語」が存在し、価値観も多様であることに目を閉じてはならないはずだ。

現代日本社会で多くの人が「一つの物語」に決め込んでしまい原因に、このくにの「国語教育」が関係してはいないかと、ある意味で背筋が凍る思いがした。だいぶ改善されてきたとはいえ、「この小説で言いたいことは〈これ〉である」という「教師」の「読み」の押し付けが、過去から横行してきたからである。少なくとも「試験」で書くべき「答え」は、未だに「一つ」という場合が多い。(センター試験を見ればそれは明らかだ)「国語教育」の目標というのは本来真逆で、「ひとつの小説に対して、いかにたくさんの読み方があることを知るか」が本分であろう。教室の隣にいる「他者」や授業を先導する「教師」と自らの「読み」が違うことに気づき、それで己のあり方を悟るところに意義を見出すべきではないのか。敷衍して考えればこの社会に表面化している様々な所業、結論ありきの国会審議や強行採決、「結果は見えている」ゆえに投票しても何も変わらないと思い込まれている選挙、杓子定規に通行する防災警報、個々の危険度を無視した原発規制のなし崩し、等々数え上げればきりのないほどの「一つの物語」が強行されてしまっているのではないか。その反動がこの社会を極端な「クレーム社会」に仕立て上げていく。「決まった一つの物語」通りにならなければ、消費者は躍起になって対象を糾弾する。「文学」は「役に立たない」と言われながらも、実は深層のところで、その扱い方としての「国語教育」の過誤により、「物語が一つにしか読めない」社会を作ってしまっているのではないかと、大きな危機感を覚えた。

そしてまた「僕自身の物語」も「一つ」じゃないと気づく
だがそれは「他者」と語り合うまでは気づけない
この夜も近所の親友夫妻と語り合って「多様な物語」に気づくことができた。
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一つのことばに千々に乱れる思いを

2016-11-22
眼前の「一つ」にこだわる
最初から最後まで手を抜かない
「プロフェッショナルとは?」に応えて

「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組を、久しぶりに観た。たいていはジムに行って帰ったばかりの時間帯なので観ることも少ないが、この日は予告で「宮崎県のスゴ腕魚屋さん」とあったので、ジムから帰るなりTVを点けた。漁港の市場に詰めて良い魚を探し、自らさばいて一流料亭などに出荷し、取引先の星の数を合わせると「9つ星」になるという敏腕の持ち主が紹介されていた。彼のことばの中で印象に残ったのは、「一つをおろそかにしない」ということだ。「一匹ぐらい手に入らなくてもいいか」という気持ちが信頼を損ねる可能性があるということのようで、注文があれば隣県の市場に車を飛ばして目的の魚を手に入れると云う。その目利きと情熱が相俟って、料理人からの深い信頼が築かれてきたそうだ。そう!我々は「プロフェッショナル」ということばに無頓着ではないか。眼前の「一つのことば」に徹底的にこだわることが、僕たちの仕事のはずだ。

地元紙「宮崎日日新聞」朝刊では、宗教学者の山折哲雄氏の記事が興味深かった。ノーベル平和賞を受賞したボブ・デュランが選考主体のスウェーデン・アカデミーの呼び掛けに沈黙したままであることを、「吟遊詩人の誇り」と評している。そして「まさに政治の言葉が風化するときこそ、その隙間を埋めるかのように詩の言葉が空を飛ぶ。政治の言説が土着の腐臭を発して保守化するときこそ、詩の切っ先がプロテスト(抗議)の噴気を吹きだし、万人の心を射抜く韻律とリズムをつむぎだす。」と述べている。米国大統領選の中傷合戦や英国のEU離脱を契機に「英国デモクラシーの屋台骨が風に吹かれて大きく揺れ始めていた。」という情勢の中でこそ、「詩人のことば」に光が当たるということだ。まさに情勢や権威に左右されず「一つのことば」にこだわる姿勢こそ、「詩人」なのであると云う。人麻呂も西行も良寛もまた「千々に乱れる思い」を詩に込めたのだとも。「詩」の「プロフェッショナル」への道を考えるに、まだまだ青臭い己を省みた思いがした。

いまここにあることば
万感の思いを込めて
詩歌の社会的価値が今こそ問われている。
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祭りのあとの切なさよ

2016-11-21
大学祭の打ち上げ花火が空を染める
僕は4日間に及んだ馬治師匠の残影を
いつもながら「おもしろうてやがてかなしき・・・」

大学キャンパスから1Kmと離れていない住宅地に自宅があるので、窓から見上げれば大学祭打ち上げの花火が見える。夜7時45分、最終の8時を前にして今年も大空に華が咲く時間となった。大河ドラマ『真田丸』も、大坂冬の陣以後の緊迫した豊臣方と徳川方の攻防を描く。徳川方の「砲弾」が大坂城を直撃するこの回の描き方と、僕の現実の「花火」の音が呼応したりもする。(実はBSプレミアムで午後6時から1度観ていたゆえ)誠に現代は「平和」な世の中ではあると思いつつも、その「平和」を創るには努力がいることを実感していた『真田丸』の時代との矛盾を噛み締めながら、しばし空に咲く華と音の共演に見入った。

芭蕉の名句「おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな」は、小欄でも何度も引用しているが、まさに「祭りのあと」で、その「祭り」が「おもしろく」あればあるほど、「かなしき」感情は倍増する。学生たちも今夜から明日にかけてそのような心境になるのかと思いながら、自らも4日間にわたり「落語」に興じてきた馬治師匠との日々があまりにも「おもしろうて」、この日曜日は「やがてかなしき」心境で過ごすことになった。独り暮らしの自由奔放さは、それはそれで「楽」でもあり、多様な行動も許され、気遣いもいらないのだが、親友たる人物の存在はやはり温かい。年中行事と化したこの「芸術家派遣」活動も3年目を迎え、今後は新たな展開も考えねばならないなどと数日間を振り返る休日となった。

歌を詠みこの心境を
また希望の明日を追いかけよう
気づいてみれば今年もあと41日になっている。
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