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中古文学会創立50周年記念行事

2016-10-23
「今よりは風にまかせむ桜花散るこのもとに君とまりけり」(後撰集・105)
「散る木の下に君とまりけり」
「子の許に君とまりけり」

中古文学会創立50周年記念行事が大阪大学で開催された。ひとえに50年ということであるが、長きにわたる研究の積み重ねによって、雅やかな王朝文学の粋が解明されてきた。その継続と蓄積によって、「古典文学」というものが現代においてどのような意味を持つかということも、多くの人々に伝わるようになった筈である。『源氏物語』『枕草子』を中心とする女流散文作品とともに、王朝文学の中心となったのは和歌である。記念講演においては平野由紀子先生による「中古文学と女性ー層をなす書き手」と伊井春樹先生による「桐壺院の贖罪」と題する2講演に引き続き、雅楽の演奏と舞楽が披露され、その後も多くの研究者の先生方とともに50周年を賑々しく祝う宴まで、記念すべき時間が続いた。

冒頭に記したのは平野由紀子先生の講演資料に引用された後撰集の和歌である。下に二通りの意味を記したように掛詞が施されていて、「かな書きすると同じ連なり」となる「二つの文脈」が一首に詠み込まれている。中古文学の雅の開花は、まさに「かな書き」が発明されたことによる成果であり、女性が自由に和文脈を構成できるようになったことが大きな原動力となった。中でも和歌における「掛詞」という技巧は、和語における同音異義語によってユーモアを交えて相手に真意を伝えようとする表現行為である。三十一文字(みそひともじ)の限られた中で、「他の語と呼応して二つの文脈を作る」ということになる。後の時代となれば落語の「下げ(オチ)」や洒落に通ずるものでもある。さて平野先生は講演の中で、冒頭の歌について「会場の皆さんで声に出して2度読んでください」と促した。同様のことを海外での講演でも実施したことがあるそうだが、昨日の大阪大学では会場に起こった声は実に残念なものであった。平野先生ご自身も、「海外の方が大きな声が出てました」と語っていらした。その後の休憩時間に平野先生と話す機会を得たが、先生は僕が「朗読」の研究をしていることも覚えていてくださり、「何であそこでみなさんは声を出さないのでしょう?」と一言疑問を呈されていた。あらためて「音読」の位置付けが「大人」になればなるほど避ける傾向にあり、多くの研究者が「黙読」主義なのであることが浮き彫りになったと僕は思った。だがしかし特に和歌の掛詞の場合は、「音による享受」が体感できてこそ使用された深みもわかるというもの。その後の伊井先生の『源氏物語』に関する講演での原文音読を交えた内容は実に聞き応えがあっただけに、年代によって「音読」への意識も違うようにも感じられた。今後も中古文学研究を担う者としてやや構えたことを記しておくが、享受者として内に沈潜させていく研究も必要であるが、更に広く社会に訴える「表現する古典研究」も必要ではないかと思った次第である。時流となってしまった「人文学軽視」という逆風を何とか逆手にとり、むしろ教育現場では「伝統的言語文化」などと重視されている現状に、何らかで僕ら研究者が「表現して」斬り込みを掛けるしかないのではないかと思った次第である。

中古文学の素晴らしさ
実はそれが讃えられ表舞台にあった50年でもあった
あらためて文学研究とは何かと自問自答し、己の仕事を自覚する記念行事であった。
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