「声を聞くこと」の真意
2016-10-22
「市民の声を聞く」という成句の真実実際には「声を聞かない」ようにしていると云う
個々人が「文化」であり相互にその異質性から学ぶのが仲間とも云う
定期的に届くメルマガに、細川英雄氏が主宰する八ヶ岳アカメディア「言語文化研究所」からのものがある。細川氏とは大学院博士課程時代に興味があって「日本語教育」の学部入門科目を受講した際にオムニバス講義を受けたことがある縁で、その後も研究学会等でお話をする機会があるという間柄である。「文化」というのは「個々人」の中に根付くという趣旨のことを力説され、抽象的な「文化」という存在は幻想であるという考え方を学んだ。今回届いたメルマガに「人は実は人の声を聞くことを極力避けようとするのだ」という趣旨のことが記されていた。「他者の声を聞く」と異質な「文化」に曝されて、「自己のすべてを見直さなければならなくなる」からだと云う。特に「政治家」や「行政側」が「市民の声を聞く」などというのも、大変皮肉な表現であるといったことを考えさせられる。われわれは実は「他者」の発言から受ける「抵抗」に対して「自分」を主張することで、「自己防衛」しているのかもしれない。
学校空間の〈教室〉でもそれはまた同じ。発達段階が上がれば上がるほど個々の「文化」が明確になってくるわけで、そうなると「人の声を聞く」ということを避けるようになる。この原則からすると、中学校から高校になればなるほど「国語」の授業での「音読」に影響を及ぼすことになる。現実に小学校ではみんなが大きな声で恥も外聞もなく「音読」する光景をよく見かけるが、5年生ぐらいから女子を中心に「控え目」になり始め、そして中学校2年生にもなると男女を問わず「声を出さない」か頽廃的な声で「付き合う」かという姿勢が見え始め、高等学校に上がるとほとんど「音読」への意欲は薄れてしまう。やはり「大人」になるごとに「人の声を聞く」ということを忌避しようとするのは、こうした学習者の「音読」に対する姿勢を見ても明らかである。さすれば、個々人の「文化」に対して「音読」の価値や効用を積極的に認めるような方法を、指導者側が採る必要があるということになろう。〈教室〉という多様な「文化」の集合体を、「音読」という行為を許容する「意味」を持たせるように施すということだ。
大阪にて高校国語研究会の先生方と懇談
小欄に記したようなことを、具体的にワークショップで実施する予定
「人の声を聞く」仲間が集っていただき、誠に光栄な機会が与えられた。
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