無為自然は自らを見つめる心から
2016-10-14
作為なく自然体でいること「無為自然」と意識しては作為あり
あくまで自分が楽に時間を忘れられるということ
「無為自然」とは、辞書(『日本国語大辞典第二版』)によると、「作為がなく、宇宙のあり方に従って自然のままであること。「無為」「自然」は「老子」に見られる語で、老子はことさらに知や欲ははたらかせずに、自然に生きることをよしとした。」とある。中国の思想では一般的に「老子」を道家の祖と称し、「孔子」の儒家と対立的な立場であるとされて、長い歴史の中で相互に官僚や文人・詩人たちに大きな影響を与えてきたわけである。日本古代にも影響の大きかった中唐の詩人・白居易なども、左遷の憂き目を見た際には、道家に傾倒していることがその詩表現から読み取れる。中央で官僚となって身を律して出世の道を歩む生き方に対して、地方で田園生活を送り詩作に励むといった生き方は、前代の詩人・陶淵明の生き方にも通じ、自らの詩表現に新たな境地をもたらす発想の根源ともなったと考えられている。
果たして僕たちは日常で、どれほど「無為自然」でいられるのであろうか?とふと考えた。仕事に行けば常に「知」を働かさないわけにはいかず、研究にも私生活にも「欲」がないという状況であるのは、なかなか難しい。対人関係においても僕たちは常に「社会性」を考慮し、勤務先の人々や学生たちにも対応している。使用「言語」一つを考えても、「社会言語」の通念に従って適切な使用を心掛けている。そうした「拘束」から解き放たれた時、ようやく「無為自然」の境地に至るのだろうが、現代社会でそれは至難の技であるとも思う。だがしかし、仕事でも私事でも様々な人間関係の中で、自らが自然体でいられる人がいないわけではない。「親友」と呼べる人というのはたぶん、「自然体」でいられる度合が高い人ということになろう。「宇宙のあり方」とは実に壮大な思想であるが、雄大な思考の中で心の赴くままに自分が晒け出せる状況にあることが大切だということだろう。
意識なく時間を忘れる境地
知覚できなくてこそ「無為自然」に近づく
そしてまた、己の心の赴くままの方向を閑かに見つめることも必要だ。
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